第一話「桜と銀杏と、わたし」
季節は四月。
春うららかな陽気に誘われるように、リリアン女学園高等部の古風な趣のある正門は、真新しい制服に身を包んだ乙女たちで、朝の賑わいを見せていた。その袖をかすめるように舞うのは、満開の桜の花びら。
その、どこか現実離れした光景のなかに、私もいた。
「…はあ、何度見てもおっきいなぁ…この学校…」
ぽつりと、誰に聞かせるともない独り言が唇から滑り落ちた。無理もないことなのだ。これが二度目の登校とはいえ、先日行われた入学試験の日は、緊張で胸がいっぱいであったし、周囲の景色をじっくりと眺める余裕など、どこにも持ち合わせていなかったのだから。こうして改めて目の当たりにすると、まるで自分が物語か、あるいは美しい絵本の中にでも迷い込んでしまったかのような錯覚に陥る。
目の前に広がるのは、歴史を感じさせる校門から、これから三年間通うことになるであろう校舎へと、まっすぐに伸びる銀杏の並木道。秋には黄金色の葉で彩られるのであろうその道は、今はまだ若々しい緑の葉を陽光にきらめかせている。
あまりにも整いすぎた、完璧なまでに美しい景色。その中にあって、自分だけが場違いな異物であるかのように感じられてしまうのは、仕方のないことなのかもしれない。
私は、そっと歩道の端へと身を寄せた。
並木道の真ん中を、他の生徒たちのように胸を張って堂々と歩くには、どうにもこうにも気後れしてしまうのだ。この学校の生徒として、ここにいるべきではない、という思いが心のどこかにあるからだろうか。
「ねえ、見て。あの方…誰かしら?」
「外部生じゃない?」
「すごく綺麗……モデルさんみたい」
ひそやかな、それでいて私の耳にはっきりと届いてしまう囁き声。
やはり、目立っている。それは十分にわかっている。目立ちたくてこのような格好をしているわけでも、このような顔立ちに生まれたわけでもないというのに、どうしてこうも周囲から浮き上がってしまうのだろう。
私は、自分の姿かたちをよく知っているつもりだ。
陽の光を浴びると、どこか儚げに透ける色素の薄い髪。日に焼けることを知らないかのような白い肌。そして、今は亡き母から受け継いだ、どこか異国を思わせる顔立ち。
そのどれもこれもが、ここリリアン女学園においては、あまりに異質なものに違いなかった。この、伝統と格式を重んじるお嬢様学校に入学するずっと前──普通の中学校に通っていた頃でさえ、この外見は否が応でも人目を引いたのだ。生徒手帳の隅々まで目を通し、校則違反など決して犯しそうにない模範的な生徒ばかりが集うこの学園では、なおさらなのであろう。
いやだなあ。そんな言葉が、心の中で小さなため息と共にもれる。
私は、周囲から注がれる好奇の視線から逃れるように、自然と足早になって校舎へと向かった。登下校の際には、道の途中におわしますマリア様の御像に手を合わせ、お祈りを捧げるのがこの学園の慣わしであると聞いているけれど、別にそれが校則で定められているわけでもない。それに、そんな場所で立ち止まってしまっては、さらに多くの視線を集めてしまうに決まっている。そもそも私、クリスチャンでもないのだし。
これから通うことになる教室へ向かう足取りは、鉛のように重かった。それでも、行かないわけにはいかないのだ。義務と諦めが、私の足を前へと進ませる。
…ああ、本当なら。
今頃の私は、桜並木の美しい都立の共学校で、期待に胸を膨らませて入学式に臨んでいたはずなのに。
このリリアン女学園だって、都内では誰もが知る難関校の一つであることは間違いない。けれど、私が目指していたあの学校は、国内最難関の国立大学への進学率も高く、ずっと、ずっと憧れていた場所だったのだ。一生懸命勉強をして、良い大学に入って、そして、官僚になる。そうして、女手一つでここまで育ててくれたお母さんに、何の不自由もない、穏やかで幸せな生活を送らせてあげる。
それが、私のささやかな、けれど大切な人生の夢だった。
