もう二週間くらい前の夜だったろうか。
 大聖堂脇のテラスで廻っていたら、ディミトリが訪ねてきた。彼はどこか疲れたような顔をしていて、訓練のしすぎではないかと僕は勘ぐった。こんなところでいつまでも油を売っていないで、さっさと寝たらいいのに。
 空は厚い羊毛のような雲に埋め尽くされ、隙間から月明かりが漏れている。生温い風が手足の間をゆっくりと流れていく。確かに寝苦しい夜ではあったろう。
「こんばんわ、ディミトリ」額の汗を拭って顔をむけた。「こんな時間までぶらついているなんて感心しないな」
「それはお前だって、同じだろう」
「僕はこれが日課だし、予定通りで規則正しい生活だよ」後は浴場に行って、眠るだけだ。
「俺も……眠るのはいつも、もう少し遅いから」
「ふーん、夜更かしの常習犯だったとは意外」
 テラスの際、欄干まで歩いて背を預ける。崖下から風が吹き上げてきた。髪が視界の端でチラチラ揺れる。温いことは変わらないけれど、ここに立っていた方がまだ多少涼しかった。
「君が大聖堂に時々来てるのは知ってるけど、普段はもっと早く帰るでしょ」
「意外と見られているものなのだな」
「目移りするほど人もいないしね」
 ディミトリが僕の横まで歩いてくる。欄干に手をかけて、森の方を眺める彼の前髪も吹き上げる風で揺れていた。
「今日は、その……お前に聞きたいことがあったから」
「聞きたいこと?なんだろう」
「よくない、噂を聞いた」
「噂?」
 彼の方を見るとディミトリはまだ底を眺めているようだった。欄干に乗せられた手が握ったり解かれたりする。何か、まごついているような様子だった。
「……お前は、姉の弔いをしない背信者だと。だから、家に帰ることができない」
 ぽつりと、彼はいった。
「俺は、信じていない。お前が修道院に来たのは……ダスカーのことがあったからだろう?だから、こんなものは……」
 ディミトリがゆるゆると首を振る。なるほどなあ、と思って僕は空を見上げた。いつの間にか雲は厚みを増して、月の光を完全に遮っていた。上空は思いの外、風が強いらしい。
「いいや、その通りだよ。全て正しい。だから、噂というか……うん、本当の話だね」
「なぜだ?」
 ディミトリは信じられないものを見るような目で僕を見た。
「なぜ、家族の死を弔ってやらない?姉の無念を少しでも晴らしてやろうとは思わないのか?」
「答えたくない」
「駄目だ」ディミトリの声が硬くなる。「答えろ」
「命令しないで。君は僕の主人じゃないでしょ」
 首を振ると、ディミトリは欄干を離れ、僕の目の前に立った。声と同じくらい硬くて鋭い視線がこちらを見据えていた。
「頼む、答えてくれ」
「嫌だ」
「なぜ!」
「……だって君には関係ないだろう。何故話さなければいけない?言えるのは、僕が姉さんのためには踊らないってこと。とにかくそれだけだよ、分かった?」
「分かりたくもない、そんなことは!」
 ディミトリが背を折るようにして叫ぶ。埒が明かないな、と僕は思った。
「ああ、望むところだ。そうしていて」
 それだけ言い残して、彼の横をすり抜ける。伸ばされてきた手を叩いた。
「待てステイシア!まだ話は終わっていない!」
 彼の叫び声が刃みたいに背中に刺さる。足音が迫っていた。
 唇を喰む。
 舌打ちが漏れて、僕はやっと自分が苛立っているらしいことを自覚した。
 振り返る。
 息を吸った。
「そんなに知りたいなら僕のことを飼えばいい!飼い主になら、いくらでも、従順に鳴いてやるさ!」
 吐き捨てるためだけに用意した言葉を用法どおり彼に投げた。追いかけてくる足音は、それでピタリと止まった。


 馬車に乗っていた。荷台は常に揺れている。時々、泥に車輪をとられるのか大きく跳ねて、荷台の縁に背中をぶつけた。ガチャリと脇に抱えた剣が鳴る。
 修道院から出発して既に四日、毎日のように通り雨に遭遇する。雲がやってきて、雨が降り、流れ、また雲がやってくる。目的地に近づくほどその間隔は狭くなっていくようだった。天候は悪化するばかりで、おそらく明日はもっと荒れるだろう。きっと嵐がやってくる。いや、こちらから近づいて行っているのか……。
 今回の仕事は四節ぶりにギルベルトと一緒だ。今は別の馬車に乗っているからどうしているか分からないが、おそらく、押し黙っているか、そうでなければ馬車酔したアネットの介抱をしているだろう。
 仕事の内容は節のはじめにギルベルトから聞かされていた通りで、変更はない。目的地はフラウダリウス領のコナン塔。ベレトたちに同行して、ゴーティエ家から英雄の遺産を持ち出した盗賊――マイクランを討伐する。捕縛ではない。剣を抜いて、致命に至るまで戦う、そこまでが仕事だ。
 正直、出発まではあまり現実味がなかった。けれど、道中で遭遇する村々の様子を見るたび、段々と醒めてくる。剣の柄を握り込む感覚を、繰り返し思い出している。右手を握りしめた。膝を抱えて目を閉じる。
 馬車はずっと揺れている。進んでいるのだから、それは当然のことだった。
「ステイシア……あなた、大丈夫なの?」
 横でイングリットの声がした。
