また一週間が過ぎた。フレンはまだ見つかっていない。
捜索範囲は広がり続けていて、周囲の村や街道の先まで足を伸ばすことになった。報告も定例化していて、誰も口には出さないけれど、諦めの空気が漂っている。セテスの顔色はもはや土気色だった。
僕はというと、今日は外回りを命じられ、馬の背に揺られていた。
ガルグ=マクや外郭の街を超えて東に進むと、厳しい傾斜の坂道が次第になだらかになり、丘陵地帯が広がる。緩くうねる地表は麦の穂に覆われていて、巨大な生き物の滑らかな毛皮のようにも見えた。毛皮の色は光の加減で金色や、濃い赤銅色に変化して、風が吹くと、艶やかな反射光が波のように流れていく。
舗装も何もない、畦道のようなこの街道は同盟領のミルディン大橋まで続き、その先は帝国領のグロンダーズ平原へと続く。あの平野では毎年、鷲獅子戦と銘打った学級対抗戦が行われる。士官学校の年中行事としてはかなり大規模なものだ。大樹の節にあった対抗戦が練習で、飛竜の節の鷲獅子戦が本番と言っていい。猊下も現地に赴いて観覧するのが恒例のため、騎士団としてもやることが多い。僕も会場の設営や護衛の任務で何度か赴いたことがある。
今年はどうなるのだろう。大樹の節は盗賊たちが捕まらなくても開催された。襲撃の危険性と僕にはわからない何かが比較されて、きっとわからない側が選ばれた。
今度は一人の女の子が消えたことと、教会の威信や士官学校へ通う生徒たち、彼らが属する家々への面子とで、また重さを比べるのだろう。
測ること自体はきっとそう難しいことではない。尺度を決めて、重しを整えればいい。けれど、その行為はどうしてだろう、あまりにも異様でうそ寒い。血の気が引くような……。
考えて頭を振る。
少し先、同じように馬に揺られる同僚の背中。さらにその向こうに金の平野。
収穫を間近に控えた麦穂が重そうに垂れ下がり、絶え間なく、ざあざあと鳴いている。雲は手が届きそうなくらいの高さにいて、それらが麦の上に落とす影は波に流されるように、どんどんと形を変えて移っていく。風が出てきた。雨が降るかもしれない。
もう少し、速度を早めて進もう。そう提案するために、手綱を緩め、腿に力を込める。馬の頭が下がって、だんだんと歩幅が広くなる。同僚の背中が少しずつ近づいてきた。
しばらく早足で進んだ先で、同僚が馬を止めて振り返る。
「そろそろ戻ろう。報告の時間に遅れる」
「でも……もう少し先まで見に行ったらダメですか?雨が降る前に」
「しかしだな……」
彼の言いたいことはわかる。もう二週間が経っている。雨で消えるような些細な痕跡が今まで残っている可能性は低いだろう。
「うん、だから僕だけで行きます。今日は報告さえ終われば、交代で休息に入るでしょ?僕のことは、具合が悪いから先に部屋に戻ったとでも言っておいてもらえれば、それで」
「……仕方ないな。じゃあ、お前はここであがりだ。暗くなる前には戻ってこいよ」
「ええ、ありがとう」
同僚が手綱を引き、馬の向きを変える。彼は一度こちらへ手をあげると、そのまま来た道を帰っていった。蹄の音が遠くなっていく。
「二人になっちゃったけど、もう少し付き合ってね」
馬の首筋を撫でると、ぶぶぶ、と応えるように鼻を鳴らす音が聞こえた。
「ありがとう。じゃあ、行こうか」
田園の間を進んでいくと、しばらく前に遠ざかったはずの蹄の音が再び近づいてきた。同僚が戻ってきたのだろうかと思って振り返ると、去っていったのとは別の馬が近づいてくるのが見えた。その背の上で、青い外套がはためいている。
「いたぞ、ステイシア!」ディミトリが馬上から叫んだ。「フレンが見つかった!」
駆け寄ってくる馬の奥には砂煙が上がっていて、ずいぶんと速度を出しているのがわかった。ディミトリ達は勢いそのまま、どんどんと近づいてくる。慌てて自身の馬を道の脇に寄せると、彼らはずいぶんと道を行き過ぎてから、ゆっくりと止まった。
