第二話「見えない糸」


入学式から、早いもので二週間ほどの月日が流れようとしていた。
まだ右も左も判然としないことばかりではあるけれど、それでもほんの少しずつ、このリリアン女学園特有の、どこか浮世離れした空気に馴染んできたような、そんな気がしないでもない今日この頃である。

とはいえ、ここは幼稚舎からエスカレーター式に進学されてきた、正真正銘の“お嬢さま”方が形作る王国。
私はといえば、その堅固な城壁の外からぽつんとやって来た、ただの新参者にすぎないのだ。その結果、自然と誰とも深く言葉を交わすこともないまま、休み時間も昼食も、教室の隅で一人静かに過ごすのが常となっていた。

……まあ、余計な気を遣う必要がないぶん、実のところ、一人でいるほうがずっと気が楽といえば楽なのだけれど。

それにしても、今日の空はどこまでも青く澄み渡り、実に気持ちの良いお天気である。
真新しい制服の白いセーラーカラーの襟元には、春の柔らかな陽光が優しく降りそそいで、なんだか自然と瞼が重くなってくるのを感じる。うとうととした微睡みに誘われるようだ。

そんなことをぼんやりと考えていた。昨日の夜に見た、あのテレビドラマのことを思い出しながら。

『ひとつ屋根の下』──まだ物語は始まったばかりだけれど、なかなかどうして面白い。
福山雅治も、文句のつけようがなく格好良かった。ああいうお兄さんが自分にもいたら、ちょっと…いや、これはかなり嬉しいことなのかもしれない。

なんて、柄にもなく浮かれた思考が、春霞のようにふわりと頭の中に浮かんでいた、まさにその時だった。

「まあ、そこにいらっしゃるのは史香さんじゃありませんこと?」

「え?」

銀杏並木の途中で、まるで背後から呼び止められるように、唐突に自分の名前が呼ばれた。

「ごきげんよう」

はっとして顔を上げると、そこには三人の少女たちが、揃ってこちらに穏やかな笑みを向けて立っていた。いずれも物腰が柔らかく、まさに“リリアンの乙女”という言葉がぴたりと当てはまるような佇まいである。

「お一人? よろしければ教室までご一緒いたしませんこと?」

「……ええと」

まずい。
反射的に振り返ってはみたものの、目の前にいる彼女たちが誰なのか、まったくもって見当がつかない。記憶の糸をたぐろうとしても、手応えは皆無だった。

「まあ、入学式からまだ日が浅いですもの。私どもの名前を覚えていただけていなくても、それは仕方のないことですわね?」

……なんということだろう。やんわりと、しかし的確にこちらの心中を見透かした上で、優しいフォローまでされてしまった。
その、一点の曇りもない無垢な笑顔を前にして、「申し訳ありませんが、あなた方のお顔も名前もまったく覚えていないのです」なんて、とてもじゃないが口が裂けても言えるはずがない。

私は慌てて、彼女たちの穏やかな表情をなぞるように、精一杯の笑みを顔に貼り付けた。

「ごきげんよう、皆さま」

おそらくは、同じ一年藤組のクラスメイトたちなのであろう。少なくとも、私の名前を知っているということは、そういうことに違いない。

「ごめんなさいね。私、まだクラス全員のお名前を、なかなか覚えきれていなくて」

どこか言い訳がましく響いている自覚はあるけれど、これは偽らざる正直な気持ちだった。

「無理もありませんわ。史香さんは、外部からご入学されたのですものね」

三人は心得たように頷き、そしてにこやかに自己紹介を始めてくれた。

「私、美幸と申しますの」
「私は綿子ですわ」
「そして、私がすみれでございます」

ええと──ミユキさんに、ワタコさんに、スミレさん。

それぞれの名前を心の中でそっと復唱してみたものの、内心はもうかなりあやしい。今この瞬間は覚えていられたとしても、明日にはもう綺麗さっぱり忘れてしまっている自信がある。
ミユキにワタコにスミレ、ミユキにワタコにスミレ……。

……駄目だ。この調子では、たぶん明日にはもう、誰が誰やらわからなくなっているに違いない。

だって、彼女たちはみんな、驚くほど同じように見えるのだもの。
そのおっとりとした言葉遣い、優雅な立ち振る舞い、そして寸分の乱れもない制服の着こなしに至るまで、まるで寸分違わぬ同じ型から抜き出されてきたかのようだ。