「何が?」
 顔を上げて彼女の方を見た。イングリットは眉を寄せて僕を眺めていた。
「何がって、その……そんな姿勢では酔ってしまうわ」
「それは、大丈夫。馬車は慣れてる」
「おいイングリット、怖気付くな」
 向かいからフェリクスの声。彼はブーツで僕の足を蹴った。
「お前ら、どうにかならんのか」
「……君に言われたくない」
 この馬車の中には、”どうにか”の対象が多すぎる。フェリクスが何を指して言ったのかを考えるより先に、君と彼もそうだろう、という言葉が浮かんで僕は言い返した。
 すぐに舌打ちが返ってくる。フェリクスは顔を逸らすと、荷台の外を眺めた。
「また、じき雨になるというのに、辛気臭くてかなわん」
 言うだけ言って満足したのか、フェリクスは腕を組んで、目を閉じた。
 彼のいう通り、馬車の空気は重たく感じられた。しかし、軽口をたたいて笑えるかというと、そういう気分にもならないから、押し黙っている他ない。雨さえなければ幌を外しただろうなと思った。普段なら、そろそろシルヴァンが茶化してくる頃合いだけれど、彼は馬車の奥でずっと静かにしている。
「お前たち、雨をやり過ごしたら夜営になる。そろそろ備えておいてくれ」
 固形物みたく、重くて硬い沈黙の中、ディミトリの声がした。
 彼はシルヴァンの向かいに座っていて、槍を抱えたまま、自身の爪先あたりをじっと眺めている。
イングリットは頷いて、フェリクスが鼻を鳴らす。僕も、うんと小さく呟いて、また膝を抱える体制に戻った。
 ふいに、ぼん、と頭上で幌を叩く音がする。それはすぐ断続的に続く雨音に変わった。誰も喋らなくとも、雨音に、泥の跳ねる音、荷台の揺れで、車中はだいぶ騒々しくなる。自分が空気の重さに一役買っている自覚はあったから、僕は少しだけ気が楽になって、そっと息を吐き出した。
 雨が過ぎたら、夜になる。
 夜が過ぎたら、明日になって、きっとコナン塔に着くだろう。


 塔に侵入した時、辺りはすでにひどい雷雨の中にあった。階段を登って行くと、点々と設置された開口部から閃光が差し込んで、暗い塔の中が時折白く染まる。追いかけるように空気を震わす轟音が耳に届いた。随分近くに落ちたようで、もしかしたら、そのうち塔に直撃するかもしれない。なるべく開口からは離れていた方がいいだろう。螺旋階段だから、当然、内周に近づくほど踏面は細くなる。登るときは右側に螺旋軸の石柱があるから剣も振りにくい。視界も悪ければ足場も悪いし、その上戦いにくいのだから、こんなところで襲われるのは、できれば勘弁願いたい。雷雨のせいで、侵入の足音が紛れることだけが救いだった。

「なんだ、てめえら――」
 そろそろ塔の最上部というところで、通路の影から盗賊が顔を出す。一番近くで鉢合わせたのはベレトで、彼は音もなく踏み込むと、すぐさま相手を斬り伏せた。悲鳴を上げる暇もなく、盗賊は絶命した。しかし、相手は一人きりではなかったようで、いくつか足音が遠ざかっていく。
 仲間が目の前で殺されても、狼狽して襲いかかってこないあたり、盗賊にしては統率が取れている。頭目の教育方針が透けて見えるようだ。
「追いかけますか?」
 ベレトに尋ねると彼は首を横に振った。
「追わなくても、すぐ向こうからやってくる。迎え撃とう」
 動かなくなった盗賊のそばを確認すると、こちらからは死角になる位置に脇道があった。盗賊はそこから出てきたようだ。おそらく、こんな脇道が至るところにあるのだろう。塔の壁も、内側へと段々回り込むように設計されていて、進む先があまり見通せない。
 事前の打ち合わせで聞いた通り、確かにここは防衛拠点なのだろう。攻め落とすにしても、慎重に進まなければ足元を掬われる。
 ベレトの言葉に応えるように、みんながそれぞれ武器を構えた。僕も剣の柄を握り直す。
 外の嵐に反して不気味な沈黙を保っていた塔の空気がさざめき立ち、それは次第にこちらへ近づいてくるようだった。

 階下にいた賊が背後から迫ってきていた。そのせいで、後衛の進行がやや遅れている。目指す塔の奥からも小規模の集団が度々ちょっかいをかけてくる。あと少しで仕留められそう、というところで後退していくから、こちらの前衛はかなり焦れているようだった。
 陣形は可能な限り維持、というのが当初の指示だったけれど、既に隊列は縦に伸びつつあった。そんなところに敵の伏兵が横槍を入れてくるものだから、あっという間に戦力は前後に分断された。
 今回の僕の役割は遊撃だったから、前にも後ろにも動きやすいように隊の中腹でフラフラしていた。おかげで雪崩れ込んでくる盗賊たちと混戦を繰り広げる羽目になる。ギルベルトが道連れになってくれたのは幸いだった。
 敵の先発が左手側から斧が振り下ろしてくる。
 切先は真っ直ぐに僕の頭へ、
 体を捻ってかわし、
 相手は振りかぶった勢いのまま前進、
 位置を入れ替えるように廻る。
 背後、
 横薙ぎ、
 離脱、
 立っていた場所に矢が突き刺さった。
 矢の出所を辿ると弓兵の位置はやや遠い。相手はすでに二射目を構えていた。
