酒の匂いがする。不快感に薄く目を開くと、薄暗い天井、それから視界の端で揺れる蝋燭の明かりが見えた。
 目の奥がじわじわと熱い。
 火が近すぎるのではないかと思って、手で遮ろうとしたけれど上手く動かせない。不思議に思って身じろぐと、カタリと小さな物音がした。
「目が覚めたのか」
 視界の中にベレトが現れる。
「具合はどうだ?」
「……熱い、眩しい、気持ち悪い」
「吐きそう?」
「わからないです……」
 ベレトが蝋燭をどかしてくれた。それから僕の体にかかっていたらしい毛布を少し下にずらしてくれる。その様を目で追っていると、寝台の上に放り出されている自分の左手が見えた。包帯が巻かれたそれは着膨れたみたいに太くなっている。寝台の周りはカーテンに囲まれていて、どうも修道院の医務室にいるらしいことがわかった。酒臭いのは消毒の匂いだろうか。
 水を飲むかと聞かれて首を振った。今は何も体の中に入れたくない。ベレトは頷くと、こちらに背を向けた。カタカタと何か硬いものを引く音がする。
「どこまで覚えている?」
 ベレトがこちらに背を向けたまま言う。遠ざけられた光源がぼんやりと彼の背中を照らしている。黒一色のそれは、のっぺりした山陰みたいに見えた。山の稜線が蠢く。振り返ったベレトは背もたれのない丸椅子を片手につかんでいて、それを僕の枕元に置いた。彼が腰掛けた時、カタンとまた硬い音が一度だけ鳴った。
「……なにがですか?」
 尋ねると、ベレトが僕の顔を覗き込んだ。
「怪我をした時のこと」
「……ディミトリは無事ですか?」
「どうして?」
「無事ですか?」
「……怪我はしていない様に見えた」
 ベレトの言葉に目を閉じる。
「……郊外で、フレンの捜索をしていました。帰る時間になって、でも、僕はもっと先まで調べに行きたくて、同僚とそこで別れました。そのあとにディミトリが来て、フレンが見つかったって教えてくれて、驚いて……」
 息を吐き出す。目を開けてベレトの様子を見上げると、彼は黙ったまま僕を見返した。相変わらず、底のよく見えない目をしている。けれど、もしかしたら澄んでいるかもしれない目。それを見つめたまま、ポツリポツリと作り話を口にした。存外に、たやすく嘘がつけるものだなと自分自身に感心する。多分、本当のことなんて一つもいらないから、出来るのだろう。
「馬の手綱を誤って強く引きました。それで馬が暴れて、地面に放り出されてしまって。ディミトリが怪我の手当てしてくれたけど、そのうちに雨が降ってきて……後のことは覚えていないです」
「そう……どうしてディミトリのことを聞いた?」
「凄く狼狽ていたから……可哀想だなって」
「ああ、それは確かに」ベレトが頷く。
「随分と取り乱していた。でも、何を聞いても答えてくれなくて。あんなに頑なな彼を見たのは初めてだったから驚いたよ」
「そうですか……」
 ベレトが何か考え込む様に目を伏せた。
「一つだけ、答えてくれ。君が怪我をしたのは敵に襲われたからではないんだな?」
「フレンを攫った奴みたいな?」
「そう。何か、害意に二人が晒されたわけではない?」
「はい。それは間違いなく。ただの、僕の不注意です」
 ベレトが僕の顔をじっと眺める。もう話したいことはないなと思ったら急にまぶたが重くなった。そう長くは話していないはずなのに、何十年もかけて物語を語り終えた後の様な疲れを感じる。早く目を閉じてしまいたかったけれど、なんとか耐えた。彼の目には僕の底が見えているのかもしれない。もしそうなら、今の言葉だけは嘘ではないと信じてもらわないといけなかった。
「……わかった」
 ベレトの顔が離れていく。
