遙たちの家にお世話になるようになってから早いもので3週間が過ぎた。何もぼんやり3週間を過ごしてきたつもりはないのだけれど、未だ俺たちが町に帰れる気配はない。
すっかり覚えてしまったマーケットからの帰り道を、宗介と肩を並べて歩く。宗介は、相変わらず俺よりも荷物を抱えている。
記憶の中の景色がぼんやりと浮かび上がる。この町ではないところで、もっと背の低い横の男と歩いた景色が、不意に。
「……いつ帰れるんだろうな」
なんとなくぽつりとつぶやいた。
夕日が赤々としていて、砂の混じった風が飛んで、がやがやと後ろの方で人が賑わっていて。妙に感傷的になったのだと思う。
俺たちの間に弾むような会話はあまりない。でもこの距離が俺は1番好きだから、沈黙の下りたこの状況は却って心地よい。今回も俺は特段宗介の反応を求めたわけではないので、静けさが俺たちを支配したところで気にすることはなかった。
不意に宗介の足が止まった。「宗介?」声をかけるとやけに真剣な瞳に射抜かれた。
「帰りたいのか? 本当に」
「……は?」
「だから、水希は本当に帰りたいと思ってるのか聞いてんだよ」
宗介は声を尖らせ苛立った様子であった。
ここ数日、宗介がふとしたときにぼんやりとしていることは知っていた。何かあったのか聞いても遠回しに聞かないで欲しいと言われるので、俺は口出ししなかったが、ここでこんな爆発の仕方をされるのはさすがに癪だ。
「帰りたいに決まってるだろ」
「ハルは連れて行けねぇんだぞ」
こちらも感化されたように不機嫌な声を出したが、それを上回る機嫌の悪い声が俺の言葉に被さった。
意味がわからなかった。
「なんで遙の名前が出てくるんだよ」
「3週間で随分絆されたくせによくとぼけたことが言えるな」
「……何が言いたいわけ?」
「言われないとわからねぇのかよ」
宗介の冷たい目が俺を射抜く。その目は本当に俺を蔑み、俺に辟易し、呆れ、憤っていた。
だから俺は息を詰まらせた。はっきり言えよと、言ってやるつもりだったのに、そんな言葉を継ぐことができなかったのだ。
すっと胸が寒くなる。それは、あの日目を覚ましたときに、宗介のいない目覚めを迎えたときに感じたものと似ていた。
「水希……? お前水希か?!」
「、」
突然パチンと空気が弾ける。見れば俺の名前を呼びながら俺の方に駆け寄ってくる男がいる。どう見ても俺より年上で、おおよそ隊長と同じぐらいの年と思われる、金髪の、ちょっと奇抜な髪型の男。
知らない人だ。
「え……、あの」
「無事だったのか!」
5年ぶりだなぁと、泣きそうな顔をしながら男は笑った。
「いつ戻ってきたんだ?」
「さん、週間前……に、」
「そうか……水希が行方不明になってから遙も真琴も見れたもんじゃなくてなぁ……ちゃんとあいつらにはあったのか?」
つい彼の勢いに押されて俺はぎこちなく頷く。男は心底安心したようなため息をつく。
「だいぶ見た目が変わっちまってるが……相変わらずそのブレスレットはつけてんだな」
「ブレスレット……?」
「あぁ? なんだお前、忘れちまったのか? そのブレスレット――」
続く言葉がみなまで聞こえる前に、俺は咄嗟に横の宗介の手首を掴んだ。
「ちっさいころ、遙にもらったやつだろ?」
時が止まったようだった。
5年前、この町では一人の男の子が賊に誘拐される事件があった。幼い子供3人で、町を離れ探検していたところ、賊に出くわしてしまったが運の尽き。うち2人は逃げることに成功したが、1人はその場に誰のものかもわからぬ多量の血痕を残して行方をくらましたのだという。
幼い子供は双子の兄弟とその幼馴染、それぞれ名前は兄は真琴、幼馴染は遙、弟は、水希、その“水希”が5年前に消えた。
吾朗と名乗った男は続ける。
