時刻は深夜を回っていた。水希を家に連れ帰った遙は電池が切れたように眠ってしまった。
 水希はシャワーを浴び終え、一度別室にいる安堵しきった寝顔の遙を穏やかな目で見て、隊商のメンツが雑魚寝している部屋に向かう。
 繰り返すが、今はもうみな寝息を立て深く沈む時間である。だから水希とて眠気はあるのだけれど。
「……」
 部屋を見渡し終えた水希は、チと軽く舌を打って入り口から踵を返す。
 目的の人物、宗介の姿はなかった。
 数十分前、遙は宗介だけが家に帰ってきたと言っていたから、宗介は一度ここに戻ってきている。いなくなったのは、遙が家を出てからだろう。
「クソ、眠てーのに……」
 心底機嫌悪そうにぼやいて、水希は先程くぐったばかりの戸から出る。
 正直、宗介がどこに行ってしまったのかなんて皆目見当がつかない。たとえばこれが住み慣れた町であったのならまだ行きそうな場所が浮かぶのだが、まだ3週間しか滞在していないこの地で考えるとなるといささか厳しい。
 水希は静かに遙の家と、その横の家を見て、息を吐き出した。
 自分はあの家の家族の一人だ。ここにきて挨拶をした日、「真琴の家は賑やかそうだ」と笑った自分は、彼に、真琴の目にどう映ったのだろうか。
 考えれば考えるほど、ここで途方に暮れている場合じゃないと、水希はそう強く思った。
 水希は空を見上げながらマーケットに続く道を歩む。いつか転んでしまいそうだ。不意に水希は目線を下げる。周りにはあの日のように似た構造の無機質な石の建物は少ないが、代わりに、自分の腕を掴むぬくもりもない。
 夜も、明けるのはしばらく先だ。
 深夜ともなるとさすがに眠ってしまっているマーケットにたどり着き、月明かりだけが頼りのそこで水希は目を細める。
 東の空にたなびく雲なんてまだしばらくは見られないだろうに、その男は水希に背を向け、佇んでいる。東雲を待ち、黄昏ているのか。似合わないことをしていやがる。
 水希は静かに鞘から剣を引いた。
 すう、と空気を切った何かに、月明かりに照らされる男は、かすかに反応を示す。ゆっくりと振り返った。目を瞠った。
「執念深い重荷を一度でも担ぐと大変だな、宗介」
 ほんの少し口角をあげながら、抜いた曲刀を左右に一振り、空気を薙いで、水希は少しずつ宗介へ歩み寄る。
 宗介は自分に近づいてくる水希をジと見つめ、動こうとはしない。
「おまえに言われた通り、自分なりに考えたよ」
「……」
「俺はおまえが大好きだ、宗介。おまえが俺を突き放しても、俺はおまえなしじゃ生きられない。ほら、今日も一人じゃ眠れなくて、このざま。おまえがいたら俺は絶対におまえにすがる。でもおまえは俺が負担なんだろ? ……だから、もう」
 水希は宗介の前に立ち、穏やかに目を細める。
「殺す」
 月明かりは水希の顔色を青白く変え、宗介の目には死にながら呼吸をしているように映った。
 宗介は自分を見上げているはずなのに妙に威圧のある水希を見つめ続け、形のいい唇を動かす。
「……できねぇくせに」
 ほぼ、無意識に口にした。
 宗介には確信があった。水希には自分を殺すことはおろか、刃を向けることすらできないと。現に今だって水希は、口では言っておきながら、抜いた刀を宗介に向けようとしない。依然腰の横で下したままで、一向に振り上げるそぶりを見せないのだ。
「構えろよ。宗介」
「くだらねぇ」
「剣を抜けって言ってるんだよ。護衛の男が敵意を持った他人に刃を向けられないはずがないだろ」
 他人。水希のその一言に宗介の中には苛立ちが募り始める。
「それともおまえは剣の向け方を忘れたのか」
「……」
「何度も、稽古してきたのに」
 水希は蔑むように笑って、右手の剣をゆっくりとあげる。
 宗介はピクリと指先を動かした。どくり。心臓が変に唸った。
「簡単なんだよ」
 剣先が喉仏に触れる。