「危険な目にあったのではないのなら、それでいい。真実を追求したいわけじゃないんだ。二人が納得しているのなら、なんでも構わない」
「納得……」
 ディミトリは僕の作ったお話で納得してくれただろうか。ベレトから何を尋ねられても、貝の様に押し黙っている姿は容易に想像できた。何が彼の口を閉ざしただろう。
「……嫌だったでしょうか?」
「ステイシア?」
「もう全部嫌になってしまったでしょうか……」
「それはディミトリに聞いてみないと分からないよ」
「うん……うん……それは、そう……」
もう、ダメだ。目を開けていられない。
「起きがけに随分喋らせてしまってすまなかった。もう少し、休むといい」
ベレトの声が遠くに聞こえた。


 次に目を開けたとき、天井は明るくなっていた。周囲は相変わらずカーテンで囲われていて、その向こう、隣の寝台でも誰かの寝ている気配があった。ゆっくり体を起こす。左手は肘下から手の甲まで包帯で固められていて、手首は全く動かないけれど、起き上がるくらいなら支障はない様に感じられた。寝台の端までずって移動して、壁に背中を預けた。息がしずらい。頭がぼんやりしていた。
 じっとしていると、窓の外で鳥の鳴いている声や廊下を誰かが歩いている音が微かに聞こえる。朝の、それなりに早い時間なのかもしれない。
 喉が乾いたな……。
 辺りを見渡すと、寝台の脇、棚の上に火の消えた燭台と水差しが置かれていた。その手前には口を下にしたグラス。手にとって、グラスをひっくり返す。次いで水差しに手を伸ばす。水差しが想像より重たくて、水を注ぐのに少し手間取った。
 コポ、コポと音がして、グラスの中で水が跳ねる。
 あ、こぼれた。
 そのとき、部屋の戸が開く音が聞こえた。誰かの足音が近づいてくる。カーテンの隙間に手が差し込まれ、布が引かれた。
「よお、ねぼすけ」
 隙間から顔を覗かせたのはカトリーヌだった。もう片方の手に木の盆を抱えている。
「カトリーヌさん……おはようございます」水差しを元に戻して応えた。
「吐き気は?飯はくえるか?」
「はい、大丈夫です」
 頷くと盆に乗った食事が差し出される。座り直して膝の上に置いた。パンと何もかもドロドロに溶けたみたいなスープが載っている。
「病人食らしい」注ぎかけだったグラスに水を足しながらカトリーヌが言う。「ほれ、食いながら寝るなよ」
「大丈夫ですよ」
 そんな眠そうな顔をしているだろうかと思いながら水を受け取った。
 僕が食事をしている間、カトリーヌは寝台の横に座って頬杖をついていた。視線は気になったけれど、何も話しかけられないので、もたもたと食事を続けた。片手で食べられるものだけでよかったなと思う。
 残り四分の一くらいで満腹になってしまって、最後はすべて水で流し込んだ。
「ご馳走様でした」
 頭を下げると、カトリーヌが頷く。彼女は空になった盆を持ってカーテンの外へ。机かどこかの上にそれが置かれる音がして、すぐ戻ってきた。おそらく、彼女の用事はこれからなのだろう。
 カトリーヌが寝台の横に座り直す。さて、と彼女は呟いた。
「アタシはアンタのこと、おんぶに抱っこが必要なガキだとは思ってない」カトリーヌが僕の顔を見据えて言った。「しかし、だからこそ責任てもんがある。アンタにもアタシにも」
「はい」
「命令違反の単独行動、挙句、負傷して士官学校の生徒に面倒を見させるのは全くよろしくないな?」
「はい……すみません」
「アンタには謹慎処分が出てる。とりあえず二週間だ。その頃には骨も多少くっつくいてんだろうし、しばらく大人しくしていることだ。不自由だろうが、それがまあ、規律違反の罰ってわけ」