 今から走り込んでも届かない。
 どうしようか、
 思案しながらも、足は地面を蹴る。
 もう少し僕を狙っていろ。
 なるべく的が小さくなるよう、身を屈め、走る。
 弓兵の後ろにギルベルトが立った。
 縦に一閃。
 僕は走り続けた。
 ギルベルトの影に入り、
「剣いいですか」
「無論」
 彼の動きに合わせ、身を屈めたまま小さく旋回。
 鈍い音、
 ギルベルトが盾で自身に迫る剣を受け止めて、押し込む。
 道が通る。
 影から飛び出し、敵の脇を抜けた。
 前方に魔道士、
 次はあいつ。
 急に現れた僕に相手は慌てているようで、魔法の軌道を変えようとした。
 残念、もう間に合わない。
 地面を蹴り、
 突き上げるように剣を差し出す。
 腹から入って、背中に抜けた。
 ぶつかって転がりながら、剣を引き抜く。
 回転の勢いで姿勢を立て直し、辺りを窺うと、迫る影はまだ遠く、ギルベルトは剣を持った男を斬り伏せていた。
 彼が僕を呼ぶ。
「あなたは殿下を追ってください。突出し過ぎている……よくない癖だ」
「ギルベルトさんは?」
「私の足では追いつけないでしょう。ここで敵の足止めをするとして……まずは道を作りましょうか」
 ギルベルトが斧を構え直す。僕も彼の背後に立って剣を構えた。一度、通路の奥に目線を向ける。前線を担う生徒たちの姿はもう見えなかった。

 ギルベルトの押し広げた道を通って、通路の先へ進む。所々に戦闘の痕跡が残っていて、何かが焼けて煤けた跡や割れた石畳の破片が散らばっていた。倒れ伏す敵の中にはまだ息のある者も死んでいる者もいたけれど、誰も動けはしないようだったから、脇を通り抜けて奥まで走った。
 塔の最深部はさらに高い位置にあるようで、目の前に階段が現れる。その上から、声が聞こえた。
「何しに来やがった……紋章持ちの“お嬢さん”がよう……!」
 階段を駆け上がると、仲間の背中の先に、不気味な槍を携えた赤毛の男が立っていた。
「……クラン」
 懐かしい愛称を口にした。姉が死んでから久しぶりに姿を見たけれど、随分と人相がやさぐれてしまっている。
「よあステイシア」
 こちらに気づいたマイクランは壮絶な顔で笑みを浮かべた。
「相変わらず、しけた面してやがんなあ、おい」
「……ステイシア、先生も、下がっていろ。奴は俺が」
 得物の相性を気にしているのか、ディミトリが前を見据えたまま言った。
 マイクランが肩を竦める。
「お前、まだ王子様と一緒にいるのか、フィラムがあんな目にあってなお」
 彼は苦々しげに僕を睨んだ。
「日和って国を継ごうともしないガキを守って何に成る?いつまでお友達ごっこを続けるつもりだ。いくらそいつに尽くしたところで顧みられることはねえ。結局は、そのお坊ちゃんもお前をできるだけ長く見世物にしておきたいだけだ。いい加減、目を覚ましたらどうだ」
「……目を覚ますのは君の方だ、クラン。今更、槍なんて盗んでどうなる?手元にあるからって君のものになるわけじゃないだろう」
「違う、元は俺が受け継ぐはずのもんだった。奪われたから取り返す。それの何がいけない?」
「奪ったわけじゃない、ただの成り行きだ」
 シルヴァンを横目に見る。彼はマイクランを見据えたまま、じっと押し黙っていた。悲しいとか憎いとか、単一ではないものが、彼を沈黙させてしまうのだろう。ここでも、馬車でも、ずっと静かなままだ。周りはこんなにうるさいのに。
 どこに隠れていたのか、敵が集まりつつあった。彼らはマイクランの背後で状況を注視している様だった。
「国とか、僕らの家も、誰も、別に苦しめてやろうと思って今の形になったわけじゃない。人の集まりは、人ではないから……誰かが悲しんだり、苦しんだり、そんなの分からないんだ。その代わり、多分、悪意もない。……恨んだって、仕方ない」
「ひでえ奴」
 マイクランが口元を歪める。それは笑っているようにも、怒っているようにも見えた。
「てめえの姉貴の前で、もういっぺん言ってみろ。殺されても仕方ねえって!ステイシア、お前の話のとおりなら、墓前に花供えるより、あいつもよほど納得するだろうさ!」
 僕は剣を握って一歩前へ踏み出る。
「もう、話はいいでしょう、クラン。早く、槍を返して、投降して」
 マイクランが目を細めてこちらを見ている。何かを探っているような、そんな視線だった。
「……なんだ?もしかして、まだあいつ、てめえの家で寝てんのか?」
 彼の言葉に僕は駆け出した。背後から、誰かの静止の声が聞こえる。マイクランは口笛を吹いて槍を構えた。
 剣を振り上げ、金属がぶつかり、擦れる音。
「おいおい、まさか、図星か?もっとひでえじゃねえか」
「……姉さんは、地面の下だよ」
 両手で剣の柄を握り込み、体重をかけても、槍は全く動かない。マイクランは涼しい顔をしている。
 一瞬、押し返される力が弱まり、重心がずれた。
 マイクランが半歩引き、振りかぶる。
 横薙ぎ。
 とっさに剣を縦にして受けた。
 鉄が激しく軋み、吹き飛ばされる。
 浮いた足先が地面を探し、触れる。
 目前に槍の穂先が追っていた。
 剣で弾くか?
