13
新人公演は13時からの本公演のあと、18時30分からおこなわれる。
その日の朝、8時頃に、千舟の携帯に母から電話がかかってきた。
「七保子、今日はがんばってね。お母さんもお父さんも、客席から見てるからね」
「うん、ありがとう。お母さん。頑張るね」
ここのところ忙しくて、母と電話をしている暇なんてとてもなかった。
久々に聞く母親の優しげな声音に心をあたためながら千舟はマンションを出た。つい1年ほど前に寮を出た千舟が現在住んでいるのは大劇場から徒歩10分ほどの場所に位置する高層マンションだった。部屋の間取りは3LDKほどあり、1人暮らしには広すぎて逆に住みにくいぐらいなのだが防犯を心配した両親が足を運び、選んだ物件だ。それに家賃を負担しているのも両親なので、文句を言うなんて図々しいことはできなかった。
本公演は恙なく、いつものように終えることができた。
新人公演の焦燥はあるはずで、四肢が痺れてお腹がジンジンと痛むような気がするのに、一方で気持ちは思ったよりも凪いでいてショーでのダンスもいつも通りうまくこなすことができた。
銀橋での黒燕尾の群舞を終え、煌びやかなシャンシャンと退団公演らしい白い衣装で最後の階段下りを終える。降りていく緞帳を「ああ、もうすぐで新人公演の幕が開ける」とぼんやり見つめていた千舟の思考は新人公演の時間が近づくごとに段々と作品に侵されていった。
自分の楽屋前で早霧に教わった通りの手順に化粧を施していく。
ふう、と吐いた息は熱い。
「なほ、ちょっとは何かお腹に入れとかないと、本番もたないよ。良かったらこれ食べて」
そう言って野々花が一口サイズのおにぎりを差し出してきたが、「ありがとうございます」とそれを受け取りつつも千舟の胃は全くと言っていいほど食物を受け入れようとはしなかった。緊張でお腹がきりきりと痛い。手に握ったまま、口に運ぼうとしない千舟を心配げに見下ろす野々花。そんな調子の千舟を見兼ねて遠くに座っていた永久輝が「食べるの大好きななほらしくない。これだったら入る?」と歩み寄ってきてくれた。
手に持っているのは神戸で有名な和菓子屋さんの大福だった。美食家で有名な上級生がわざわざ差し入れしてくれたものだ。それでもやっぱり、食欲のわかない千舟はいえ、と言葉を濁して俯いたが、容赦なく「いいから食べな」と永久輝は大福を千舟の口元へと持っていく。
そこまでされたら断るわけにもいかず、千舟は「ありがとうございます」と差し出された大福にかぶりついた。
餡子の優しい甘さが口の中へと広がって行く。
「どう、美味しい?」
「…おいしいでふ」
「よかった。ほら、ついでにこっちも食べな。これ、ちぎさんからの差し入れ。ローストビーフのサンドイッチ、めっちゃおいしいよ。食べないとすぐなくなっちゃうからね」
「ありがとうございます…」
大福を食べながら、差し出されたサンドイッチを受け取れば、それを見ていた野々花が「えー、なんでひとこさんが渡すと食べるのっ」と不満の声を上げた。それに永久輝は「ははは、付き合いの年季ってものが違うのだ」と笑い声をあげた。
「すみません…野々花さんのおにぎり、終わったらいただきますね」
「うん。そうしてちょうだい」
そうして肩を竦め、野々花は自分の楽屋前へと戻って行った。それを見送った後、「私もさあ、焼きおにぎり作ってきてるから。あとで1個分けてあげる」と言い、その言葉に「ありがとうございます。私、ひとさんの焼きおにぎり大好きなんですよ」と答えれば、永久輝は満足げに頷いた。
「そういえば…千舟、終演後の挨拶はもう考えた?」
「ああ…いえ。そんな余裕なくて…正直だいたいしか…」
幕が下りた後、主演はお客様に挨拶をしなければならない。
宝塚では初日と千秋にも組長とトップスターが挨拶をする習わしがある。千舟はとてもじゃないがそれどころはではなく、その場の勢いに任せていきあたりばったりでいくしかなさそうだった。
「えー、大丈夫なの?それ…」
「大丈夫じゃない…ですけど。でも、もうしょうがないじゃないですかぁ…やるしかないですって」
「あれ、意外と思い浮かばないもんよ。ちゃんと考えとかないと」
「今更ですって。…頑張って乗り切りますんで」
「ま、いざとなったら私と漫才でもしよっか」
「いやですよっ!私とひとさんの漫才とか誰に受けるんですか…」