 頷いて返す。ずいぶんと優しい。部屋でじっとしていればいいのだから休みのようなものだ。
「で、もう一つ。アタシは一応、アンタの父親にアンタのことを頼まれてるわけだが……ちょうどこれが届いた」
 カトリーヌが手紙をよこしてくる。受け取ると見慣れた文字が並んでいた。父の筆跡だった。
 要約すると、僕を騎士団から除隊して家へ戻して欲しいという嘆願。ついにここまできたか、と目を細める。しかし、よく考えれば彼と再会して、もう半年も経っている。だからこれはもしかしたら、やっと、なのかも知れない。
「これ書いてる時はアンタの親も、まさか娘が落馬して負傷するとは思ってなかっただろうけど」探る様な目でカトリーヌが言った。「アンタの身を預かると言った手前、無視はできない。アンタに起こったことも伝えなきゃならん」
「ええ……それは、大丈夫です。落ちたと書いてもらえれば、伝わるはずです」
 僕の言葉を吟味するみたいに、カトリーヌは少しの間、黙っていた。
「そうか、わかった」一つ頷く。「それで、アンタはこれから一体どうするつもりだ?」
「家へ戻ります。いい加減、そうしなければと思っていました。ずいぶんたくさん猶予をもらってしまったから」
 今年に入って、実家からの手紙が散々届いていたけれど、もしかしたらカトリーヌに宛てられたものだって、これだけではなかったかも知れない。そうでなくても、彼女は察していたはずだ。
「カトリーヌさんも、今までずっと何も言わないでいてくれて、ありがとうございます」
「まあ、アンタの家の事情に首を突っ込む気はないからさ。後は、そうだな……アンタが早く帰りたいなら手伝ってやるし、心残りがあるなら、怪我が治るまで無理だってくらいは、返事を書いてやる」
「あはは、至れり尽せりですね……」
 なぜこんなにみんな優しいのか。ベレトもカトリーヌも僕が出鱈目なことを言っていることに気付いているだろう。それなのに追求しないでいてくれる。なぜだろう。僕が怪我をしたから、気を使ってくれているのだろうか。転んで泣いている子供をあやすみたいに。
 大丈夫だ、そんなに痛くないから。泣いていないで、さあ、立つんだって……。
「ずっと前から、家への返事を書いていたんです。今までうまく書けなかったけど……ちゃんと書き切りたいんです。それまで時間をくれますか?そんなに長くはかからないと思います」
「そうかい」カトリーヌが頷く。「やりたいようにやればいいさ」
 ほら、本当に優しい。
 四年間、彼女のもとにいた。カトリーヌは剣を振り回して、お酒を飲んで、とても大きい声でたくさん笑う。猊下のことで、時々怒る。ずっとそうだったのに、どうして今になってこんな、大人みたいな、親みたいなことをするのだろう。
 僕を預かっている責任が彼女にはあるのだと言う。一応、保護者の立場だから、僕が歩いてどこへなりとも行けるように、餞をくれているのだろうか。
 おかしいの。そんな世話を焼かなくても、放っておけばそのうち立ち上がる。ずっと泣いて蹲っているわけにはいかないって、小さい子供でも知っているだろう。
 だって、生きているから。
 生まれてから今まで、一度でも立ち止まっていられたことがあっただろうか。変わらず永遠でいられたものがあっただろうか。
 痛みが引くまで息を止めているとか、地団駄を踏んで駄々をこねるとか、そのくらいが精一杯だ。
「カトリーヌさんは子守が終わって清々します?」
「おい、気色悪い聞き方するなよ……」そう言って首の後ろを掻く。「まあ、確かに清々はするけどさ。正直、アンタは出来の悪い舎弟だった。アタシの酒にも付き合わない」