 力負けするだろうか。
 でも、他に手段がない。
 僕が息を詰めると、目の前に別の鈍色が差し込まれる。
 ガンと、一際重い音がして、マイクランが後方へ飛んだ。
「何の話をしている……」
 隙なく槍を構えたまま、ディミトリが低い声で唸った。
「なんだ、やっぱり王子様はなんも知らねえのかよ。つくづく馬鹿げてんなあ」マイクランが笑う。
「黙って!」僕は叫んだ。
「王子様は関係ねえってか?関係ねえわけないだろう!もとはこいつの家が始めたことだ!」
 再び、足を踏み出そうとすると、牽制するようにマイクランが槍を大きく振るった。空気の震える音が重たく響く。
「フィラムを殺した貴族はなあ!国もまともに治められねえ王家にはもったいねえとぬかしやがった!自分の方が余程ふさわしい飼い主だと!なにが銀の小鳥だ!仰々しい名前をつけたところで本質は変わらねえ!権力にしか目がねえ貴族共にとって、こいつらは金メッキの玩具だよ!手元に置いとければ生きてようが死んでようが関係ねえ!はは!意味わからねえだろ?あいつの死体、剥製にして飾ってやがった!頭のおかしい糞貴族共!奴らを野放しにしてたのはどこのどいつだ?こいつらに値札貼って民に晒したのはいったい誰だって言うんだよ?なあ、答えてくれよ王子様!」
 狂ったようにマイクランが笑う。
 何がおかしいのだろう。馬鹿げているから?そうだ、全て馬鹿げている。悲しいほどに。なぜこんなにも歪んでしまったのか?
 成る様に成っただけだと言う自分の言葉を思い出す。そう、成り行きで歪んだ。ならば、綺麗なものなど本当はなくて、全部は歪むように出来ていて、僕も、きっとそうなのだ。
 ディミトリは槍を構えたまま、じっとマイクランを睨んでいる。
 一瞬辺りを閃光が照らし、耳が痺れるくらいの雷鳴が響く。
 槍の穂先が一度、震えた気がした。
 けれど、それは光の加減か、轟音のせいで僕の頭が揺れているだけだったかもしれない。
「……あんなのは、聞かなくていいよ」
 もう一度、前へ出る。
 マイクランが槍を回し、そのまま、中腰の構え。昔によく見た構えだった。
 僕は彼に剣を教わった。家族は危ないことをするなと咎めるばかりで、戦い方を教えてくれなかった。でも、姉を眺める気持ち悪い目を打ち払うのに、僕は戦い方が知りたかったのだ。泣きつく僕に彼が渡してきたのが剣だった。今思うと嫌がらせだったのかもしれない。僕は一度も彼に勝ったことがない。

 気づくと方々から、剣戟の音がする。あちこちで戦闘が始まっているようだ。
「どうしたよステイシア!王子様に飼い慣らされてすっかり骨抜きか!?姉貴が死ぬ前の方が強かったんじゃないか?」
 ギャン、と刃の軋む音が響く。
 破裂の槍というのだったか、マイクランの振うそれには先端に不気味な返しが幾つもついている。どの方向から剣を滑らせても、すぐに切先を絡めとられて戦いにくい。
 もっと低く、槍を取り回せないほど近くから、突っ込まないと……。ああでも、これも彼に教わった戦法だ。
「クラン、もう辞めよう。本当に殺されてしまうよ」
「うるせえ!もとより生かす気なんてないだろうが!」
 辺りで響く戦いの音が次第に激しくなっていく。おそらく、後方で分断されていた生徒たちがここまでたどり着いたのだろう。敵の数は多いが、数量で押しつぶされるほどではない。ここまで戦ってきた限り、全体の練度はこちらの方が勝る。各個撃破されないように立ち回れば、いずれ、こちら側の勝利で決着がつくだろう。
 僕と彼だけで踊っていられる時間も、もうじき終わる。
「俺よりもてめえの心配をしたらどうだ!」
 上段から槍が振り下ろされる。
 剣の刃を沿わせるようにして逸らす。相変わらず重い。力に任せて扱っているのか、槍の軌道が読みやすことだけが救いだ。でも、手加減されているだけの気もする。
「逆恨みして何が悪い!理不尽に抗って、欲しいもんに手を伸ばして、何が悪い!?お前はいつまで黙っている気だ?それとももう諦めてんのか?てめえを欲しがる馬鹿どもに毛の一本まで全部くれてやる気かよ!」
 マイクランが吠える。目が爛々と光っていた。
 あれが憎しみだろうか。だとしたら、僕の目も同じように光っているだろう。
「なにもかもフィラムと一緒か!?馬鹿の一つ覚えみたいによお!」
「……うるさい!」
 言葉と一緒に地面を蹴った。また、誰かの静止の声が聞こえたが、聞いてやる気なんてない。何もかもが我慢ならなかった。
「わかってるよ!銀の小鳥だなんて糞食らえだ!銀でもないし、鳥でもない!姉さんは人間だったのに!僕の姉さんだったのに!」
 マイクランは突き、僕は上段から振り下ろす。剣と槍の刃がかち合って、火花が散った。
「姉さんを千切らないでよ!」
 僕は叫んだ。
「そうだよ!一緒だよ!一緒だったのに!なんで……なんで姉さんからわざわざ奪うんだよ!そんなに欲しいなら僕を千切ればいいだろうが!」
 髪だって腕だって、全部くれてやる。望まれるだけ踊ってやる。汚い顔で笑ってる奴らに微笑んでやる。死んでくれって……。それでいい。だって誰も、僕の心は奪えないのだから、その自由さえあれば、それで十分なのに……。
 地位も名誉も、誇示したいなら、それに見合ったものが他にたくさんあっただろう。美しい宝飾品や、素晴らしい武具だって、力のある者なら、いくらでも手に入れることができたはずだ。
 それをなぜ、他人の命まで欲しがるのか。なぜ、自前のそれで満足できない?
