愁雨が降り続く心

 その日、彼が纏う空気は、まさに雨模様のような雰囲気であった。雷もごろごろと小さく鳴り始め、今にも大粒の雨が落ちてきそうな、そんな空気。なまえは白蘭に頼まれた珈琲をテーブルに置くと、彼を横目で一瞥してから無言で部屋を立ち去ろうとした。こういう時の白蘭に関わると良くないことが起こるのは何度も経験済みであるからだ。

「なまえチャン」

 だが神様はなまえに味方をしてくれなかったようだ。いや、もしかしたらこの白くて甘い悪魔のような彼が神様なのかもしれない。なまえはピタリと歩みを止め、その場で振り向いた。そもそも彼は珈琲なんて飲まない。

「正チャンから何か聞いてない?」

 声音は優しいが、目はとても鋭かった。なまえは臆することなく「いいえ」と、淡々と答えた。

「ふうん、そっか」

 何処か納得出来ないような反応を見せたが、窓の外に視線を向け暫く考え込むと、白蘭は先程の鋭さを奥にしまいこんで、いつもの表情に戻った。

「珈琲、飲まない?」

「それは貴方のために私が入れたの」

「まあまあそう言わずに」

 白蘭はなまえに手招きをして隣に呼んだ。一応上司である彼の命令には従わなければいけないので、なまえは渋々彼の近くまで寄った。だがあと一歩という所で突然手を引かれ、なまえは思わず前につんのめりそうになる。少しだけ口角を上げた白蘭はそのまま手を引いて、彼女の腰を自分の方に抱き寄せた。

「ちょっ!」

「ねえ、本当に何も知らないの?」

 白蘭はなまえと鼻の先が当たりそうな程、顔を近付けた。鳴りを潜めたように見えたが、あの鋭さと冷たさは未だ彼の瞳の奥にいたらしい。なまえは彼を睨み付けるように見つめた。

「知らない」

「強情だねぇ」

 声と視線だけは強く。なまえは真っ直ぐに白蘭を見つめていたが、心臓は大きく鳴り響いていた。彼は指先をなまえのちょうど心臓にあたる部分に置く。

「なまえチャンは弱いから、このまま指先が貫通しちゃうかもね」

 そう告げた白蘭の表情は笑顔であった。なまえは内心恐怖したが、このまま怖がれば彼の思う壷である。それに、最悪このまま終えても良いような気持ちも少しだけあるのだ。この苦しみから解かれるのであれば。なまえは口を固く結び、視線を逸らさずにいると、白蘭は諦めたように小さく溜息をついた。

「もっと簡単だと思ってたんだけどなぁ」

 つまんない、と白蘭は呟いてからなまえの肩に頭を乗せた。なまえは少しだけ体を揺らし、恐る恐る視線を下ろすと、彼のふわふわとした薄い淡藤色の髪が見えた。

「大体、僕一応君の上司なんだけどな」

 何処かやさぐれたような声であった。

「どうしたらなまえチャンは僕の言うこと聞いてくれるんだろう」

「いつも我儘聞いてあげてるでしょう」

「えー」

 白蘭は一向に顔を上げることなく、寧ろ額をぐりぐりと押し付けてきた。まるで大きな子供のようだ。早く離れてくれないかとなまえは内心思ったが、両手を動かすことは出来なかった。
 暫くしてから満足したように白蘭が顔を上げると、今度こそいつもの彼がいた。

「じゃあそんな僕の我儘を聞いてくれるなまえチャンに仕事をあげまーす」

 そう言って白蘭はデスクの上に積み上がった書類をなまえに手渡した。

「ちゃんと自分でもやってよね」

「わかってるってば」

「ココアは?」

「うん。お願い」

 溜息をつきながらもなまえは書類を受け取り、出口に向かって歩き出した。ドアノブに手をかけようとした瞬間、後ろから声が聞こえたので思わず立ち止まる。

「まあどんな悪あがきをしたって未来は変わらないんだけどね」

 その言葉になまえは聞かなかった振りをして扉を開けた。