「吐いちゃいますからね」
「どんどん吐けばいいんだよ、そのうち慣れてくる」
「今のところ、一口が限界ですけど」
「だから、そういうところの出来が悪いっていうんだ」
「いつか、どうにかなるんでしょうか?」
「わからん」彼女は素気無く首を振る。
「なんですか、それ」
 ずいぶん適当なことを言ってくれるなと思って笑ってしまった。肩が揺れて体が傾く。頭が重い。このままだと毛布のほうに倒れそうだと思って体制を立て直すと、壁に後頭部をぶつけた。
「あいた」
 本当に何をやっているのだろう。満腹になったから眠いのだろうか。本当に小さい子供みたい。おかしい。面白い。
「何笑ってるんだよ……まったく」
 目を瞑っていたら、額に手の感触。冷たい。
「また熱出てんな」
 誰か呼んできてやるよ、と言ってカトリーヌが席を立つ。
「マヌエラさんは?」
「マヌエラなら横で寝てる」
「え?」
「フレンを攫ったやつ、死神騎士の話は聞いたか?あいつに刺されたんだよ。命に別状はないらしいけど、起きるまでしばらくかかるだろう。だから、あんまり騒がしくするなよ?」
 それだけ言うとカトリーヌは部屋を出て行った。足音が遠ざかっていく。
 そうか、仕切りの向こうに誰かいると思っていたけれど、マヌエラだったのか。
 カーテンをしばらく眺めたけれど、動く気配はない。繰り返される呼吸音だけが静かに聞こえる。知らない間にガルグ=マクでもいろいろあったようだ。マヌエラが刺されて、フレンが見つかって、敵はどうなったのだろう。逃げたのだろうか。でも、みんな無事でよかった。
 息をついて、また壁に背中を預ける。冷たい。でも、気持ちがいい。カトリーヌの手も冷たかくて気持ちが良かった。
 目の奥が熱くて重たい。でも、起きていないと。じきにカトリーヌが帰ってくる。さっきねぼすけだと言われたばかりなのに、また眠ってしまったら、もっとずっと子供のようだ。
 実際、カトリーヌにとって僕は不出来な舎弟で、つまり何かがまだ足りない子供なのだろう。それでも、おんぶは必要ないと思ってもらえるくらいの信用はある。どこかに押し込んだりせず自由にさせてくれている。これ以上呆れられたくない。
 そういえば、実家の両親も僕を屋敷に押し込んだりはしなかった。よく考えれば、別に修道院送りにしなくても、屋敷にずっと閉じ込めておけばいい。それで事足りたはずだ。あの国から僕の存在を物理的に排除しなくても、誰の目にも触れさせなければ、存在しないのと同じ結果になっただろう。
 結局言い渡されたのは、これからはずっと修道院で暮らすんだという言葉だったけれど、多分、もう二度と外に出さないと言われても、あの頃の僕は素直に従っただろう。どちらでも良かった。ディミトリの前から消えられればそれで。
 両親も僕の何かを信じていたのだろうか。そうであるならば、なぜそんなことが平気でできるのだろう。どんな失敗をするかわかったものではない。そして実際に僕はディミトリを守れなかった。恐ろしくはなかったのだろうか。それとも、恐ろしくても信じてくれた?
 まぶたが下がる。もう重たい。持ち上げられない。体も、どろどろの流体になってシーツの上で溶けているのではないかと心配になるくらい。
 眠ってしまわないように自分の呼吸を数えていた。呼ばれたら返事をしよう、まだ寝ていないと言おう。そう考えているうちにまた、足音が近づいてくる。カタリと椅子を引く音。ああ、やっと帰ってきた。
「馬から落ちたって……馬鹿かお前、やり方が違えんだよ」
 嘆息と一緒にそんな声が聞こえた。
 あれ?
