ヴァレリーの目が覚めた時、時計は10時手前を指していた。完全に遅刻。慌てて飛び起きてから、そういえば今日は有給とったんだったと我に返った。
「……ふあ」
 あくびが出た。こんな時間まで眠っていたのはいつぶりだろう。目をこすって部屋の中を見渡すと、ローテーブル前で自分の上着を布団にして丸くなっているジグルフの姿を見つけた。昨日のことは覚えているのでジグルフの存在には驚かなかったが、別の部分でひっかかった。まさかそこで寝たのか。
「あの……」
「ん……。……」
 近寄って肩を揺すってみた。小さなうめき声が聞こえたかと思えば、嫌がるように寝返りを打たれた。それからすーすーと寝息。起きる気がないらしい。
 ローテーブルの上には食べ終わったプリンの容器と、紙パックのカフェオレが置いてある。いつの間に食べたのか分からないがその傍にはコンビニのビニール袋もあったので、ジグルフがヴァレリーの知らぬうちに買ってきたものだとわかった。
「ジグルフさん」
「うぅ。……」
「そこじゃあ寝心地悪いし風邪をひいちゃうでしょ。ベッドに行っていいですよ」
「……。い」
「はい?」
「うるさい。……」
「ええ……」
 衝撃だ。ヴァレリーを罵ったかと思えばもぞもぞと上着を頭に寄せて完全にコミュニケーションを拒否である。
 ヴァレリーは困った様子で頬をかく。
「朝ごはん食べます?」
「……」
 ヴァレリーの問いかけは無視である。というか、寝ている。ヴァレリーは少し考えてとりあえずタオルケットを一枚持ってきてやることにした。
 カーテンを開く。薄暗かった室内は太陽の日差しで明るくなった。
 フローリングの上に敷いたカーペットの上じゃあ体を痛めるだろうけど、ジグルフに動く気がなさそうなので仕方あるまい。持ってきたタオルケットをジグルフにかけてやって、ヴァレリーは机の上のプラスチックの容器と空の紙パックをゴミ箱に捨てた。
 ビニール袋も畳もうとすると中からレシートが出てきた。コンビニのものだ。
 領収書。
 20××年11月02日 04:02
「……」
 なんて時間に買いに行ってるんだこの人。レシートから判明したジグルフの買い物時間にはさすがのヴァレリーも驚きである。それから食べていつまで起きていたのか。少なくとも午前四時の時点で起きているので、今こうやって寝息を立てているのも頷ける。
 テレビをつけた。ニュースはあらかた終わってしまったのか、ワイドショーが映った。
「……、……」
「ん?」
「うるさい……」
「……」
 小さな声だったが聞き漏らさなかった。
 ヴァレリーはタオルケットにくるまっている塊を見てぱちくりと瞬きをし、徐にテレビの電源を切った。特に見たいわけでもないし。眠っている相手がうるさいと言うなら消すのは構わない。
「うるさくしちゃってすみません」
「うん。…………」
 かすれ声の返事に続くのは寝息だ。
 理不尽にうるさいと二度も不満を言われたヴァレリーだったが、そこまで悪い気はしていない。眠たい時は誰しも機嫌が悪くなるものだろうと、寛容な思いなのだ。
 ジグルフのことは寝かせておいてあげて、自分のことをいろいろと済ませてしまおう。ヴァレリーはジグルフから離れてひとまず顔を洗いに向かった。

 ジグルフが起きたのは13時前。ヴァレリーが昼ごはんを作り始めている頃だった。昨夜久々に買い物をしたので昼のメニューはそぼろ丼。ふんふんと軽く鼻歌を歌っているところにもぞもぞと動くのを見かけ、ヴァレリーは「あ」と声を漏らす。
「起きました?」
「……。おはよ」
「おはようございます。ていっても、昼なんですけどね」
 ぼんやりとヴァレリーのことを見つめていたジグルフは、昼と聞いてゆっくりと時計を見て「1時」とつぶやく。
「……なにつくってんの?」
「そぼろ丼ですよ」
「? ……ふーん」
 そぼろ丼がなんたるかはわからないようだ。ヴァレリーはジグルフの反応を見て察した。
「ジグルフさんの分も作ってますよ。食べてみます?」
「……。うん」
「よかった。やっぱり作って食べてくれる人がいるとちょっと嬉しいですね」
「……」
 そんなものなのだろうか。ジグルフにはヴァレリーの喜びがあまりわからない。
「ジグルフさんは料理します?」
「しない」
「……。いつもコンビニおにぎりって言ってましたね。そういえば」
「スーパーでうどんとかラーメンも買うよ」
「……」
 本人はそれで困っていなさそうではあるが、栄養の取れなさそうな食生活がありありと目に浮かぶ。「ちゃんと食べなきゃだめですよ」ヴァレリーの口からは自然とその言葉が出た。
「めんどくさい」
「めんどくさい、じゃなくてね」
「ヴァレリーさんだって社畜だからろくな食事してないんでしょ」
「こう見えてちゃんとバランス考えてますよ? 忙しすぎて食べられないってことはありますけど……」
「……」
「作り置きしたり、昼は自分で作った弁当です」
「ふーん」
 ジグルフから話を振ったわりに興味無さそうだ。ヴァレリーは、隠すことなくそっぽを向いたジグルフに呆れ顔をした。
 出来上がった昼ごはんを持ってジグルフの方に向かう。
「ジグルフさんは今日出勤ですか?」
「うん。食べたら家に帰る」
「……。そうですか」
「本当は夜中帰ろうと思ったんだけど、ここの鍵開けっ放しになるからやめた」
