結局、大司教は襲われなくて、聖廟が襲われたけれど、襲撃者はベレトたちが一網打尽にしたから、何もないに等しかった。
ロナート卿の持っていた密書はやはり囮で、相手は聖廟に眠っているものが欲しかったようだ。聖者セイロスの棺を狙ったらしいけれど、そこに遺体はなくて、剣が一本入っているきりだった。誰にも扱えないはずの英雄の遺産、天帝の剣。相手はこれが眠っていることを知っていたのだろうか。
紋章石の欠けた英雄の遺産は、術者のいない魔道具みたいなもので、不気味な棒切れ以上の力はない。でも、ベレトは使ってみせたと言う。
何もなかったけれど、何か、不気味なものが動いている予感がする。こういうとき、暗い方に行くと酷い目に遭うと思うのは悲観的すぎるだろうか。
でも今は、どこが暗いかもわからないから、じっと息を詰めて、目を凝らしているしかない。そのうち、不気味なやつの尻尾が見つかるかもしれない。
「ステイシア?こんなところで何をしているんだ?」
溜池の前で途方に暮れていたら、宿舎の方からディミトリがやってきた。最近よく鉢合わせる。こういうの、あまり良くないのではなかったか?と僕の鈍りつつある頭が考えていた。
「釣りか?」
「ううん、くつしたを探している」
「靴下?飛ばされたのか?」
「ん?えっと、逃げられたから好物でおびき寄せようかと」
「靴下をか?」
ディミトリが首を傾げて僕の手元を見た。右手に引っ提げた桶に魚が一匹泳いでいる。数時間粘った今日の釣果だ。慣れない割によくやったと思う。
「なあ、靴下というのは……」
桶から顔を上げたディミトリが困惑した顔で僕を見ていた。それでやっと、話が噛み合っていないらしいことを自覚した。
「あ、ああ、そうか、ごめん。猫、猫の名前。猫を探している」
「猫」
「黒毛で足と尻尾の先だけ白いんだ。靴下を履いているみたいだから……。あの子、目に怪我をしてるんだよ。多分、他の子と喧嘩したんだ。薬を点さないといけないんだけど、どこにもいないんだよ」
焦って色々喋っていたら、足元に目当てと違う猫たちが寄ってきた。桶を引っ掻いてくるやつに、控えめに鳴くやつ。後、周りを無言でグルグル回るやつ。みんな、成体の猫より一回り小さい。まだ子供だ。
「彼らは?」
「違う子」僕は首を振って息を吐いた。「まあ、でもこうなったら仕方ないよね。……はい、どうぞ」
桶を地面に置くと、すぐにそれを引っ掻いていたやつが顔を突っ込んできた。狭い桶の中で身をよじる魚をうまく咥えるとそのまま走っていく。他の猫もよくやったとばかりに跡を追っていった。
「いいのか?」
「いいよ、また釣るし」
しばらく猫の走っていった方を眺めていた。足が早い。すぐに見えなくなってしまった。自分なりに頑張ったので少し名残惜しかった。せめて味わって食べて欲しい。
「ちなみに釣りは得意だったり?」宛のいなくなった先を眺めたまま呟く。
「いや、あまり自信はないな……」首を振る気配がした。「先生は得意らしいぞ」
「そっかあ」
今から自分でもう一度頑張るのと、ベレトを探すのと、どちらが早いだろうか。残り時間から決めようと思って太陽を探すと、見上げた先にディミトリの頭が重なった。眩しくて目を細める。
「どうした?」
「いや……」手で影を作る。「随分大きくなってまあ、と思っただけ」
「昔はお前の方が背が高かった」
「昔はね」
「今は何というか、その……縮んだか?」
「縮んでない。君より成長が控えめだっただけ」
この人は最近よくからかってくる。素行の良くない友人ができたのではないか。例えば釣りがあまり得意でないような……。
色々よくないな、多分、全然よくない。頭を振って階段の方へ歩く。数段登って腰を下ろした。
「そうむくれるな」笑いながらディミトリがついてくる。
「むくれてない。ちょっと今後の方針を考えている」