「……クラン?」
 なんとか目をこじ開けると、枕元の椅子にマイクランが座っていた。足を組んで、膝の上で頬杖をついている。彼の口元はへの字に曲がっていて、心底つまらないという顔をしていた。宙に浮いた側の足が揺れる。
「傷が……」
「ああ?」
 コナン塔で会った時、顔の真ん中に走っていた傷痕がなくなっていた。不思議に思って声を上げると、不機嫌そうな声が返ってくる。思わず目を伏せた。
 この人はいつも機嫌が悪そうだ。でも、よく考えたら見慣れている顔はこちらの方だったじゃないか。そう思って、また彼の方を見上げた。
 枕元に座っているのは、マイクランではなく、実家にいるはずの母親になっていた。
「あんな危ない乗り方をして……傷が残ったらどうするのです」
 母さんが嘆いている。片手で顔を覆って首を振った。見たことのある光景だった。
 もう十年以上前、馬に乗ろうとして本当に落ちたことがあった。あの時はなんと答えたのだったか。考えているうちに、僕の口は何事か言葉を発した様だった。
「あなたは紋章を持っているわけではないのだから、馬に乗れなくても、剣が振るえなくても、誰も咎めたりはしないのですよ。ガラテア伯のご令嬢の様にできなくてもいいのです」
 母さんは、困った様な顔で微笑んでいる。
 それはそうだ。ずっと前から知っている。けれど、咎められるのを恐れて挑んだのではない。褒められたかったからでもない。ただ、できたら素敵だと思ったから、そうしたかったのだ。
 僕が首を振っても母さんはずっと微笑んでいた。きっと次はこう言うだろう。
「本当に仕方のない子」
 記憶のまま、絵画みたいに優しい母の顔。この後は、一体どうしたのだったか、思い出せないから母はずっと微笑んだままだ。
 その脇をすり抜けて、今度は靴下柄の猫が現れた。彼は寝台の上に飛び乗ると僕の腹の上で足踏みをする。間延びした鳴き声が一つ。構え、と催促する。
 ああ、よくないな。
 これは夢だ。いつの間にか寝てしまったのだろう。医務室まで猫は入ってこない。まして母やマイクランがここにいるわけない。
 猫が放り出された僕の左手に頭を寄せる。そこに包帯はない。催促されるまま、頭を撫でた。指を曲げて耳の後ろを掻く。不自由なく、動かせる。
 どうすれば目が覚めるだろう。寝台から降りて立ち上がりでもしたら目覚めないだろうか。急に起き上がったら、たぶん猫が驚く。しかし、どうせ夢だし、いいのだろうか。
 そんなことを考えながらしばらく猫を撫で続けた。やがて彼は満足したのか飽きたのか、大きく伸びをして起き上がると、寝台の下へ飛び降りた。
 途端、どぷんと水音がする。
 驚いて寝台の淵から身を乗り出すと、足元には川が流れていた。だめだ。覚めないどころかどんどん変な夢になっていく。ため息をついて、水面を眺め、消えた猫の姿を探した。
 それほど大きな川ではない。大股なら十歩もせずに渡り切れてしまうだろう。水は澄んでいて、光る川面の奥に石が堆積しているのがよく見えた。
 きっと自分の知っている川なのだろうなと思って、寝台から足を下ろす。ズボンの裾を両手で持って、ざぶざぶと川の中ほどまで進んだ。ふくらはぎ辺りまで水に浸かったところで立ち止まり辺りを見渡す。どこにも猫の姿はなく、いつの間にか寝台も消えていた。
 川の両岸には大きな岩が転がっていて、その奥は森。木々の隙間を陽光が埋めて下草や倒木を覆う苔が光っていた。
 実家のそばを流れる小川だ。
 まだ兄と姉が生きていた頃はファーガスの短い夏をこの川で過ごした。姉に手を引かれて川の真ん中まで進む。流れの強さに怖気付いて岸を見返すと兄が岩場に腰掛けて手を振っていた。
 けれど、今は誰もいない。
 自分の夢なのだから、会いたい人がもっと出てきてもいいはずなのに。頭の中で思い描けないくらい、みんなもう、ずっと遠くに行ってしまったのか。それとも、僕は本当は会いたくないと思っているのだろうか。例えばそう、合わせる顔がないとか。
