ある日を境に、あなたのために婚約破棄をしてきたと語っていた女性客は、ぱったりと来なくなった。今まで散々押しかけてきていたのに急に顔を見せなくなると、それはそれで何かあったのだろうかと、ヴァレリーとしては不安に思うところもある。しかしまあ、だからといって、また押しかけられるのは勘弁願いたいのだけれど。
平穏な日々のとある夜。お店を夕方までに閉めたヴァレリーは、飲み屋街を静かに歩いていた。その足の目的地は周りに乱立するいかがわしいお店――ではなく、昔馴染みが始めたバーだ。ヴァレリーのように念願の夢を叶えついに開店したから、ぜひ来て欲しいとお誘いを貰ったのだ。
確かこの辺のはず。と、手元のスマートフォンと周囲とを見比べる。
「おにーさん、うちに寄ってかないー?」
後ろから聞こえた声に、ヴァレリーはドキリと胸を弾ませて振り返った。が、どうやら杞憂で、キャッチが声をかけたのはヴァレリーではなかったらしい。
スパンコールのあしらわれた派手なドレス。キャッチの女性は声をかけた男に腕を絡ませている。
線の細い、華奢なシルエット。客引きの女の見た目ではなく、声をかけられている男のことだ。
「ん……?」
ヴァレリーは眉をひそめた。なんだかその男の姿に見覚えがあった。
「なーに。サービスしてくれるの?」
「するするっ! おにーさんイケメンだから、サービスしちゃうよーっ」
「ほんとに? じゃあ行こうかな」
心地よいテノールの声。決して大声ではないのにざわめく雑踏の中をすり抜けるように、その声はヴァレリーの鼓膜を揺らす。
「こっちこっち!」と女が男の腕を引く。進行方向はヴァレリーのいる方なので、必然的に男はヴァレリーを振り返り。
「……! あ!」
ヴァレリーは男と目が合った。目があった瞬間にヴァレリーははっと思い出した。どこかで見たと感じたこの男、あの日、カウンターに案内した客だ。ヴァレリーが名前を教えていないのに、ヴァレリーをフルネームで呼び、年齢詐称を暴露し、1万円のお釣りをもらわずに帰って行った、あの男!
ヴァレリーが大きな声を上げながら、ついジグルフを指さしたので、女性が足を止め、不思議そうにジグルフを向いた。
「あ。知り合いー?」
「……」
ジグルフは緩慢に瞬きをする。
無言のままにじっとヴァレリーを見つめてくるので、ヴァレリーはだんだんと居心地が悪くなり、自信もなくなってきた。
もしや、人違い? いやいやそんなはず。いやしかし。
ヴァレリーが変な汗をかきはじめたころに、やっとジグルフがヴァレリーから視線を外した。
「んー。どうだろうね? こんな色男の知り合いいたかなぁ」
「えー! なにそれー。やっぱ、知り合いじゃないってこと?」
猫なで声で言う女性から、ヴァレリーへとジグルフの視線が戻る。また無言の凝視が始まるのかと顔がひきつるのをヴァレリーが自覚するのが早いか、堪えきれなかったかのようにジグルフの方がぷっと小さく吹き出した。
それでまた、ヴァレリーはハッとした。デジャヴュ。ヴァレリーの反応を見て愉快そうにするこの様子!
間違いない! この男、やっぱりこの前の不審者だ!