 自分が醜いことを知っているから、美しいものが欲しいのか?
 光にまとわりつく羽虫みたいに。
 奥歯を噛み締める嫌な音が耳の奥で聞こえた。
 槍が迫る。僕の胴を薙ごうとする。避けるため後方に飛んだ。
 すぐ、しまったと気づく。さっきと同じだ、また追撃が来る。そう思ったけれど、マイクランは槍を構えたまま待っていた。
 なにをだ?目を細める。
 多分、僕が全部吐き出すのを待っている。なぜそんなことが必要なのか分からない。言葉なんて、空気に溶けて消えるいくばかりで、何も残らない。聞いた人間もそのうち忘れる。剣にも盾にもなりはしないのに。
 それなのに、なぜ黙していることを許してくれないのか。何もかもぶちまけることが、マイクランにとっては抗うことなのか。何かを勝ち取るために必要なのか?もう、何も欲しくないのに……。
「姉さんは……この国が好きだったんだ。綺麗だって言った。でも……僕の目が腐ってるのかな?とても、そうは思えない。もう、こんなものは見ないで欲しい。見守っても欲しくない。目を閉じて、ずっと、何も知らないままいたらいい。僕は姉さんの上で踊る、ずっと、誰もあの人を見つけられないように」
 上っ面の称賛も、気持ち悪い目も、汚い手も、何も姉に触れない様に。
 何も見なくて済む様に。
 彼女はこのまま地面に沈む、僕が沈める。
 決して、天上になんて行かせない。
 弔いなんてしない。
 なぜそれを咎められなければならない?
 駄目だと言うのなら、誰か、美しい絵を描いて欲しい。
 彼女に見せられるだけのものを……。
 でも、誰にも、そんなことできっこない。
 剣を握りしめた。
「……僕は間違っている?」
「お利口さんぶりやがって……抵抗の仕方が違えんだよ!」
 マイクランが槍を脇に構えながら突っ込んでくる。
「てめえと俺は同じ穴のムジナだ!なぜ、正しく怒れない!?俺たちにはやり返す権利がある!与えられるまま、のうのうと生きてる奴らに思い知らせてやるんだ!奴らが得たものが何なのかを!ただ奪われる側の苦しみを!」
 飛んだら追撃されると分かっていたから、姿勢は低く、刃を寝かせて軌道を逸らす。ぎゅいぎゅいと剣が苦しそうに泣いている。なるべく相手の刃より先、槍の内側を目指した。
 結局これしかない。しかし、向こうも承知の上らしく、なかなかうまく進んでいけない。何度目かの剣戟が響く。
 剣を構え直しながら、なぜこんなことをしているのだろうかと考えた。
 この人が姉さんを奪ったわけじゃない。一緒に怒ってくれたじゃないか。今も怒ってくれている。彼に今更当たり散らしたところで、しょうがない。一体、僕はどうしたかったのだっけ。
 彼を止めて、槍を取り返して、王国に戻って……それから?姉さんのためには踊らないのに、あそこに戻る必要なんてあるだろうか。
 叶うなら、一緒に逃げたかったな。王国じゃなくて、誰も僕らを知らない所まで。姉さんもきっとそうだったろう。
「でも、もう同じになれないよ……マイクラン」
 打ち捨てられた村を見た時から、何かが醒めてしまった。あれは僕らだったろう。でもまだ、全てを壊す気にはなれない。何かが足を引っ張っている。
 マイクランが槍を振り切ったところで側面目掛けて突っ込んだ。彼は手の中で槍を回し、柄で僕の足元を掬う。
 引き倒される。立て直そうと身をひねったとき、マイクランが僕の右腕を踏んだ。次いで胸。骨の軋む音がする。喘ぐと槍の切先が目の前に突き立てられた。
「……動くなよ。少しでも動いたらお前の顔に風穴開けてやる。ああ、でも人前に出れねえような顔にしてやった方が見世物から降りられるかも知れねえな……」
「止せ、マイクラン!」遠くでディミトリの声がする。
 目だけ向けると、あらかた片付いたのか、人が集まりつつあった。
 これで戦いはおしまいだろう。また、マイクランに勝てなかった。一度くらい、勝ちたかったのに、もうずっと、勝てないかもしれない。僕が死ぬのか、彼が死ぬのかはわからないけれど。
「……兄上、破裂の槍を手放して投降してくれ。そいつひとり人質にとったくらいじゃ俺も殿下も止まれない。あんたの盗み出したのはそういうもんだ。……もう兄上だってわかっているでしょう?ここまで追い込まれた時点で詰みだって」
 シルヴァンが静かな声で語るとマイクランはまなじりを釣り上げた。
「紋章持ちのお嬢さんがわかったような口を聞くんじゃねえ!」
 マイクランが叫ぶと急に、破裂の槍の、その先に嵌め込まれた紋章石が、赤く輝き出した。今まで眠っていたものが叫び声で叩き起こされたみたいに、突如黒い何かが吹き出して蠢く。
