ヴァレリーはぱちくりと瞬きし、ひゅっと息を飲み込んだ。驚きすぎると案外悲鳴が上がらないもので「おっ……」と上擦った声が出た以外、ヴァレリーは黙りこくっていた。
 カーテンを閉め忘れていたので室内は月光に照らされていて、そこまで視界に困らない。だからヴァレリーは、室内に起こっている異変をしっかり視認できたのだ。
 足の間に座り込んで、自身のイチモツを握っている、それを。
「だっ……。誰っ?」
「……」
 文字通り命を握られたままヴァレリーは問いかけた。ヴァレリーの足の間にいるそれは、すっかり首を擡げてしまったそいつを悄然と見つめていたかと思えば、ヴァレリーの問いかけに答えるようにゆっくりと顔を上げた。
 澄んだグレーの瞳。
「……。殺すか」
「えっ。えっ……?」
 ヴァレリーは素っ頓狂な声を出すしかない。握られたイチモツもまた一段と縮み上がった。
 状況を整理する。
 ヴァレリーは、悲しいことに連日の残業となり、今日も今日とて日を越してから家に帰りつき、夕飯を食べる気力もなく、シャワーだけ浴びてベッドに倒れ込んだ。まるで電池が切れたかのように眠ってしまったのだ。それからなんだか意識が浮上してきて、下半部が暖かくて、微睡みとは別の気持ちよさを感じていて。なんだろう。そう思って寝ぼけ眼を泳がせてからは冒頭に至る。
 知らない人が、仰向けに眠る自分の足の間にいて、自分はパンツまで脱がされていて、性器を握られていた。そういえば目が覚める前、それこそ思春期真っ盛りのような、卑猥な夢を見ていたような気がしなくもない。これが原因か。
 ――意味不明である。
 状況を整理してみても、理解できなかった。
 知らない男。不法侵入。強姦。ヴァレリーの首に伸びる両手。
「こ、殺さないでくださいっ!」
「でも起きちゃったし、ちんちん萎えてるし……」
「眠ってちんちん勃たせたら殺さないでくれますか!?」
「んー……。んー」
 ヴァレリーは動揺していたのでとんでもないことを口走ったが、ヴァレリーを動揺させている元凶の方は、飲めない条件ではないのか眉をひそめて悩んでいる。
「というか君、誰なんです?! どうやって部屋に……」
「普通に玄関から。鍵あいてたもん」
「えっ?!」
 驚愕した。帰宅時のことを振り返るが、あまりの疲労にほとんど覚えがない。もしかすると閉め忘れたかもしれない。だからといって、この見知らぬ男が部屋にあがっていい理由にはならないが。
「一人暮らしの男の人って案外無防備だよね。結構鍵閉めてない人いるよ」
「えっ。そうなんです?」
「このへん田舎だし」
「まあのどかですよね……」
 このあたりはやや防犯意識が薄い。越してきた人がたまに口にしていたのをヴァレリーは思い出した。
「……」
「……」
 二人の間に沈黙が鎮座する。
「と、とりあえずパンツ履いてもいいですか……?」
「……。まあそんだけ萎えたら用ないや。どーぞ」
「……」
 蔑むように見られる己。
 少し不服に思いながらもいつまでも晒すものでは無い。ヴァレリーは男に手渡された下着を受け取り、逃げるようにベッドから離れ、そそくさと身なりを整えた。
 男と距離をとることに夢中になってしまったので、ヴァレリーのスマホはベッドのサイドテーブルの上だ。警察に通報するにはあれが必要。
 ベッドにちょこんと座っている男の方に敵意はない。とはいえ油断は出来ないのでヴァレリーは男の気を引いてみることとした。
「……。あの、君は俺ん家に不法侵入して、俺のこと襲おうとしてたんです?」
「うん」
「……」
 あっけらかんと肯定されては絶句である。取り繕うともしないのは、それが悪いことと思っていないからなのか。
「家のもの盗もうとかは……?」
「興味ない。フェラして、射精させて、飲もうとしてた」
「ひえ……えっ……ひえぇ……」
 強盗する気は微塵にもなかったらしいが、スラスラと吐き出される言葉が強すぎる。ヴァレリーは卒倒しそうになったが何とかこらえた。
「えっ……いやなんで? そういう趣味です?」
 相手は見るからに、男である。そしてヴァレリーも男である。
 おぞましいものを見る目つきのヴァレリーに、男は不機嫌そうに顔を顰めてみせた。