“水希”は俺が腕につけているのと全く同じものを、幼い頃遙にプレゼントされた。そのブレスレットは遙が幼いながらに掻き集めたお金で買ったもので、吾朗さんは少し手助けをしたらしい。手助けと言っても値段交渉だけで、それだけですら遙はむくれてしまった。それほど自分だけの力で“水希”を喜ばせたかったのだ。
“水希”はあまりはしゃぐような子供ではなかったが、遙にブレスレットをもらったときは、年相応に無邪気な笑顔を見せた。それを見たから、遙はようやく吾朗さんにお礼を言えたらしい。
「おっと、これは言わない約束だったな……。聞かなかったことにしてくれ」
吾朗さんはおどけて笑い、不意に俺の横の宗介を見る。
「そっちのやつは?」
「あ……いま俺、隊商の護衛で……宗介は大切なやつで……」
「つまり仲間か? にしても……護衛ぃ? そりゃまた大物になっちまったなぁ」
宗介は何も言わないままだ。そこにいるのかすら疑わしいぐらい、無言で突っ立っている。
「……おっと、話足りねえが俺も今から用があってな……今度またじっくり顔見せに来い」
「……、……」
「とにかく、無事でよかったよ」
吾朗さんは最後に俺の頭をくしゃりと撫でて、宗介にも軽い挨拶を残し、俺たちの横を通り抜けた。
本当に一瞬だった。体は冷え切っていた。
俺が聞かされたのは全く身に覚えのない他人の話だった。吾朗さんも、遙が捜す“水希”と俺を間違っている。そうはっきり断言してやれるのに、してやりたいのに、“水希”が遙たちの前から姿を消した日と、俺が失った日があまりにも近すぎる。
どちらも5年前だ。
そしてブレスレットについても、同じ名前の人物が、全く同じブレスレットをつけていることなんて、ほぼあり得ない。“水希”が遙からブレスレットをもらって心から喜んだのは、大切な人からもらったから、に違いない。
俺はこの腕輪は大事なものなのだと断言するくせに、その理由は明確でない。もし、このブレスレットに執着する理由が、俺があの日、これを必死で取り返そうとした理由が、「大切な人からもらったものだから」であったなら?
遙の捜す“水希”を、すでに遙は見つけてしまっているのではないか?
「水希」
宗介に呼ばれてハッとした。思いの外宗介の腕をきつく掴んでしまっていたようで、慌てて離しはしたが白い手形がくっきり残っている。
「ごめん」と謝った声は情けないぐらいにかすれていた。
「……宗介、俺は、」
「……」
遙が捜す“水希”が俺だったとしても、俺は“水希”にはなれない。
相手がどんなに悪人であっても、人間だ。その人間を俺は殺している。5年前、そして護衛として剣を握ってからも、ずっと。無邪気に笑うなんて一生できない。許されるはずがない。どこまでも真っ白な彼らに今更混じることは不可能だ。
「どうすれば、……」
どうしたいのかすらわからなくなって、宗介に助けを求める。
彼は、俺の手を、握ってくれるものだと思っていたから。
「……は、変わらねぇよな、そういうとこ」
「……、……」
「5年間、何かあるとすぐ俺に頼ってきて。1人じゃ寝れねぇ、行き過ぎなぐらい人間不信、それをフォローしてやるのは、いつも、俺で」
きれいなエメラルドの目は夕陽色を交えて、俺を、
「本当は重荷だった。ずっと、水希が負担だった」
嫌悪している。
――ほんとうは、行かないでほしかった。走り去っていく背中に胸がつぶれてしまいそうで、無意識に手を伸ばした。届かない手を、
「触んじゃねぇ」
「、」
「自分のことぐらい自分で考えろ。いつまでも甘やかしてもらえると思うな」
叩かれた手には痛みがない。宗介は俺を睥睨すると、俺に背を向けて歩き出す。どんどん離れていく背中を追うことができない。俺の足は動き出さない。
“黒髪”の男は俺の視界から消えていく。圧迫された胸が苦しく、名前を呼ぶことすら、叶わなくて。
「なんだよ。それ……」
宗介の急な態度についていけず、俺は最後まで一言も発せなかった。
はっと短く笑って、ふらふらと壁に寄り掛かる。足は突然力をなくし、どさりと地面に座り込む。
