そろそろ葉月渚に岩鳶水泳部企画部長の称号を与えるべきだ。
「パーティーしよう! クリスマスパーティー!」とクリスマスイブの昼休み。渚が言った。
 イワトビックリパンを前に、机にうつ伏せてていたかと思えば、急にがばりと起き上がり、配色のかなりよろしい弁当を箸でつつく怜に指をさすのだから、驚いた、なんてものじゃない。唖然とする怜をよそに、「ハルちゃんたちも誘ってさあ」と手すさびしながら渚は小首を傾げた。
 なかなかパンに手をつけなかったのは、企画部長の仕事を全うしていたからのようだ。日程、飾り付け、食事、メンバー、エトセトラ……。渚の頭の中ではすでにクラッカーから飛び出した紙吹雪がひらひらと舞い降りていた。
 この時期、屋内プールがなくジムを借りることもしていない岩鳶水泳部は、凍えるような寒さの中をひたすら走るに尽きた。本職の泳ぎはほとんど休業中だ。まあつまるところ暇なのだ。心情的には、さながら水に触れられずフラストレーション爆発中の遙だ。
「まあ、楽しそうですね」と前向きな発言をした怜に、渚は大きな目をキラキラと輝かせ、「じゃあ決まりだね! 江ちゃーん!」と女友達と弁当を広げる敏腕マネージャーの名前を呼んだ。
「ゴウじゃなくてコウ!」というお決まりのやり取りがあったことは余談だ。
 さて岩鳶水泳部第一学年委員会会議で持ち上がった案は、その日の放課後、ある程度の体をなして上司のもとへ届けられた。
 終礼が終わったとたんに名前を呼ばれた真琴は、入り口に立つ後輩たちを見て、パチパチと瞬き。一度遙の顔を見てから、3人を手招きした。
「あれ? 水希先輩、どうしたんですか?」
 真琴と遙が帰る準備をする横で、床にしゃがみ込み上体をイスに預けてぐでっとしている水希に気付いた江が、驚いた様子で言った。
 遙が「腰痛」と答える。
「昨日早めの大掃除をしたんだけど、階段何回も上り下りしたり、荷物の上げ下げしてたらすっかりやられちゃったみたいで」
「そうなんですか……」
 遙の言葉を補ってみせる真琴に、江は神妙な表情で頷いて、原因は違えどたびたび腰痛に悩まされる彼女は水希の苦痛を察し、水希の傍にしゃがみ込んで「大丈夫ですか?」と腰をさすってやった。
 弱弱しく水希の手が上がった。瀕死だが生きている。
 その一方で残された後輩2人、怜と渚は、「それで、どうしたの?」と真琴に声をかけられてやっとここに戻ってきたらしい。「えっと」と渚は切り出しながら、相変わらず落ち着いた面持ちの遙をちらと見た。
 彼らがどうして旅立っていたのかと言えば、遙が軽々しく「腰痛」とか言うからだ。本人たちは自覚していないが、遙と水希がほとんど恋人のような関係にあるのを知っているし、なおかつ健全な男子高校生としては、「そういう理由」で腰を痛めたのかと思ってしまったのだ。
 まったく、紛らわしい。
「クリスマスパーティーをしようと思って」
「あ、そういえばもうクリスマスかあ」
 真琴は、ほうと、熱いお茶を飲んだ後のようなため息をついた。
「11月からお店はクリスマスを主張してただろ……」
 ぼそりと聞こえた声は、そこで腰痛に殺されかけている双子の弟だ。まったく、口だけは元気いっぱいであるらしい。
「そういわれてみれば確かに」と、水希の蔑みを簡単にいなす真琴は、加えて「水希はよく周りを見てるんだね」軽く笑った。
 水希がゆっくりと立ち上がる。まさか学校に泊まるわけにはいかない。暖房がないから凍え死んでしまう。
「無理しないでください」と心配そうに眉を下げる江の頭を、水希は軽く撫でてやった。
「もう大丈夫なのか、おじいちゃん」
「うるさいな。おまえだけお年玉抜くぞ」