「あのっ!」
わなわなと震える拳はまたこの男にからかわれたことへの悔しさだ。
「うん?」
声を張り上げるヴァレリーとは真逆にジグルフは落ち着いていて、小首を傾げヴァレリーの発言の続きを促している。
「お金っ……ちゃんと払ってないです!」
「え。なになにー、おにーさん、もしかしてこの子とお金で揉めてる感じー?」
「んー? そんなつもりはないけど」
「お、俺は真剣に話してますっ!」
ジグルフはぱちくりと瞬きした。
泣きそうになりながら怒っているというか。ぐぐ、と唇を噛んで、眉をひそめて、耳なんかはイカ耳にしてしまって、しっぽまで膨らませて。
「……。あ、ごめんねおねーさん。俺、こっちのお兄さんと大事な話しなきゃ」
「えー! 残念っ。また今度うちにきてね?」
「もちろん」
パチリとお互いにウインク。引き際が分かっているようでキャッチの女はすぐにジグルフから離れていき「おにーさーん!」と。違う男に声をかけている。さすがの切り替えの速さだ。
「怒ってる? ヴァレリー」
まるで親しい友人であるかのように聞かれたが、ヴァレリーとジグルフはそんな間柄ではない。2度目の対面であり、ほぼ他人だ。
「怒ってませんっ」とヴァレリーは答えるが。声を荒らげる様子のせいで否定しきれていない。
「ヴァレリーが可愛いからからかっちゃった。ごめんね?」
「はぁっ?! ……っていうか! 当然のように名前呼んでくるのなんなんですか!」
「いいじゃん。呼ばせてよ、減るもんじゃないんだし」
「減りますっ! ていうか、全然知らない相手が俺の名前知ってるとか、怖いし……」
「それで? どうしたの。俺のこと呼び止めて」
ついさっきまでの調子づいた声のトーンとは違って、わりと真面目な様子で聞かれたので、ヴァレリーは言いかけていたジグルフへの非難をつい飲み込んだ。それから思考も、ジグルフに問われた、なぜジグルフを呼び止めたのかへとシフトする。
「それは、ほら……。俺、ちゃんとお釣り渡してないじゃないですか。ずっと気になってたんです」
「うわ。マジメ」
「いや、だって、1000円いってないお会計に1万円出されてお釣り渡してないんですよ?!」
「いいじゃん。そんな端金」
「はしっ……!?」
ヴァレリーは愕然とした。
一人で何とかカフェを切り盛りするヴァレリーにとって、代金のお釣りはちっとも端金なんかではない。あの金額を端金なんて言えてしまう彼は一体……。
「一体何して働いてたらそんな感覚になるんですか……」
「……」
ジグルフは少し思案した。
ジグルフは、情報屋さんである。クライアントから依頼を受けた物の詳細を調べ、対価にお金をもらうのだ。前回ヴァレリーについて調べろと言われた時のように、わりと真っ黒な組織とも関わっているので、一般人のヴァレリーに語れるようなものではない。それにヴァレリーに「自分は情報屋です」なんて言っても「なにそれ」とさらに疑問を持たれるだろう。
だから、一般人ヴァレリーの問いに、疑問を持たれずに答えるとしたら。
「……。興信所?」
「え。浮気調査とかするやつです……?」
「まあ、そんなとこ」
ヴァレリーが微妙な顔をする。
「もしかして、誰かに俺の調査を頼まれて調べたから俺のフルネーム知ってたんです?!」
ピンときた顔だ。
ヴァレリーの閃きは大正解である。
「そうそう」
「怖すぎる……」
一体誰が俺の事を探ってんですか。と、ヴァレリーは酷くうんざりした様子だ。
「ていうか、依頼されてたって事実話しちゃったり、対象と接触したりしていいんですか。そういう仕事」
「よくないかな」
「……」
「まあいいじゃん。終わったことだし」
「終わったことって……。あなたの所への依頼を取り下げたとかです? でも、今もその人、別のとこで俺のこと探ってるかもじゃないですか」
「心配性だなぁ。大丈夫だって。相手も今頃ヴァレリーのことなんか考えてらんないほど自分のことに精一杯で大変でしょ」
「? ……。……?」
