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「青天霹靂」とはまさにこのことか。
千舟は今にも倒れてしまいそうな青白い顔でその場に立ち尽くしていた。
教室に張り出された「幕末太陽傳」の香盤表。
主役である居残り佐平次の名前の横には千舟夕輝という自分の名前が書いてある。
それを見た瞬間、千舟は教室の異様な雰囲気や自分へ向けられる視線の意味を理解して、全身からぶわりと冷汗を流した。
…まさか、嘘だろう。
そんな思いと共に何度も香盤表を見返すが、自分の芸名は変わらずそこにあった。
「…うそでしょ」
思わず呟いた言葉は空気に溶けて消えていく。
見上げた先の香盤表。それが示すのは今回の新人公演で千舟が主演を務める、という事実であった。
宝塚歌劇団100期生の男役である千舟夕輝が劇団に入団してから今年でちょうど3年目。娘役であればこの学年で抜擢されるのは珍しくもないことなのだが(現に千舟の同期である星風まどかはすでに2回の新人公演ヒロインを務めている)、男役として主演を任されるのは大抜擢と言ってもよかった。
新人公演主演はトップへの第一歩で、若手の多くはまず初めに新人公演での主演を目標に日々努力を続けている。
もちろんトップスターを夢見る千舟とて「いつかきっと」と思っていたが、しかしいざその役割を与えられるとなるとやってきたのは喜びではなく不安と恐怖だった。確かに前回の公演では二番手の役を演じはしたが、それにしたってこの抜擢はあまりにも早すぎる。
「ちょっとなほ!あんた、やったじゃん!」
「大抜擢だね!おめでとう!」
「え…あ、…う、うん。ありがとう…」
呆然自失とその場に立ち尽くす千舟に心中を特に察することもなく、明るい声で口々に祝福の声をかけてくる同期たちの声に一拍遅れながらも千舟はなんとか言葉を返した。明らかに挙動不審な態度を隠しきれておらず、おかしな様子であったのだが千舟の思わぬ抜擢に気分が高揚している彼女たちが気づくはずもない。
彼女たちは千舟の様子を変だと思うこともなく、当の本人を置いてけぼりにして内輪でこそこそと話を続けた。
「でもさ、今回の新公、主演は絶対ひとさんだと思ったのに…」
「ひとさんは大さんのお役でしょ、びっくりだよねぇ」
「早霧さんの退団公演なのにね、今回」
突如として出てきた人名に千舟はぴくりと肩をはねさせた。
…ひとさん。
その名前を聞き、思わず視線を彷徨わせる。そして同期たちの垣根の向こうに建つ、背の高い端正の顔立ちの男役を見つけて思わず息を呑んだ。
眉間に寄った深い皺、蒼白になった顔。俯いて、手を握り締める姿は痩身も相まって痛々しくも思える。
「ひとさん」こと永久輝せあは千舟の3期上の男役だ。
まだ新人公演学年ながらファンには雪組の御曹司と目される彼女はこれまでに三回もの新人公演主演を経験しており、劇団からも大いに期待されている若手一番のスターだった。…今回の公演だって、きっと彼女が主演なんだろうと誰もが思っていたのだ。それが彼女に今回与えられた役は主演ではない役だった。
永久輝は同期に囲まれて祝福される千舟の方をちらりと見た後、顔を青くさせたままつかつかとその場から去っていく。
その後ろ姿を千舟は何とも言えぬ感情でそっと見つめた。
3期上の上級生。何かと抜擢続きで役作りに苦労していた千舟を気にかけ、時には相談に乗ってくれた良き先輩である。彼女も千舟も若手のころから抜擢されている者同士、通ずるものがあったのだろう。出会いから3年経った今では組内の者たちも知るところの仲良しになっていた。
…そんな彼女に声をかけたい気持ちはやまやまだが、何を言っていいのかわからない。なんせ彼女の主演への道を塞いだのはほかでもない、自分自身なのだから。このタイミングで声をかけるだなんて嫌味だとしか思われないだろう。
思わず重いため息を零した千舟に何を勘違いしたのか、同期の娘役はばん、とその背を叩き、にかりと笑った。
「緊張するのはわかるけど、ちゃんと挨拶してこなきゃ!向こうでちぎさんも待ってると思うよ」
「…あ!そ、そうだね!…うんっ、行ってくる!」
その言葉を聞き、千舟ははっとして頷いた。永久輝のことばかりを考えて、本役さんへと挨拶しに行く慣習すら忘れていた。周囲を見渡せばもうほとんどの生徒たちは本役さんへの挨拶を済ませているようだった。千舟は慌てながら稽古場の奥に座るトップスターの元へと駆けた。
「失礼します、このたび幕末太陽傳新人公演で早霧さんのお役を演じさせていただくことになりました。よろしくお願いします!」
緊張から声を震わせながら挨拶をする。
そんな千舟の様子を見て安心させるように柔らかな笑みを浮かべてくれた早霧は何度見ても慣れぬ美貌の持ち主で、千舟は思わずその顔に見惚れ、ドギマギと心臓を高鳴らせた。
雪組のトップスター、早霧せいな。
この女の園においても一際目立つ美しい容姿と卓越した演技力で宝塚の一時代を築いてきた偉大な男役である。彼女が主演を務めた「ルパン三世」や「るろうに剣心」といったいわゆる2.5次元作品の上演は新規の宝塚ファンを大いに増やしたことでも有名だ。
未だに舞台上以外で言葉を交わすことなど滅多にない千舟にとって彼女はまさに雲の上の人で、こうして話しかけることさえおこがましく思えるほどの存在だった。
「うん、よろしくね。今回の公演は和物だし、難しいお役だから聞きたいことあったら遠慮なく聞いて」
「はい」
「千舟くん、初主演だよね」
「はい」
「大変だろうけど、今回の新人公演、きっとこれからのあなたの力にもなるから。頑張って」
「…は、はい!よろしくお願いします!」
殿上人たるトップスターからかけられる優しい言葉に感激して、わずかに頬を紅潮させながらもう一度深く頭を下げたところで本公演の主要キャスト陣への集合の声がかかり、千舟は失礼しますと急いでその場を立ち去った。