 宗介の目には一瞬、――泣き叫び、何度も何度も短剣を振りかぶる少年の姿が映る。
 つ、と剣先が皮膚を持ち上げる。
 ――そう、簡単だ。たとえ子供の力であっても、鋭利なそれは簡単に皮膚を食い破り、その肉を食らう。
 ドッドッと心臓は激しく打ち鳴らされ、体は血が止まったかのように冷たくなる。
 ――何かの命を奪うのは、簡単なことじゃないねえ。
 すっかり眠っているとばかり思っていたから、男が目を覚ましたのは完全に不意打ちだった。
 ――あの子のことを、支えてやりなさい。
 もう、黙ってみていられなかった。
「やめろ……っ!!」
 宗介は、自分自身に剣を向け、その剣に己が身を食わせようとした水希の腕をひねる。曲刀はあっけなく地面に落ち、カンと高い音を立てた。
 激しい運動をしてわけでもないのに宗介の息はあがっていた。
 一度も宗介からぶれることがなかった水希の瞳に、動揺しきった宗介の姿が映る。
「……教えろよ。おまえはどうして自分の負担になる相手を殺せない」
 にじみ出た赤色が滑らかな壁に筋を引く。
「自分で考えろって言ったくせに、俺が自分で考えた結果を為させようとしない」
「それとこれとは話がっ」
「どうして」
 水希は宗介の胸倉をつかみ、勢いよく自分に引き寄せた。
「おまえは、俺がおまえから離れることを前提にしてるんだよ」
 水希が黙ると、夜の静けさが浮き彫りになる。
 睨み付けてくる水希の瞳が一瞬きらりと光った。それは、水面に光が反射する光景に似ていた。

 たがいに焦がれる2人を見て、諦めるべきなのは自分なのだと思った。12年間がリセットされる前、水希が心から遙を大事に思っていたことを知っていたからなおさらその思いは強かった。……いや、本当は敵わないと怖気づいていた。水希本人の口から関係を変える言葉を聞くのが恐ろしかった。
 だから自分から突き放して、逃げ出したのだ。

 傷口は浅かったようで、水希の喉の出血は止まってすでに久しい。依然水希は宗介の胸倉をつかんだままで、宗介は呆然と水希を見下ろしている。
「なんとか言えよ。おまえのその無言が俺を突き放しきれていないことぐらいわかってんだろ。いつまでも甘やかしてもらえるものだと期待させてるやつが、俺にあんな口きけるのかよ」
 あの時宗介は――逃げるなら、今しかないと思った。
 吾朗からすべてを聞いた水希は動揺しきっていて、顔色が悪く、宗介の腕を掴む手には異常なほど力がこもっていた。
 宗介にすがっていた。
 だが水希が混乱しているとき、宗介もまた動揺していた。
 吾朗から話を聞いた水希が記憶を取り戻すそぶりは見せなかったが、宗介は終わった、と思った。水希は遙が捜す“水希”が自分であることに気付いてしまった。無意識に遙に惹かれる気持ちに気付くのも時間の問題であると。
 どうすれば。かすれる声で聞いてきた水希に与えてやるのは優しさだと宗介はわかっていた。大丈夫だと落ち着けてやればいいのだと。だが、その役ははたして誰がすべきなのか。
 宗介の脳裏に浮かんだのは自分ではなかった。
 嘘をついた。心にもないことを言って、水希を突き放した。ほかならぬ自分のためだった。自分を守るためだった。
 水希を置いて遙の家に行けば、当然ながら遙が怪訝な顔をした。水希はどうしたのだ、と。宗介自身何と返事をしたか覚えていない。ただ、この男があとで水希をここに連れ戻してくると確信していて、同時、遙が今までの宗介の立場に立つ予感もヒシヒシと感じていた。
 水希はもう、自分がいなくても平気だ。
 確証を得たのは水希が遙から手渡された水を疑いなく喉に通せたときだ。
 宗介は夜中に遙が顔を真っ青にして家を出たのを見た。自分の思い描いたシナリオ通りだ。遙は水希を連れ戻し、水希は遙のもとに戻る。遙の腕の中で安心して眠りにつく。“ずっと”はもう終わる。終わるはずだったのだ。