どちらも、唐突すぎた。どちらも、一方的だった。
髪をかきあげようと開いた手のひらは恐ろしいほど赤い。べったりと付着したそれに驚いて瞬きすると、色は肌の色に戻っていた。
「……」
過去は、思い出したくない。ドッドッと激しく打ち鳴らされる鼓動に息があがる。それを落ち着けてくれていた彼は、迷惑じゃないと、嘘をついていたのか。
「……」
思い出したように涙が溢れた。手にはなにも握っていないのに、小刀の柄を持っている。
帰り道に戻る気はおろか、倒れた麻袋から転がり落ちる果物を拾う気すら起きなかった。
ふらふらと歩いていたら、いつの間にか町から外れてしまっていた。それにふと気づいても、目印なんて置いてきていないし、周りの景色も覚えていないので、戻り方がわからない。とは言っても今日は戻る気なんてどう頑張ってもわいてこないわけで、俺はため息をついてその場に座り込んだ。
空を仰げば真っ黒なキャンパスにちかちか光る小さな星がある。あれから日はすっかり落ちていた。
吾朗さんの話を聞いてもピンとくるものはなかった。
俺は本当にあの日より前のことを覚えていない。思い出そうとすれば、さっきみたいに幻覚を見る。手が真っ赤に染まったり、短剣の柄を握っていたり。多分これは俺がずっと背負い続けなければならないものだから鮮明に思い出すのだと思う。
といっても、“水希”と俺が同一人物だと知ってしまったのだから、今まで通りではいられないだろう。
俺が“水希”であるなら、変に俺たちを引き止めた遙たちの行動も合点がいく。そりゃあ5年前に消えた相手が戻って来れば、早々失いたくはないに決まっている。
“水希”と再会した遙はどんな気持ちだったのか、どんな気持ちで今も俺と接しているのか。やはり、思い出して欲しいと、胸が裂かれるような思いでいるのだろうか。
「……」
ぱたりと倒れこんで、ブレスレットを月の光にさらす。そうか、遙も真琴も、だから最初にブレスレットのこと気にしたのか。俺はてっきり、このシンプルな腕輪に、なにかこの街で有名な彫刻でも施されているのかと……。今思うとバカみたい考えだな。
彼らはひどく水希に焦がれている。それが苦しい。俺には彼らと過ごした時の記憶がない。俺は、彼らが帰りを待つ水希じゃないんだ。
ゆっくり瞼を下ろすとそこに貼り付いていた男が見え、また目を開けた。
「…………重荷、か」
あの宗介の目は本気だった。
俺は、遙の捜す“水希”が俺だったことよりも、宗介に突き放されたことのほうがショックだった。
5年間俺の情緒不安定を支えてくれていたのは宗介だけだ。だから俺にとって宗介は絶対だし、なによりも大切な存在である。それだけ大きな人物にいざ突き放されると、かなり堪える。
「迷惑じゃない」と、謝る俺を慰める宗介に、彼の言う通り俺は、甘えきっていたと思う。一度だけならともかく、俺は何度も彼に甘えてきたから。今にも死にそうな相手に「迷惑なんだよ」なんて言って追い払うことはさすがにできなかったんだろう。……でも。
「……抱かれたら、さすがに期待するだろ」
俺は女じゃないし、女みたいに柔らかくもない。服を脱いだって興奮できることはないだろうに、あいつは俺を求めてくれたから。
キスは当たり前だった。拒まれたことはなかった。甘えていい存在なのだとばかり、俺は。俺ばっかりが、そう、思っていたのか。
「……」
1人じゃ寝れない、異常なまでに人間不信、フォローしてくれるのはいつも宗介。半ば罵るように言われた言葉を思い出す。その通り過ぎて耳が痛い。言い返す言葉もない。
現に今も、俺は眠気があっても眠れそうにない。
「……俺は、」
「水希っ!」
今日は急なことばかりだ。切羽詰まったように呼ばれた名前に、上体を起こし振り返る。遙が俺の方に走ってきているが――。
息を切らした遙は顔面蒼白で今にも死にそうな顔だ。それはあまりに予想外で俺は心内慌てる。何か、あったのか?
