「ロストは、テーブルトークシアターって知ってる?」
 続きはまた明日食べるのだと約束し、中身をしまったクッキー缶をきちんと閉じて棚に片付けていたとき、不意にシャルルから問いかけられた。
 聞き覚えのない単語に軽く首を傾げつつ振り向くと、今しがた片付けたはずのテーブルに、シャルルがなにやら大きな地図と、カード、サイコロや冊子を広げているのが見えた。
 なにをしているんだろうか?
「テーブルトークシアター、というのは……?」
「ボードゲームのひとつだよ。物語に登場する人物になりきって、シナリオを進めるんだ」
「なるほど……ところで、どこでそのセットを?」
「この前ロストと日用品を買いに行ったときに買っちゃった。フォンテーヌにいたころはしょっちゅうやってたから、懐かしくて。……まだフリンズにはバレてないよ」
 シャルルはにこりと微笑んで言う。日用品の買い出しで、フリンズから許可を得ていないものを買うことは今に始まったことではないが、これがバレてしまったときのことを思うと少し肩を竦めてしまう。でも、シャルルは楽しそうだ。
 楽しいからロストも試しに一回やってみよう、と言われたが、あいにく自分はそういう遊びをしたことがないので、上手くできるかどうか不安だ。それに、役になりきる、というのも少し気恥しい。
「……そのゲームは、二人でもできるものですか?」
「ん? できるよ。でもそっか、ふたりだから、ゲームマスターとプレイヤーになっちゃうね」
「ゲームマスター……」
「簡単に言えば進行役かな。話を説明して、プレイヤーと交流して、物語を進めていくんだよ。ロストはそういうの得意そう。ね、俺が演じるから、ロストは進行役をやってみない?」
「……分かりました」
 朗らかに笑うシャルルを見て、断ることもできず、自然と頷いてしまった。シャルルはすごく嬉しそうな顔で笑うので、ついこちらまで頬が緩む。
「俺は、これを読むといいのですか?」
「うん。なんて書いてある?」
「……『重厚な雲に覆われ、太陽の光が届かない永夜の王国』」
 少し厚みのある冊子に踊る文字を辿る。

 ――重厚な雲に覆われ、太陽の光が届かない「永夜の王国」
 そこには、世界の果てにあると言われる「夜明け」を探して旅をする一人の騎士がいます。
 しかし騎士は、好奇心と希望を求めすぎたのでしょう。美しく冷酷な蒼炎の魔法使いによって、出口のない迷宮の塔に閉じ込められてしまいました。
「階段を降りるよりも、ひたすら登った方が外に出られそうだ」
 騎士は上階を目指します。なぜなら、「上」に行けば行くほど、心なしか薄暗い雲の向こうにある陽の光に近づいている気がしていたからです。
 螺旋状の階段はいくら上っても見栄えは変わらず、途方もない道のりのようにも思えました。騎士の歩みは止まりませんが、それでも少しばかり、不安が心に巣食います。
「……いくら上っても、仕方ないですよ」
 背後から声が聞こえてきました。
 騎士が驚いて振り返ると、いつのまにか淡い光を纏った精霊が浮いています。
 それは少女のようにも、少年のようにも見えました。精霊は透き通るような瞳で騎士を見つめています。
「どうして仕方ないの?」
 騎士が問いかけると、精霊は寂しげに目を伏せます。
「蒼炎から逃れることは、……簡単なことじゃないからです」
 そう言った精霊は、再び騎士を見つめます。まるで、無力な己を嘆くような表情でした。

「『そんなに寂しそうな顔をしないで。ほら、ここにクッキーがあるから、ひとつ上げるよ』」
「……」
「うん? どうかした? ロスト、俺のことそんなにジッと見て……」
「……シャルルは、舞台に立ったことがありますか?」
「え? ないよ。お芝居は見る側だった」
「そうですか……」
 血統だろうか、と内心で感嘆した。水都は歌劇が盛んで、観劇客の審美眼も高いと聞く。
 シナリオを演じる彼の表情一つ一つに感情の波が見える。目の前にいるのは紛れもなく、シャルルで間違いないのに、俺の前では「騎士」が喋っているのだ。
 ただの冊子。ここに在るのは文字の羅列でしかないのに、目の前に閉鎖的な塔の様子が浮かぶ。朝のこない世界で光を見つけた精霊は、どれだけ嬉しかったのだろう。
 歌劇や演劇というものを、広いホールの座り心地の良い椅子で眺めた試しは、俺にはない。けれどきっと、こんな風に舞台の上の俳優の世界に飲み込まれてしまうのだなと想像した。
「『精霊』は、クッキーを口に入れるのかな?」
「……ああ、すみません。ダイスを振りますね」
 シャルルに先を促され、目の前のダイスを転がす。出目は五――

