猛烈に眠かった事は覚えている。
 気づいたら僕は座っていて、目の前にはベレトがいて、手はティーカップを握っていた。
「最近、随分無理をしているらしいね」
「なんの話ですか?」
「ぼんやりしていて、話を聞いていない」ベレトがお茶を啜りながら言う。「ディミトリ達が心配していたよ」
「でも、繁忙期だから……」
 特に今年は忙しい。同僚たちがずっと仕事に没頭するものだから、僕だけ呑気に踊っているわけにもいかないのだ。
「そうは言っても限度がある。友人の忠告くらい聞いた方がいいのでは?」
 ベレトがティーカップを指差した。
「それに睡眠薬が入れてある」
「え?」どうしよう、吐こうかな。
「……冗談だ」
「は?」眠くなかったら怒っていたかもしれない。「……先生って冗談も言えるんですね」
「俺だって冗談くらい言うし、心配もする」
 彼はなんでもない事のように言ってのけた。眉一つ動かさない。記憶が続いている範囲ではずっと無表情のままだ。
「嘘だあ」
 以前に、彼を信じられるようになりたいと思ったけれど、流石にこれは無理がある。そもそも、未だに不安を拭い切れなくて時々様子を見に行ってしまうくらいなのだ。そんなことを何度か繰り返していたらカトリーヌに出勤と揶揄されるようになってしまった。出勤先ではセテスに遭遇することが多い。
「嘘に見えるか?」
「うーん、少なくとも僕が心配の種になっているとは思わないくらい、平気な顔に見えますよ」
「そうか……ショックだ」これも冗談なのか本気なのか分からない。
「えっと、ごめんなさい?」
 しかし、本当に落ち込んでいるのだとしたら申し訳ないので謝っておく。
「でも、心配する必要ないのでは?」
「何故だ?」
「何故って、僕はあなたの生徒ではないし。不調で倒れるとか、怪我するとか、万一死ぬとかしたって、影響ないですよね?」
 生徒を心配するのは彼の仕事の一環だろうが、それに僕は含まれない。そもそもこの人は何かを損なって悲しんだりするのだろうか。誰が死のうが生きようが、全く影響ないように見える。
「影響はないだろうが、悲しい」
「悲しいですか?」
「うん」ベレトが頷く。「なにかあったら悲しいから無理はしないで欲しい。それだけではいけないか?」
「いや、全然、いけなくないですけど……何があっても、悲しくない方がいいなあ」
 僕が呟くとベレトが首をかしげる。
「それはどうして?」
「先生が悲しいと嫌だから?うーん、これはなんだか僕が先生のこと好きみたいですね」
「違うのか?」
「え?」
「俺のことは嫌い?」
 笑ってしまった。素面のままで随分と直情的なことを言う。
「そうですね、先生のこと、結構好きかもしれないです」
「そうか、ありがとう」ベレトが口の端を緩めて言う。
 見て取れるような表情の変化は初めてだったから、とても驚いた。
「君が悲しんで欲しくないと思う人にも言ってやって欲しい。きっと喜ぶだろう」
「それ、誰のこと言ってます?」
 驚いて、余計なことを口走ったなと言った後で後悔した。
「さて、誰だろうな。君は俺の生徒たちと随分仲がいいみたいだから」
 ベレトはもう、元の無表情に戻っていたけれど、なんだか不思議と意地が悪い顔に見えた。居た堪れない気持ちになって僕はカップの中身を一気に飲み干す。喉が少し熱かった。


