最近、触ってない。
そう思ったのは水希が真琴の横に座って、彼に肩を寄せているのを見てからだ。
近頃急激な気候の変化が見られ半袖のカッターシャツ一枚では肌寒いのだが、学校の指定が今のところ夏服なので生徒は泣く泣く半袖で過ごしている。
水希も、例外でなくその一人だ。
水泳部一同が屋上に集う昼休み。「今日は水温が低いから外周にしよう」と提案する真琴に引っ付いて、暖をとっているようだった。
「えー、泳がないの?」
「真琴先輩の話を聞いてましたか? 泳げないんですよ。渚くん」
「風邪を引いたら元も子もないんだから!」
と、江の発言に後輩3人の目が、一斉に遙へと向かった。
「……? なんだ?」
きょとんする遙。3人は打ち合わせでもしていたかのように肩を落とし、なんでもないと首を振る。
遙はますます怪訝そうに眉を顰める。
真琴はそれに苦笑いするばかりだ。
「最近、体調崩してるからじゃねーの、“ハルちゃん”」
くるりとそちらを見ると、水希はふあっとあくびを一つこぼした。なんともいけすかない態度だ。
これには遙も一言二言、言い返してやろうと思ったが、体調の件で水希を本気で怒らせた前科があるのを思い出したのか居心地悪そうに目を逸らした。
「もう。水希……そんな風に言うなよ」
真琴が窘めるが、当の本人はツンとそっぽを向いている。
「そういえば水希ちゃんって、弱ってるとすごく素直で甘えたになるよね」
またいつもの不穏な空気が流れ始めたとき、それを遮るように渚が右手の人差し指を立てながら唐突に言った。
その言葉にキョトンとしたのが遙と水希以外の4人で聞き手で、遙は“なんでそれを渚が知ってるのか解せない”といった面持ちで彼を見つめ、水希といえば、カアッと目の下を赤くして渚に空になった紙パックを投げつけた。
「うわあっ?! ちょっ、顔狙ったよね?!」
「おい、渚! 受け止めんな!!」
理不尽な要求である。
「それってどういうことですか? 渚くん」
「ほら、ハルちゃんが熱があるのに無理してたときあったじゃん?」
「ええ……」
「僕が更衣室に入って声かけたらさ、最初はずっと無視されたんだけど、最後にぎゅうって抱きつかれ――」
「ぶっ殺す!!」
ダンッと音を立てて水希が立ち上がった。それに大慌てしたのは渚だ。「うわわ、言わない約束だったんだ!」と、瞬時に冷や汗をかく。
どうやら渚は素でやらかしたらしいが水希はそれが故意だろうと無意識だろうと構わなかった。反逆者だ。殺せ。脳内で不穏な王がそう叫んでいた。
「落ち着けよ水希!」
「離せ真琴!」
「今離したら、絶対渚に暴力振るうだろ?!」
気性の荒い弟を取り押さえる兄は、普段から苦労しているのだろう。
真琴に倣って怜と江がどうにか水希を落ち着けようとする中、遙は渚に声をかけた。
「……抱きつかれたって、本当か?」
渚はふっと遙を見る。
彼の目がどこか不安げに、それでいて毛を逆立てたネコのようにギラギラとしているのを認めて、少しだけ困ったような顔をした。
「ハルちゃんの名前」
「?」
「水希ちゃん『遙』って、ずっと呼んでたよ」
にこり。渚が首を横に軽く倒して笑う。
それに遙は多少面食らったような顔をしたが、口元にほんの微かな緩みをのせて「そうか」と。
ふいと逸れた視線に渚はほっと安心する。2人にちょっかいをかけたくないわけではないが、こう、望まない嫉妬を向けられるのは骨が折れる。
水希にあの日のことは他言無用と口酸っぱく言われたが、今回は目を瞑ってほしい。
真琴に宥められて幾分落ち着いたのか、それでもぶすっとした顔をしてはいたが、水希は大人しく真琴の横に腰をおろしている。
目があったので右手を縦にして顔の前に持っていき、「ごめんね」と口パクで謝ると、水希は舌を打ってそっぽを向いた。
真琴が唐突に舌打ちをした水希に驚いていたが、何ら不穏な様子がないことを認めると、くしゃりと水希の頭を撫でてやっていた。
「そういえば、水希先輩」
「あ?」
「今日はいつも以上に真琴先輩にくっついているみたいですが、どうかしたんですか?」
勇者だ、と真琴は思った。
波立っている水希に話をかけることなんて、こぼれた灯油にマッチを投げるようなものなのだが、しかし怜が臆せずに実行できたのは、怜だから、なのだろう。
水希の中の怜のポジションはというと、江と同じような、可愛がってやる後輩だ。だから怜が水希に悪態をつかれたり、脛を蹴られたりすることは滅多にないし、少し機嫌の悪い水希に話しかけても槍を飛ばされることはない。
それを怜が気づいているのかは知らないが、怜の入部当初では考えられない状況だったろうなと真琴は思う。
当時、水希に苦手意識を持っていた怜からは、想像もできなかった懐きようだ。
