ふっと目を覚ますと肩に重みがあることにまず気づいた。
寝ぼけ眼を擦りながら、その、肩に乗っているものを落とさないようにゆっくり横を確認すると、どういうわけか、穏やかな寝息を立てる遙がいる。
水希はもう一度目をこすった。もちろん現状は変わらない。
(なんでこいつ、俺の横で寝てんの?)
素朴な疑問だった。
確かに水希は水泳部のメンバーで集まり、ここ、屋上で昼ごはんを食べていたとき、自分の意識がうつらうつらとしていたのは覚えている。
「起きて」と誰かが必死で呼びかけてくれていた気がするが、あれは誰だったのだろう。真琴だろうか、渚だろうか。……と、今はそんなことはどうでもよい。
十中八九、水希は誰かの呼びかけも虚しく眠ってしまったのだろうが、こいつは、七瀬遙は一体なぜ、気持ち良さそうに眠っているのだろうか。
水希の記憶違いでなければ、今日も今日とて口数の少ない水キチガイさんは、眠そうな様子は全く見られなかった。というより、半目になった水希を鼻で笑っていた。
「…………」
思い出して腹が立ったのか、水希はやや眉間にシワを寄せる。
それでも遙を叩き起こさなかったのはまだそこまでの沸点に触れていなかったからか。
グラウンドで体育の授業を行っている生徒がいるのを見るところ、昼休みなんてとっくに終わり、今は授業中なのだろう。
真琴という存在がいながら水希が授業をすっぽかしたことを考えるに、今もなお横ですやすやと眠っている彼は、頼まれてか自らかはさておき、授業が始まる前には水希を起こして教室に戻らせる役割だったと思っていい。
水希を待っているうちに、遙もまた眠たくなって、その睡魔に勝つことはできなかったのだろうか。
水希はそこまで考えて、少しだけ笑った。ミイラ取りがミイラになるとはこのことか。
さて、早く教室に戻らなければ教師はもちろんだが、特に真琴のお咎めが恐ろしい。
前者については適当に言い訳する策を水希は持っているが(それもなんだかんだ真琴がフォローを事前にいれてくれているだろうから取り繕うことは安易だと思われる)、後者についてはどうも言い逃れできる気がしなかった。ちょっとお小言を言われるんならまだ可愛い方だ。
けれど水希は横の遙を起こすのはもちろん、この場から去る気にもなれなかった。
ここまで来てしまったのならいっそのことサボってしまった方が清々しいし、なにより、わざわざ遙から離れたいと思えなかった。
(……末期じゃん、俺)
自分で思って自分で呆れる。そんなに好きか、こんなやつのことが。
横で何も知らずに寝息を立てている遙が恨めしくなり、ふう、と軽く息をついた。
水希は遙が起きない程度に動き、眠っている遙に跨ると彼をまじまじと観察する。
起きたはいいが、遙を起こす気にはなれないので、彼が目を覚ますまでは暇なのだ。
だから、時間潰しにちょっと。観察してみようか、なんて。
遙は目を閉じているため、あのきれいな青色を拝むことはできない。
それにしてもしかし、改めて見るとこの男、やはり整った顔立ちをしている。
目を縁取る睫毛は、一部女子が一生懸命に取り組む、世に言う「睫育」なんてものをバカにしているようにしか思えない。男とか女とか関係なくそれは長くて、格好いいとか可愛いとかじゃなくて、きれいだと思った。
鼻の筋もすっとしているし、眉なんか整えてないだろうに凛々しくそこにあるんだから、少しぐらい誰かに恨まれたって文句は言えないだろう。肌も、なんだかんだ言って光に反射していてきれいだ。
(……腹立つな)
もしかすると水希の遙を見る目にフィルターがかかっているのかもしれないが、とにかく、改めて見た七瀬遙という人間は、きれいな顔をしていた。
雰囲気がもっと柔らかく、近づきやすければ、今頃女の子に取り囲まれていたかもしれない。とはいっても遙がいつもニコニコ顔でいるなんて、そんな場面想像もつかないが。
水希は腹いせに遙の頬を抓ってやろうと手を伸ばし、親指と人差し指で遙の頬を少しだけ挟んだところで、ぴたりととまった。
わずかに開いた、薄い唇に、目がいった。
水希はその一瞬、グラウンドで体育をする生徒の声も、風の音も、自分の心臓の鼓動も、すべて消えてしまったような錯覚に陥った。
それぐらい、ジッと静かな呼吸を繰り返す遙の口許に目だけとは言わず、すべての感覚を奪われた。
触り、たい。
どくんと荒んだ心音がくっきり聞こえたような気がする。
遙の頬を挟む水希の手はゆっくりと開いていき、彼の頬を包むような形になる。
そのときピクリと遙が動いたような気がして、水希は先ほどとは違う理由から心音を高め、動作をとめ、探るように遙を見つめた。
しばらく待つが、遙の青が何かを映すことはない。水希はほっと息をつく。
キスをしたことはある。
しかしそれはいつだって遙の方からで、しかも不意を衝いてくるので、ろくに当時の様子を覚えちゃいない。
別に彼に陵辱されている自分などわからなくていいのだが、キスの際、彼がどんな顔をしているのかは知りたいと感じた。
水希はキスをするとき、大抵目を瞑る。
そうしなければ得体の知れない何かに流されて、もう戻って来れなくなりそうだからだ。
その感覚がなんなのかは、水希自身よく理解していない。
