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雪組のトップスターである早霧せいなとその相手役である咲妃みゆの退団公演『幕末太陽傳』は宝塚でも珍しい古き良き昭和時代の邦画が原作である作品だ。
時代は幕末。
遊女屋で気前よく遊びまわったものの実は無一文で支払いができない男、佐平次とその遊女屋で働く女郎おそめを中心として物語が展開して行くコメディ作品で、日本映画界に燦然と輝く傑作でもある。
トップスターの退団公演はだいたい、退団を彷彿とさせるシリアスな展開のストーリーが多いのだが「最後だからこそお客様が大笑いできるような作品を」という早霧たっての願いによってこの作品を上演することとなったのだ。
星影の人に星逢一夜、るろうに剣心と和物のお芝居は何作かこなしてきた経験はある。ただ、こういったコメディ作品に出演するのは初めてのことなのでどうこなしていけばいいのかがわからない。
新人公演初主演というプレッシャーと覚えなければならない膨大な量の台詞や歌に眩暈がしそうになりながらも、本公演の稽古日は一日、また一日と過ぎていく。
新人公演の稽古は基本的に本公演の幕が開いてから始まるので、それまでは本役さんの演技を盗み見て、家で自主稽古をするしかない。そのため本公演の稽古中は本役の早霧を熱心に見つめるあまり自分の台詞を忘れてしまい、演出家の先生から「なほ、自分の役に集中しなさい!」とお叱りの言葉を受けることもままあった。
「ちょっとなほ、大丈夫?目の下に隈できてるよ」
一日の稽古が終わり、ベンチに腰掛け台本を読み込んでいた千舟へと声をかけてきたのは同期の眞ノ宮るいこと「はいちゃん」だ。予科生の頃に一度だけ同室となったことがあり、同じ組の同期たちの中では一番仲のいい相手だった。
「はいちゃん…、…大丈夫じゃないよ…」
お芝居もショーも新人公演も。
…今の自分にはあまりにも荷が重すぎる。そんな思いからがっくりと肩を落とす。そんな千舟の様子に眞ノ宮は笑いながら「そりゃそうだよねぇ」と呟き、水の入ったペットボトルを差し出してきた。
「なほ、今回はショーでも結構出ずっぱりだもんね」
「…うん。ダンスはまだいいけどさ…なんで私にソロの場面があるんだろう…、私、歌下手なのに」
「いや…。…まあ、お歌はさ…しょうがないよ。だいたい雪組に在籍してたら絶対のぞさまと比べられて下手だって言われちゃうもん。あの早霧さんだっていろいろと言われてるんだから」
「…はいちゃん、フォローのつもり?それ」
「一応…」
「ぜんっぜんフォローになってないし…」
苦笑いを浮かべる眞ノ宮は決して「大丈夫」だとか「そんな下手じゃないよ」なんていう気休めの言葉はかけてくれなかった。それはつまり彼女も千舟がそこまで歌が上手くないと思っているということだろう。
…まあ、歌が下手なことは音楽学校の頃の成績ですでに自覚済みなため今更指摘されたところで悲しくは思わないものの、こういう時ばかりは気休めでもいいから優しい言葉をかけてほしかった。
思い返してみれば、音楽学校の頃の試験前もこうだったような気がする。
不安がって「はいちゃんどうしよう、私留年かもしれない。歌の授業の時『なんでお前はそんなにと音外すんだ』って怒られたし」と言った千舟に眞ノ宮は「大丈夫だよ」と言うことはなく、ただ曖昧な笑みを浮かべて「…留年しても友達だからね」と呟いたのだった。その後、彼女の言葉に恐怖を抱いた千舟が必死こいて歌のレッスンに通い詰めたのは今では随分と懐かしい思い出だ。
当時のことを思わず軽い笑みがこぼれる。そんな千舟に眞ノ宮は首を傾けた。
「どうしたの、急に笑って」
「ううん。はいちゃんと話してるとさ…なんか、…肩の力が抜けるっていうかさ…」
「え、なんで!」
肩の力が抜ける、という言葉を悪い方に捉えたのか眞ノ宮が神妙な顔をして「私…そんな変なこと言ってる?」と尋ねてきたからさらに笑いがこみ上げてきた。そうしてしばらくの間、眞ノ宮と騒いで楽しくおしゃべりできたお陰で多少のリフレッシュはできた気がする。焦燥感も先ほどよりは多少薄れた。
さて、それじゃあお稽古でもしようかと互いに台本やペットボトルをベンチに置いて立ち上がり、各々自主練に入ることとなった。
お互いに出演場面同じでも与えられている振り付けは微妙に違うため、覚えたばかりの振りが混じっておかしなことにならないように少しだけ距離をとり、壁に取り付けられた全身鏡を見つめてひとつひとつ、今日習った振りを丁寧になぞっていく。
歌にはあまり自信のない千舟だが、一方でダンスの実力は他より優れているという自負があった。それもそのはず、千舟にはバレエ教室を経営する母の影響で習い始め、一時はプロのバレリーナを目指し、海外に短期留学をしていた過去がある。結局身長が高くなりすぎたせいでバレリーナの夢は断念せざるをえなくなったものの、その経験は今に生きている。
こんなことを言ったら上級生に「生意気だ」と怒られるかもしれないが、ダンスの振りを覚えるのは誰よりも早い自信があったし、劇団内で自分よりダンスが上手い人も片手で数える程度しかいないと思っている。
だからショーの方は歌以外に限って言えば正直そこまで心配していない。
心配なのは何より…。
ダンスの振りを確認しながらも頭に浮かぶのは新人公演のことだった。
コメディ独特の間の取り方と和物ならではの身のこなし方。早霧の演技は素晴らしいもので、真似て家で何度もやってみたが同じようにできた試しは一度もなかった。
公演の幕が上がるのはあと少し。そうすれば本格的に新人公演のお稽古が始まる。それまでになんとか早霧の動きぐらいはうまく真似られるようにならなければ。
新人公演のことを考えると体がまるで鉛のように重くなる。
今までにないプレッシャーが双肩にのしかかり、気分は下がっていくばかりだ。ふとした瞬間、自分に与えられた役割の重さに逃げ出したくなることだって最近ではよくあること。
だがしかし、同時にこうとも思う。今回の舞台は願ってもいない好機だと。
トップの退団公演で主演を務めさせてもらえるということはつまり自分がそれ相応に劇団側から期待をかけられているということだろう。それに男役として円熟を極めた早霧に教えを乞える最後の機会をこうしてもらえたことはこの先の演劇人生において何にも勝る財産になるだろう。
このチャンスをものにせずしてどうしてトップになりたいなんて願望を語れようか。
ワン、ツー、スリーと脳内のカウントに合わせて最後のポーズをとる。
深い息を吐いてからふと鏡越しに見た自分の瞳は燃え滾る熱さを纏っているように思えた。