 ベレトとは中庭で別れた。しこたま焼き菓子を持たされたのをハンカチに包んで突っ立っていると、近くの植え込みの影からフレンが顔を出した。
「ステイシアさん、少しは休憩できましたか?」フレンが近づいてくる。「先生とのお茶会は楽しめた?」
「もしかしてあれはフレンの発案なの?……楽しめたと言うか、肝が冷えたよ」
「ま!そうですの?ステイシアさん、なんだかずっと張り詰めてらっしゃるから、丁度いいと思いましたのに……」
 彼女の顔には残念だとはっきり書いてあった。まさか、楽しめないとは微塵も思っていなかったのだろう。
「気遣いだけ受け取っておくね……」
「困りましたわ……休んでいただきたいのに」
「そんなに心配しなくても、別に不眠不休でやってるわけじゃないから」
「でも目の下!クマになってますわ。大事な本番がありますのに、お兄様が無茶なお願いをなさるから……」
「いや、どちらかと言うと気遣われているんじゃない?大司教の護衛をしろと言われるより気楽だ」
「そうですの?」どこか納得しきれない様子で彼女は首を傾げた。
 花冠の節の末、亡くなったロナート卿の所持品には大司教の暗殺を示唆する密書があった。その内容のために修道院の空気はかつてないほど緊迫している。
 フレンもその煽りを受けたうちの一人だ。
 密書の存在自体は罠だろうと思う。マクドレド街道の戦いでは、ロナート卿は数的劣性の中、包囲を切り抜け、ガルグ=マクの近傍まで迫った。街道さえ抜けられれば敵の本拠地は目の前だったのだから、彼の指揮は非常に優れたものだったと言える。そんな人が暗殺の計画書をそのまま抱えて死ぬわけがない。しかし、事実として密書は存在したわけで、そうなってくると計画が教会側に漏れることにも何か意味があるのではないかという話になる。
 計画書によると、女神再誕の儀当日が決行日だそうだ。決行日と暗殺対象のどちらか、もしかするとその両方がこちらの目を引くための罠かもしれない。
 しかし、胴を守って頭を取られるわけにもいかない。襲われるかもと言われれば、可能性の程度はどうあれ護衛を厚くせざるを得ない。
 大司教とそれに近しい人物には軒並み護衛がつけられていて、僕の場合は、目の前の彼女――フレンを護衛することになった。セテスの妹である彼女は、再誕の儀ではずっと彼の側にいるそうだから、ひとまず前日までは誰か守護を、ということらしい。
 セテスに呼び出されて肩と掴まれた時は何事かと思ったけれど、詰まるところ彼は妹がとても心配なようだ。フレン自体は教会内で重要な役職についているわけではないから、大司教やセテス自身に比べれば危険は少ないだろうけれど、上司から、よくよく側に付いて守って欲しいと言われれば、励むしかない。
 そんなわけで、最近は夜に廻って、昼は彼女の側にいる、というのが日常になっている。
「でも……やっぱり困りますわ。お友達が辛そうなのは見たくありません」
「別に辛くはないんだけど……うーん、困ったねえ……」
「そうですわ!ここでお休みになって!」フレンが手を打って僕を見た。
「ここで?今から?」首を振る。「それじゃあ、君の護衛ができないよ」
「大丈夫ですわ!何かあったら大声で叫びますもの」
 彼女の中では、素晴らしい思いつき、ということになっているらしく僕の手を掴むと嬉々として歩き出す。そのまま、近くの木陰まで連れて行かれた。
「ここなら風も涼しいですし、ちょうど良いですわ」
 フレンは陰の中に座ると自分の横を叩いて見せた。
「ね?下草も柔らかくって素敵よ」
「ほんとにやるの?」
 フレンは目を細めて笑っている。僕が横に来るのをひたすら待っているようだった。
 なんだか最近、身の周りに押しの強い人物が多すぎる気がする。それとも僕が飛び抜けて弱いのだろうか。
「……分かったよ」
 下げていた剣を外して右手に持つ。フレンの横に腰を下ろした。僕は彼女に左手を差し出す。
「寝てはみるけどさ、せめて手を繋いでいてよ。危なくなったら思いっきり握って」
 叫ぶより早いし、流石に熟睡はできないから、握られたり手が離れれば、それで起きられるだろう。
「君は退屈になっちゃうけど」
「構いませんわ」
 フレンが僕の手を取った。小さくて柔らかい手だった。
「それに私、お友達のお顔を眺めているの結構好きですのよ?」
「うーん、それは寝にくいかも」
「我慢なさって!譲歩し合った結果なのだから、仕方ありませんわ」
「仕方ないのかあ」
 ぼやいて、背中を地面に投げ出した。剣を抱く。
「重たくありませんの?」
「平気だよ」
 フレンを見上げると、手を握りかえされる。風が吹いて草木がざわめく。木漏れ日が揺れていた。彼女の髪にも光が落ちて、花びらが滑っていくみたいだった。
 風は乾いていて、日差しさえ遮れば涼しいと感じられた。かすかに土や花の匂いがする。前節はあんなに湿っていたのに、あの水分たちはどこに流れていったのだろう。季節も移ろって、みんな気づくと現れたり、いなくなったり、目の前から流れていく。僕も、どこかに向かって流れているのだろうか。
 目を閉じた。時々、僕のまぶたにも日が落ちてきて、暗がりが一瞬光ることがある。
「ゆっくりお休みになって」
 その向こうから、フレンの声が聞こえた。僕より手が小さいのに、母親のようなことを言うのだなとぼんやり考えた。