ヴァレリーは怪訝な顔をする。
シグルフとしては先に「殺す」と口にしたのは相手の方なのだからいざ言われる立場になったやつらに同情はしないが、殺しをするような怖い人たちに、件の人達が「今後ヴァレリーに関わったら殺すぞ」と脅迫されているなんてヴァレリーには内緒である。
「それでさ」
「はい? あ、そうだ。お金……」
「せっかくだしデートでもする? 俺、ヴァレリーに声かけられたから行くお店なくなっちゃったし」
「でっ……?! しませんっ!」
「えー。こんな時間にひとりで盛り場歩いてんだからそうなんじゃないの?」
「違います! 俺は友人が経営し始めたバーを探したんです!」
「ふーん?」
「だから入るキャバクラを探してたわけじゃあありませんっ!」
「あそこじゃない? そのバー」
キャンキャン言うヴァレリーを気にする様子もなく、ジグルフがスッとひとつのビルを指さした。
自然とヴァレリーの視線はそちらへ向く。
そこには、ヴァレリーがスマホで検索していた店の名前。
「……。ほんとだ」
「この辺で新規でバー始めたってなるとあの店ぐらいだし」
「……」
「あのビル奥まってるから見つけにくいかもね」
「なんでそんな詳しいんですか……。ここによく通ってんです?」
「ん? 通ってるわけじゃないけど。まあ。興信所なもので?」
「…………」
自称、興信所、改めて怖い。ヴァレリーは無言になった。
「あ。じゃあさ、俺もそこのバー一緒にいこうかな」
「え」
「連れてってよヴァレリー」
「え! やですよ」
「もちろんヴァレリーの奢りで!」
「いやです!」
「お釣りちゃんと返したいんでしょ? 現金そのまま受け取るのはやだけどご飯奢ってくれるならもらおうかなあ〜」
「……!!」
そう言われるとヴァレリーも弱る。
このあまり関わってはいけなさそうな男と一緒に行動するなんて気が進まないが、ちゃんとお金を返したいのも確か。かといって、本人が言うように、この男、現金を素直に受けとりそうにはない。だから、お金周りのことはキチンとしておきたいヴァレリーとしては、今「ご飯奢って〜」なんてふざけたことを言っているのを受け入れるのが良いように思える。
「……。わかりました」
「やった」
「でも友達に変なこと言わないでくださいよ!」
「変なことって?」
「急に相手のフルネーム言ったりですよ!」
その言葉を聞いてジグルフは吹き出した。
「どんだけ初対面の俺にフルネーム呼ばれたことがトラウマなんだよ」
「怖いでしょ! 普通!」
「はいはい。安心してよ、良識を持った社会人らしくちゃんとできるって」
ひらひら。ジグルフが軽く手を振る。まだ何かいいだけなヴァレリーを放って目的地に歩き出す。
「あ。ちょっと!」
ヴァレリーは少し慌てた様子でジグルフの横に並んだ。そんなに距離はなかったのですぐに追いついた。
並んだ時に横顔を見て、ふと。
(……。そういえば面食いだ)
今向かっているバーの経営者について思い出したのだ。かの友人、女性なのだが、異性の好みに関してかなりの面食いである。特に若い子が好みで、ティーンのアイドルや芸能人に目がない。割と厄介な質である。
ヴァレリーの横にいるこの男。ヴァレリーとしては第一印象が完全に不審者なので警戒心が高まりあまり意識していなかったが、端正な顔立ちである。それと見た感じの年齢も若め。
完全に友人のストライクゾーンだ。この子をツレだと紹介すると厄介なことになりそう。
かといって――。
「いらっしゃいませ」
もうジグルフが店の戸を開けてしまったので引き返せないのだが。
入店したジグルフを見た店員、もといヴァレリーの友人が瞳孔を開く。と、同時に、ヴァレリーはサッとジグルフの前に出た。
「あら。ヴァレリー! やっと来たのね」
「ちょっと道に迷っちゃって。いいお店ですね」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