「ひどいジジイだな」
「ジジイ言うな。年寄りを労われ」
 さすさすと腰をさすりながら、水希は早速遙とケンカ腰の会話をする。
 そんな2人はさておき、真琴は「場所は?」と渚との会話を続ける。
「やっぱりハルの家?」
「うん。僕たちで結構話し合ったんだけど……」
「僕たちの家よりも、やっぱり遙先輩の家だ、と渚くんが譲らなくて」
「だって、集まるならやっぱりハルちゃんの家じゃない?」
「確かにそうだね」
 ふふ、と真琴は柔らかく笑って「ハル、水希」と2人を呼んだ。
 まるで隊長から呼ばれたように、遙と水希は真琴を見た。何を争っているのか、水希の鞄を持つ遙と、それを奪い返そうとする水希の構図のままで。
「聞いてた?」
 にこり。黒い笑み、とかいうわけじゃなく、子をあやすような笑顔だった。
「俺とジジイで何か作ればいいのか?」
「だからジジイ言うな」
 むっと眉を寄せて、水希はもう一言二言言ってやって、ついでに遙の脛を蹴ってやろうと目論んだが、江があまりにも水希を心配そうに見ているので自重した。
「ハルちゃんと水希ちゃんは水泳部のシェフだもんね」
「水泳部のシェフ……」
 渚の発言に水希が微妙な顔をした。頭に浮かんだ水着で料理をする料理人の姿に唖然としたが、それはかの幼なじみが先取りしているのだった。そして水着エプロン。何度もそう罵ってやったことがあるが、改めて考えると、やっぱり変態だ。
「なんだその目」水希の視線に気づいた遙が首をかしげたが、水希はふいとそっぽを向いただけだった。
 多少変態だが、情けなくも腰の痛みに苦しむ自分を気遣って荷物を代わりに持とうとしてくれたりなんたり、優しさの申し分ないやつなのだから憎めない。
「さっきお兄ちゃんにも連絡したんですけど、来れたら来るそうです!」
「来れたら、とか言いつつ絶対来ますよね、凛先輩」
「素直に『行く!』って言えばいいのにねえ」
 ねー、と頷き合う3人のなんと可愛らしいことか。
「それは楽しみだね」とニコニコ笑う真琴は、内心3人をいっぺんにむぎゅうと抱きしめてやりたかった。
「僕、ケーキがいいなあ」
「ベタですね……」
 渚が「じゃあそういう怜ちゃんは何がいいのさ」と頬を膨らますのを見ながら、水希は、ふと。
「遙、材料の買い物。今から行こう」
「今から?」
「クリスマスは明日だろ」
「腰は大丈夫なのか?」
「いける」
 食材が俺を呼んでいる、と真顔で言い切った水希の瞳は、きらきらと輝いていた。
 水希は料理が好きだ。多分遙と一緒にいる中でも、共に台所に立っているときが最もイキイキとしている。
 遙は、何を作るか、何を買うのかを思案し始めた水希をじっと眺める。これを、だれが先ほどまで腰が痛いと悶絶していた人間と同じだと思おうか。
 遙が腰をさすってやっても、大丈夫大丈夫と手をひらひらさせるだけだったのに、料理をするとなると、しゃきっと立ち上がり完璧な回復っぷり。
 ……待て、料理に負けたというのか。
 むっと遙は眉を寄せた。
「なあ遙、今回はベイクドチーズケーキでいこう」
 遙の不機嫌などつゆ知らず、対照的にふわふわとした空気をまとった水希が、嬉しそうに提案した。
 遙は彼の返事を待つ水希を相変わらず見つめ続け、徐に手を振り上げる。
 ――バシンッ! いかにも、という音は、遙の平手打ちが、水希の腰に決まった音だった。
 水希がその場に崩れ落ちた。一発KOであった。
「ちょっ?! ハル?!」
 慌てる真琴には然らぬ体。
 水希のことが、ムカついた。なんとなく、癪に障ったから。

 24日の夜にも橘家ではクリスマスパーティーが行われた。