きっと彼女たちは、私とはまったく異なる世界の住人なのである。
まるでおとぎ話の中から抜け出してきたかのような、きらきらとした、どこまでもまっすぐな心を持った人たち。

そんな、まるで天使のような彼女たちに半ば手を引かれるようにして、私は結局、成り行きのままに教室への道を共に歩むことになったのだった。

「わたくし、入学式の時から、史香さんとお近づきになりたいとずっと思っておりましたの」

そう言って、ミユキさん──たぶん、そう呼ばれていたはず──が、その白い頬を微かに上気させながら、こちらを潤んだ瞳で見上げてくる。

私は、思わず言葉を失った。

どうして自分が、そのような言葉をかけられるのか、皆目見当もつかない。
確かに、この外見だけを見れば、このリリアン女学園においては、自分でも認めたくないほどに少々目立っているという自覚はある。けれど、それはあくまで表面的なものにすぎず、私の内面とはまるで何の関係もないはずなのだ。

この、毎日身にまとっている制服だってそうだ。

どこか緑の色味を帯びた、深い光沢のない黒い生地のワンピース。アイボリーホワイトの清楚なセーラーカラー。そして、膝下まである長いプリーツスカート。
足元はといえば、折り目の正しい三つ折りの白いソックスに、まるでバレリーナが履くようなデザインの革靴。
……ここは一体、いつの時代の日本なのだろうか、と時折本気で考えてしまう。

そんなことを内心で思いながら、私は彼女たちの少し後ろを、まるで影のようにして歩く。

みんな、本当に見事に、この独特な制服が“似合って”いる。
それが余計に、自分にはまったく似合っていないような気がして、言葉にできない居心地の悪さばかりが胸の内に募っていくのだった。

「史香さん、とてもお綺麗だから……入学式の時から、みんな話題にしておりましたのよ」

また、それか。
もう、この二週間で何度その言葉を耳にしたかわからない。食傷気味、という表現がぴったりだ。
けれど、きっと彼女たちには、何の悪気も他意もないのだろう。ただ、思ったことを素直に口にしているだけなのだ。

「……そう、それは光栄だわ」

そう答える自分の声が、どこか遠く、よそよそしく聞こえたのは気のせいだろうか。

しばらく三人のお嬢様がたに先導されるようにして歩いていくと、やがて私たちは、小さな白い柵で囲まれた一角の前で、自然と足を止めた。

そこには、純白のマリア様の御像が、まるで生きているかのように穏やかな微笑みをたたえて立っておられた。
小さな池と、それを囲むようにして植えられた木々が、そこだけをまるで別世界であるかのように、静かで清らかな聖域として際立たせている。

「マリア様。今日一日、私たちが神様の尊い教えに従い、正しく、清く生活できますよう、どうかお守りくださいませ」

彼女たちは、ごく自然な、そして流れるような美しい所作で胸の前でそっと手を合わせ、敬虔な祈りを捧げ始める。

私は、それに倣うようにして、おずおずと手を合わせ、静かに目を閉じた。

──本当は、私のような人間が、この神聖な場所に立っている資格など、どこにもありはしないというのに。

入学初日、心の中で悪態をつきながら、祈りの一つも捧げずに足早に通り過ぎたこの場所で、私は今、まるで過去の自分の不信心に対する罪滅ぼしでもするかのように、形ばかりの祈りを捧げている。

けれど、マリア様はただ静かに微笑んでおられるだけで、私の心からの問いかけには、何も答えてはくださらなかった。

「とても熱心にお祈りなさっていましたわね。史香さんは、マリア様にどのようなお話をされていたの?」

「……一日も早く、この学園での生活に慣れることができますように、と」

私がそう、当たり障りのない言葉を選んで答えると、三人は「まあ、きっとその願いは叶いますわね」と声をそろえ、花が綻ぶような無邪気な笑顔をこちらに向けた。

ああ、どうしよう。
この子たちは、なんて曇りのない、まっすぐな心を持っているのだろう。
そして私は、そんな彼女たちの前で、また一つ、心にもない嘘をついてしまった。

──針の筵に座らされるとは、きっとこういう心境のことを言うのに違いない。

ただでさえ、このリリアンという学園に自分の居場所などありはしないように感じていたというのに、今の一言で、自分がますます周囲から浮き上がってしまったような、そんな孤独な気がした。

この、息が詰まるような学園生活は、まだ緒に就いたばかりだというのに。

Top