その日もヴァレリーは残業であった。こなしてもこなしてもなくならないというか、やればやるだけ仕事が増えていくのがこの会社のブラックたる所以である。
他の社員は既に帰宅済み。ヴァレリーが最後だ。チクタクと寂しく秒針を鳴らす壁掛け時計を見て、ヴァレリーは大きなため息をついた。
今日はまだ日を跨いでいない。それでも規定の終業時間は過ぎているので、会社から出るには警備員に頼んで一旦セキュリティを解除してもらう必要がある。しかしそれももう慣れたもの。ヴァレリーは大体残業して帰りが遅くなるので警備室に行くやいなや中年の警備員に「また残業かい。おつかれさん」と声をかけられるぐらいだ。
荷物をまとめ警備員に向かう。
疲れたので今日はコンビニで何か買って帰ろう。
警備員は奥にいるようなのでヴァレリーはコンコンと軽く窓を叩く。「すみません。セキュリティ解除お願いできますか」近寄ってくる影にそう伝えた。
「社員証をお願いします」
「ああ。はい……」
若い声だ。
いつも顔パスなのに今日はきっちり手順通りなんだな。とぼんやり思いながらポケットから社員証を取りだし、警備員に渡す。
そのときに、顔を見た。
「確認作業ご協力ありがとうございます」
「……!! お前っ」
「はい?」
伸びた手が行き着く先はトレーに乗せられて戻ってきた社員証ではない。ヴァレリーはわなわなと身体を震わせ、人差し指を警備員に突き立てた。
警備員、もといジグルフは、ヴァレリーを怪訝な様子で見つめている。
「ロック解除しましたよ。3分以内に出てください」
「お前、昨日のインキュバスですよね?!」
「……はぁ?」
ヴァレリーは未だ社員証を受け取らない。
鬼のような業務に追われすっかり忘れてしまっていたが、そういえば今朝、新しく配属されたのだ。この警備員は。
「とぼけないでください! 白々しいっ」
「はぁ……」
「ていうかもう1人で警備室いるんですか? 早くないですか? 配属今日からですよね?」
「同じ系列の会社で警備員してたので」
「……なるほど? 転勤みたいなもんです?」
「まあ。痴情のもつれで」
「はい? ち、痴情のもつれ……? いやお前、前の職場で何したんです……?」
「食事」
「食事……。健全なやつじゃあないですね?」
ジグルフが大きくため息をついた。
取り繕うのに疲れたようだ。
「インキュバスだからね」
「……っ!! やっぱり! じゃあ前の職場で俺にやったみたいに社員を襲ったんですね!?」
「うん」
「なっ……! 少しは否定してくださいよ!」
「ほんとのこと否定したってしょうがないじゃん」
「面の皮あっつ……。ていうか、社員襲って問題になって首切られないってどんなコネなんですか……」
「社員襲って飛ばされたんじゃなくて、社員に襲われかけて飛ばされたんだけど」
「は?」
「3分経ったよ」
「……」
セキュリティロックの話だ。通用口にある小さなランプは赤色を灯している。
「もう一回開ける?」ジグルフが面倒くさそうにヴァレリーに問いかける。
ヴァレリーはぐぬぬと口を結ぶ。一先ずはトレーに載せられたままの社員証を手に取った。
「ていうか俺からキスしたのに覚えてるんだ」
「……、……!! はっ、俺のファーストキス!」
「え。童貞?」
「今年は童貞です。なにぶん仕事がブラックなのでキスも数ヶ月ぶりですよ」
「……。あんた結構サイテーだな」
ジグルフが眉をひそめた。わざわざ今年はなんていうあたり、人生を通して童貞ではないらしい。いつが最後か知らないが付き合っていた相手はいるのだ。それはいいのだがジグルフとしてはその表現の仕方が遊び人だなと感じた次第である。
「他人の家に勝手にあがりこんでちんちん握ってた男に最低とか言われたくないんですけど……」
「言われたくなくても思われちゃったなら仕方ないじゃん」
「……」
減らず口の止まらない男だ。
「ていうか。キスしたのに覚えてるってなんですか」
「インキュバス効果だよ。いち、昏睡。に、忘失」
「?」
「要するに俺とキスしたら深い眠りについて直近のことを忘れちゃうってことだね」
「何でもありですね。インキュバス」
「何でもじゃなくてこの2つだけど」
「やかましいですよ」
そういう何でもありではなく、有り得ない事が有り得ちゃうなんて、という意味なのに。「そんな大きな声でしゃべってないじゃん」なんていう反論をヴァレリーは無視した。ジグルフのペースに乗せられてしまったら疲れ果ててしまう。
「ていうかさ。帰んないの?」
「……」
「あなただけだよ。帰ってない社員」
「……。帰りますよ。帰りますけど、……。ほら。俺って一人暮らしじゃないですか」
「うん? そうだね」
「いやそんな当然知ってますみたいな態度も反応に困るんですけど……」
「で。なに?」
「……。たまには誰かと話したいんです」
沈黙。
ヴァレリーの前のジグルフは面食らっている。
「……。犬でも飼えばいいのに」
ジグルフは窓口から離れていった。
ぽつんと残されたヴァレリーはむすっとその場で頬をふくらませる。ヴァレリーの言葉は半分出任せ、半分本心だ。帰らないのかと聞かれても正直ヴァレリー自身、ここで油を売っている理由がわからなかった。