 笑えた。
 辺りは静かだ。
 足元で水流が渦巻く。流れを遮る僕の両足を追い返そうとする。それなりに勢いはあるけれど、もう負けてしまうかも、なんてちっとも思わない。悪あがきみたいに、跳ね上がる水の飛沫がたくしあげたズボンの裾を時々濡らした。
 ざあざあと水音。
 雨みたいな。
「すいませんが、退いてくださいませんか」
 足元で急に声がする。驚いて見下ろすと、魚が一匹泳いでいた。上流に向かっているようだけれど、僕が引き起こす水流が邪魔でうまく進んでいけないようだ。上から眺めていると、泳いでいるというより、ただ留まって尾びれを振っているだけの様にも見える。
「今のは君が喋ったの?」
 話しかけると、水面に泡が上がった。
「ええ、そうです。私はあなたに釣り上げられた魚です。ここまで泳いできたのです」
「ええ……嘘でしょ」
「嘘ではありません。ほら、上顎に穴が空いているでしょう?あなたの針が刺さったのです」
 魚はエラをぷかぷかさせて僕に抗議している様だった。
 本当に変な夢だ。けれど、調子の悪い時の夢なんてだいたいこんなものかもしれない。
「だったら、君は猫に食べられたんじゃないの?こんなところで泳いでいるはずがないよ」
「ああ、そういえば、そうでした」
 そう言うと魚は仰向けになって身を翻し、下流の方へ流れていく。水面に白い腹が浮かんでいた。水流に飲まれて浮き沈みするたび、陽光を反射して白い腹が銀色に光る。それを追いかけて僕も下流へ進んだ。目が覚めない以上、他にすることもなかったし、魚がどこまで流れていくのか気になった。
「こうやって川を泳ぐのは初めてです。私は生簀の中で生まれたのですよ」
 魚が言った。
「泳いでるんじゃなくて、流されてるんじゃないの?」
「そんなことはありません、ほら、尾ひれが動いているでしょう」
 言われた通り、尾ひれは揺れていたけれど、それで推力を得ている様には見えない。姿勢も相変わらず仰向けで、元に戻る様子もなかった。おそらく内臓が腐っているのだろう。
 川の流れがだんだんと緩やかになってきた。立ち並ぶ木々もまばらになっていく。足元に転がるのは岩や石から砂に変わっていた。体重をかけるたび、体積した砂が崩れて歩きにくい。平地に近づいているのだろう。実家の川で遊んでいた頃も、こんなに下流まで降ったことはなかったから、この先がどこにつながっているのかはわからない。自分の夢なのになんだか不思議だ。
「やっぱり、僕に釣られたくなかった?」
 夢の中の相手、それも魚に尋ねるなんて変なの、と思いながらも声をかける。
「釣られたおかげで、今こうして川を泳いでいます。まあ、しかし、生簀の中も快適ではありました」
「結局、どっちが良かったわけ?」
 魚は口から細かい気泡をたくさん吐き出した。それはもしかしたら笑っているのかも知れなかった。
 川下で、何かが水に落ちる音がする。
 顔を上げると川の真ん中にディミトリが立っていた。
 僕は驚いて足を止めた。魚は彼の方へ、泳いでいるのか流れているのか、進んでいく。ディミトリが腰をかがめて、魚に手を伸ばした。
 魚は大人しく掴まれて、もう何も喋らない。
 ディミトリは体を起こすと空を仰ぐ。腕がゆっくりとあがっていく。
 ああ、食べる気だ。
 なぜか、そう思った。
「やめろ!」僕は叫んだ。
 腐っているからやめろ。
 ズボンの裾から手を離して駆け出す。水を吸った布が足に張り付き、無理やりあげた爪先に水が絡みつく。足の底で砂が滑って、膝ごと川に落ちた。
 伸ばした手が水面を叩く。
 飛び上がる水滴の向こう、
 ディミトリが口を開けて、
 魚、
 水面、
 たくさんの気泡、
 水は粘性、
 まとわりついてくる。
 体が重たい。
 息が苦しい。
「ステイシア」
 目を開けた。
 ディミトリが僕を見下ろしている。木目の天井、間仕切りの白いカーテン。
「大丈夫か?うなされていた」
 川はどこにもなかった。