 真琴と水希が家に帰るとリビングはガーランドで飾られ、今朝まではなかった大きなクリスマスツリーが姿を現していた。後者は、昨日の大掃除のときに発掘されたらしい。
 飾りつけと、机に並んだ、いつもよりも豪華な夕食、少し不格好なクリスマスケーキは、蓮と蘭が手伝ったんだとか。
「お兄ちゃんたちを驚かせたくて!」と無邪気に笑った弟妹を、真琴はありがとうと大きく笑ってぎゅっと抱きしめて、水希は口元にかすかな笑みを乗せて2人の頭を撫でた。
「ハルちゃんは?」と蓮が聞いた。蘭も水希たちの後ろを探し、そわそわとする。橘家では遙は家族同然であった。
 遙を呼びに行こうとした水希を制して真琴が家を出た。今は引いているが、あまり無理をするなと言われた。
 遙にとどめを刺された腰の話だ。

 真琴が遙を連れてやってくるのにそう時間はかからなかった。
「明日もケーキか……」となんとなく遠い目をした遙の口には、水希が無言でショートケーキを突っ込んだ。
 もちろん遙は水希を引っぱたこうとしたが、にこにことする橘家の手前、そんな邪心なぞ完膚なきまでに叩きのめされ、なんだか遣る瀬無くなった。
 その日双子はサンタさんを迎えるために早いうちにベッドにもぐりこみ、遙も橘家に泊まることになった。
 それからまたあれこれとあったが、風呂を借り、水希のベッドの上に横たわって、机に向かい熱心に何かをメモする水希を眺めているうちに、遙はすっかり眠ってしまったのだった。

 25日、朝。窓から差し込む朝日に促され、遙は瞼を持ち上げた。いつもと違う天井に、ああそういえば泊まったんだっけと思い起こすのも束の間。腕に乗った重さ気付いて、遙はゆっくりそちらを見た。
「……」
 一瞬頭がこんがらがった。
 遙に腕枕をされて、すっかり安堵しきった寝顔を見せる水希が、朝一番に目に飛び込んできたせいだ。
 遙は一度天井を見て、また水希に向き直る。相変わらず水希は遙の腕の中にいた。
 ……睫毛、長いな。
 こうやって近くから、まじまじと水希の顔を見る機会などそうない。遙はじっと水希を見つめ、やおら薄く開いた唇に指を添えた。
 いつも可愛くない言葉を紡ぐ口だ。
 それでも、遙が好きだと、まれに告げる口だ。
「……っ」
 ああどうしよう。遙はかあっと顔に熱が集まるのを感じる。
 無性にキスをしたくなった。
 何がスイッチを押したのかわからないが、すうすうと眠る水希を見て、ぎゅうっと胸をわしづかみにされたのだ。
 どうしよう、好きだ、可愛い、可愛がりたい、触りたい。きゅうきゅうと胸が締め付けられ、まるで目覚めて早々50メートルを全速力で走り抜けたかのような気分だ。
「ん……」
「、」
 遙が悶々と悩んでいる時間は、彼本人が気づかなかっただけで、結構な長さだったのだろうか。
 そっと瞼が持ち上がり、ぼんやりとした淡緑色の瞳が遙をゆらゆらと映し出す。
 水希は寝起きの瞳で遙を見つめる。なんだか遙は後ろめたい気持ちになった。
「……おはよ。遙」
「……ああ、はよ」
 ぐっと上体を持ち上げて、水希は壁掛け時計を見る。短針は7と8の中間ぐらいをさしていた。
「遙、買い物いこ」
 ふわあと大きなあくびをして、水希は特に何もない様子でベッドから下りる。
「昨日おまえにたたかれた腰も、よくなったし。夕方に間に合うように支度しないと」
 遙の腕は寂しくなった。
 未だに横たわったまま水希を見ていると、なかなか来ない返事を不思議がった水希と目が合う。「起きれないの」と、水希が眉を顰めた。
「今日はおまえがジジイ? 介護がいりますかー」
 そう言ってクローゼットから着替えを取り出し始めるのを、遙は恨めしそうに見ていた。
