ジグルフは繰り返していた浅い呼吸に気がつき、意識して、大きく息を吸った。
 人間夢が叶うと案外達成感よりも喪失感を覚えるものなのかもしれない。
 故郷はこんなものだったろうか。この地に足を踏み入れたときにはああ久しぶりに帰ってきたぞと高揚感で胸がいっぱいだったのだけれど、自分の思い描いていた観光を達成したら、なんだか拍子抜けしてしまったようだ。
 終わった。長年計画を立ててきたものは、一瞬で終わってしまったのだ。もう見て回るものも会いたい人もいない。
 それでもせっかくの里帰りだ。もう一周ぐらい町を見て回ろうかと踵を返す。
 ぱちぱちと火の粉が踊る音と、自分の足音と、胸の音、それ以外には特に聞こえるものはない。静かな街だ。
 炎は真夜中の町の街灯代わりとなる。こんなに明るいのに人はみんな家から出てきやしない。眠っているのだ。今、この町で、ジグルフだけが起きているらしい。
 ジグルフは額にうっすらとかいた汗を拭い、そこではじめて、手の甲に軽い火傷をおっていることに気がついた。
「……」
 まさか自分自身も焼いてしまうとは。夢中すぎて、火加減を間違ったようだった。それに気づくとどうしてかおかしくて、ついふっと息を漏らして笑ってしまった。
「……、……」
「?」
 声がした。ジグルフ以外の声だ。
 足を止め周囲を探る。周りの建物は依然として変わらず火を上げているだけだ。聞き間違いだろうか。そう思いながら後ろを振り返って「わあ」と、ジグルフは思わず声を出した。
「すごい。生きてる人がいる」
「……」
「感心した。ほんとうにすごい。ねえ、君。しゃべれる?」
 ジグルフは口角をあげ、数メートル離れた先にいる男に手を振ってみせる。まるで友人に接するかのようなジグルフの陽気さと、彼自身の放った言葉はまったく釣り合っていなかった。
 ジグルフに問いかけられた青年、ヴァレリーはさらにきつく拳を握り怒りを顕にした形相でジグルフを睨みつけた。
「許さない……」
 ヴァレリー自身でも驚くほどのかすれ声だった。聞いたジグルフは目を丸くしたかと思えばおかしそうに笑う。
「そうなの? 許さないんだ。ふーん」
「……」
「そっかぁ。そうだよねぇ……俺が君だったら、俺もきっとそう思う」
「……」
「それでどうするの? 殺すの? 俺のこと。殺したいよね? でも殺せる? 君、立ってるのもやっとだよね。怪我が酷いじゃん」
 ジグルフは呆れたようにヴァレリーを指さした。
 ジグルフからまるで他人事のように怪我が酷いと指摘された通り、ヴァレリーは途中まで足の自由もきかず這って動いていたし、やっと立ち上がれたいまだってガンガンと内側から殴られるように頭が痛くて、喉が焼けていて、あちこちに出来た打撲と擦り傷で意識を保つのもやっとだ。
 まるで他人事。他人事のように語るが、この男のせいなのだ。この男。悪魔は、他でもないジグルフだ。
 ――すべてはほんの一瞬の出来事だった。
 ヴァレリーは日常を過していた。母親の代わりに食事の後片付けをしながら、今日の味付けはどうだったとか明日は自分が食事をを作りますねだとか、いつもと変わらない雑談を家族としていたのだ。
「明日は、そうですね……。朝はやっぱりパンケーキを……」
 そう語りながらタオルで濡れた手を拭った瞬間だった。
 大きく家が揺れその場に尻もちをついた。一体何がと理解が追いつく頃には家中の窓ガラスが割れ、熱いと思う暇もなく熱風に続いて激しい炎が目の前を焼いた。家具は倒れ、天井は焼け落ち、身体中に強い衝撃が走ったのを最後にヴァレリーは意識を失ってしまった。
 意識が戻った時景色は日常のものと全く違っていた。
 あたりは火の海だった。ヴァレリーは細々とした瓦礫とともにどこともわからない路地にうつ伏せていた。あのときの爆風に吹き飛ばされたのだと理解することはできなかった。
「……、……!」
 父母を呼ぼうと口を動かしたが、はく、と空気を食べることしか出来なかった。声が出ないのだ。
 それに気がつくと身体中に痛みを感じた。
 痛覚を取り戻すと今度は焦げ臭さが鼻をついた。焦げ臭いといってもちょっと魚を焼きすぎたときにかいだことのあるものとは全く違っていて、それは、他の生き物が焼けているような嫌な臭いだった。
 ほかの生き物、なんて。本当は人だとわかるのだけれどヴァレリーは理解したくなかった。
「――」
 助けて。声にならない。
 家族は、家族はどこに?