馬の扱いには慣れているはずなのに珍しいなと思ったけれど、頭が彼の言葉を処理するうちに色々なことがどうでも良くなって、気づくと地面に飛び降りていた。
「ホントに見つかったの!?」
駆け寄ると、ディミトリが振り返る。頬が上気していた。
「こんなこと、冗談で言うものか!」
彼は馬上から身を乗り出すと、横に立った僕の肩に触れた。
「彼女は無事だ!よかった、本当に……」
言うだけ言うと、ディミトリは深く息をつき、目を瞑った。ずいぶんと安堵している様子だった。肩に置かれた手に重さがかかる。
「ディミトリ?」
名前を呼ぶと、彼は目を閉じたままで、こちらに乗り出した上体が崩れ落ちてくる。
「え?」
とっさに腕を伸ばして、肩口にぶつかってずり落ちる頭を抱えた。完全に脱力しているのか、のしかかってくる体は重く、背中が後ろへ傾く。空いた手で彼の乗ってきた馬の手綱を掴んだ。視界は下半分がディミトリの体で、残りが空。いつの間にか灰色になった雲がだんだんと視界の隙間を埋めていく。手綱が手の中で引き戻されて、様子は見えないけれど馬が嫌がっているのはわかった。ごめんだけど、耐えてほしい。
なんとか体制を立て直そうと、腹に力を込めて足を半歩後ろに引いた時、ざあと鳴く風の音と一緒に、甘い匂いがした。
手が緩み、中指に一度引っかかって手綱が離れる。
「あ」
そこら中からかき集めていたはずの力が霧散して、膝が折れた。なんで、と口の中で唱えるうちに背中から地面にぶつかって、衝撃に頭が揺れる。
息が苦しい。
けれど、それが上から押し潰されているせいなのか、別の理由なのかよく分からない。二人分の体重でもって叩きつけられた背中が痛かった。どうにも夢ではないらしい。
「……ディミトリ!しっかりして!」
僕の上でうんともすんとも言わない人の肩を揺らすと、されるがまま揺れる額に汗が滲んでいるのが見えた。首筋に手を当てるとじっとりしていて、ひどい熱だった。
「……なんで夢じゃないんだ、これ」
喘いで目を閉じると、冷たいものがポツリポツリとまぶたに当たる。寝るなと叱責されている。
歯を食いしばって、腕に力を込めた。地面とディミトリの間でなんとか体の向きを変え、両手で今度は地面を押す。背中から滑り落ちそうになる体を腕を掴んで押し留め、膝を曲げた。
重い、重い、重い。
鍛錬ばかりしているから、こんなことになるんだ。
胸の内で悪態をつき、震えて笑いそうになる膝を一歩ずつ前へ出す。
額から汗がにじみ、降ってきた雨に混じって流れ落ちる。それが目に入るたび視界が霞んだ。雨は冷たいはずなのに、全く寒さを感じない。身体中が熱かった。僕だけであればびしょ濡れになっても構わないくらいだと思ったけれど、背中の彼をそうするわけにはいかないから、とにかく進むしかない。
少し戻ったところに小屋があったはずだ。行きに中を検めた時は農機具や麻縄が放り込まれているだけの納戸だったけれど、雨風を凌ぐだけなら十分だろう。
背後から控えめな足音が近づいてきて、馬がディミトリの外套を食んで引いた。
少し重さが和らぐ。
もう一頭が遠くに見える小屋に向けて道を先導し始めた。
「君たち、ほんとに、いい子だね……」
上がる呼吸に辟易しながらつぶやいた。馬の尾がくるくると手招きをするように揺れている。けれど、見ているものが本物か、僕が目を回しているだけなのかはわからない。
麦畑の中を突っ切って進んだ。
馬が先を進んでくれるけれど僕の足が彼らほど上がらないから麦の稈に足を取られて転びかける。芒が頬を引っ掻いて痛い。膝が震え、何度もくすんだ金色の中に沈みそうになった。息がずっと苦しくて、麦畑で溺れているみたいだった。陸上で溺死なんてクソみたいな冗談と思って笑うと息が詰まる。
がさついた咳が出た。
呼吸の度に何もかもどうでもよくなる。全て投げ捨ててしまいたい。彼も、この体も、ひどく重い。
