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「…うん、そう。ここのシーンでは本番はお面をつけるから、顔が見えない分、体全体でもっと表現して」
「はい」
その夜、歌劇団のとある教室では早霧せいなから直々に千舟夕輝への振り写しが行われていた。
芝居は演出家から、歌は作曲家から稽古をつけてもらうが、ダンスは振付家からではなく本役さんから直接教えてもらうのが新人公演の通例である。本公演の稽古の時に大体の振りは一緒に覚えるのだが、こまかいニュアンスなどを本役さんから指導してもらうのである。
とはいえ、今回は和物。激しいダンスシーンはそれほど多くはないし、振りが複雑なものもほとんどない。
主なダンスシーンは主人公の佐平次とヒロインのおそめの出会いの場面と荒神祭りの場面ぐらいで、今日はその場面に出演する本役たちが一堂に会して指導を行っていた。振り写しを終えた後、新人たちは前後の芝居と共にダンスを披露してみせた。
「すわっち、まめー。ちょっと来てくれる?」
ダンスシーンの冒頭でデュエットソングを歌う徳三郎とおひさの役を演じる諏訪さきと桜庭舞が本役である彩風と真彩希帆に呼び出されている。はい、という元気な返事をして、一目散に駆け寄って行く二人を横目に千舟もまた、本役である早霧から指導を受けていた。
「このダンスシーンは二人が心を通わせていく場面に繋がる大事なシーンだからね。今はまだ振りを覚えるのに必死だろうけど、もう少し感情を込めて演じることを意識して」
「はい」
「あとは…うーん、全体的に…なほはひまりに引っ張られすぎかな」
「引っ張られすぎ…ですか」
「そう。逆に、ひまりはなほを引っ張りすぎ。もっと信頼してあげな」
「はあ…」
言葉の意味が分からず首を傾げる千舟。隣に立つおそめ役の上級生、野々花ひまりに視線を向けると、彼女もまた理解しかねているようで曖昧な返事をして困惑したように眉をひそめていた。そんな二人の様子を見て、早霧は隣に座る相手役の咲妃みゆへ視線を送ると「なんというか」と口を開いた。
「ひまりの色が強すぎる気がするんだよね。…ひまりは上級生だから…なほのこと、リードしてあげなきゃって思ってるのかもしれないけど。ここはおそめと佐平次が少しずつ心惹かれ合ってくっていう次の場面につなげる大事なシーンだし、佐平次とおそめのコンビはやっぱり佐平次のほうが物事や世間を理解している…いわば大人な立ち位置ではあるわけだから。そこはしっかり意識しなきゃ」
その言葉を引き継ぐように横に座っていた咲妃が「ひまりちゃん。やっぱり娘役は男役さんを立てないと。男役さんの隣で自分の存在感を消さなきゃいけないときもあるの。でも消しすぎてもいけないし、美しくないといけないし」と言葉を口にすると、それに対して早霧は笑って「そして男役は娘役に立てられてなんぼ」と茶化し、場の空気を和ませた。
「男役さんを際立たせてこその娘役だって、私は月組の頃、愛希さんに教わったの。ひまりちゃんもそのことを意識してやってみてほしいな」
にこやか微笑む咲妃に野々花が大きく「はい」と頷いた。
そして彼女の言葉を引き継ぐように、早霧はそんな二人の様子をまじまじと眺めていた千舟へと言った。
「なほも。…まあ、早い抜擢だし、代役公演もあったし。いっぱいいっぱいなのはわかるけどね。なほは男役なの。主演なの。この舞台の上じゃ、あなたがトップなんだから。誰よりも自信をもって、堂々とやること。実力はあるんだから、後は自信が大切。…いいね」
「…はい!」
このときから明らかに野々花は千舟への態度を変えた。上級生としてではなく、相手役として千舟がやりやすいようにと工夫をしてくれるようになった。憧れのトップコンビ直々に「支えてあげな」と釘を刺されたようなものだからその変化も当然か。上級生が相手役ということもあって、遠慮せざるを得なかった千舟にとっても彼女の変化はありがたいものであった。
教室に軽快な篠笛と和太鼓の音色が響き渡る。
荒神祭りの場面は賑やかさと熱気が入り混じり、舞台全体がエネルギーに満ち溢れるシーンだ。