「火はやめておいたほうがよかったかもしれない」
 妙に冷静な声がした。ヴァレリーは、少し離れたところに人影があることに気がついた。
「やっぱり一瞬で燃やすより、一瞬で凍らせた方が見栄えもよかったかもな。焼死体なんかより氷像になるほうがまだ死者も浮かばれるよ。まあでも、君の言うように、炎で焼いてしまえば火葬代わりにもなるのか」
 声は男のものだ。目を細めてその影を見つめ、声の主が、ヴァレリーよりいくつか年下のような若い男性であることがわかった。
 そしてその青年は、この轟々と唸り声をあげる炎の海の中をほとんど無傷で、涼しい顔をして散策しているのだ。
 ヴァレリーは直観的に理解した。
 この男が原因なのだと。この男がこの惨事の元凶なのだ。町を一瞬で炎で飲み込み、人々の命を奪った悪魔だ。
 激しい憤りが込み上げる。ヴァレリーにボロボロになった自身の体を動かさせたのは燃え上がった怒りの感情だった。
 這って男を追いかける。彼が思いのほか悠長に歩いているおかげでヴァレリーは視界から彼を見失うことはなかった。
 ――殺してやる。
 ヴァレリーは周りの瓦礫を頼りに何とか立ち上がる。
 ――殺してやる。
 男は背中を見せたままだ。
 ――殺してやる。
「――――」
 小さく笑った男が振り返った。
 殺人鬼のくせに、ヴァレリーを振り返った彼は、整った顔立ちをしていて、柔らかい弧を口元に描いている。
 そんな彼がヴァレリーに何かを問いかけたが、ヴァレリーにはあまり聞こえていなかったし、彼になんと声をかけたかも分からなかった。「殺すのか」「酷い怪我だ」遠くでそう聞こえた。
 美しかった。
 怒りに塗りつぶされた胸のすみっこで、本人も気づかないうちに、綺麗な人だとヴァレリーは思った。
「君は怪我が酷いけど、俺はもう魔力は使い果たしてるから……丸腰みたいなものかな」
「……」
 にこりとわざとらしく笑ったジグルフは、大きく腕を開く。さあ! と言わんばかりに自身の心臓をトントンと2度叩いてみせる。
「その辺にはガラスの破片もあるし、胸を一突きすればいい。首でもいいね。太い血管を狙うといいよ。ああでも……即死させるよりも嬲り殺したいかな。俺は――君の住んでたこの町を破壊した張本人だからね」
 なぜそうもジグルフが余裕なのかヴァレリーには理解し難い。目の前にこの町の生き残りがいて殺意をむき出しに対峙しているのに。
 ヴァレリーが一言も発さない中、ジグルフは饒舌に語り続ける。
 ――俺のことが憎いでしょう。こんな悲惨な中で生きのびることができた君は強運だ、しかも犯人に対面するとまできた。仇探しに何十年とかけて憎しみ続ける必要がない。加えて仇は魔力を使い果たしていて抵抗できそうにもない。まさにラッキーだ。千載一遇のチャンスというやつだ――
「ほら、殺していいよ」
 つらつらと語られる言葉はヴァレリーの怒りを爆発させるのには十分だった。
「うわああ!!」
 ヴァレリーは弾かれたように大声を上げ駆け出した。拳を握り、目の前の男の顔面を殴りつける。
 鈍い感触がした。人を殴るのは初めてだった。
 倒れ込んだジグルフに馬乗りになり、2発、3発と続けて殴打する。骨のぶつかる音が重く響く。拳を振りかざすたびに赤い血が周囲に飛んだ。
 殴打。
 手がビリビリと痺れる。
 殴打。
 殴られたジグルフの身体が跳ね、拳の勢いを語る。
 殴打。
「キュー……」
「は、…………」
 どこからきたのか、振り下ろした拳の前に小さなハリネズミが現れた。ヴァレリーは寸前で拳をとめた。
 ヴァレリー自身の呼吸は荒い。いままで息をしていたかも定かでなかった。
「キュ……」
 キュー、というのはハリネズミの鳴き声だったらしい。ヴァレリーを潤んだ瞳で見上げるそれは、何やら命乞いしているように思えた。
 どいてください。とその子を追い払ってしまうこともできたけれどヴァレリーはそうしなかった。
 夢中で殴っていたのに急に熱が冷めたのだ。
 暴力の最中本当に無抵抗でいたジグルフを改めて見下ろす。突如現れたハリネズミが無遠慮に彼の顔に載っていて、表情も様子もしっかりとは確かめられないが、少しだけ覗く皮膚は赤黒く変色していて、口を切ったのだろう、血が伝っている。
 ――死んだのだろうか。
 ふと過った結果にひゅっと喉がなる。ヴァレリーは胸の奥が寒くなったのを感じた。
「……死んだ、んですか?」
「……」
 返事はない。
 息はしているのだろうか。怖々と拳を解き、ジグルフの顔の前に手のひらを寄せる。
「キュッ!」
「いたっ!」
 ヴァレリーは勢いよく手のひらを引いた。
 噛まれた。指を。ハリネズミに。
「な、なんですか……っ」
「キューッ!」
 フーッと小さな牙を見せ全身の針を尖らせるそれはヴァレリーを威嚇しているらしかった。
 なんなんだこのハリネズミは!