自棄を起こしそうになる度、口の中の肉を噛んで耐えた。痛みでどこかに行きかける理性が足を止める。僕より先に進むんじゃないと何度も言い聞かせた。
小屋に着く頃には口の中が鉄の味でいっぱいになっていた。
馬たちが小屋の脇の馬車寄せに落ち着くのを横目に、戸に肩を打ちつけて無理矢理中へ押し入った。
足がもつれて小屋の中に倒れ込む。膝やら顎やらを打ち付けて痛かった。土を踏み固めただけの床から乾いた埃の匂いがした。
僕のたてた物音で目が覚めたのか、背中からディミトリの呻き声がする。
「……ステイシア?」
「だからあ……あれほど早く寝てって……言ったのに!」
無理がたたって急に発作が出たのだろう。
片方の腕を軸にして上体を起こし、ディミトリを床に転がした。彼の頭の方まで這いつくばって移動して、脇に腕を差し入れる。なんとかつま先まで屋根の下に収めたところで、尻餅をついた。衝撃で唾液が気管に入る。顔を逸らして咳き込むと、赤の混じったよだれが落ちた。
「いったい、なに、が……だいじょうぶ、か?」
ぼんやりした声が背後から聞こえる。布ずれの音がした。
「こっち、こないで……それより、君、薬は?」
「あ?……くすりって、なん……いや、部屋に……」
「ああ……もうダメだ、最悪……」
口元を手で拭って、右脇のポケットを弄ると冷たくて硬いものが指先にぶつかる。震えて言うことを聞かない手でなんとかそれを引っ張り出す。振り返るとディミトリが上体を起こして座り込んでいた。声に負けずぼんやりした顔をしている。
握った瓶を彼に突き出す。
「これ、僕のだから、量、足りないけど……とにかく飲んで」
「いい……俺より、お前が……」
ディミトリが弱々しく首を振る。
腹が立った。このまま、動けないままで、また僕に襲われたら彼は一体どうするつもりなのだろう。そんな事は絶対に許せない。大体、助けを呼びに行くにしろ、薬を取ってくるにしろ、この状態を放置する訳にはいかないのだ。もしも今、敵が現れて剣を突きつけられても、彼はろくに抵抗できないだろうから。
にじり寄って、瓶の栓に手をかける。引き抜いて、栓を投げ捨てた。そのまま、ディミトリの顎を掴む。
「なに、を……」
「いいから、飲め!」
無理やり口に瓶を押し当てて中身を流し込んだ。瓶の縁と歯がぶつかる硬い音がする。ディミトリの肩が上がった。吐き出す前の予兆だと思って、瓶を手放し、口を塞ぐ。喉仏が上がる様を見たのと、腕で体を振り払われたのがほとんど同時だった。
踏ん張っていられず、また尻餅をつく。ディミトリは背中を丸めて咳き込んでいた。
頭が痛い。
小屋の中にいるのがいよいよ辛くなってきた。息を吸うと、もうそれだけで頭がおかしくなりそうで、とにかく外に出たかった。喉がひゅうひゅうと鳴る。
「薬……薬とってくるから、絶対ここから動かないで……人が来ても、返事しちゃダメだよ……」
丸まっているディミトリの背に声をかけながら、開けっぱなしの扉を目指す。視界が明滅し、時々あたりが暗くなる。耳の奥で轟々と音が聞こえた。首をかしげる。
外は嵐だったろうか?細い糸みたいな雨が降っていたことまでは覚えている。けれど、その後のことは曖昧だ。鳴っているのは雷だろうか?暗いのは夜だろうか?馬達はどうしただろう、小屋の外にいるのだったか。
ああ、薬、薬が欲しい。
でも、なんでだったか。僕はそれを探していたのか?フレン、彼女がいなくて……でも、もう見つかったのだっけ?それなら、今は何をしているのか……。
足がもつれる。
体が傾き、
誰かが僕の手を引いた。
甘い匂いがした。
目の奥がじりじりと痛み、なんとか薄目を開けるとディミトリが見える。その向こうは剥き出しの屋根の骨組み。焦点が合っていないのか、単純に薄暗いのか、よく見えない。もっと目を開ければ見えるだろうと思うけれど、頭が痛くてうまくできなかった。
この人、何をしているのだろう。さっきまでちっとも動けなかったのに。でも、さっきっていつだっけ?僕たち、どうなったのだったか?