もちろんそこに恥ずかしいという感情があるのは確かなのだが、何か、目でも閉じないと、枷が外れてしまいそうな気がするのだ。
あの青とぶち当たってしまうと、何か、得体の知れないもの、リミッターに近い何かが崩れ落ちそうな、そんな気がする。
でも水希は、たまには自分が遙の視点に立ちたいと思っていた。
自分ばかり目を瞑って遙が主導権を握っているのではなく、目を伏せる遙を見つめ、水希が主導権を握りたいと。受け身なばかりじゃ、不意を討たれているばかりじゃ気に食わない。自分から、彼に触れてみたいのだ。
それが叶わなかったのは水希の性格ゆえと機会がなかったからである。
でも、今、今ならば。
水希は未だ眠っている遙を数秒見つめた後、緊張を紛らわすように舌で自身の唇を濡らし、左手も同じように遙の頬に当てて、そっと顔を近づけた。
(触れたい)
どっどっ。心臓が体を突き破って出てくるのではないかと疑うぐらい、鼓動が騒がしい。
(好きだ。こいつが、好き)
どうしようもないぐらいだ。そう、改めて認めた。
ちゅ、なんて、よく聞くリップノイズは鳴らなかった。
水希はただ静かに遙の唇に自分の唇を当てる程度のキスをしただけで、それ以上でもそれ以下でもない。幼稚と老練の間にあるような、そんなものだった。
水希はやおら手を下ろし遙から顔を遠ざけると、しばらくはぼうっとしていたが、急に羞恥心がこみあげてきたのか、異常なまでに朱を走らせて、遙が起きるとか起きないとか、そんなことお構い無しに遙の胸板に顔をうずめた。
何してるんだ、俺。と遅い羞恥が彼を苛んだ。
とにかく遙の顔を視界にいれないようにしないと、泣いてしまいそうだ。
遙の腹あたりに持ってきた両手できゅっと彼のシャツにシワをつくる。このとき初めて水希は遙を尊敬した。
よくもまあ平気な顔をしてキスできるもんだ。俺なんか、眠ってるおまえにキスするだけでも心臓が壊れそうなのに、と。
単に水希が小心者なのかと思いもしたが、そうだとしても、それは特例で、遙との関係に対してだけなのだろう。
口からはえげつない言葉がポンポン飛び出る彼が、おどおどと人の顔色を伺っているはずがない。笑い話もいいところだ。
未だ羞恥で高ぶった状態のままで、水希は小さく唸りながら遙の体にぐっと頭をくっつける。
もはや彼が起きるかも、なんてこと、まったく頭にないらしい。
「……俺、自分で思ってた以上に遙のこと好きすぎて死にそう……」
蚊の羽音程度の声で呟いた。
そう、しにそう。というか殺してくれ。しばらく彼と顔を合わせられそうにない。気づいてしまった以上、うまく平然を装える気はしないし、気づいたからといって、素直になれる気なんてなおさら。
魔が差すとは恐ろしい。一時の感情で後先考えずに行動すると痛い目をみると、今更実感する。
キスをしたことが恥ずかしいのが6割、実は4割、遙に自ら触れたことが嬉しいなんて思っているので、さらに自己嫌悪だ。
もう現実逃避に走るほかない。
水希は授業をサボっていることも、真琴のお叱りを受けるであろうことも、遙に――キスしたことも、全部投げ出すように、遙に抱きついたまま、目を瞑った。
――一方の遙は、
「…………」
目を開けるタイミングを完全に逃していた。
遙がいつから起きていたのかというと、水希が遙を観察しているあたりから一応、ぼんやりと意識は浮上し始めていたが、確かな目覚めは水希が遙の頬を軽く挟んだあたりからだ。
遙の計画では、頬を抓った水希の手をいきなり掴んでやるつもりだった。
寝てると思っていた相手に突然手をつかまれては、心臓が飛び出るほど驚くだろうと思ったから、つまり、いたずらにはいたずらで返してやろうと思っていたのだ。
存外間抜けな顔をした水希を想像して笑いそうになったが堪え、いつでも来いと準備万端で待っていたので、空気の異変はすぐに気づいた。
明らかに、いたずらを仕掛けるものとは違う、緊迫した何かが水希から伝わってきた。
それも両頬に優しく手を充てがわれたことで確信に変わり、何をしてるのかと目を開けようとしたその途端の――不意打ちだ。
水希からキスをされるのは初めてだった。
それはとても静かなものだった。希薄なものでもなければ、濃厚なものでもない。その間を取ったようなもの。
遙がやっと目を開けたのは、水希が一言、つぶやいてからだ。
視界に入った水希は想像通り自分に抱きついていた。
水希の一言、つまり、あれを、あのつぶやきを、遙は拾っていた。
(……反則だろ)
何が、「思っていた以上に遙のことが好きすぎて死にそう」だ。
そこまで瀕死なら殺してやるさ、だって、そうしないと、こっちの方がしにそうだ。
あの一言に、思わず、らしくもなく奇声をあげそうになったなんて、悔しすぎる。
真琴に頼まれ水希を授業までに起こすつもりが、いつ眠ってしまったのかわからないが、もうお咎め確実なので怖いものはない。
どうせ水希も寝たふりをやめるつもりはないだろう。
遙は再び目を閉じた。
むかつくから、「俺も好きだ」なんて、心内でも返してやるつもりはない。
顔が熱い。遙はそれをしっかりと、自覚していた。
バカみたいにうるさい自分の心音に、なぞのデレを発動したこのブラコンが、どうか気づきませんように。……少しでも長く、この時間が続きますように、なんて、らしくもなく、必死に願った。