 なのに、水希は。
「……どうして追ってきてんだよ」
「一人じゃ寝られないガキだから」
「俺がお前の傍にいてやる必要はもうないだろ」
「……ハ」
 水希が短く笑った。
「やっぱりただの嫉妬かよ」
 嫉妬。そういわれて宗介は唖然とする。
「嫉妬なんかじゃねえ」
「へえ? じゃあ俺に愛想尽かしたとでも?」
「……ああ」
「なら今はっきり言えよ。『お前のことが死ぬほど嫌いだ、人間不信のお荷物には嫌気がさした、俺の前から消え失せろ、二度と姿を見せるんじゃねえ』って」
「は?」
 水希の目は真剣そのものであった。
「言えよ」
 少しずつかみ砕かれる水希の一語一句が宗介の冷静さを奪っていく。なぜ、そこまで言ってやらなければいけない。自分の気持ちとは真逆の言葉を吐き捨てて、自分自身を傷つけなければならない。
 自分がどんな気持ちで彼を突き放したのか。どうして胸のつぶれるような自分の思いを、さらに踏みにじられなければいけないのか。
「……ふざけんじゃねえ。黙ってれば、勝手なことばっかり――」
「勝手なことばかり抜かしてんのはどっちだよ!!」
 水希は怒鳴り、宗介を揺さぶった。声を荒げる水希なんて、“あの日”以来見たことがない。返せ、触るなと、今よりも高い声で叫んだ彼しか、宗介は知らない。
 あまりの水希の勢いに押されて宗介は押し黙り、詰め寄る彼にらしくもなくよろめく。
「おい、水希っ!」
「……っ、5年……」
「、……」
「おまえは5年も、俺に嘘をついてたんだろ」
 頓に、宗介の胸倉を掴む手は下りる。
 宗介からわずかに離れた水希は俯いており、その表情は窺えない。
「挙句、俺に好きだって言って、好きだって言わせて、俺がいれば平気なんて言って期待させて、おまえは、何がしたかったんだよ」
 宗介は咄嗟に腕を伸ばした。“水希”が泣くと分かったから。
「触るな」
「、」
 手は叩き落とされなかった。ただ、触れる寸前で力強い声に、魔法をかけられたかのように、制止させられた。
 その「優しさ」は「あの時」ほしかったものだ。いまさら乞うものじゃない。
 徐に水希が顔を上げる。
「俺の納得がいく答えを教えろ」
 静かに涙を流す双眸が、宗介を射抜いた。



「……行ってきます」
 そっと頬を撫でられる。宗介の意識は彼が自分の腕から抜け出した時すでに浮上していたが、寝たふりを続け、部屋を出た男を引き留めることはしなかった。


 一段と少ない睡眠時間を過ごした水希は、ゆっくりと廊下を歩き、一つの部屋を覗く。ひょっこり顔だけ出したとき、偶然にも遙もまたそちらを見ていて、ばっちり目が合った。
 驚いたのは遙だ。
「水希か……」
 遙は持ち上げていたマグカップを下ろし、脱力する。急に入り口ににゅっと顔が生えるのだからさすがの遙もびっくりだ。真琴であったのなら奇声をあげたに違いない。
 水希は一度引っ込んで、次は全身をあらわにする。
「まだ寝てていいんだぞ。水希、あんまり眠れてないだろ?」
「まあ、そうだけど」
 とりあえず水希にも温かいスープを提供してやろうかと遙が聞くと、水希は困ったように首をかしげる。
 歯切れの悪い水希に遙も首をかしげる。お互いに首を横に倒しているなんて言う、奇妙な光景が広がった。寝違えた連中が顔を突き合せたみたいだ。
 水希はどこか言いにくそうに、ゆっくり、唇を震わせた。
「朝の散歩でもしない? 真琴も、誘って」
 朝日照らされたブレスレットがきらりと光った。

 早朝から自宅を訪ねてきた人物に、しかもその組み合わせに真琴は心底驚いた。寝癖の残る頭を撫でつつ、先頭を行く水希をぼうっと眺める。
「散歩に行こう」と扉を開けた真琴に言ったのは水希だったし、遙もまた、水希にそう誘われたらしい。だから横の遙に「いったいどうしたの?」なんて聞いたって意味がないのだろう。それに心なしか遙も不思議がっている。