胸ぐらを掴まれて息が苦しい。ぶつぶつと何かがちぎれる音がして、小さくて硬いものが顎にあたる。
「痛……」
何かが転がる音を追うと、顔の横にボタンが落ちているのが見えた。まさかこれって、僕のボタンだろうか。
「ディミトリ、やめて……」
抵抗しようとして、やっと体が動かないことに気づいた。組み引かれているようで、左手が酷く痛んだ。目を向けると手首を締め上げられていて、動かしている感覚もないのに指先が震えている。やっと前の怪我が治ってきたのに、また痣になるだろうなと思った。
右手で胸ぐらに伸びているディミトリの腕を掴むと、素気無く振り払われる。床に落ちた掌の上に籠手が押しつけられた。金具が掌を擦る。何を要求されているのかわかって、血の気が引く。少しだけ頭がはっきりした。
「ディミトリ、ダメだ、しっかりして」
必死に言い募るとディミトリの頭が近づいてきて、首筋を噛まれた。痛みに目を瞑ると、右手の爪が金属を叩く音がする。歯を食いしばって耐えた。どうして、僕ではなくて彼の言うことを聞こうとするのか。僕の手なのに。いつも、本当にどうにかしたい時ほど言うことを聞いてくれない。
唸っていると、ぬるついたものが首筋を這い、強く吸われた。一瞬、熱い。水音が鳴る。
「いやだ、絶対にやだ……」
ごねる僕に苛立つように、上に乗った体が身じろぐ。
次の瞬間。
左手でパキン、と乾いた音がした。
頭からつま先まで針を通されたみたいに冷たい痛みが走る。額から汗が吹き出した。叫んだと思ったけれど、喉から出たのは言葉にも音にもならない空気の漏れだった。いつの間にかまた口の中を噛んでいたようで、血の味がする。固く目を瞑ると、目尻から涙が頬を伝い、耳に入った。音がぼやつく。
寒いのだか、熱いのだか、わからないけれど、体が勝手にガタガタと震えた。右の指先が何かに引っかかって、金属の擦れる音が遠くに聞こえる。何かを弾いた感触があった。
どうしよう……。多少でも体が動く様に、とは思ったけれど、まさかこんな事になるとは思わなかった。泣きたい気持ちになったけれど、もう泣いてしまっているからどうしようもない。冷たいだけの籠手を握りしめると、中身が抜けていくのが振動で分かった。
大きな手が胴を這う。
上から、肋骨を一本ずつ数えるようにだんだん下がっていって、親指が腹を押す。へその下を通って腰骨の位置を確かめられる。
もう片方の手が頬に触れ、なめし革越しの指が口に押し付けられた。開いた隙間から歯の境に固い爪先が押し込まれ、無理やりこじ開けられる。熱くてぬるぬるしたものが入ってきた。
嫌だ。
口の中の噛み傷を執拗に嬲られる。息が詰まって変な声が漏れた。
ぐち、ぐち、と粘着質な音がする。
気持ち悪い、
いや、
気持ちいい?