「なんだ!?う……うわっ」
 拘束が緩くなり、なんとか身を捩る。咳き込みながら体を起こすと、槍から吹き出した何かがマイクランの腕に巻きついていくのが見えた。
「な、なんだよ……何だよこれ……!」
 狼狽えるように後ずさる彼はどんどん黒に浸食されていく。
 英雄の遺産にこんな力があるなんて聞いたことがない。魔術か何かが施されていたのだろうか。少なくとも、自分の知識の中に思い当たるものはない。ただ、とてつもなくおぞましいものだ。恐ろしいことが起こっているのだということはわかった。
「槍を離して!」
 叫んだ時にはもう、剣を握って駆け出していた。切らなければ、と思った。すでに黒い触手の様なものは幾重にもマイクランの腕に絡まっていて、手を解いたところで槍が離れてくれる様には見えない。それならもう、腕ごと切り落とすしかない。
 暴れ回る黒色の間をぬって、なんとかマイクランの腕に手を伸ばす。
 掴んだ、と思った時、手のひらに感じたのは妙な柔らかさだった。蛇の腹でも掴んでいるみたいな、弾力があって、奥の方に何かが確かに詰まっている。それは生暖かくて、脈打っていた。
 生き物みたいな――
 歯が鳴りそうだった。全身の毛穴が開くようなおぞましさを感じて、奥歯を噛み締める。
 切れ、切れ、切れ……
 いいから切れ!
 鈍い打撃音。
 振り下ろした剣が重い。粘土でも切っている様で、刃先はわずかに食い込んで止まった。
「なんで!」
 なぜ、いつも届かないのだろう。姉の代わりになれない。兄を見つけられない。この人のことも守れないのだろうか。こんなに近くにいるのに、手は届いているのに、どうしてだろう。
 やり方が違うから?僕が手を伸ばしていると思い込んでいるだけで、本当は何も掴もうとしていないのだろうか。
 マイクランへ伸ばした左手が痛かった。何かが皮膚の下に潜り込もうとしている。噛みつかれている。しびれる様な熱さ。
 ああ、でも。
 そんなことはどうでもいい。
 右手は痛くない。
 もう一度。
 もう一度剣を振ろう。
 何度もやったら、きっとできる。
 踊りだってそうだったじゃないか。
 そう思って剣を振り上げたとき、鳩尾に衝撃が走った。
 急に視界が明滅し、気づくと地面を転がっていた。
「くそが……!触んじゃ、ねえ……!ぐ、う、ああ!あああ……」
 左手よりずっと腹が痛くて、どっちがよりくそかということを考えた。
 視界が霞む。どんなに目をこらしても、世界を占める黒の割合は増していく。
 マイクランの姿を探した。けれど、そこらじゅう黒くてよくわからない。
 ああ、馬鹿野郎……嘘つき、全部、全部嘘ばっかり。
 君がやれと言うから手を伸ばしたのに、掴ませてもくれないなんて、そんなの聞いていない。
 完全に視界が暗くなる。その向こうで獣のような鳴き声がした。

 目が覚めるとメルセデスがいた。額に汗が滲んでいる。苦しそうだった。体を起こそうとすると手で制される。
「まだ動いちゃダメよ〜、腕の傷がなかなか治らなくて……、どうしてかしら〜?」
 目線を向けるとミミズ腫れが炸裂したような傷が左手に走っていて、ちょっと不気味だった。メルセデスが魔術を掛けてもなかなか治らない。漠然と破裂の槍だ、と感じる。
「利き手じゃないから大丈夫だよ」
 適当に割いた布を塞がらない傷に巻きつける。なんとか口を使って縛ろうとしたら、メルセデスが手伝ってくれた。
「ありがとう」
「お礼なんていいわ〜、私、治せなかったもの」
 メルセデスが悲しそうにいう。前線から獣の叫びが絶え間なく聞こえ、僕も、なんだか悲しい気がした。
 もう諦めているのか?とマイクランの声が頭をかすめた。

 長い長い咆哮のあと、黒い獣が地に伏せた。動かなくなった巨躯は夢のように霧散して、跡には傷だらけのマイクランと槍だけが転がっていた。
 シルヴァンが槍を拾い上げると、それは喜ぶように一瞬また赤く光り、蠢いた。周りが身構える。でも、それだけだった。息を吐くように光は収束し、やがて静寂が訪れる。マイクランもずっと静かなままだった。もうこの先ずっと、そうなのだろう。
 結局、全部ぶちまけただけで、何も守れなかったな。
 情けなくて泣くかもしれないと思ったけれど、涙は出なかった。頭がずっと痺れたみたいにぼんやりしていた。すごく疲れていて……、眠りたかった。それが逃避だとわかっていた。


 コナン塔へ向かうときと同じように馬車に乗って帰った。荷台がごとごと揺れて、遠くでまだ雷が喉を鳴らしている。東の空が白んでいて、もうじき朝になりそうだった。誰も彼も沈黙している。みんな眠っているのかもしれなかった。