永久輝との会話をしていると多少は気が紛れたが、佐平次の衣装を身に纏うと心臓がばくばくして息が苦しくなり、何度も深呼吸をしなければならなかった。
こうなってはもう、自分じゃどうしようもない。
———ああ、神様…どうか失敗しませんように。台詞を噛んだり、忘れたりしませんように。
稲荷下の神棚で手を合わせ、必死で神様にお祈りした。こんなに祈るのは初舞台の初日以来のことだった。
袖に立つと客席の騒めきが聞こえてきた。
早霧を先頭に関係者口から上級生たちが客席へ入って行くとその騒めきは一層大きくなった。両親に渡したチケットの席は覚えている。中央の前から三列目の席にきっと父母は座っているはずだ。
進行さんが「五分前です」と声を響かせる。今すぐ逃げ出したい気持ちに襲われながらも、足は一歩も後退することはなかった。
「千舟」
ハッと顔を上げると、そこには衣装に身を包み、青天の鬘を被った永久輝が立っていた。
「ひとさん…」と声にならない声でその名を呼べば、彼女は何も言わずに一つ頷き、ゆっくりと千舟のことを抱きしめた。彼女のぬくもりがゆったりと千舟へと伝わってくる。
「…大丈夫。なほには私がついてる。みんなもついてる。一人じゃないよ」
さっきまでのおどけた様子とは違う、真剣な眼差しで千舟のことを見つめていた。
千舟は縋るように見つめ返して頷く。痛いほどの心臓の高鳴りは少し、収まったような気がした。
分厚い緞帳で閉ざされた舞台の板の上で声を潜めてみんなで手を合わせて「えい、えい、おー」と掛け声をあげる。みんなの視線は主演である千舟に向かっていた。眞ノ宮に背中を叩かれ、「頑張って、なほ」と激励の言葉をかけられながら千舟は舞台袖へと足を運び、息を吐いて、静かに緞帳が上がるその時を待った。
ザザーン、ザザーン。
―——波の音が聞こえる。
舞台は幕末。
日本橋から大阪までをつなぐ東海道五十三次の第一宿、品川宿。磯の香りが漂う海沿いの宿場町だ。
物語は一文無しの一人の男がのらりくらりと品川宿の妓楼「相模屋」へ訪れたところから始まる。
「皆さま、本日はようこそ宝塚大劇場へお越しくださいました。雪組の千舟夕輝です」
波の音に合わせて、自分の声の開演アナウンスが劇場内に響き渡る。自分の名を名乗った瞬間、あたたかな拍手が起こった。それだけで千舟の胸は熱くなり、反射的に泣きそうになってしまったが、だからと言って胸の内に渦巻く恐怖心が消えるわけではない。
「ただいまより小柳奈穂子脚本・演出。新人公演担当・栗田優香により、かんぽ生命 ドリームシアターミュージカル・コメディ『幕末太陽傳』を指揮・寺嶋昌夫により開演いたします―——」
アナウンスが終わると同時にパン、パンという威勢のいい銃声が響き渡った。
緞帳の前で異人と向かい合い、刀を抜こうと構える攘夷志士たちの姿が見える。
息を吸って、ゆっくり吐く。
「…いくよ」
一言そう呟き、とん、と背中を押してくれた同じ場面に出演する上級生と共に千舟———いや、佐平次は緞帳が閉じた舞台へと躍り出る。異人を追いかけて去って行った攘夷志士たちの落とした懐中時計を拾い上げ、それをまじまじと見つめていると連れの一人が困ったような顔をして佐平次を見つめた。
「兄貴…、どうしたんでィ」
「いーや、なんでもねェ。…ああ、物騒な世の中だなァ!」
そう言った瞬間にオーケストラピットから軽妙な音楽が鳴り響きだす。
緞帳の幕が開き、後ろに隠れていた立派な舞台セットが顔を出す。
東海道線の下り列車が品川駅を出るとすぐ、八ツ山の陸橋の下を通過する。
この陸橋の上を通っているのが京浜工業地帯を縦走する自動車道路———京浜国道である。
その京浜国道にやや並行して横たわるこじんまりした街。これが東海道五十三次、第一番目の親宿、品川宿の現在の姿である。
八ツ山橋を渡りきり、京浜急行の踏切を渡った北品川駅の近く、旧東海道沿いにかつて立っていたのもこの海鼠塀から『土蔵相模』と言われた品川宿でも名高い旅籠、『相模屋』である。
さて。
時は幕末、文久2年———。
世の中いよいよかまびすしい時代!
この作品は『北の吉原』と並び称された『南の品川宿』の、その一青楼を舞台に幕末の志士や妍を競う女郎たち、そして激動の中強かに日々を生きる商人の姿を描いた物語である。