 手が離れたので目を開けた。
「フレン?」
「あら、ごめんなさい。起こしてしまいましたわ」まぶたを押し上げると、困ったような顔の彼女が見えた。「ぐっすりでしたから大丈夫だと思ったのに」
「……何かあったの?」
「ディミトリさんがいらしたから、もう少し、ゆっくり休んでいただきたかったの」
「……うん?」
 目を擦ろうとして左手を上げると、フレンが掴み返して来る。違う、手を握って欲しいわけじゃない。
「彼が話し相手になってくださるって言うから、私とステイシアさんの二人きりより安心でしょ?何かあっても私たちのこと守ってくださいますわ。だから、もう少しお休みになって」
 彼女は僕の額に手を乗せた。そのまま目蓋まで手が下がってくる。
「ごめん……何言ってるか、分からない……夢?」
「まあ、うふふ、とっても眠そうですわ……。大丈夫よ、安心なさって……」

「ステイシア、そろそろ起きてくれ」
「はい?」
 予想外の声が聞こえて目が覚めた。
「ステイシアさんおはようございます。ゆっくりお休みになれたみたいでよかったですわ」
「おはようと言うより、もうこんばんわだぞ」
「ま!そうですわね」フレンが口元を押さえる。「こんばんわステイシアさん、そろそろ起きないと夜眠れなくなりますわ」
「あまり無理を続けるのは感心しないぞ。ちゃんと決まった時間に寝て起きた方がいい」
 両側から無茶苦茶に話しかけられる。
「うん……こんばんわ……気をつけるよ……」なんだこれ。
「そうですわ!これから皆さんで晩ご飯にいたしましょ!私たくさんお話ししてお腹が減ってしまいましたわ」
 フレンが手を叩いて言った。
「もうそんな時間か、なあ、ドゥドゥーたちも誘っていいだろうか?」
「もちろんですわ!大勢で食べた方がお料理もおいしいですもの」
「そうだな……ちょっと呼んでくる。先に食堂に向かってくれ」
「ええ、お待ちしておりますわ」
 僕が困惑している間にディミトリとフレンの話はどんどん進んでいく。
「……フレン、何が起きてるのか全然分からないのだけど」
「変なステイシアさん。お話の通り、皆さんでご飯を食べますのよ?」
 彼女が僕の手を引く。
「さあ、早く席を取らないと!」
「いや、だから、それが、うーん、まあいいか」
 食堂に向かって歩いていると、不意に何かを思い出したようにフレンが笑う。肩が揺れた。
「どうしたの?」
「初めてお話ししましたけど、ディミトリさんって、なんだかワンちゃんみたいで可愛らしい方ですのね」
「大丈夫?不敬じゃない?」と言うか、どの辺が犬なのか?負け犬としてなら僕の方が貫禄があるだろう。ワン。
「ま!ディミトリさんは私がちょっと軽口を叩くくらいで怒ったりしませんわ」今日、散々叩きましたもの!とフレンは胸を張って言った。
「まあ、それはそう」確かに、猪と呼ばれても怒ったりはしていないようだ。悲しそうではあるけれど。「でも周りに過激な人が結構いると思うよ……」
「そうですの?お兄様が危ないっておっしゃるのはそういうことなのかしら……」
「セテス殿目線だと、やっぱり危ないんだ」
「でも私、ぜーんぜん心配してませんのよ?だってお話中、ずっとステイシアさんのこと優しい目で眺めてらっしゃったもの!私、なんだかドキドキしてしまいましたわ」
「うーん、それは聞かなきゃよかったかも」
 フレンはずっと笑っている。跳ねるように歩き出すものだから、手を繋いだままの僕も早歩きで進まなければならなくなった。
「フレン、お腹空いてるんじゃないの?」彼女の手を引く。「そんなに跳ねてたら余計にお腹が減ってしまうよ」
「素敵!もっとご飯が美味しくなりますわ!」
 振り返った彼女はとても綺麗に笑っていて、なんだか全部どうでもよくなった。


 思いの外、人が集まって食堂の一角はちょっとしたパーティーのような賑やかさだった。やれあれが好きだ、これを残すなと言って笑っている。最後にベレトに持たされた菓子を分けて食べた。ベレトもその場にいたから、流れ流れて彼のところに帰っていくのは面白かった。
 大司教の襲撃なんて嘘っぱちで、ずっとこんな日が続けばいいな。みんな笑っていて、悲しいことなんてなくて、何も損なわれないまま、ずっと続いていけばいい。日常というのは、本来そういうもののはずだろう。


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