カチャ。鍵の回る音がした。
「警備室入っていいよ。廊下だと寒いでしょ」
「! え。一般社員入れていいんですか?」
「別にいいじゃない?」
一応警備員なのに適当だ。こんなザル警備で大丈夫なのだろうかと心配しつつ、ヴァレリーは開かれた部屋に踏み込んだ。
警備室は監視カメラのモニターが印象的だ。
「そこ座っていいよ」そう案内されたソファに腰掛け、ヴァレリーはキョロキョロと周囲を見渡す。
「ココアいれてあげようか」
「あ。じゃあお言葉に甘えて」
ジグルフは今日からの配属だと紹介されたが、用意周到な方なのかすっかりいろいろと持ち込んでいるようだ。粉末スティックタイプのココアを一本マグに入れて、ウォーターサーバーのお湯側を捻ってしまえばあとは混ぜるだけ。
「深夜の監視カメラの映像みてるのって怖くないですか?」
「別に。なんで?」
「や……。なんか。ほら、幽霊とか……」
「幽霊ねえ。ほい、どーぞ」
ローテーブルの上にコトンと置かれたマグは湯気を立てている。
「あ。ありがとうございます」
「熱いと思う」
「気をつけますね」
「幽霊とか信じてるほうなんだ?」
「……うーん。強く信じてるわけじゃあないですけどね。やっぱりいるかも、とか思っちゃうわけですよ」
「ふーん」
「お前は信じてないんです?」
「信じてないわけでもないかな。ただ怖いっていうか、俺自身インキュバスなんだし、もし幽霊とやらを見たとしても、そういうのもいるんだなあって思うかな」
「……」
平然と言われヴァレリーは真顔になった。
確かにこいつ自身いるかもしれない不思議な存在なのだ。イレギュラーな存在はイレギュラーな存在を恐れないらしい。
ヴァレリーはマグに息をふきかけ、一口ココアを口に含む。程よい熱さだ。
「前の職場でさ」
「はい」
「今ぐらいの時間の警備中にポルターガイストあったんだよね」
「えっ。えっ……?」
「その時俺もいろいろあって結構イラついててさぁ。つい、うるさいって怒鳴ったら、ガタガタ家具が鳴ってたのは止まったわけ」
「はぁ……、よ、よかったですね?」
「それがさ。止まったと思った数秒後に、ガタガタガターッ! って。一段と大きく棚が鳴ってさ」
「えっ」
「もともと虫の居所が悪かったのに、うるさすぎて血管ブチ切れたよね。机ぶっ叩いたらその後は静かだった」
「……。俺だったら泣いちゃうかも……」
あかりはついていると言ってもこんな夜中に。しかもシンとした空間に一人でいるところに家具が勝手に揺れて物音を立て始めるなんて現象、ヴァレリーはついていけない。
インキュバスVSポルターガイストは、前者の勝利だったらしい。さすが、幽霊をいるんだなあで片付けるだけはある。
「その時何をそんなにイラついてたんです?」
「お腹すいてた」
「赤ちゃんですか?」
まさか空腹で癇癪を起こすとは。ヴァレリーは呆れた眼差しでジグルフを見る。が、ジグルフの方も至って真面目だ。
「大変なんだよ。食事探すのだって。俺って面食いだからそれなりに人を選ぶわけ」
「ん? なんか話の方向性おかしくないですか?」
「人としての食事で机ぶっ叩くまで神経すり減らせないって」
「ああ……。インキュバスのお食事の話でしたか……。というか面食いって……」
ヴァレリーはジグルフを見て、温くなってきたココアを見て、またジグルフを見た。
見るからにイケメンと評されるこの男は面食いなのか。面食いを自称するほどの男に襲われかけた自分はつまるところイケメン……。
「……。もしかしてまだ俺の事狙ってます?」
「はあ? 顔はいいなって思ってるけど勃起不全のやつに用はないよ」
「はあっ!? 誰が勃起不全ですか!」
「お前だよ。ちんちん勃たないじゃん」
「勃ちますけど!」
ドン。と思わず机を拳で打った。載っていたティッシュの箱とマグが軽く振動した。
「お前の夜這いは突発的すぎる上に雰囲気がないんですよ。目覚めたら知らない男がちんちん掴んでるとかもはや心霊現象なんです! そんなんじゃ勃つもんも勃ちませんよ!」
「ただの食事に雰囲気作りとかやってらんないんだけど。……あ」
ジグルフの視線は白熱するヴァレリーを逸れて監視カメラに向いた。
「なんか人影映ったから見てくる」
「えっ。……」
ジグルフは懐中電灯を片手に持ち、躊躇なく警備室を後にした。なんやかんやそのへんはルールなのだろう。ヴァレリーをぽつんと残した警備室の出入口の鍵はしっかり閉めていった。
ジグルフがいなくなるとヴァレリーも徐々に冷静になってきて、一体何の話であんなにムキになっていたんだと、自分が馬鹿らしく思えてくる。
時刻は夜の1時になりそうだ。最早電車も終電が行ってしまってヴァレリーの帰宅は徒歩になる。
ヴァレリーはたまに監視カメラに映る、堂々と歩くジグルフの姿をぼんやり眺めていたが、徐にソファーに横になった。
「……」
もう少しここにいよう。どうせ自分だけでは会社のセキュリティロックを解除できないし。とりあえず、ジグルフが見回りを終えて警備室に戻ってくるまでは。