 精霊は、躊躇うことなく、騎士の差し出すクッキーを口に運びました。
 精霊は食物を摂取する必要はありませんでしたが、騎士の差し出したそれが、物珍しかったのです。
 恐る恐るクッキーを咀嚼すると、仄かな甘味を感じました。
「……これは、美味しいですね」
「喜んでもらえてよかった」
 騎士は屈託なく笑いました。精霊はとても穏やかな気持ちになりました。
 精霊は元来、人に親切ではありません。自分の領域に安易に入った者を罰し、愚かな人間達に憤りを感じるのが常なのです。
 しかし、騎士に対してはどうしてか、嫌悪することができませんでした。精霊にとって騎士は、絶望の深淵を照らす唯一の希望のように映ったからです。
 精霊は騎士に寄っていくと、クッキーのお礼にと、塔に新たな階段を造りました。
 そして騎士に告げます。
「私はここに留まります。早く、陽の光に会いに行ってきてください」
「……きみは、行かないの?」
「……急がないと、魔法使いが帰ってきてしまいますよ」
「一緒に塔を出よう。俺は、きみと行きたいよ」
 騎士はそう言って、精霊に手を伸ばしました。
「きみも、『陽の光』がみたいでしょ?」
 その言葉を聞いて、精霊は密かに震えあがり、息を飲みました。
 ――本当は、ずっと、陽の光を見てみたかったのです。鮮烈に輝く温かい色も、美しい金色の光線も、陽光に照らされた花々の美しさも。何もかもが目に毒だと、精霊を幽閉しているあの魔法使いは言いましたが、精霊は自分の目で確かめてしまいたかったのです。
 魔法使いの言う通り、眩しさのあまり、焼き焦がされてもいい。このまま、一生を地下の石牢で過ごしてしまうよりは、よほど幸福に死ねるはずです。
 精霊はそっと、騎士に手を伸ばしました。彼は微笑むと、しっかりとそれを握り締めてくれます。階段を昇るごとに、精霊の胸は高鳴りました。
 陽の光が待ちきれませんでした。騎士の横顔を眺めれば、その興奮はさらに募りました。
 やがて、螺旋状の階段が終わりました――

「どこに行くつもりだ。僕の元を離れて=v
「わっ!」
「!」
 ポン、と背後から肩に手を置かれて跳ね上がった。隣で素っ頓狂な声を上げたシャルルも同じだったようで、慌てて後ろを振り向く。
「『残念なことに、魔法使いは既に彼らの後ろに迫っていたのです。騎士と精霊は重たい鎖に巻かれ、再び彼の手に堕ち、昇らない日を恋うのでした――』」
 妙な語り口で冊子にはない続きを紡いだフリンズは、そのまま台詞とは違う口調に戻って「めでたし、めでたし」と話を締めた。
 こちらとしては全くめでたくはない話なのに、よく分からないところで現れた彼が勝手に完結させてしまっては、もはや抗議の余地はない。
「フリンズ……いつ帰ってきたんですか?」
「つい先程です。可愛い飼い猫たちがテーブルトークシアターを楽しんでいるようでしたので、少しばかり、様子を眺めさせていただきましたよ」
「なんで勝手に終わらせるの」
「ふたりが塔から出て行ってしまいそうだったからでしょうか。ところでシャルル、どちらでこれを?」
「ん…………」
 答えに詰まって固まったシャルルは、助けを求めるようにして俺の方を窺ってきた。もちろん、黙秘権を行使することは許されるはずもなく、俺は小さく肩を竦めた。
「以前日用品を買いに行ったときに……すみません」
「ふむ。ロストも気が付かなかった、と。僕の言いつけを守って、財布の紐を厳しくしてくれているものだと思っていましたよ」
「フリンズも遊ぶ?」
「……あなたは本当に自由奔放ですね、シャルル。ロストも困っていますよ」
 呆れたように溜息を吐いたフリンズに窘められて、シャルルは不服そうに眉間に皺を寄せた。とはいえ、反論できる立場にもないので唇を尖らせるだけで、それ以上は何も言わない。
 ちなみに俺が困っている理由は、確かにフリンズに許可をもらってもいない買い物をしてしまった後ろめたさもあるのだが、シャルルのことを上手く庇ってやれない歯痒さでもあった。
「……ごめんなさい」
「まぁ、別に怒っていませんよ」
 俺が口にした謝罪にフリンズはふと笑って、目の前に並べられているボードゲームのルールブックを摘まみ上げ、ペラペラ捲って確認していく。
「テーブルトークシアターは、ライトキーパーの中でも流行っていますよ。坊っちゃまなんか、昨夜これで遊んでいたようです」
「フリンズもやったことがあるの?」
「ええ、もちろん」
「ふーん……フリンズのロールプレイって、なんか仰々しそう」
「あの……三人でやりませんか?」
 ルールブックを眺めるフリンズに提案すると、彼は意外そうに俺を見た。おそらくは、シャルルから提案してくるならばともかく、俺から話題を蒸し返すのは珍しかったからかもしれない。
「その……ゲームマスターの、コツが掴めそうなのです」
 咄嗟に口にした言葉だったが、案外本心でもあった。
 シャルルから教えてもらったこのゲームを、自然にこなしたいと思った。そうすればきっと、シャルルは楽しそうに微笑んで、また俺を誘ってくれるだろうから。
 フリンズは数秒、じっと俺の方を見てから、ふ、と笑って席についた。
「夕食の時間までとしましょう」
「クッキー持ってくる?」
「こら。夕食前ですよ、シャルル」
 立ち上がりかけたシャルルがフリンズに咎められ「けち」と不貞腐れたように呟く。
「ロスト、フリンズがいじめる……」
「夕食前の間食は、俺も……あまり良くないと、思います」
「うー……」
「二対一ですね」
「ですから……ご飯の後に、デザートとして一緒に食べましょう」
「! ロストはやさしい」
 抱き着いてきたシャルルを抱き返す。
 フリンズがやれやれと肩を竦める様子が見えたものの、今は見ないふりをすることにした。