 ヴァレリーの安全を気にかけてくれたらしい。
 ふと、コンビニのレシートのことを思い出した。この季節の朝4時というものは、真っ暗だ。
「ていうか夜中に一人で出歩くの、男性でも危険だからやめといたほうがいいですよ」
「大してお金も持ってないんだから大丈夫でしょ」
「……うーん。そういうことでもなくて」
「いただきます」
「……どうぞ」
 結構マイペースだ。
 丼用の木製スプーンを手に、ジグルフは食事を始める。ヴァレリーも2人分のコップにお茶を注いで手を合わせた。
「おいしい」
「ほんとですか? よかった」
 もぐもぐと小さく口を動かしているジグルフはどことなく嬉しそうだ。その様子と素直な感想はヴァレリーの胸にじんわりとした熱を持たせた。
「……。たまに食べに来ます?」
「?」
「俺、料理作るの好きなので。作ってあげますよ」
「ん。んー……」
「ね! 連絡先交換しときましょ!」
 ジグルフの返事も待たずヴァレリーはスマホを取りだした。
 もぐもぐと咀嚼していたジグルフは、一旦スプーンを置いて、上着のポケットからスマホを出し、ヴァレリーに手渡した。
「?」
「勝手にやっといて」
「ええ。あ、ロック解除してください」
「ん。……ほい」
 ロック解除されたジグルフのスマートフォンは改めてヴァレリーに手渡された。
 連絡先はほとんど会社関係のもののようだ。出勤日がどうのこうのというやりとりがあるぐらいで、友人とのものはなさそう。
「連絡先全然ないですね」
「うん」
「あー。えっと、親しい友人とか……」
「いない」
「……。あ、親御さんは?」
「縁切ってる」
「……」
 ヴァレリーはそれ以上聞けなかった。
 ジグルフの方は全く気にしていないようだが、ヴァレリーは居心地の悪さを感じていた。聞いてはいけないことを聞いてしまった気分だった。
「えと……、連絡先追加しときました」
 スマホをジグルフに返した。
「そう」
「……」
「これさ。欲しい時に連絡すればいいの?」
「え? 欲しい時……?」
「精液」
「せっ……、……」
 ヴァレリーは愕然とした。
「……、まあ。そうですね。連絡してください」
「わかった」
 対してジグルフはあっけらかんとしている。
 そういえば昨日この男にフェラされて飲まれたんだよな。なんてことを思い出してヴァレリーは顔が火照ってきた。
 ぴん。と通知音。ヴァレリーが画面を見ると同僚からだ。「ヴァレリーがいないと仕事回らなくてやばい」と書いてある。
 今職場はやばいのか。有給を取ったものの午後ぐらい、出勤したほうがいいか……。
「ヴァレリーさんってさ」
「はい」
「やっぱ残業多いし休みも少ない?」
「え。まあ、そうですね。昨日は定時で帰ったけど、いつもは人の分も手伝って仕事しちゃうから……やっぱそうなりますね」
「ふーん。じゃあもうひとり探しといた方がいいか」
「……ん?」
「ごちそうさまでした」
 両手を合わせたジグルフは、空になった丼を流しの方に運んで行った。
 何気なく言われた言葉がゆっくりとヴァレリーの頭を回る。もうひとり探しといた方がいい。もうひとり……。
「あの」
「なに?」
「俺決めました。ジグルフさんが夜勤の日以外絶対定時で帰ります」
「は?」
「意味はもちろんわかりますね?」
「え? わかんないけど……」
「とりあえず今月のシフト教えてください」
「? ……わかった」
 ヴァレリーは目が据わっている。たまにあるこの雰囲気は何なのだろう。怪訝に思いつつスマホを取りだしてヴァレリーに渡した。シフトはアプリに記録しているので勝手に確認してくれの精神だ。
「ジグルフさん」
「ん」
「他の男のちんちん舐めた口にフェラされるの嫌なんで、俺のが欲しいなら俺だけにしてもらえます?」
「は?」
「俺も、ジグルフさんのシフトに合わせて定時上がりしますから」
「……。は?」
 絶句であった。さすがに。
「え。いや……なにそれ」
「オーラルセックスってそれなりに性感染症のリスクがあるんですよ」
「はあ……」
「言ってる意味分かります?」
「……」
 正直あまり意味がわからないがヴァレリーはすごい剣幕だ。意味わからん、と一蹴するのはやめておいてジグルフなりに考える。
 ジグルフにとっては特別な行為ではなく食事のつもりなのだが、ヴァレリーのような普通の人間からしたらオーラルセックスというものなのだ。今まで相手が覚えているなんてこと無かったのでこんなこと改めて言われるのは初めてだったが、普通の人は、気にすることなんだろう。
「……まあ。ちゃんと精液飲めるなら別に……」
「俺だけにしてくださいね。はい、約束」
「……」
 指切りさせられた。
 挙句、「破っちゃダメですよ」なんて、ニコリと笑われてしまえば「味に飽きるかも」と反論する隙がなかった。
 しかしまあ、当分飽きないだろうし、飽きた頃には完全に他を見つけて、ヴァレリーのところにやってくるなんてことはないから問題ないか。要はこの男、別の男の陰茎を舐めた後に自分のところに来るなと言っているのだ。安定して食べられるのならもう一人を探しておく必要も無いし、ヴァレリーに飽き始めたらヴァレリーのことは食べるのをやめて完全に他を当たればいい。
 ジグルフはひとり納得したのだった。