どちらだろう、わからない。思考がぼやける。何もかもが曖昧な方へ収束していく。
理性を積んで作った砂山を上から少しずつ削っていくような。吹いたらそれだけで消し飛ぶのに、わざわざ痛ぶるように弄んでくるのは意地が悪いと思う。
とにかく、目の前の出来事を見ていたくなくて、目をずっと瞑っていた。
やがて、口の中に押し込まれていたものが引き抜かれ、喉の奥に熱が流れる。思わず咳き込むと、上からぼたぼたと生暖かいものが降ってきた。それが額や鼻先にぶつかって口の方へ垂れる。肌を滑る感触がぞわぞわして背中が震えた。もうこれ以上、何かを飲まされるのは嫌だ、と思うのに息が苦しくて口を閉じていられない。多分、陸に打ち揚げられた魚みたいだったと思う。
生暖かいものが口に入って、舌にのる。
それは、塩っぱくて、甘い味がした。
本当に、嫌だ……。
なんとか目をこじ開けると、ぐずぐず泣いているディミトリが見えた。
「すまっない、ステイシア、すまない……」
また、生暖かいものが降ってくる。
可哀想に。
こんなこと誰も望んでいないのに。
咳が漏れる。
目があった。
「……ねえ」僕は自分の左手を見た。「手を握って……」
「無理だ、できない」
ディミトリが嫌々と首を振る。
「無理じゃない、できるよ……僕は大丈夫」
いま、ここで二人ともおかしくなったら、最悪の気分だろうけれど、代わりに、それで終わりにできる。きっと二度と言葉なんて交わさないし、一緒にいようだなんて思わないだろう。もう彼を傷つけることもないし、気持ち悪い思いをしなくて済む。それで永遠にさようならだ。
多分、そのほうがずっと優しい。一思いに済ませてしまったほうが結果的には悲しみも痛みも少ないはず。自分の中に収まるものだけで生きていける。うんと身軽で気安い。
また傷つけてしまったら、責任を負わないといけない。ずっと彼のことを考えて生きていかなくてはいけない。自分のことだけで手一杯なのに、こんな重いものは抱えられない。もう、どこにだって歩いていけなくなるだろう。
相手を負うことも自分を負わせることもしたくない。いつだって、自由でいたい。
それだけが望み。
それだけが理想。
でも、泣かれたら、困る。
彼の中にも色々と許せないものがあるだろうけれど、呑み込んで、目の前に立っていてもらわないと困る。
そうでないと霞んでしまう。
僕は、僕だけの望みで生きていたいのに。
「……僕たち、まだ、大丈夫だよ。大丈夫にしよう。嘘なんて嫌だ」
駄々を捏ねている。
四年前と同じ轍を踏んで、僕たちは何も変わってなんかいなくて、それでも君は大丈夫だと言ったのだから、今と、君が笑った日と、何が違うというのか。
ディミトリは僕の上で何かをこらえるように目を細める。眉間に深い皺が刻まれ、歯がカチカチと鳴る。肩が震えていた。
「大丈夫だから、握っていてよ」
右手を頬に伸ばすと火傷しそうなほど熱い。けれど、指を伝って肘まで垂れていく涙はもっと熱かった。
彼の手が躊躇うように僕の左手に触れる。少し動かされただけでとても痛い。笑っていようと思ったけれど、無理だった。
ディミトリが何か、譫言のように声をこぼすけれど、意味はわからなかった。言葉になっていなかったかもしれない。
「だいじょぶ、まだ、ぜんぜん、いける、大丈夫だから、がんばろ……負けたらだめだ……」
なんとか声を絞り出す体の内側で、全部、滅茶苦茶にしてしまえばいいじゃないと夢みたいな心地の僕がささやいている。何もかも今更だったじゃないか、わかっていただろうって。
その度に左手が痛んだ。
わかってる。ディミトリの言葉が夢物語なことくらい。なんの根拠もない、かすかすの希望だけが込められた言葉。
でも、素敵だと思った。
今ここで共倒れしなければ、それで少しは時間稼ぎになるかもしれない。まだ、夢を見ていたい。虚構でも出鱈目でも、それでも、素敵だ。自分が痛いくらい、いいじゃないか。まだ、マシ。今更にしてしまうより、ずっとマシだ。
どのくらい時間が経ったかわからない。何もかもがぼんやりしていて、もしかしたら眠いかもしれなかった。
多少は体の自由がきくようになったのか、ディミトリは人の上で蹲ったまま、ずっと唸っている。肩口がじっとりと湿っていて、シャツが肌に張り付く感触が少し不快だった。
様子を伺っても、頭と肩くらいしか見えない。この人、ここにつむじがあるのだな、いつも見上げるばかりだから知らなかった。あまり気にしたことがなかったけれど、後頭部の形が綺麗だと思う。