だけど、それもすべて、去年の今頃。母の突然の死と共に、あっけなく消え失せてしまった。まるで陽炎のように、初めからそこには何もなかったかのように。
そう思うと、なんだか胸の奥が苦しくなってきてしまって。
厳かな雰囲気の中で行われた入学式が終わり、各クラスでのホームルームもつつがなく済んだ頃には、もう教室に一分一秒でも長くとどまっている気力など、私には残されていなかった。
私は、ほとんど衝動的に鞄を手に取ると、クラスメイトの誰にも「ごきげんよう」の一言も告げずに、そそくさと教室を後にした。
空は、皮肉なほどに見事なまでの快晴。
けれども私の心は、春のうららかな陽気には少しも染まることなく、ひたすらに冷え切っていた。まるで、真冬の朝のようだ。
「……はやく、帰りたいな」
ぽつりと、また一つ、独り言がもれた。
それは、私がこのリリアン女学園で初めて口にした、飾りのない、本当の気持ちだったのかもしれない。
私という人間は、どうやらその顔立ちだけを切り取って見ると、いかにも「良家の子女」という印象を与えるらしい。
陽の光に淡く透けるような色素の薄い髪に、まるで白磁を思わせる滑らかな肌。我ながら悪くないと思える程度には整った目鼻立ち。幼い頃からひょろりと背ばかりが伸び、姿勢もことさらに悪いというわけでもない。
……けれど、そんなものは所詮、生まれ持った単なる「見た目」にすぎないのである。
実際のところ、私の育ちはといえば、人情味あふれる東京下町の、そのまたど真ん中。
昼間は近所のスーパーマーケットでパートに励み、夜は小さなスナックのカウンターに立つ母と二人、慎ましやかに肩を寄せ合って暮らしてきた。学校はもちろん、ごく普通の公立の小学校と中学校。
この、いささか人目を引く外見のせいで、周囲からやや浮いた存在として扱われることも皆無ではなかったけれど、それでも私は、どこにでもいるような、ごくありふれた庶民の娘であったのだ。
ただ、勉強だけは、自分なりに一生懸命取り組んでいた。
それはひとえに、たった一人の母に、少しでも楽をさせてあげたかったから。
決して品行方正な生徒であったわけではないし、先生方にことさら受けが良かったという記憶もない。
それでも私は、大切な母のために、自分にできる限りのことをしようと、そう心に決めていたのである。
そんな私の、平凡で、けれど愛おしいはずだった人生が、がらりと大きくその様相を変えてしまったのは、ほんの数ヶ月ほど前の出来事だった。
母が、交通事故でこの世を去ったのだ。
あまりにも突然に、そして、あっけなく。
そのあまりのあっけなさに、お葬式の間でさえ、どこか現実のことではないような、ぼんやりとした感覚が私を支配していた。
母という唯一無二の存在がいなくなったことで、私にはもう、頼ることのできる人間は誰もいなくなってしまった。
遠縁の親戚たちは、誰一人として私を引き取ろうとはせず、そして、そんな私の前に現れたのが、唯一の血縁者であるという「父親」だった。
──その人は、北原史泰(きたはらふみやす)と名乗った。
私の、実の父親。
北原ホールディングス株式会社の社長であり、世間で言うところの、いわゆる「財界の御曹司」なのだそうだ。
母と父は、まだうら若い学生時代に恋に落ちたのだという。
そして、母が高校を卒業する頃、私がお腹の中にいることがわかった。けれど、あまりにも違いすぎる家柄というものが、まるで越えられない高い壁のように二人の間に立ちはだかり、結局、二人は別れることになった。
そして父は母を捨て、母はたった一人で私を育て上げた。
……そういう話であった。
つまり私は、その北原史泰という男の、“私生児”であるというわけなのだ。
この、にわかには信じがたい話を聞かされたとき、私はただ、間抜けな子供のようにぽかんと口を開けていることしかできなかった。
まるで、どこかの安っぽいテレビドラマか、あるいは三文小説の脚本でも読んでいるかのような気分だった。まさか、自分の人生が、そんなありきたりで、しかし残酷な“設定”の上に成り立っていたなんて、想像すらしたこともなかったのである。