 僕も眠ってしまおう。だって、あんなに疲れていたじゃないか。
 そう思って目を閉じるのに、どうしてだか眠れない。仕方がないから、ずっと目を瞑って、背中で馬車の揺れを感じていた。左手が痛かったし、蹴られた腹もずっと痛かった。多分、そのせいで眠れないのだろう。
 痛いなあ、痛いなあ。
 僕のいうことはちゃんと聞いてくれないのに、痛い時は責め立ててくるのだから、この体は厄介だ。
 うんざりしていると、誰かの手が肩に触れる。何度か控えめに揺すられた。
 僕は無視をした。しばらく、何にも煩わされたくない。
 誰かの手は諦めたのか、僕の目の下を一度だけ擦っていく。
 お節介なやつ。
 みんな、お節介だ。腹なんて蹴ってくれなくてもよかった。僕の目は腐っているし、流れ出るものだってきっと汚いのだから、放っておけばいいのだ。


 修道院に戻った後、しばらくぼうとしていた。報告はギルベルトがしてくれて、僕は来なくていいと言われた。メルセデスが医務室まで連れていってくれて、彼女とマヌエラが、二人がかりでまた僕の左手に魔術を掛け直す。状況はほとんど変わらなかったけれど、薬を塗って今度はちゃんとした包帯を巻いてくれた。二人とは、お礼を言ってそこで別れた。
 修道院内をふらふら歩く。ルーベンクラッセの生徒たちとは会わなかった。みんな部屋で休んでいるのだろう。他の知り合いに時々遭遇したけれど、みんな口々に「部屋で休めば」というので僕は毎回、頷いて別れた。それである程度、納得してくれるらしかった。だけど本当は、部屋は息がし辛い気がして戻りたくなかった。
 どうしようかと考える。
 しばらくは踊りたくなかったし、お墓も見たくなかった。間違ってもマイクランはここに弔われないし、姉にも合わせる顔がない。結局、寄る辺がなくて夕方頃に大聖堂脇のテラスにたどり着いた。もう習性なんだろうなと笑う。それでも一向に踊る気にはなれないから、欄干に腰掛けて、だんだん暗くなっていく森を眺めていた。
 森の上空、鳥が風に煽られて、ふらふらと飛んでいる。何度も羽をはためかせ、安定した風を探しているようだった。やがて、風に乗ったのか翼を大きく広げて旋回に入る。しかし、一瞬の間に広げた翼が垂直に傾いた。上の方で突風が吹いたのだろう。均整を損なった体はくるくると木の葉のように森へ向かって落ちていく。
 鳥でも墜落することがあるのだろうか。
 初めて遭遇する場面だったから、僕は目を凝らして、その姿を追った。
「ステイシア」
 急に、背後から声が聞こえて振り返る。少し離れたところにディミトリが立っていた。
 僕は驚いて、どうしたの、と呟いた。しかし、聞こえていないかもしれない。
 風がずっと吹いている。轟々と、耳元を吹き抜ける音がする。それは、僕の声より遥かに大きいと思った。
 ややあって、ディミトリがテラスの端まで歩いてくる。何か細い糸の上を歩くような足取りだった。彼は、僕から一人分の隙間を開けて、欄干に手をかけた。
「すまなかった」
「なぜ君が謝るの?」
 ディミトリの言葉に首をかしげる。理由を想像すると、いろいろなことが浮かんだけれど、秘密もなくなった今となっては、何もかもがどうでもよかった。
「何も知らなかったのに、お前を責めた」
「それはだって……僕も、誰も、君に教えなかったんだもの。仕方がないよ」
「だが、俺は知っておくべきだった。王家の人間として」
「知ってどうするの?何か変わるわけでなし。ただ、悲しいだけだ。それなら、知らないままでいて欲しいよ。その方がずっと、気楽だ」
「しかし、知らなければ、変えようとしなければ、何も変わらない」
「じゃあ君が知ったから、僕はもう少しまともな死に方をするかもね」
 欄干の先、空中で足を揺らす。
「僕の髪の毛、ご利益があるんだって。お守りにしたいから一房売ってくれないかって再誕の儀の後、何度か頼まれたよ。昔、拐われかけたとき、目の色がいいからバラしても高く売れるって言われた。血とか肉とかも、そこそこの値がつくって。そう言う人たちに、こいつはそこらにいるのと同じ、ただの人間で、価値なんてないよって、君は言って回るの?」
「必要なら、そうする」
「無理だよ」僕は首を振った。
「コップの水に色が変わるほど血を注いでさ、それを元の透明に戻すのに、どれくらい労力がかかるだろう。大きな器に移し替えて、うんと水を注げば薄まるかもしれない。それか、もう濁った水は捨ててしまって、新しい水を注ぐとか。でも、君にはどっちも選べない。器はすぐには変えられないし、水を捨てるなんてもっとできない。それで、そのうちに僕たち干からびてしまうよ」