佐平次とおそめを中心として、囃し立てるように掛け声をかけてくる聴衆たち。登場人物たちはそれぞれの役に徹し、情熱的に踊りながら荒神祭りの賑やかさを表現していった。板の上から溢れるようなその活気には観客を包み込むような迫力があった。
佐平次という男の江戸っ子らしい軽妙洒脱さとその態度の奥に隠れた誠実な男らしい一面を与えられた芝居の中で表現することがどれほど難しいのか。新人公演の稽古に没頭し、役への理解を深めるごとにその難解さを理解させられ、千舟は頭を抱えていた。
新人公演が迫っている中、休演日とはいえゆったりと自宅で休んでいる暇はない。
千舟は朝早くから劇団の稽古場に出かけて何人かの生と共に自主稽古に励んでいた。拭えぬ焦燥に追われるように練習に没頭し、気づいた時には時刻は夜八時を過ぎていた。
「……はあ」
疲れた身体を引きずるようにして、千舟は教室のベンチへ腰を下ろした。新人公演までの残された時間を考えると、心の中に焦りと不安が湧き上がるのを感じていた。しかし、その気持ちを振り払うように深呼吸を一つ。
「大丈夫、きっと大丈夫……」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉はどこか力なく響いた。
この舞台を成功させ、トップスターへの足掛かりにしてやるという野心と———そして、それと同じくらい大きな重圧。
演技、ダンス、そして歌のすべてを上手くこなすためにどれだけ努力しても、どこかで自分に対して厳しい目を向けてしまっている。
「どうしてこんなに不安なんだろう…」
頭の中で繰り返される疑問に答えが出ることはなかった。その時、ふと足音が聞こえた。振り返るとそこに立っていたのはすでに帰りの荷物をまとめ、上着を羽織っていた永久輝だった。
「ひとさん。お疲れ様です」
「お疲れ様、千舟」
「今日はもうお帰りですか?」
「うん。今日確認したいところはできたし。明日も公演あるから。なほも今日はここまでにして、ごはんでも一緒に食べに行かない?あがちゃんとか、すわっちとかも誘ってるんだけど…どう?」
「…いえ、ありがたいんですけど。もう少しだけやりたいんで…」
そう言うと、永久輝は眉をくい、と寄せて「そう…わかった。…だけどなほ、あんた、頑張りすぎないようにしなよ。努力家なのはいいことだけど、やりすぎは体に毒だから」と心配げに千舟を見つめると、キャップを被って言った。
「いつもの中華屋さんに行ってるから。時間があったらおいで」
「はい、ありがとうございます。…付き合い悪くてすみません」
「主演だから仕方ないよ。私もその気持ちはわかるし。…じゃあね」
「お疲れ様です」
伽藍洞となった稽古場で千舟はコンビニのおにぎりをお茶で流し込み、稽古を再開した。
佐平次はコミカルさ、動きの軽やかさ、テンポのよさが肝心になる役どころ。金を持たずに登楼し、男衆を煙に巻き、ふてぶてしく居座る。居残りを決めてからはどこからともなくあらわれては廓内でのごたごたをサッと解決してしまう。嫌味のない明るさと、死の影、そしてそれを打ち払おうとするかのようなしぶとさが魅力の男。その役は退団公演にわざわざ持ってくることも納得できるほどに早霧せいなという役者にぴたりと合っている。
この役どころは、作品は、今までやってきたような恋愛大作や悲劇とはまるで違う。
———観客を引き込むという意味で、コメディ作品というのは真面目な恋愛作品よりも難しい。
それを今、千舟は身をもって実感していた。
何度やっても早霧のようにはできない。
同じセリフ、同じ動き、同じ表情。
全てを真似しても鏡に映る自分は早霧の空真似をしているだけにしか見えず、そこに洒脱な佐平次という男の陰は見いだせなかった。
休演日である水曜日は歌劇団そのものも休みになり、自主稽古にやって来る生徒のほかは建物自体にひと気が少なく、夜ともなれば他の教室から聞こえてくるピアノの音や発生の声もほとんど聞こえなくなる。
誰もいないという油断もあって、千舟は何度やってもうまくできない自分自身に癇癪を起こし、とうとう稽古場の床にぐったりと座り込んで頭を抱えてしまった。
「…あれっ、まだ誰か練習してる」
その声に千舟はハッとして頭を上げる。
遮音性の重々しい扉の方から聞こえてきた声に導かれるようにようして、そちらへ目線をやれば、扉の前に誰かが立っていた。