 そうだ、あれはおかしな夢。川に落ちたのも。僕が見ただけのもの。現実ではない。
「ごめん」
 右手で顔を覆った。
「ごめん、嫌だった?」
「……何がだ?」少し間を開けて、ディミトリが言った。
「馬から落ちたって、嘘だから、嫌だった?」
 真っ暗な視界の中でしばらく言葉をまったけれど、答えは返ってこなかった。
「でも、あの時は一番いいって思ったの」
「なぜ、いいと思ったんだ?」
「だって、僕のせいだもの」
「それは違う」
 硬い声が降ってくる。
「お前のせいだと言うなら、その怪我は自傷か?」短く息が吐き出される。それは嘲笑じみていたし、おそらくその通りだっただろう。「お前が悲鳴をあげた時、俺は何をしていた?」
「……でも、望んでそうしたわけじゃない」
「望むとか望まないとか、そういう問題じゃないだろう……!」
 手を退かして上を見上げた。細まった空色の目。
「結果の問題なの?」
「ああ、そうだ」頷くディミトリの顔に影が差す。前髪が邪魔で表情がよく見えなくなった。「俺がお前を傷つけた。それが全てだ……」
「でも……寂しいんでしょ?」
「え?」
「無関係なのがいけなくて、全部、繋がってるって言うんなら……君の結果には、原因があるよ」
「……それがお前だと言いたいのか?」
「うん」僕は頷いた。「腕は折れた、確かに痛かった。でも、僕も君を守らなかった」
 あの時――ディミトリが倒れた時、僕は保険をかけたのだ。今はそれがわかる。
「四年前と同じことをしてしまうのが怖かった。……でも、二人とも無事で帰ろうと思ったら、きっと僕が薬を飲むべきだった。君に危険を背負ってもらうべきだった。そうしたら……結果は違っていたかもしれない」
 夢みたいに理想的な未来が、もしかしたらあったかもしれない。けれど、僕たちは神様ではないのだから、奇跡なんてそう簡単には起こせない。代償が必要だ。危険と可能性を天秤にかけて、博打を打たなければ手が届かない。
 もしかしたらディミトリは、お願いしたら付き合ってくれたかもしれない。けれど、そんなこと頼めるはずがない。考えつきもしなかった。あまりにも不安で。
 僕が薬を飲んで、彼をあの小屋に残したまま修道院に走っていたら、どうなっていただろう。少なくとも、僕は今こうして医務室で寝ていたりはしないように思う。その代わり、ディミトリがどうなっていたかは想像がつかない。全ては杞憂で、何も起きなかったかもしれないし、何か別の嫌な思いをしたかもしれない。たとえば僕の代わりに怪我をしていたかもしれないし、もしかしたら今ここにいなかったかもしれない。
 とても身近で、それでいて目に見えないどこか、得体の知れない勢力が動いているのは確かなように思えた。そうでなくとも、彼は大樹の節、盗賊たちに狙われた生徒のうちの一人だ。
 とりとめのない懸念はいくらでも湧いた。その不安を飲み込んで賭けにでれるような覚悟を、僕は持ち合わせていなかったし、今ですら、そんな博打はできることなら避けたいと思う。僕が選んだもので、僕が痛い目を見るだけで済むのなら、その方がずっといい。
「そうだったとしても、俺のしたことがなくなるわけじゃない」ディミトリが首を振る。
「……自分を許すのは、やっぱり難しい?」
「なぜ、許せると思う?」呼吸の仕方を忘れたまま、何とか吐き出すみたいな、掠れた声だった。小さくて、途切れてしましそうな。
「……そう、だね。うん、許せないと思う。だからせめて、いつかマシになったらいいなって思うよ」
 きっとこの先何度も、何もかもが嫌になり、逃げたくなり、忘れたくなり……そんなことが続いていく。
 やはり、僕は彼にとても酷いことをしてしまったのだ。僕が保険を掛けなかれば知らなくても済んだかもしれないのに、態々同じ轍を踏ませた。
 最善は、なにもしないことだったろう。彼が僕にくれた砂糖菓子だってそう。余計なものを受け取って、思いがけず救われてしまった。あの時、ディミトリは僕のことを背負っただろう。僕が抱えるべきだった重みを一緒に抱えてくれた。