「水希、どこまで行くんだ?」
 だいぶ家から離れて、真琴が声をかけた。
 返事にしてはため息に近い声を出した水希の歩調が緩む。次第に速度を失って、水希は道端で立ち止まった。
「水希?」真琴がまた声をかける。遙と真琴は水希の少し後ろで足を止めた。
「きっと昔も歩いていたんだろうけど、こうやっておまえらと歩いてみても、俺は何も思い出せない」
 ピク、と遙と真琴の手先が震えた。
 無理に思い出させるな。そう忠告を受けて、遙も真琴も水希に何かをほのめかすことはしなかった。
「おまえたちには何か掠めるものがあるのかもしれない。でも、俺は本当に、初めておまえらとこの道を歩いてる」
「……どうして」
「……吾朗さんに会った」
 遙たちは目を見張る。
「大体聞いたよ。5年前にこの町で“水希”っていう子供が賊にさらわれたんだってね」
「……」
「最初、遙が俺と同じ名前のやつを探してるって聞いたとき、俺は本気で人違いだと思ってた。おんなじ名前のやつなんて珍しいなって、のんきなもんだよ」
 でも、と水希は続ける。
「その“水希”も、俺がしてるのと同じ腕輪をしてるんだってさ。俺みたいに、肌身離さず身に着けてたって」
「水希……」
「その子が消えたのは5年前、俺が覚えてないのも5年前なんだ」
 朝の静けさに交じる水希の声は凛としていた。すでに何かに吹っ切れているようだった。
「……ただいま、であってる?」
 ずっと景色ばかり見ていた水希が、振り返ってぎこちなく笑ってみせた。まるでこの時間の挨拶がおはようなのかこんにちはなのか、そんなことを聞くような声の調子だった。
 一瞬の静寂の末、堰を切ったように泣き出したのは真琴だった。ぼろぼろと涙をこぼして、こくこくと必死で首を振る。それには水希を5年ぶりにみたときに、出せなかった分の涙も加わっていた。
「水希」と彼を呼ぶ遙の声は真琴よりも落ち着いている。昨日の夜から予感がしていたのだろう。
 水希は一つ、苦笑する。
「……でも、俺は2人が待ってくれてた水希じゃないんだ」
 水希はおもむろに手のひらを自分の胸辺りに広げ、ゆっくり握る。
「もう、おまえらの背に手を回せるほどきれいじゃない」
「そんなことっ」
「真琴、これはうやむやにしていい話じゃないんだ」
 真琴の言葉を遮った声は、力強く、有無を言わせない。
「俺は幾度となくこの手で人を殺めてきた。人殺しだ」
「でも、それは、隊商の護衛だから……」
「……俺が“初めて”殺したのは賊じゃない」
「……だけど、悪人だったんだろ」
 遙の言葉に水希は目を丸くする。「宗介?」と上ずる声で聞くと、遙は黙ったまま頷く。
 驚いた。宗介は、5年前の話を彼らにしていたのか。まったく、最初から気づいていて、手を貸してくれていたんじゃないか。
 水希はフと笑った。真琴たちから逸れた瞳は、どこか寂し気に揺れ動く。
「どんなに悪人でも、人間だよ。俺たちと変わらない、生きた人だ」
 伏せた目に血濡れた両手が映る。
「……長くなってもいい?」
 水希は真っ赤な拳を見つめながら問いかける。
 きっと宗介はすべてを話してはいない。彼が話さなかった5年間を聞いてもなお、彼らが迎え入れてくれるのなら。“水希”は彼らに本当の意味のただいまを言うことができるのだろう。


「……つまり、恋のキューピットになろう大作戦」
 真剣な顔をしてそう言った水希の頭を、宗介は思いっきり殴った。
 押し殺したような悲鳴をあげて、水希がその場にうずくまる。威力はかなりのものだ。宗介の拳だってジンジンと痛んでいる。
「俺の納得がいく答えを教えろ」そう言ってきた水希にすべてを話した結果がこれだ。数分前の緊張のかけらもない水希に、宗介は大息する。
「クソ、大真面目に話した俺がバカだった」