「先生を探すのなら、俺でも手伝えそうだ」ディミトリが横に腰をかけた。
長期戦になりそうだと思って、僕は足を投げ出した。どこから修正すべきだろうと思って空を眺める。やはり、僕の頭からか?答えはない。ただ晴天。高くて、青くて、遠い。
「……男の子は」一度だけディミトリの方へ視線をやった。彼は池を眺めているようだった。「まだ、背が伸びるかもしれないんだっけ。えっと、後二年くらい?」
「どうだろうな」ディミトリが呟く。
僕の背はもう伸びないだろう。修道院に来てしばらく経った頃、成長が止まっていることに気が付いた。手も足も、多分ずっとこのままだ。
「どんどん遠くなるね」僕も池を眺めた。
「それは、」
ディミトリの声がして、でもそちらは見ないように足に力を込めた。勢いをつけて立ち上がる。
「おい?」
僕はそのまま階段から飛び降りた。
体が宙に浮く。困惑の声が背後から聞こえる。視線を向けるとディミトリが驚いた顔をして、手を伸ばしていた。でも届かない。もし手が届いて掴まれたら、転んで怪我をしただろうからよかったと思う。
なんだ、存外に飛べるじゃないか。
地面に着地したとき、そう思った。
「十点満点」着地地点で回って見せた。やってから、子供ぽかったなと少し後悔した。
彼は目を細めて僕を見た。それから、自分の右手を眺める。
「少し足りない」
「九点?」
「ああ、もう少し手が長かったら届いていた」
「掴むのはやめてよ、普通に危ない」
ディミトリは答えない。自分の手を眺めてぼんやりしている。おそらく、彼にも思うところがあるのだろう。
遠くから、ディミトリを探しているらしい声が聞こえた。
「呼ばれているよ?」
「そうだな……」彼は顔を上げて、手を差し出した。「引っ張ってくれないか」
「ええ……、自分で立ちなよ」
「お前と話していたら気が抜けてしまった」
「なんだそれ……」
ディミトリは一向に動こうとしない。梃子でも動かないと顔に書いてある。多分、足りないのは距離ではないなと僕は思った。
仕方ないから、階段まで戻って手をつかんだ。
「え、うそ、重すぎ……。何したらこうなるの?鍛錬?」
見た目はそこそこ細いのに、想像よりはるかに重いから驚いた。
「日々の成果が出ているのかもしれない」人の気も知らないで、気の抜けた顔で笑っている。「頑張ってくれ」
「木っ端の民に無理な労働を強いないで……」
「民に強いる気はないが、お前はこちら側だ。諦めて励んでくれ」
「横暴な上司は良くないよ、王様になる前に改めて欲しい」
「それは相手の出方によるな」
しょうもない問答をしていたら、階段のもっと上の方から近づいてくる足音が聞こえて顔を上げた。それは、この数節ですっかり見慣れた顔だった。
「あ」
「どうした?」
「せんせ――」
言い終わる前にディミトリが勢いよく立ち上がる。彼を引っ張っていた僕はその分だけ後ろにのけぞった。
「わ」
ギョッとするディミトリの顔が見える。その奥に珍しく目を見開いたベレトもいた。
「ステイシア!」
つかんでいた手を掴み返される。そのまま、ものすごい力で引っ張られた。その場に押し留めようとか、そういう度合いではない。僕はつんのめってディミトリの胸に顔を強打した。ものすごく痛い。その上、さらに悪いことにディミトリの体が傾いた。
嘘でしょう?自分で引っ張ったものに吹き飛ばされないで欲しい。
頭でも打ったら大事だから僕は必死にディミトリの背中の方へ腕を伸ばした。けれど、自分の手の長さを鑑みるに、彼の頭の方が先に階段に到達しそうだった。
父さん、母さん、すいません。イングリットにシルヴァン、フェリクス、それからドゥドゥー、許して欲しい。やっぱり僕はよくない友人だったのだ。
目を閉じる。それでも諦めきれなくて、手を伸ばし続けると、階段ではない、何か柔らかいものに触れた。