 僕はディミトリを見た。彼も僕を見ていた。
「だって、君は国を愛しているもの」
「お前にとっては……そうではないのだな」
「どうだろう……昔は好きだったかもしれない、好きになろうとした。でも、今はわからないな。ファーガスはすごく寒いし、ご飯もあまり美味しくないし、僕たちは……玩具みたいなものらしい」
「……すまない」
 ディミトリが顔を逸らす。
「でも、君のせいじゃない」
 この人は下手に力が強いから、余計な荷物まで持ちたがる。だからそこらじゅうにそれが転がっていることをなるべく知らないでいて欲しかった。残骸の上に立っていると知らなければ世界は綺麗だ。上澄だけ見ていて欲しい。それが叶わないならいっそ、めくらになって欲しかった。
「言ったでしょう?全部成り行きだって。君はブレーダット家に生まれたけど、君がそのままファーガスの全てじゃない。国は国としてずっと前から在るし、君は君でここにいるし。君に悪意があったわけでもない。それにこの国だって、本当は……。一応、わかっているつもりなんだ」
 目を伏せる。揺れる爪先が見える。でも、足元なんて見ない方がいいのだろう、本当は。
「多分これって、きみの好きなものを、たまたま僕が苦手だったってだけの話なんだよ。何も謝るような話じゃない」
 ディミトリは僕の話を黙って聞いていた。彼は森の方を見ている。欄干の上に置かれた手が強く握られていた。
「それとも、君は許せないかな?君の好きなものを同じように愛せない人がいること」
「そんなことはないが……」
「僕ね、君の大切なものが、大切なまま、君の目に映ればいいなって思うよ。僕と同じ悪魔を見て欲しいとは思わない。姉さんもきっとそうだったと思う。嫌なことも悲しいことも何も教えてくれなかった。僕がうんざりするくらいには、きっと姉さんにだって、色々、あったはずなのに。何も知らないでいる僕をそれでも好きだと言ってくれた。だからディミトリも、何もかも知ろうとしてくれなくていいよ」
「だが……それは何もかも見捨ててしまっているのと何が違う?お前が痛みを感じる時、悲しいと思う時、人の中にあってお前は一人だ。誰もお前を知ることはなく、誰もお前に触れられない」
「それの何がいけない?」
「寂しいだろう」
「寂しい?」誰がだろう。「僕が?」
「分からない」ディミトリは目を閉じて首を振った。「……俺かもしれない」
「……ふふ、なあにそれ」
 それはそうだ。
 寂しいだろう。寂しいことばかりだ。
 けれど、それの何がいけない?
 人の肉の先、肋骨の奥、見たこともない心とかいうもの。不可視の鱗に覆われたその先に手を差し入れて、人肌の毒を塗る。きっと夢みたいに心地いいだろう。
 頭がくらくらして、
 何もかもが鈍っていって、
 境界は曖昧に、
 寂しいことすら忘れて、
 もはや何も不足はない。
 そして、
 恐ろしく気持ちが悪いだろう。
 血の味がするだろう。
 それを甘美に思うだろう。
 全てを貪ろうとするだろう。
 尊厳など忘れて、君を踏みにじるだろう。
 それならば、寂しい方がどれ程マシか。
 びゅうと、一際強い風が吹いた。髪が逆巻き、服の裾が翻る。ディミトリの姿が見えなくなった。視界を覆うそれを払おうと手を伸ばす。
「ステイシア!」
 宙に伸ばした手をディミトリが掴んだ。左手だ。猛烈に痛かった。痛くて、熱くて、焼き切れるかと思った。思わず顔を歪めると、開けた視界の先、どこからか飛ばされてきた花びらが滑っていって、僕はお墓のことを思い出した。
 供えた花が散っただろう。
 前を向くと、ディミトリは僕の手を掴んだまま、泣きたいような、ほっとしたような、形容し難い顔をしていた。
 あーあ、
 風が吹くことと花が散ること、
 姉が死んだこととマイクランが僕に色々吐き出させたこと、
 君が変な顔をすることと僕が欄干に座り続けることも、
 全部、別々の出来事だ。違うのか?
 繋がらなくていい。無関係なままでいい。一緒に倒れてしまうより、その方がずっと僕は幸せだ。でも、彼はどうだろうか?
 花びらの行方を追って森に目を向けると、墜落したとばかり思っていた鳥が森の先端すれすれで再び旋回をしていた。羽を激しくはためかせ、何度か高度と傾きを調整する。やがて、ちょうど良い頃合いを見つけたのだろう、滑空の姿勢に入り、そのまま緩やかに森の影へと消えていった。


目次next→