隣の席の橘水希くんは、人を寄せ付けない雰囲気で敬遠されがちだけれど、わたしはそんな彼に臆するどころか、むしろバリバリ興味がある。
水希くんには双子のお兄さんがいるから下の名前で馴れ馴れしく呼んだってそこまで咎められることはない。ただの顔見知り程度のわたしが水希くんと呼んだって、そのむっつりした顔を直しもせずにちらと視線を向けてくれる。
無視しないあたり、そこまでひどい人ではないと窺えることは余談だ。
随分と寄り道してしまったけれどわたしは水希くんと仲良くなりたいのである。4月から気になってはいるのだけれど、水希くんと話す機会はそう巡ってきやしなかった。水希くんは多分わたしの名前なんて知らないと思う。彼はあまり他人に興味を持たないし、苗字でさえ知られているのか不安だ。
わたしが水希くんのことで知っていることといえば、他クラスに双子のお兄さんがいることと、同じく他クラスに幼馴染がいること、水泳部であること、ぐらいだ。
ちょっとでもお話できるようになればもっと彼のことがわかるのに。なんだかんだいってまったく水希くんのことを知らないので気分は萎む。
なんていろいろ考えているのは未だ埋まらない空白の多い解答用紙に飽きてしまったからだ。
今日は土曜日、昨日は花の金曜日になるはずだったのだけれど、翌日に控えた模試のせいでそう嬉しいものじゃあなかった。
物理、生物、化学。それらの理科科目が一つにまとめられた問題冊子はひどく分厚い。生物をとっているわたしは一通り問題を読み終えて力尽きていた。うろ覚えで受けるものじゃあない。さっぱりだ。
あからさまに見てしまったらやれカンニングだの言われてしまうので、間に一列挟んで、その横の列、つまりは2つ隣の列でテストを受ける水希くんをこっそり窺う。今は模試なので座り方は名前順だ。
水希くんはつまらなそうに冊子をぺらぺらとめくっている。確か彼は物理選択者だろうか。あの様子じゃあ一通り終わって、あきて、暇つぶしに手すさびしているのだろう。頬杖をついて眠たそうにしてるの、かわいい。
軽くとはいえどあんまり斜め前に首を捻っていてはそろそろ不自然だと思われそうなのでゆっくり視線を外そうとしたとき、ばっと水希くんがいきなり手を引いた。後ろの席の子は驚いたみたいだ。かくいうわたしも驚いていたり。どうしたんだろう。
水希くんは引っ込めた左手を真正面に持ってきて、しかめ面をした。あ、もしかして、紙で切ったのかな。さっき紙の重なった側面をなぞったみたいだし。
そっと時計を見る。あと3分ぐらいで解放されるみたいだ。
シャーペンを机に置いて、さりげなくスカートのポッケを外からたたく。常備している小さい長方形の缶は期待を裏切らずそこにあった。
5教科の模試もやっと終わり、みんなが体を伸ばすころには、水希くんは隣に戻っていた。
「あのっ、水希くん」
「?」
エナメルバッグを肩に担ぐ水希くんを呼ぶと、彼は不思議そうにわたしを振り返った。
ちょっと困ったようにしているのはわたしの名前を思い出そうとしているのかな、なんてこっそり思う。
「はい、これ」
ついさっき缶ケースから取り出した、何の変哲もない絆創膏を差し出す。
「……なんで?」
「あ、や。さっきからちょっと人差し指庇ってるし、もしかしたら紙で切っちゃったのかなって」
なんて、咄嗟に嘘をついた。本当は全部見てたなんて言えるわけがない。
水希くんの探るような視線が痛い。なんだかわたしの下心まですっかり見透かされている気分だ。
「……ありがと」
いたたまれなくて視線を落とし始めたときに水希くんの指先がほんの少しわたしの手に当たった気がして、はっと弾かれたように顔を上げる。やんわり、目を細めた水希くんがいて、息が止まる。
「俺、紙で指切るの初めてでさ。ちょっと驚いた」
「え、そうなんだ。わたしなんてしょっちゅうだよ。だから絆創膏もいつも持ってるし」
「はは、準備いいんだな。けど、まずは切らないようにしなよ」
「……うん、うん。そうだね」
「意外と痛いじゃん、これ。さっき知ったけど」
自然と水希くんと会話できていることに驚く自分しかいなかった。と、いうより、水希くんって意外と友好的なのかな、みたいな。絆創膏を渡すのも、いらないって撥ね付けられるんじゃないかと不安にばかり思っていたのに。(けどこれはチャンス! と思って勇気を振り絞ったのだ)
「水希くん、これから部活?」
「ん」
「そっかあ、がんばってね……えっと、呼び止めちゃって、ごめんね」
「……謝る必要はないと思うけど」
ほんのり苦笑いをして水希くんは、それじゃあなんて、わたしの横を通り過ぎる。
「高橋さん。絆創膏、ありがとう」
「!」
廊下にでたけど何かを思い出したみたいに、入り口から少しだけ顔を見せた水希くんはそれだけ言うとわたしの返事は待たずさっさと言ってしまった。数秒固まったあと、慌てて駆け出し窓から身を乗り出すと、隣の隣のクラスの男の子2人と彼は一緒にいた。(背の高い子は水希くんのお兄さんで、もう一人はきっと幼馴染くんだ)
幼馴染くんと何やら言い合って、頬をつねり合う水希くんには、いつもの関わりがたい雰囲気なんてない。幼馴染くん相手だと、全然、人が違うみたいだ。意外な一面を見たと思う反面、水希くんの何気ない一言で舞い上がった自分を落ち着かせるために一生懸命になる。
苗字だったけど、呼んでもらえたし、ありがとうって、2回も言われた。なんだろう、なんだろう。勇気を振り絞ったかいがあったし、なんというか、もう。
――高橋さん。絆創膏、ありがとう
あれは、いつもの無愛想を思い起こさせやあしない、あれは。優しく目を細めて、穏やかな声でお礼を言うなんて、名前を呼ぶなんて。反則じゃあないだろうか。
水希くんってツンデレなのかな、や、でもツンデレにしては普段棘がありすぎるし。とにもかくにも、ああ、神さま。わたしに彼への一歩を踏み出させてくれて、ありがとう、ありがとう。
水希くん、すごいかわいい……です。