いつも以上に、という言葉に引っかかりを感じたが、水希は「別に」と無愛想に言うと、ほぼ無意識のうちに半袖の端を摘まんで引っ張った。
もちろん伸縮性のないそれは長さが顕著に変わることはない。
それを見逃さなかった怜がきょとんとする。
「つか、いつもだって真琴にくっついてない」
語弊のある言い方すんな、と。水希は半袖のカッターシャツから虚しくもさらされた腕を摩った。
先にピンときたのは江だ。
「寒いんですか? 水希先輩」
水希はチラと江を見て、ふいっと顔を逸らす。
「そんなことない」と否定してやりたかったが、相手が江だけに何も言えなかったのだ。
怜と江、真琴の3人はそんな水希を見て、誰ともなく優しい笑みを浮かべる。
「だから教室にしようって俺は言ったのに」
「うるさい」
「はやく制服移行期間になるといいですね」
「……うん」
「あ。わたし、自販機で何か温かい飲み物でも買ってきましょうか?」
「いい。悪いだろ」
たったこれだけの会話でも優遇の順位がわかってしまうのだから水希は変なところで単純だ。
「水希ちゃん、寒いの?」
「寒くねーよ」
「ふうん……僕があたためてあげようか?」
わきわきと指を動かしながら渚が水希ににじり寄る。
あっちで遙と2人で話していてくれたらいいのに、と心内めんどくささからため息をつき、水希はお箸のケースを自分と渚の間に置いた。
「これ以上先にきたら、斬る」
びゅおっと一段と冷たい風が吹く。そんなことがあるはずはないのに、水希の腰に鞘に納められた日本刀が見えたのは、気のせいだろうか。
渚がひくりと口を引きつらせる。
こらこら、と真琴がもう何度目になるのか水希を宥める中、怜は自業自得ですよ、と渚に呆れていた。
「あ。そろそろ昼休みも終わりますね」
腕時計を見ながら江が言う。
「そうなの?」と小首を傾げながら渚が立ち上がった。
怜もそれに倣う。
「よし。最初に言ったとおり今日は外周をするから、放課後、部室前に集合だ」
「はーい!」
後輩たちが真琴の指示に元気良く返事をする中、一人だけ何も答えない遙を見つけた水希が彼の方へ近づき、軽く肩を叩いた。
「聞いてんの」
右手で左腕を摩る。
遙はじっと水希を見て「寒いのか?」と聞いた。
質問に答えは返ってこず、かつ話も変えられてしまったため、水希はムッとし、唇を噛んだ。
「ああ寒いよ。それで、話聞いてたの」
ぶっきらぼうに肯定し、また話を戻す。
遙は「外周だろ」と水希のようにぞんざいな返事をする。
2人のやりとりを見る人がいれば、会話のテンポが独特だ、と苦虫を噛んだような顔をしたに違いない。
「水希、ハル。先行くよ?」
どうやら少し話しているだけのつもりが、随分足を止めていたようだ。
水希は階段を下った踊り場で声を張った真琴に小さく頷いて駆け出そうとした。
「寒いんだろ」
この男が腕を掴みさえしなければ、すぐあの場に向かえたのだけれど。
「はあ? まだその話してるのかよ」
不快な様子を隠しもせずに水希は遙を睨んだ。
まだ屋上の入り口付近なので、風が強く吹き付ける。
水希は遙とこれ以上その話題について話す気はなかったし、なにより、寒い。早く校舎内に入って、この際二酸化炭素で温まった教室でもいいから、暖かい場所に行きたかった。
「もういいだろ、その話は。しつこいよ」
真琴は言葉通り、先に教室に行ってしまったらしい。踊り場に彼の姿はない。
妙なところで淡白というか、なんというか。
「水希」
「なに」
最近、触れていない。
「あったかくなること、してやろうか?」
きゅ、と首を絞めるような要領で、遙は水希の腕を掴む手に力を込めた。
その意図が読めないほど水希は鈍くない。
さっと顔を青くしたかと思うと、すぐにかっと真っ赤になり、忙しいやつだと、遙は少しだけ笑う。
「い、いらない……」
遙に掴まれているのとは逆の手の甲で口を覆い、視線を遙から逸らしながら水希は言った。
本当ならば走って逃げてしまいたかったのだが、いかんせん、やつが腕を掴んでいるのでそうもいかず。
エマージェンシー! と内心頭を抱えてゴロゴロとのたうちまわる。
ここでいつものように極寒の地、ツンドラ気候でも発揮して脛をガツンと一発蹴ってやればよかったものの、水希が面白いほど動揺し、おとなしい態度をとってしまったため、遙の何かに触れた。
謎のスイッチが、かちりと音を立てたのだ。
ぐいっと水希を引き寄せ、壁に押し付ける。
背は壁、前は遙、と完全に退路を絶たれた水希はいよいよ血の気を引かせる。こういうときにこそ有効なはずなのに、どうしてこんなときに限って弁慶の泣き所を蹴ってやれないのか。宝の持ち腐れだ。しかし――一つ、訂正しよう。