一時的に友人の気をそらすことができても、やっぱり関心はジグルフへと向かってしまうもので。
「後ろの子は……」
「え。あー、と。俺の友達です。来てる途中にばったり会って、どうしても一緒に来たいっていうもんで」
「あら。さすがヴァレリー、モテモテなんだから! あたしの好みじゃないけど」
ヴァレリーに向かってバチンとウインク。唐突なディスである。
女性と目が合ったジグルフはというと、軽く頭を下げ、ニコリと愛想良く笑ってみせた。
「じゃあ2名様でご案内するわね」
「お願いします」
案内は、別の従業員がしてくれるようだ。女性に呼ばれた人物が、ヴァレリーとジグルフを席へと誘導する。
その際にヴァレリーは「あとで友達のこと教えなさいよ」と耳打ちされ、やっぱりこうなったと、頭を抱えるのであった。
友達のことを教えろなんて言われても。ヴァレリーにとってジグルフは友達ではないし、連絡先はおろか名前すら知らないのだ。教えられることがない。
名前すら――……。
「こちらへどうぞ」
「わ。夜景キレーじゃん」
大きな窓のある席に案内されたジグルフがやや上擦った声で言う。
従業員はぺこりと頭を下げていなくなる。
ぺらぺら。ジグルフはメニューを捲る。
「カクテルいっぱいある」
「……。……」
「? おーい」
トントンと腕を叩かれハッとした。ぼんやりしていたのでまだ席にすらついていなかった。ヴァレリーは少し乱暴に席について、じ、とジグルフを見つめる。
「え。なに? あ、メニューいる?」
「あの」
「?」
ヴァレリーは膝の上できゅっと拳を握った。
「名前、なんて言うんですか。きみの」
聞かれたジグルフは意外そうに目を瞬きして、ふ、と口元を緩める。
「シルバータビー」
「……。シルバーさん?」
「そう呼ぶ人が多いかな」
「ふーん。……」
シルバー・タビー。て、いうのか。
「似てるんだって。俺の目が」
「目が? 似てる?」
「うん。サバトラに」
一時、思考停止。
にゃーん。ヴァレリーの頭に猫が浮かんだ。
「サバトラに……。似てる? 目が……」
「そうそう。目の色がサバトラの毛色っぽいんだって」
「……」
にゃー。にゃー。ヴァレリーの頭の中では未だにサバトラが鳴いている。
そう言われたら確かにそうかもしれない。淡めのグレーの瞳は、サバトラの淡いグレー部分の毛色に似ている。
「それに俺、ミコッテじゃん?」
「……はい」
「それもあって……あ。シルバータビーってのがサバトラのことでさ」
「…………。待って、それってあだ名ってことです? 本名じゃないってこと?」
「え? まあ、そうそう、あだ名みたいなものかな」
あだ名というか通名だけれど。
会話が途切れる。ジグルフは気にせずメニューを眺め、ヴァレリーはそんなジグルフを凝視する。
しばしの沈黙。
「…………なんて言うんですか。本名」
沈黙を破ったのはヴァレリーだ。
どことなく不機嫌そうにしているのは、本人は無自覚である。
ジグルフは頼む酒を決めた。
顔を上げてヴァレリーを向く。
「そんなに知りたい? 俺のこと」
「そういうんじゃないですけど。気になるんです」
「ふーん? あ。すみません、カルーアミルクひとつ」
「俺も同じのを」
ちょうどよく通りかかった従業員に注文を頼んだ。
「で。なんていうんです」
「ん。うーん……」
「……」
なかなか本名を教えようとしないジグルフの態度にヴァレリーは苛立ちを覚え眉を顰める。
「あの」
「お待たせしました」
ことん、ことん。
テーブルにグラスが2つ置かれる。
「まあ飲もうよ。酔った勢いで教えるかもしれないし」
「それって教える気が……、うわ! カルーアミルク?! 子どもの酒……っ」
ヴァレリーは目の前にある酒を見て驚いた。ジグルフが注文をした時にはジグルフの本名にばかり意識がいっていたので、「同じものを」と彼自身が頼んだのは無意識だったのだ。
「いいじゃん。カルーアミルク。おいしいし」
「……」
こんな酒で酔えるものか。