気づいたら、右手がディミトリの首の下あたりをさすっていた。肩に額が強く押し付けられる。髪の毛が肌を擦ってくすぐったい。
「嫌だ、やめてくれ……」ディミトリが小さな声で呟いた。
「ん……ごめん」
これはどれほどの悲しみだろう。どれほどの怒りだろう。全部嫌になって、もう、消えてしまいたいだろうか。
どうだろう……。
なんとなく気分は想像できるけれど、僕は彼ではないから、本当のところはわからない。うんと嫌がられるほど触れたって、わからないだろう。
外に目を向けると、ずいぶん時間が経ったと思ったのに、開いたままの扉の先はまだほのかに明るく、踏み越えてきた麦畑を斜陽が照らしていた。雨は止んだようだった。
雨露に濡れた穂がより一層重たそうに頭を垂れている。風が吹いているのか、時折、頭が揺れた。零れた水滴が鋭い葉先にぶつかって跳ねる。水の粒がもっと細かい粒子になって消えていく。そのすべてが金色に光っていた。
「見て、ディミトリ」
肩に乗った頭が少しだけ動いた。
「綺麗だね」
きっと、農家は泣くだろう。収穫間際にこんな濡れそぼってしまっては、病気になるかもしれないし、発芽して粗悪な麦にしかならないかもしれない。
けれど、今はとても綺麗だ。
明日はどうなるかわからないけれど、今はただ美しいまま、まだ何も、損なわれてはいない。
扉の先の陽光が消えかかる頃、ディミトリはのそりと起き上がり小屋の奥を物色しに行った。しばらくすると、何か乾いたものが折れる音がして足音が戻ってくる。彼の手には棒切れが握られていた。断面こそささくれ立っているけれど、他はヤスリがかけられているのか節もなくて滑らかだし、握るのにちょうどいい太さをしている。何か農具の柄を折ってきたのだろう。
「そんなことしたら怒られるよ……」
「いい、また謝りに行く」
ディミトリが僕の横に膝をついて、左手に棒切れを添えた。
「とにかく、手当てをしよう。俺は魔法が使えないから……」
また何かを探すように辺りを見渡す。
「縛るものなら、そこらへんに縄があったよ」
「流石にそれは……擦れたら痛いだろう」
擦れたら、という問題はとうに超えた気がするけれど、気遣いはありがたいから黙っていた。ディミトリは自身の肩に手を伸ばす。シワの目立つ外套が握られた。
「まって、君、まさかそれ、裂くの?」
「他にないだろう」
「いや、いやいやいや、あるよ、ハンカチある、鞄に入ってる」
「しかしだな……」
「いいから」
どれほど苦労して、その外套を洗ったと思っているのだ。僕が草臥させたものと同じ布かはわからないけれど、そうでなくとも、値の張る代物だろうことは知っている。
いつの間に投げ捨てたのか記憶がないけれど、近くに転がっていた鞄を指差すと、彼は渋々といった体で中を探る。目当てのものはすぐ見つかったようで、布を裂く音が聞こえた。
「少し触れるぞ」
ディミトリの声に頷いて目を閉じた。奥歯を噛む。予告されると恐ろしいから一思いにやってほしいと思うけれど、急に触られたら今度こそ叫んで気絶する自信もあったからなんとも言えない。
布が擦れる音がする。目を瞑っていると何をされているのかわからない。腕全体がじくじくとした痺れに包まれていて、皮膚の輪郭がどこにあるのかも曖昧だ。
「あのさディミトリ、お願いがあるんだけど」
「なんでも言ってくれ。この償いはなんでも……なんでもする」
ディミトリの声が遠くに聞こえる。
「僕のことは落馬したって言っといてくれる?」
「は?」
「それであいこにしよう……」
だんだん、寒くなってきた。自分が萎んていく感じがする。
体だけ残して、肋骨の内側で僕はどんどん縮んでいって、そのうち、もみ殻みたいな木っ端になって、どこか、暗いところに落ちていく。そんな想像をした。
ディミトリが僕を呼ぶ声が聞こえる。
何度も聞こえる。
けれど、声は小さくなっていくばかりだ。
離れていく。
でもそれはきっと、僕が離れていっているのだろう。
落ちていっているのだろう。
どうせなら、綺麗に落ちてほしいと思う。僕がいなくなった後で、残った体が勝手に動いたら困る。悪あがきせずに、どこにも引っかからずに、落ちてしまいたい。
ああ、
でもそれって、よくないのだっけ。
なんでだろう。
なんでだったか……。
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