けれど、それは紛れもない、現実だった。
その結果が、今のこの生活。
住まいは、雨漏りの心配をしていたような古い木造アパートから、一瞬にして「別邸」などという、まるでどこかのお城のような大豪邸へと変わった。
味気ない預金通帳には毎月、使い道に困るほどの桁数の数字が、ただ機械的に振り込まれるようになった。
クローゼットの中には、デパートの立派な紙袋に入ったままの、値札すら付いたままの洋服がずらりと並び、そして、お手伝いさんと呼ばれる人が用意してくれる毎日のディナーの献立には、まるで呪文のようなフランス語の名前がついている。
──けれど、だからといって、私の心が豊かになったわけでは、決してないのだ。
誰もいないだだっ広い家に帰っても、煌々と灯りをつけるのは、いつも私一人だけ。
「顔を合わせたら気まずいだろう」とでも考えたのか、あるいは、そもそも本妻とでもいうべき奥様に気を遣っているのか、父は滅多にその大きな家に姿を見せることはなく。
毎月無言で振り込まれる多額のお金と、時候の挨拶程度の、形式的で心のこもらない手紙だけが、かろうじて父という人間の存在を私に証明しているにすぎなかった。
私は、そんな空虚な生活が、心の底から嫌いだった。
「こんな生活、全然あったかくない」と、何度、冷たいシーツの中で独りごちただろう。
そして、そんな父が、世間体のためだけに入学させたこの“お嬢さま学校”、リリアン女学園。
「ごきげんよう」なんて、何時代のあいさつよ!
「山百合会」ってなにそれ、変な名前だし、この制服、スカート長すぎて動きにくいし、似合ってる気もしないんだけど!
だいたいね、ついこないだまで毎夕ごとに歴戦の主婦と熱いスーパーのセール合戦を繰り広げ、服は商店街の格安品で済ませてたド庶民娘がそんな生活に馴染むことができるかー!!
…とか、胸の内で叫びたい文句は、それこそ山のようにある。
私の本当の第一志望は、都立の進学校だったのだ。
それなりの難関校ではあったけれど、幸いにも合格していた。あのまま、母が元気でいてくれたなら、今ごろはきっと、あの校門を誇らしい気持ちでくぐっていたはずだった。
何も特別なことなどない、ごく普通の学校。けれど、真面目に努力をすれば、きちんとそれが報われる──そんな当たり前の場所で、私は、私自身の力で道を切り拓いていきたかった。
──けれど、そのささやかな願いは、もう叶うことはない。
代わりに私は今、世間の荒波などまるで知らないかのような、箱入りのお嬢さまたちばかりが通うという、この「清らかなる乙女の学び舎」に身を置いている。
まるで、わけもわからないままに壮大な舞台劇のステージに無理やり立たされて、自分の台詞すら覚えていないエキストラにでもなってしまったかのような気分だ。
でも、私はもう、怒るのも、嘆くのもやめた。
何を言ったところで、私がここにこうして存在しているという現実は、何一つ変わらないのだから。
だったらせめて、これ以上目立つことなく、誰とも深く関わることなく、ただひたすらに静かに日々を過ごしたい。
無用な波風など立てるつもりは毛頭ない。私はただ、この学園での三年間を無事にやり過ごして、そして、旧帝大のいずれかに合格することだけを目指す。
そしていつの日か、
「お母さんのことを薄情にも捨てた、あの男になんか、頼らなくても私は立派に生きていける」
と、胸を張って証明してやるのだ。
そうやって、一度は奪われたかのように思えた自分の人生を、この手で必ず取り戻してみせる。
……そんな、ささやかな、しかし確固たる野望を胸に秘め、この、どこか現実離れした異世界のような学園での生活に、私は足を踏み入れたのだったけれど。
──このときの私は、まだ知らなかった。
この場所で、自分がこれからどれほど面倒な出来事に巻き込まれていくことになるのか、その片鱗すらも。まるで、春の嵐のような騒がしい日々が、もうすぐそこまで近づいてきていることになど、思いもよらなかったのである。
まだ、何も知らなかったのだ。