「趣味じゃない」
「は、はぁ……。じゃあなんで……?」
「インキュバスだから」
「は……?」
 ぷすりとした顔は変わらない。
「なんて?」
「インキュバス」
「……」
「知らない?」
「いや……、なんかあれですよね。エロ本とかのネタに使われてるえっちな悪魔」
「頭悪い回答」
 男から残念なものを見る目付きを向けられ、ヴァレリーはぐぬぬと口を曲げる。そんなこと言われたってインキュバスとやらはそういうイメージだ。日常にはいない架空の生き物なのだから。
「まあでも、ハーフなんだけど」
「はい?」
「人とサキュバスの間に生まれたんだよね」
「はい……?」
「だから毎日精液飲まなくてもいいんだけど、それでもやっぱり半分はそっちだから。週一くらいは必要というか」
「……」
 ヴァレリーは唖然と自称インキュバスを見つめることしか出来ない。
「……えっと」
「……」
「とりあえず警察呼びますから……」
 ヴァレリーはジリジリとスマホに近寄る。
 仏頂面はヴァレリーに襲いかかる様子は無い。この隙も今だけだろう。ヴァレリーは一気に駆け出し、スマホを手に取った。
「そういえば俺がキスすれば忘れちゃうんだった」
 呼び出し画面を見ていた視界がぐるりと回った。
 急に顔を掴まれた。ヴァレリーが声を上げるよりも先に柔らかい感触が唇に当たる。頬を包む両手はやけに優しくて、相手は大事な人にキスするかの様に瞳を閉じていて。
 ぐるりと世界が回転した。
 それからのことをヴァレリーは覚えていない。

 スマホのアラームで目が覚めた。ヴァレリーは布団から手だけ出してスマホを手繰り寄せ、アラームを止めた。
 開きっぱなしのカーテン。窓からは憎たらしい太陽の日が差し込んでいる。
 今日も今日とて仕事だ。ヴァレリーは布団の中でグッと体をのばし、観念したかのように布団から出た。

 会社に着くといつもよりなにやらざわついていた。と言っても悪いざわめきではなさそうだ。「何かありました?」と隣の同僚に声をかける。「新しい警備員が配属されるから、紹介されるらしいよ」同僚は答える。
「ま、その人の仕事は夜間みたいだけどな。一応日中に職員と一度顔合わせしとくんだろう」
「なるほど」
 ヴァレリーはキャスターのついた椅子をススーッと滑らせる。
 時計が朝礼の時刻を示そうとしている。
 部長の後ろに一人男が続いてきた。
「新しい警備員が配属されたので、みんなにも紹介しておく」
 まるでクラスに転入生がきたようだな。ヴァレリーは残業疲れで眠たさがあったので、バレないように頬杖をつきながら声のする方を見た。
「ジグルフ・エルアです。夜間警備に入らせてもらいますので、何となく顔を覚えておいてもらえると助かります」
 被っていた帽子を脱ぐと、ぴょこんと動く三角の耳。「ヴァレリーと同じミコッテだな」と隣の同僚が耳打ちするのをぼんやりと聞きながら、ヴァレリーは徐々に目を見開いた。
「若そう〜。いくつ?」
「歳は今年で――」
「あっ!! ……!」
「どうしたテイラー?」
 急に大声を出したヴァレリーのことをこの場の全員が注目した。もちろん、新人警備員、ジグルフもである。
「昨日っ……」
「昨日?」
 部長が怪訝な様子でヴァレリーを見る。ジグルフは特に動揺した様子もなくそのやり取りを見守っている。まるで初対面かのような態度だが、ヴァレリーはジグルフに覚えがあった。強烈な思い出だ。しかも昨日の。
 昨日の、インキュバスだ!
「残業続きで疲れてんですよ、こいつ……」
「……。そうか」
 絞り出すように昨日と呟いて以来黙り込んでいるヴァレリーを見兼ねて、同僚が助け舟を出した。「まあそういうことで――」と話が戻り、パラパラとまばらな拍手が起こる。
「大丈夫か?」と横で心配してくる同僚の声は遠い。
 間違いなんかじゃない。あれは、昨夜不法侵入してきて強姦未遂を起こした自称インキュバスだ。ヴァレリーを前にして白々しい態度であったが、昨日の今日で間違えるはずがない。どうしてこの会社に。一体なんの目的で。
 ヴァレリーは一礼して部屋を後にするジグルフの背中を穴が空くほどに凝視していた。