「はっ。おまえはやっと自分のバカさ加減に気付いたのかよ」
「泣かすぞ」
「勘弁」
 水希が慌てて頭を守る。……そっちの話だけじゃ、ないのだけれど。
 水希が宗介に聞かされた答えは、再会した幼馴染に出会った水希が昔と同じように遙に惹かれていることに気付いたから、わざと突き放すようなまねをした、というものだった。水希の冒頭の発言もあながち間違ってはいない。
 水希はやっと痛みの引いてきた頭から手を離し、そうっと宗介を見上げる。
「まあ……言われてみれば確かにって感じかな。俺は遙を好きになってる気がする」
「ひどい浮気宣言じゃねえか」
 宗介には数日前からの憂いもなければ、憤りもなかった。ハッと短く笑った宗介に、水希はやや頬を緩ませた。
「ま、好きなようにしろ」
「え」
「それなりの仕置きに覚悟ができてるならな」
 ニコリと笑った宗介。そこには確かな圧力がにじみ出ている。さすがの水希も、それには苦笑するしかなかった。


 宗介は腕を拱いて一人の男と向き合っている。その相手は自分たちに無償の宿を提供してくれている、この家の家主。
「……」
「……」
 遙だ。
 遙と宗介がにらみ合いを始めたのはもう十数分も前のことだ。この家には彼ら以外にも人はいるのだがいまさら声をかける人物などいない。むしろ、触らぬ神に祟りなしといった感じである。
 いったいどうしてこんなことになってしまったのか、にらみ合いが始まる前まで時をさかのぼる。

 水希が自分が遙たちの探す“水希”であることを知ったうえで、今後をどうしていくのかを話し合うことは、昨日(というよりも今日だが)あらかじめ、聞いていた。
 話し合う、というより、今の水希を知ったうえで受け入れてもらえるのかを彼は試しに行ったのだろう。
 宗介はぬくもりの減った布団の中で寝返りを打った。水希はいささか自信なさげにしていたが、はたからみれば結果なんてすでにわかっている。
 水希は、いや、水希たちは、笑顔で帰ってくる。若干腑に落ちないが水希が笑ってくれるのなら、それでいい。
 宗介は玄関前に出て彼らを待っていた。そろそろほかのメンツも起床し始めるころになって、水希たちは帰ってきた。
 えぐえぐと嗚咽している真琴にはかなり驚かされたことはさておき、そんな兄を慰めていた水希は家の前に立っている宗介に気付き、真琴を遙に任せると、一度泣きそうな顔をして、宗介のもとに走り寄った。
 宗介もそれを穏やかな表情で受け入れて、抱き着いてきた水希の背中を撫でてやる――なんて、宗介と水希の関係は、ほんわかとした“仲間”ではないのだ。
 水希が目の前まで走ってくるや否や、宗介は水希の腰を勢いよく引き寄せ、驚く水希と外野に気付いておきながら、
「人生初めての浮気はどうだった?」
「はっ?!」
 そう耳元で囁いて、水希の呼吸を奪った。
 それがただ触れるだけのキスだったのなら、今宗介を睨み付けている遙を纏う空気もまだマシなものだったのだろう。
 最終的に水希は腰が砕けた。要は遙への宣戦布告。「和解したところ悪ぃけど、こいつは俺のだぜ」である。
 ちなみにすっかりふにゃんとしてしまった水希は、真琴が慌てて回収した。遙の家に緊急避難だ。
 そんなこんなで、今に至る。
「へえ! 外にはそんなところがあるんだ?」
「うん。よく物語にされている迷宮とか、案外本当にあるよ」
 ラグの上に座って雑談する真琴と水希の話題は、今まで護衛をしてきた水希が見てきた外の世界のことらしい。
 宗介たちの不穏な空気なんぞ我関せず焉。双子はほのぼのとしたものである。
「水希はたくさん珍しいものを見てきたんだね。ぜひ、蘭たちにも聞かせてあげてほしいなぁ……」
「……」
「大丈夫。心配しないで」
 遠回しに家族の輪に戻ってきてほしいという真琴の言葉に戸惑いを隠せない水希を、真琴は優しく撫でてやった。
「少しずつでいいんだ」