弾かれたように立ち上がり、いつでも動き出せるように身構える。
「遙、どう――」
どん、と重たい衝撃だった。
あの勢いのまま遙は俺に飛び込んで来た。
2、3歩後ろによろめいたが、なんとか踏ん張って倒れ込まずに遙を受け止めた。
「はる、」
「いなくなるな!」
遙は悲痛な声で怒鳴る。つり上がった眉とは裏腹、綺麗な青色の瞳には大きな涙が溜まっている。
俺の見てきた中で遙は声をあげるような人ではなかったので、いきなりのことに俺は追いつけない。
「宗介だけ帰ってきて、水希はどうしたのか聞いても『すぐ帰ってくるだろ』としか言わなくて……夜になってもお前が帰ってこないから、おかしいと思ってマーケットの方に行ったら、道に、麻袋の中身が散らばってたから、お前が、また、あの日みたいに、……」
背に回った手が痛いぐらいに力を込める。
「頼むから……もう、いなく、ならないでくれ……」
遙のあの慌て様は、俺が夜になっても家に帰ってこなかったからだったらしい。あんなにも息を切らしていたからきっと相当探し回ったのだと思う。
無意識に遙を抱きしめ返そうとしていた己の手が赤いことに気づいて、寸前で拳を握り、また、腰のあたりまで落とす。俺は、遙に触れていい“水希”じゃない。
「遙、俺は……」
ぐ、と唇を噛む。俺はおまえの求める水希じゃないと、そう言うだけなのに、どうしてか続きを言えない。
言えば、失望されると思った――失望?
「俺は、」
どうして遙にがっかりされることを怯えなければならないのだろう。“今の水希”を受け止めてもらえるかもらえないかを真剣に考えて、しまっている?
黙った俺の代わりに遙がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……ちゃんと見つかって、よかった」
「、」
それは、今のことか。それとも。
「水希……」
弱々しい遙の声に胸が苦しくなる。抱きついてきた彼の体温が妙に愛おしくて、切ない。
――3週間で随分絆されたくせによくとぼけたことが言えるな。
絆された……?
……ああ、そうか。
宗介のあの言葉はそういうことだったのか。
皮肉だ。俺はもう遙の求める水希にはなれないのに、遙に惹かれている。宗介はずっと気づいていたんだ。俺自身は話したことを覚えていないが、宗介は遙といたときの俺のことも知っている。遙からもらったブレスレットを肌身離さずつけているということは、昔も俺は遙を好きだったのだろう。だから、あの態度、だ。
あいつは、優しい。重荷な俺を5年間も黙って面倒見続けるんだから。
「……遙。俺はもういなくならないよ」
「、」
「でも、まだやらないといけないことがある」
優しく俺から遙を離して、ぽろぽろと涙をこぼす遙に、らしくもなく笑いかける。
「5年も待たせてるけど、あと少し、待っててほしい」
どこからともなく優しい風が吹いて、俺たちの髪を揺らした。
いつまでも突き放されたことに戸惑って、うちしおれているなんて俺らしくない。そんな可愛い無邪気さなんて、とうに捨ててやった。
そして俺が何より嫌いなのは言われっぱなしでいることだ。俺はまだ、何も言い返してやってない。
自分のことは自分で考えろ。その言葉通りに、俺なりに、考えた結果を。俺はあいつにぶつけてやらないと。