 なんとなく、損した気分だった。なんであのタイミングで目覚めるのだろうか。わざととしか思えない。
「遙、いつまで寝てんの」
「……今から起きる」
 ……キスしとけばよかった。

 朝ごはんは橘家の母親が用意しておいてくれたので、ありがたくそれをいただき、遙と水希は家を出た。
 母に、今日、部活のメンバーでパーティーをすることは、昨日伝えてある。その買い出しだとわかっているので、母親は笑顔で2人を見送った。
 真琴も起きていたが、午前中は別の買い物があるから、と手を振った。
「ハルもたまには水希と2人っきりがいいよね?」といたずらっ子のように耳打ちされたので、舌打ちしてやったことは余談だ。
 24hの看板をかがけるスーパーまでは少しかかる。
 2人は「そういえばこないだネコが」とかそんなくだらない話をちょくちょく交換しながら海沿いの道を進んでいた。
 海を隣にゆっくり歩いていると、なんだか別世界に隔離されてしまった気にもなる。さりげなく車道側に立っている遙は、海と水希をいっぺんに見て、温かいような、冷たいような。不思議な気持ちになった。
「海の近くは寒いね」
 水平線を眺め、水希が言う。
「……そうだな」
 眩しいものを見たわけではないのに、遙は光に目がくらんだように目を細める。それから少し戸惑いを見せ、そっと水希の左手を握った。
 遙の手より、冷たかった。
「お前、冷え性だったか?」
「そうでもないけど?」
 ふっと、水希は海とは違う、深い青を見る。
「おまえはあったかいな」
 くつくつと喉を鳴らす。水希は絡ませた指を動かして、くすぐったそうに言った。
 ――ああ。
「……水希よりはな」
 ろくに顔なんか見れなかった。
 繋いだ手を乱暴にポケットに突っ込んで、ズカズカと道を急ぐ。
「早いって」と文句を言いながらも、水希は少し笑っていた。
 遙の耳が赤いのは、知らないふりをしてやった。
 材料調達以外にも、水希が洋菓子店を覗いたり、遙が生け簀を恋しそうに見つめたりしたので、時間はすっかり昼を過ぎている。
 バター、グラハムクラッカー、クリームチーズ、サワークリーム、グラニュー糖、塩、卵、バニラビーンズ、レモン汁、薄力粉……。
 一体なんの呪文かと、真琴が見れば顔を青くするようなカタカナの羅列を、遙は興味深そうに見つめていた。
 遙が持参したエコバッグを持つ水希の横に並んで歩きながら(バックは遙が持とうとしたのだが、譲ってもらえなかった)、買い物前に渡されたメモ用紙からふと顔をあげ、横の水希を見る。
 今にも鼻唄を歌い出しそうな上機嫌だ。
(バイト始めた理由って、お菓子作りの材料を買うお金のためっていうのもあったな)
 割と初めの方にどうしてバイトを始めたのか水希に聞いて、その答えももらっていたのだが、それをふっと思い出したのだ。
 大部分は、料理の腕を磨きつつ、コミュニケーションもこなせるようになるためだった気がするが、2番目ぐらいには材料費の調達があったはずだ。
 真琴曰く、親がお菓子作りの材料費ぐらい出してあげると言ったのだが、水希は頑なに拒んだらしい。結構かかるから、と。
 それに欲しい器具や新調したい道具は日に日に増えるばかりで、こればっかりは頼めないと。
(……本当、料理好きというか)
 ある意味脱帽ものだ。
 横でクリスマスソングを口遊む水希の浮かれ具合に、遙は思わず笑いをこぼした。
「ラストクリスマスは失恋ソングだろ?」
「別にいいだろ」
 むっと眉を寄せる水希を、遙は鼻で笑った。
 羹に懲りて膾を吹くなんて、この男の性には合わないだろうに。