はじめに

 




はじめに———2023年6月10日

 
ボクシングの勝ち方は一つしかない。
KOになるたった一つのパンチだけがボクシングというゲームを支えている。
身体中の力を腕に凝縮させ、一本の矢のように鋭い拳を放つ。その瞬間にだけボクシングはあって、それ以前の時間はすべてその時の快感を支えるためのじゃれ合いでしかない。
積み上げてきた努力も、思いも、全てはただその一瞬のためだけにあるということ。
1ラウンド3分。あまりにも僅かな時の中で行われる一撃の攻防。
どんな隙も逃すまい———虎視眈々と獲物を狙う鷹のような目つきで睨みつける選手たちの気迫は凄まじく、セコンドに立っていた美千留は息を潜めてタオルを握りしめていることしかできなかった。

「どうだい、近くで見るとまた恐ろしいモンだろ。ボクシングってのは」

試合が終わり、観客が去り、撤収作業を行い始めた体育館の中で茫然とする美千留に石畝 泰祐いしぐろ たいゆうは笑いながら近づいてきた。体からはメンソールのような辛い匂いが漂っている。石畝は指の先にニコチンの跡が染みつくほどの愛煙者であった。

「師匠…村田選手は…?」
「もう病院に行っちまったヨ。ほら、最後のアッパーで歯ァ2、3本いっちまったからなぁ…。あの厳ついツラで前歯がないっつうのも間抜けでしょうがないだろ。プロモーターに『そのツラを早くどうにかしろよ』って金握らされて送られてったワ」

けたけたと笑う石畝からは歯を最後のアッパーで意識を刈り取られ、歯を折り、倒れ伏した後輩選手への労りだとか優しさはまるでないようだった。
この人は、恐ろしい人だ。でも同時に勝負の世界とは———こういう男だけが勝ち上がっていける修羅の世界なのだろうなとも思った。

「やめるならよう、今だぜ。お嬢ちゃん」

目にかかる長い前髪をかきあげて、ぎょろりとした視線を美千留へと投げかける。
熱気と、生々しい血と、一瞬の攻防。
戦いの世界はまだ10歳にもなっていない少女にはあまりにも過酷で厳しすぎるものでしかない。それはまさしく彼女の小さな体躯には毒のようなもので———でも、それでも美千留はその言葉に対して、ただ静かに首を縦に振るだけだった。

「やめんよ。…だってうち、強くならんといけんから…」
ボクシングの勝ち方は一つしかない。
K Oノックアウトだ。
KOになるたった一つのパンチだけがボクシングというゲームを支えている。
身体中の力を腕に凝縮させ、一本の矢のように鋭い拳を相手に向かって放つ。その瞬間にだけボクシングはあって、それ以前の時間はすべてその時の快感を支えるためのじゃれ合いでしかない。
派手さはない。華やかさもない。
リングの上にあるのは頑健な肉体を晒す二人の男と、鋭い拳一つだけだ。
———それじゃあ、一体なにに観客たちは熱狂するのか。なんのためにリングの元へ人々は集うのか。

「生き様さ。アイツらは、俺たちの生き様を見に来てんのさ」

試合を終え、リングすらも片付け終え、熱狂の残火すら残すことなく伽藍洞と成り果てた体育館の中、パイプ椅子にどっしりと腰掛けた師匠は言った。体からはメンソールのような辛い匂いが漂っている。師匠は指の先にニコチンの跡が染みつくほどの愛煙者であった。
生き様…、生き様…。
反復するように口の中で小さく呟いて、それから少しその言葉の意味を考えてみたけれど———結局、その意味はよくわからなかった。当時の私はまだ12歳のガキだった。それを理解できるほど大人ではなかった。

「ボクシングってのは不思議なもんでよう、積み上げてきた努力も、思いも、苦しみさえも、リングに上がれば見えてくるんだ。リングの上は俺たちの人生そのものだ。たった3分の戦いの中で、そいつの全てが見えるってんだ。それは———さぞや、見ていて面白いモンだろうよ」

......約したレストランに向かった。マドレーヌ駅から、歩いて五分ほどの場所だった。 少し遅れて店に着くと、洋子が窓辺のテーブルで、店員と親しげに談笑している姿が見えた。間接照明のミニマルな内装で、ガラス製の棚に無数のワインボトルが横倒しに陳列されている。それが、オイスター・ホワイトとダーク・ブラウンを基調にした空間の、瀟洒なアクセントになっている。蒔野を見つけると、洋子は笑顔で手を振った。「お久しぶりです。」「お久しぶりです。お変わりなく。──着いたばかりで、疲れてるでしょう? 時差、大丈夫ですか?」「う......
平野 啓一郎「マチネの終わりに (文春文庫)」に収録 amazon関連カテカフェ・喫茶・飲食店

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