背は壁、前は獲物を定めた豹のような、鋭い、見る側の動きを躊躇させる目をした、遙。
さて逃げられようか、声をあげられようか、足を振り上げられようか。
「……っ」
無理だ。
肉体的に何かされたわけじゃないのだが、精神的に容赦無くかけられる負荷に、水希は思わず泣きそうになった。
底知れぬ恐怖だ。遙に飲まれてしまいそうな、得体の知れない恐怖。
流されてはダメだと、必死に脳内の司令官が叫ぶ。
「遙、学校では、いやだ」
「学校じゃなければいいのか」
「そういうわけでも、なくて……」
自分の心構えができていないときには、無理だ。
それを伝えることさえできないのは、水希が遙に圧倒されているからだ。
水希は口も悪いし、手足もすぐに出る。どちらかというならば、喧嘩慣れしている。けれどもこうも追い詰められるのは慣れていなかった。それも、遙相手だと、さらに冷静でいられなくなるのが、水希自身わかっていた。
「……わかった。学校ではしない」
ほっと息をついたのも束の間。
「でも今日はガマンできないから、ここでするのは今回限りで、次からはしない」
待て、待て待て待て、ステイだ七瀬遙。何そんな屁理屈みたいなことを。キチガイだとは常々思ったいたが、やはりこの幼馴染、頭のネジが5本ほど足りない。とんでもない不良品だ。
水希は相当焦った。らしくないほど、動揺していた。ゆえに、咄嗟に逃げ出すことすらできなかった。
「遙、待て、待て待て」
必死に首を振る水希に、遙は大きなため息を一つ。
「……どっちかというと、俺が焦らしたい」
んなこと聞いてねーよ!
もし今手に教科書の類を持っていたのなら、地面に叩きつけていたに違いない。
こんな場所でことに至るなんて絶対にいやだ。断固拒否だ。男が簡単に泣くなと罵られても構わない。水希は半分泣いた。
最近遙に簡単に流されないようにしようと決心したばかりだというのに。
「水希……いいか?」
ああ、もう無理だ。水希は頭の中が真っ白になるのを、人ごとのように感じていた。
そんな目で自分を見ないでほしい。そんな優しい声で、聞かないでほしい。
ダメだと、言えるわけがない。
そっと遙の手が水希の頬に触れる。
水希は最後の抵抗とでもいうように、目を伏せた。次第に顔が近づいてくるのが空気でわかった。
「ああもう、やっぱりそんなことしてる……」
ごつん、なんて、予想だにしていなかった硬い音が聞こえた。
水希がハッとして目を開けると、頭を押さえて唸っている遙と、その後ろで呆れ顔をしている真琴が視界に飛び込んだ。
「授業まであと2分だから、早く戻るぞ」
「……真琴……お前な……」
「あと水希、先生が寒い人はジャージ着てていいって」
「!」
はい、と投げられたジャージを水希は慌てて受け止める。
にこりと笑う真琴に「ありがとう」とどぎまぎしていたが、お礼を言った。
「なあに、ハル」
「…………なんでもない」
ジッと睨むように真琴を見ていた遙を、彼はその一言だけで黙らせた。
お化けが怖いと怯えるときはとんでもなく情けないのに、どうしてこういうときに限って、こうも威圧があるのか。さっぱり解せない。
やはりこのお兄さんをどうにかしないことには、安易に触れることも叶わないらしい。
なんのセンサーがついているのか、都合良く現れてくれるのだから笑えない。
遙はやっと痛みの引いた頭から手を離して、はああ、と深くため息をつく。それから先に階段を下りる2人を追うために顔をあげ、階段に向かうと、どうしてこちらを見ていたのか、水希とバッチリ目があった。
「!」
ババッと素早く顔を背け、水希は隠れるように真琴の横に逃げ込む。
それを見た真琴が一旦足を止め、未だ下りてこない遙を見上げた。
「……ハル、何かした?」
「してない」
いや、そんな疑うような顔されたって、していないものはしていない。遙はあまりの自分の信頼のなさにやるせなくなった。(自業自得といえばそうなのだがやはり認められない)
しばらく怪訝な眼差しで遙を見ていた真琴だが、諦めたようにため息をつき、横で縮こまる水希の頭を撫でると、再び階段を下り始めた。
なんてガードの硬い兄貴だ、過保護だ。胸の内ではそう文句をいいつつも、授業に遅れるわけにもいかないので、潔く足を動かした。
(……まあ、いいか)
当初の目的は叶わなかったのだけれど、久しぶりに泣きそうなほど自分に追い詰められたやつの顔を見ることができたし、と。
遙は気分が良かった。
らしくもなく鼻歌を歌い出しそうなほど機嫌の良い遙を、真琴が2,3度振り返ったが、何も言わず、水希なんて言葉を発するどころか、振り向きもしなかったことは言うまでもない。