「こら、危ないから階段で遊ぶのはやめなさい」
目を開けると、ディミトリのすぐ後ろにベレトが立っていた。僕の手は彼の上着をつかんでいた。
「すまない先生……」
「ごめんなさい先生……」
なんとか体制を立て直して頭を下げるとベレトが頷く。
「そういえばディミトリ、先ほど君を探している子がいたよ」
「あ、ああ、そうだ。呼ばれていたんだった」ディミトリがハッとして顔を上げた。「そろそろ向かわないと……ステイシア、危ない目に合わせてしまって悪かったな。先生も……助かったよ」
僕は首を振る。
「気にするな」とベレトは手を振った。
僕の釣りを手伝ってやってくれと言い残してディミトリは走っていった。その背中をベレトと二人で眺める。
「釣りをするのか?」
「諸事情があって」
どう説明しようかなと考えていると、足元に黒猫が一匹寄ってくる。足先の白いやつ。
「あ、やっと出てきた。困った逃亡犯め」
猫を抱え上げて顔を寄せる。機嫌がいいのか大人しかった。ベレトが寄ってきて、僕の腕の中を覗き込んだ。
「こいつ、目を怪我しているな」
「はい、なので薬を点さないといけなくて。魚はそのための餌だったんですけど……。先生、僕のポケットに薬が入ってるんです。抑えているから点してあげてくれませんか」
「ポケット?どこの?」
「えっと、上着の右下」
ベレトがポケットを漁る。
「これ?」差し出された手には茶色の瓶と緑の瓶が握られていた。
「緑の方です」
「分かった」
ベレトが薬を点すと黒猫が身をよじる。もう押し留めておく理由もないから、好きにさせていたら、腕の中から飛び出していった。遠くにさっきの三匹がいて、合流して走っていく。
「先生ありがとう。捕まえてもすぐ逃げちゃうから助かりました」
「ああ、役に立てたならよかった」
頷いてベレトが手を差し出す。さっきと同じように、茶色と緑の瓶があった。
「これを」
「ああ、どうも」緑の方はもう空だ。マヌエラに返しに行こう。そう思って、茶色の瓶だけポケットにしまい直す。
「それも猫の薬?」ベレトがポケットを指差す。
「いや」僕は首を振った。「これは僕の薬」
四年前のあの時以降、誘発以外では症状が出たことがない。鱗付きの症状にはかなり個人差があると聞く。昔、父が自発的には症状が出ない人もいると言っていた。だからきっと、僕の場合はそうなのだろう。
それでも、急に病気だと言われた時は恐ろしくて、自分でいろいろ調べたりもした。
嘘か本当か分からない与太話ばかりだった。中には、鱗付きは人を惑わす恐ろしい悪魔だと書いてある本もあった。本人も気づかぬうちに周りを懐柔し魅惑するのだとか。それで国が滅んだとか王が狂ったとか……。
帝国暦以降、分裂はあっても、滅んだ国は存在しない。だから、この話が本当なら千年以上前の話になる。そんな昔のことが本に記されて現在まで正しく継承されているとは考えづらい。なにか原型はあるにしても話の大半は帝国暦以降に創作された物語だろう。
今ではそう思えるけれど、知った当時は悲しかった。
動物によく好かれた。周りの人はみんな親切だった。優しい友人や家族がいた。皆んなが皆んなそうでないことは知っていたから、僕はとても恵まれていると思った。幸福だった。ただ皆んなが好きだった。
けれど、もしかしたら僕はずっと彼らの優しさを搾取していたのかもしれない。
姉さんも、
ずっと僕を守ってくれた。
全て押し付けたってよかったのに、そうしなかった。
結局、最後の最後まで僕を守った。
でも、それは僕がそうさせたのかもしれない。
そう思うと酷く恐ろしかった。それで、もう考えるのをやめてしまった。
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