 そんなこと、別に望んでいない。目の前を見てみろ。余計なことをするから、僕が身軽になった分、今になって重すぎて、項垂れている。
 全くのお節介。何もかもが余計。
 だからせめて、余計なものは返そう。背負わせてしまったものは取り戻そう。僕には責任がある。初めに崩れかけのお菓子を受け取ったのは僕なのだから、せめて、僕の自重で他人を踏み潰すようなことはしないでいたい。
 いつまでだって、一人で立っていようよ、ステイシア。
 そのくらいは僕にだって、きっとできるだろう。
「君が僕にお菓子をくれた時、夢みたいだと思った」
 多分、ディミトリのようにうまくはできない。僕は臆病で、誰かの重みを少しでも背負おうだなんて考えたこともなかった。そんなことすべきではないとすら思っていた。だから、きっとまた何か間違えるだろう。不出来なまま無様を晒すだろう。それでも。
 手を伸ばして、俯く顔にかかる髪を払う。ディミトリは眉間に皺を寄せたまま口を引き結んでいた。僕が何を言っているのか、まるでわからない。そう言う言葉を封じているようだった。
「大丈夫だって君は言ったけど、本当は全然信じてなかった。どうせいつか駄目になると思っていた。だから、腕が折れるまで、ううん……もっとずっと後まで、気づきもしなかった。僕は駄目になるのを待つんじゃなくて、どうにか、本当になるように頑張らなきゃならなかったんだって。だって、君は、君だけがずっと、そうしていた。……それがさ、やっと、僕にもわかったんだよ」
 そうでなければ、あんなに悲しいはずがない。
 ディミトリの目の下を擦った。今は乾いているけれど、あの時、彼は泣いていたのだ。
 涙は血と同じ温度をしている。人の内側を抉って流れていく。どうしてそんな簡単に他人を信じられる?なぜ自分の内側に受け入れようとするの?裏切られれば致命傷だとよくわかっただろう。それなのに、僕の臆病な裏切りをいまだ責めもしない。こんなに一生懸命白状しているのに、まるで響いていないのだから、多分、お互い似たような形をしているだけで、中身がまるで違うのだろう。どちらの出来が良いかなんて語るべくもない。
「ディミトリ、お願い」
 彼の瞳が揺れている。
「あいこにしてほしい。あの日、君がしてくれたことと、僕の左手で」
 しばらくの沈黙。
「……お前は、いつも難しいことばかり言うな」
 ディミトリは苦々しく笑って言った。
 そうだろうと思う。僕にだって難しい。これでよかったのか本当にわからない。
 僕たちはどこへ行き着くのだろう。誰かに寄りかかったり、抱えてみたり、苦しい今をなんとかやり過ごそうとして目を瞑っている。目を醒ました時、朝になっている保証なんてないのに、気を紛らわせて生き永らえるなんて、いつか行き詰まる時が来るのではないか。
 僕も彼も、他人の人生を歩いたりはできない。同じ道を歩いたって、同じ場所に足跡はつけられない。無理にそんなことをすればぶつかって転ぶだけだ。そんなおかしなこと、それこそ幽霊でもなければできないだろう。
 だからきっとこれは、本当に最後の最後、どこかに行き着いてしまうまでの時間稼ぎでしかない。
 見上げた先、歪に細められた瞳と目が合う。ディミトリは僕の左手を指先でそっと撫でた。触れられた感覚はない。包帯で何重にも遮られているから、その向こうで起きていることは、何だか別の世界の出来事のように見えた。
 別に痛くもないし、くすぐったくもないけれど、笑ってみる。ディミトリが目を伏せた。瞳の奥に不思議な光がちらつく。あの光を、僕は知っている。
 目を閉じた。
 もう眠くない。きっと夢は見ないだろう。
 踊りたいな、と思う。
 大聖堂の脇、誰もいないテラスで、ずっと……。


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