 ヴァレリーはチクチクと痛む手をかばいながら、ジッと自分を睨みつけてくるその子を同じように睨みつけ応戦する。
 何十秒とその状態は続いた。
 傍から見ても不思議な光景だった。
「ころせ……な、……んだ。げほっ……」
「……!」
「キュ!」
 顔に載っていたハリネズミはジグルフが咳き込んだ弾みにこてんと転がり落ちた。
「い、生きて……」
「……」
 見えているのかいないのか。どことなく焦点の合わない瞳がヴァレリーを向いている。
「かわいそ、……ころせ、ない……だ」
「……っ」
「……ろ、した、……ひとりぼっち、に……な……から……」
「……は?」
 耳を疑った。
 無抵抗の悪魔一匹の殺害すらできないヴァレリーをただ哀れんで蔑んでいるものかと思ったが、彼はヴァレリーが殺人に及べなかった理由を「自分を殺したらひとりぼっちになるから」と語ったのだ。
 ひとりぼっちになる? 町は焼かれ家族は炎に巻かれて息絶えた。ヴァレリーはもうすでに孤独なのに?
 全くの理解不能だ。
「……、かわいそう……」
 微かに動いたジグルフの右手は、しかしどこに向かうこともなかった。ヴァレリーに対して哀れみの言葉を繰り返したあとは事切れたように目を閉じた。
「死ん……っ!」
 ヴァレリーは伸ばしかけた手を引っ込めた。
 素早くジグルフの顔へと駆け上がってきたハリネズミがまたもヴァレリーを睨みつけ息巻いている。
「な、殴りませんよっ。息が――あるか確かめるだけですっ」
「……」
 ハリネズミは依然ヴァレリーを威嚇しているようであったが、今のヴァレリーはジグルフに加害することはないと認めたらしい。針をつんつんさせたままゆっくりと地面におりた。
「……」
 本当になんなんだこのハリネズミは。
「……生きてる」
 弱々しいが呼吸はあった。気を失っただけのようだった。
 とはいえ、散々殴られた彼をこのままにしておいたらそのうち衰弱死でもしてしまうのだろう。……死んでしまうことをなぜ気にかけるのか。それでいいじゃないか。殺す気で殴った。そうだ殺すつもりだったのだ。町を壊滅させ人々の命を奪ったこの男の息の根を止めてやるつもりだった。
「……くそっ」
 悪態を吐きながらジグルフを背負う。
 ヴァレリー自身疲弊していて歩くのもやっとだ。この男が、通常の成人男性に比べて重みがないことが唯一の救いだろうか。どこに行けばいいのかわからないがここにいても仕方がない。ヴァレリーの行動はほとんどやけくそだった。
 足を引きずるように歩く。キュウと下で鳴き声がした。
「……」
「……」
「君はどこから来たんです……。ここに住んでたのかもしれないけど、もうなにもないですよ。森にでもお帰りなさい」
「……キュ」
 ハリネズミが不満げに鳴いたかと思えば、突如その小さな体が浮いた。
 ふよふよと宙を飛んでいる。
「!? えっ…?」
「キュー」
「は? えっ? ……?」
 ふよふよと浮遊しながらヴァレリーのそばに居るその子はどうやらヴァレリーの動きを待っているらしい。ついてくる気なのだ。
 本当に、なにものなんだ。このハリネズミ。本当にハリネズミなのか?
 ヴァレリーは足を止め呆然とその様子を眺めるが、考えても埒が明かないので、大きなため息をついて諦めた。こんな不思議な出来ごとに突っ込みをいれる体力はそもそももうないのだ。
「なんなんですか、本当……」
「キュー」
 重々しい足取り。片やふわふわとご機嫌な空中散歩。
 まだ炎の残るこの町を去るその影は、それはそれは、奇妙な光景であった。