「え?」
昼休みに訪れた二年の教室で、ぽかりと空いた主のいない席を虚しく見つめてしまう。竈門なら休みっす、と言って去っていった名も知らぬ後輩の言葉は、右耳から左耳へと素通りして、喧騒へと消えていった。
炭治郎は健康優良児だ。体調が悪いところなんて一度も見たことがないし、去年は一度も学校を休まず皆勤賞だった。そんな炭治郎が、休み?
……もしかして、昨日俺が、あんなことしたから?
初めて唇を重ねたあとの炭治郎の表情がフラッシュバックする。戸惑いには満ちていたけれど決して嫌がってる表情でも音でもなかったのに、なんで。本当は嫌だったの? 俺と顔を合わせたくないほど?
俺のこと、好きなんじゃないの炭治郎。俺だっておまえのこと、好きだって言って――――

「……あ」
そこでようやく気づいた。
俺、炭治郎に好きだって、一度も言ったことない。

「ヴワーーーーッ!?」
あまりにも衝撃的な事実に、思わず頭を抱えて廊下にしゃがみ込んだ。えっ嘘でしょ? 嘘すぎない? おれ告白もしてないのに無理やりキスしちゃったの? 何それもう痴漢じゃん。そりゃさすがの健康優良児も新学期早々休むわ。えっだって炭治郎のことだから俺の気持ちわかってるって、思って――――

「……言わなきゃ」
ざわざわと騒がしい、昼休みの廊下。ぼそりと低く呟いた俺のその声は、多分誰も気づいてない。でも俺だけは気づいてる、いま俺が、何をすべきか。
俺が馬鹿だった。炭治郎は鼻がいいから、きっともうわかってるはずだなんて勝手に思い込んで、一人で暴走して。きっとたくさん、不安な気持ちにさせてしまった。

言わなきゃ。炭治郎に、ちゃんと、おまえが好きなんだって。

俺は立ち上がり、自分の教室へと踵を返した。机の横にかけた学校指定の鞄と、出しっぱなしだったミルクティーのペットボトルを引っ掴んで教室を飛び出す。風紀委員長として廊下を走るわけにはいかないので逸る気持ちを必死で抑え、生徒玄関でローファーに足を突っ込んだ瞬間、俺は竈門家めがけて一目散に駆け出した。
学校前の桜並木を脇目も振らず駆け抜け、長い長い下り坂を転げ落ちるように走ってる間も、脳裏に浮かぶのは炭治郎のことばっかりだ。
桜が咲いてから今までの短いあいだに、色んなことがあったよな。
三年の教室まで会いに来てくれた時の憂いを帯びた表情、生徒指導室で不安定にゆらめく大きな赫い瞳。俺のこと好きになってもらう、なんてやる気満々で宣言した割に、いつもと何にも変わらない、ただの『友達』の顔をしてみせたりして。そのくせ炭治郎からは、金平糖の瓶を振るようなころころかわいらしい恋の音がずっと聞こえていた。天然なのか計算なのかわかんないけどとにかく全力で俺を振り回すこいつを捕まえたくて、だから勇気を振り絞ってキスをした。あの瞬間、真っ赤に燃え上がった炭治郎の頬の色は、きっと西日のせいだけじゃない。
ふぞろいなビー玉みたいにきらきら光る思い出の、そのどれもこれもが愛おしくて。不器用に、でもひとつひとつ大切に数珠繋ぎにしたそれは、俺と炭治郎が一緒に紡いだうまれてはじめての恋。
なあ炭治郎、おれおまえのことほんとうに、ほんとうに好きだよ。
見たいんだ。
この物語の最後にきっと待ってる、炭治郎のお日さまみたいな笑顔を。
汗が首筋を伝って、シャツの襟を濡らしても俺は止まらない。まるで点Pの存在範囲を示すベクトルの矢印みたいにひた走る俺が目指す座標は、炭治郎ただひとりだけ。なんだかずっと昔にもこんな風に、あいつを目指して走ったことが幾度もあったような気がするなあ、と不思議に思いながら、俺はただひたすらに坂を下っていった。

竈門家は、学校から徒歩十五分。俺の脚なら走れば十分もかからない。上がった息を整えつつ、勢い任せにチャイムを押してから急に怖くなってきた。
えっなんか今の俺、また思い込みで暴走しちゃってるところありません? どうしよう、思ってたんと違って炭治郎ガチで俺に会いたくなかったら。どうしよう軽蔑のまなざしで見られたら。ていうか汗ヤバ。あっなんか脚が震えてきた、どうしよやっぱ出直し……
「……ぜんいつ?」
「ヒャーッ!?」
ガチャ、と音がして、モスグリーンに塗られた玄関の扉がゆっくり開かれる。そおっと覗き込むように顔を出したのは、おでこに冷却シートを貼った、パジャマ姿の炭治郎だった。
……前髪、下りてるところ初めて見た。熱のせいか、いつもぱっちり開いた大きな瞳はとろんと潤み、まろい曲線を描く頬はのぼせたように赤い。
「か、かわっ……」
「え?」
あっぶねええ、危うくかわいいって口走っちゃうところだった。だってさあ、なんか顔赤くしてぽやんとしてる炭治郎……えっちくない?
不埒な想像をかき立てるとろけた表情に、思わずごくん、と生唾を飲む。少しだけ、ほんの少しだけ下半身に違和感をおぼえて焦る俺の内心などつゆほども知らぬ炭治郎は、「来てくれたのか、ありがとう」なんて言いながら、へにゃりと無防備に笑って俺を招き入れた。
「ごめん、突然来て……熱あるんだろ?」
「ああ、でも朝よりはだいぶ下がったから」
階段を上がる背中を見ながらついていき、炭治郎の部屋におじゃまする。兄弟の多い竈門家で、炭治郎はずっと竹雄くんと相部屋だったけど、去年の春、高校生になったときに初めて一人部屋をもらえて喜んでいたのを今でもはっきり覚えてる。
ミントグリーンのカーテンがかかったこの部屋にはもう何度も遊びに来たことがあるはずなのに、友情とはちがう気持ちを自覚した今となってはやけに緊張してしまって、心臓の音がどく、どくと耳の奥で響いた。
――――でもそれは、炭治郎も同じで。
黙りこくって視線を泳がす炭治郎の胸から聞こえる心音は、俺に負けないくらいの爆音だった。
互いの胸が高鳴る音だけがきこえる二人きりの部屋で、痛いくらい思う。
触れたい、抱きしめてみたい、もう一度そのやわらかな唇にキスしたい。
でもそれは、俺の気持ちをちゃんと伝えてからだ。
「……あのさ、」
膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめ、俺は覚悟を決めて口を開いた。