すらりとした立ち姿。華やかな美貌。
「…凪さま」
そこに立っていたのは上級生の彩凪であった。
肩にかけているバッグや身支度を済ませたその姿から、彼女が今から帰ろうとしているのだということがわかった。
「あら、なほやん。あんた、こんな時間まで練習しとるん?…もう他に誰もおらんのに…熱心な子やなあ」
「いえ…まだ、ちょっと…納得できないところがあって。…凪さまこそ…こんな遅くに…なにかのお仕事だったんですか」
「うん。ちょっとなぁ、スカステの撮影があって…」
そう言いながらニコニコと笑顔で彩凪は教室の中へと踏み入ってきた。
稽古場の中央で膝を抱えたままでいる千舟はこの態勢では失礼かと立ち上がろうとしたが、彩凪はそれを手で制すと千舟の元まで歩み寄り、その横にしゃがみ込んで、丸まった千舟の背中に優しく手を添えてくれた。
「…それで。あんたは、自暴自棄中?」
「……自暴自棄というか、……ええ、まあ、はい。……なんだか、いろいろうまくいかなくて。自信も…なくて…」
「……そっか。…でもなほ。そんなに自分に厳しくしなくてもええんちゃうの」
「でももうすぐ新人公演ですし。私、主演なのに…全然早霧さんみたいにはできなくて…」
「そんなの!…ちぎさんのコピーなんてしなくていいんだよ」
彩凪はそう言って、千舟の背を優しく撫でる。じんわりとあたたかな手だった。
「なほはなほの佐平次を演じればいい。研三の千舟夕輝にしかできない佐平次を。ちぎさんと同じようになんかできるわけないんだから」
そうして彩凪はぐるりと無人の稽古場を見回すと「どうせ、あんたのことだからご飯一緒に食べようとか誘われても断ったんやろ」と呟くように言った。
図星だったから千舟は思わず肩を揺らし、「はい」とか細い返事を返すと、彩凪は「やっぱり」と笑い声をあげた。
「せっかくだし行けばよかったのに。みんなとご飯を食べるのも、主演の大事な務めやで」
「でも、…まだ全然…練習も足りないですし…」
なんの構えもなく千舟がそう返すと「そういうところが真面目すぎてダメなんやって。別に明日やればええやんか」と彩凪は畳みかけてきた。
「本通しまでにちゃんとできるようになっておきたいんです」
「…あんたは、もう…もっと自信をもって、肩の力を抜きなさい。たまには発散しないと、息が詰まるやろ」
「…そんなこと言ったって。自信なんて、持てないです。私に本当に主演なんか務まるのかって…思ってしまって。チャンスだっていうことはわかってるんです。わかっているけど……けど……」
「…まあ、確かに…自信を持つって簡単に言うけど実は結構難しいもんやけどな。でもなほは本当に実力があるんやから、無理に誰かの真似をしなくても、なほの良さを活かしてやれば絶対にうまくいくって。誰かを超えようとするんじゃなくて、なほ自身が作り出す佐平次を見せることが大事なんや」
彩凪の言葉は誠実だった。
…この人は昔から、ずっとこうだなと思う。
入団して一番最初の新人公演の時。当時からスターであった彩凪の役をいきなり演じることとなり、右も左もわからずに、上級生にも演出家にも怒られ続ける日々の中、泣きべそを隠しかなかった未熟な千舟を引っ張ってくれた本役さん。新人公演の舞台を終え、その出来栄えの悪さに悔し涙を流す千舟の肩を抱いて「よく頑張った」「まだまだこれからだから、大丈夫」と声をかけ続けてくれた彼女にはあの頃からお世話になってばかりだ。
「……ありがとうございます、凪さま」
「どういたしまして」
彩凪はにっこりと微笑んで、立ち上がった。
「じゃ、あたしはもう帰るわな。なほも無理せんように。休む時はちゃんと休んで。…また明日の舞台で、なっ」
そう言ってさっそうと去って行った彩凪を見送って、千舟は小さくため息を吐く。
…こんな風に自分に声をかけてくれる人がいるなんて恵まれている。…ああ、彩凪の言う通り、やっぱりさっき、永久輝たちと行けばよかった。もっとみんなと話すべきだった、主演の重みに押し潰されそうになって余裕を失っていた自分はなんて格好悪いんだろうとしみじみ思った。
———自分の佐平次を演じること。それを忘れずに、邁進すること。
千舟はよし、と声を上げて、再び練習を再開させたのだった。