「……うん」
 すべてが解決したわけではない。水希は“家族”に会う必要がある。
 怖くないと言ったらうそになる。でも、澄んだ緑色の瞳が穏やかに細まるのを見ると、本当に大丈夫な気がするのだから不思議だ。
 そう――すべてが解決したわけではないのだ。現に、今も水希たちのすぐ横で問題は起こっている。
「渡す気はねえ」
「……」
 しばらくの沈黙の末、宗介の口から出た言葉はこれだ。
 遙はぐっと眉間にしわを寄せる。高圧的ににらみを利かせてくる宗介に怖気づいたわけではない。むしろその逆で、遙の中では沸々と苛立ちがわきあがっている。
 今までずっと我慢してきたが、遙にとって宗介は、ほとんど間男のようなものである。
 5年も待った。やっと再会できた大切な存在に両手を上げて喜びたいのに、本当、余計なものがついてきてしまった。
 遙も宗介に負けないぐらい鋭い目つきになった。
 部屋の温度が1,2度下がった。周りで息を潜めている隊商の連中はぶるりと身を震わせた。
「……お前がどう思っていようと関係ない」
 そうだ。遙は宗介の存在など興味ない。宗介が水希の恋人であるからどうしたというのだ。遙は遙の好きなように動けばいい。
 それに、なにも水希は完璧に遙への感情を失っているわけではない。証拠は彼が肌身離さず身に着けているブレスレットと、先日の水筒の件だ。聞けば、水希は口にするものならなんでも身構え、他人から受け取れないそうじゃあないか。
 だが、つい先週、宗介と稽古していた水希は、遙が渡した水筒を受け取り、のどを潤しさえした。それは確固たる信頼の表れにほかならない。
 水希の遙への気持ちは、遙にとってはいい方、つまりは宗介にとっては悪い方に進んでいる。そうやって宗介が余裕な態度でいられるのも今のうちだろう。
「ねえ! ハル! ハル!」
 急に大声を上げた真琴を、遙は不意を衝かれたように振り返る。いったい何なんだ。
 真琴の前に座る水希は、ポカンとしている。
「さっきの聞いた?!」
「……聞いてるわけないだろ」
「俺も迷宮とか行ってみたいなぁって言ったら、水希が、『でも真琴は怖いのは苦手だろ』って!」
 興奮する真琴とは裏腹、水希はちょっと困っている。多分、自分でも気づかないうちに真琴の言うセリフを口にしてしまったのだろう。
 真琴が怖いものが苦手なことは、今の水希では知りえないことだ。本人は無意識だったと言えど、たとえそこからいっぺんに水希が記憶を取り戻すことはなくても、水希の中に自分たちとのつながりが見え、真琴は純粋にうれしかったのだ。
 遙ははしゃぐ真琴にかすかに口元を緩ませた。「よかったな」ほとんど呟きだったが、聞こえていた真琴はぶんぶんと首を縦に振った。
「水希、俺にもお前の話を聞かせてくれ」
 そろそろ宗介との威嚇のしあいには疲れてきた。遙は真琴に声をかけられた流れに乗って、2人の方へ歩み寄る。
 自分から遠ざかっていく遙を横目に、宗介は水希と目を合わせて、
「ちなみに水希、処女じゃないぜ」
 遙は今までにないぐらい鋭い目つきで宗介を睨んだ。
 宗介の静かな爆弾は水希にまでは届かなかったようで、宗介が何か自分に口パクしてきたものだと思い、不思議がって宗介の方に近寄る。
 遙は無言で水希の腕を掴んでそれを阻止した。
 水希は身動きを阻まれ、さらに困惑した。
 元凶の宗介に至っては、本当わかりやすいと愉快そうに肩を揺らしていた。
「悪ぃな、俺がもらっちまって。まあお前には関係ねぇ話か」
「……やっぱり関係なくない」
「うわっ!」
「ちょっハル! 水希の腕を掴んだまま急に動いたら危ないだろ?!」
 倒れこみそうになった水希を真琴が慌てて支えた。
 バチバチと飛ぶ火花。あくどい笑みを浮かべる宗介と、人を殺せそうな鋭い目をしている遙とを交互に見て、水希は無意識のうちに笑った。