謹慎が明けた。
溜め池の淵に座って足を揺らす。水面に映る影が揺れ、相変わらず首から左手を吊り下げている自分と、横で腕まくりをするカトリーヌが見えた。彼女の手には釣竿が握られている。
晴れて自由の身になったから、マヌエラに改めて左手の様子を見てもらった。どうにも、魔道をかけるにはもう少し骨がくっついてからのほうがいいらしい。無理にくっつけて、腕が動かなくなるのは嫌でしょう?と脅された。その通りなので大人しく頷いて、今に至る。
ため池の周りでは、カトリーヌの他にもたくさんの人が釣り糸を垂らしている。セテス主催の釣り大会参加者たちだ。
数日前、突然大会を開くと言い出したから何事かと思ったけれど、話を聞くに、大変な目にあったフレンの願いを叶えるため、彼女の食べたい魚を釣る、ということらしい。で、どうせなら盛大な花火を打ち上げてやろうということで企画立案に至った、そうだ。
誘拐事件を受けて、フレンの護衛に着いたカトリーヌは、さも当然と、セテスに大会参加を促されたらしい。腕が治っていたら、きっと僕も肩を掴まれていただろうから、その点は良かったと思う。
背後を振り返る。玄関ホールの方へ続く石階段の手前にフレンとディミトリが並んで立っていた。目があって、声をかける。
「フレンはなんて魚が食べたいの?」
「実は、お魚の名前は忘れてしまいましたの」
「存外、厳しい戦いになりそうだな……」
フレンが申し訳なさそうに声を顰め、ディミトリは眉を寄せた。
「こらアンタら、周りで騒ぐんじゃない。魚が逃げるだろ……っと、掛かったか!」
カトリーヌが僕たちの方を睨んだけれど、その視線はすぐに水面へ移る。さっきまで大人しかった浮きの周りで激しい飛沫が上がっていた。中々の大物なのではないか。
「カトリーヌさん、頑張れー」
「カトリーヌさん、その意気ですわ!」
「頑張ってください、カトリーヌさん」
「だから騒ぐんじゃないよ、気が散るだろう!」
しばらくの攻防の末、糸に引かれた魚が水面から飛び出した。それは水滴を撒き散らしながら、カトリーヌの手に収まる。横に座っていたから飛沫が飛んできて少し冷たかった。
手こずらせてくれるじゃないか、とカトリーヌが息を漏らす。フレンが歓声を上げてカトリーヌに駆け寄って行った。
「どうだいフレン、中々の大物だろう?」
「ええ、すごい!立派なお魚ですわ!……でも、ごめんなさい、カトリーヌさん、私の食べたいお魚とは違うようです。残念ですわ」
「くそう、コイツじゃなかったか……」
カトリーヌが肩を落とし、フレンがその背を撫でている。池に目を向けると、水面は空によく似た青色で、時々それを揺らすように、方々で飛沫が上がる。波打つ水面と釣り上げられていく魚の鱗が陽光を浴びて光っていた。
「あの中に当たりがいるんだろうか」ディミトリが僕の横に腰をかけながら呟いた。
「どうだろう……カトリーヌさんの釣り上げたやつはだいぶ立派だったけど違うみたいだし、もっと大きい魚とか、珍しい魚なのかもしれない」
ため池にはヌシが住んでいる、というような噂を聞いたことがある。それがフレンのお目当てだとしたら、釣り上げるのは相当骨が折れるだろう。
「僕たちも手伝ったほうがいいのかな?」
「その腕でか?」
ディミトリは僕の方、吊られたまま大人しくしている左手を見て言った。
「万が一魚が掛かったら、引っ張るのは君に頼むよ」
「やめておこう。多分、竿が折れる」ディミトリがまた、難しそうに眉を寄せて首を振った。「振るうのが槍なら少しは役に立てるんだろうが……」
「同感。相手が魚じゃなければなあ」
「相手がなんであれ、頼むから、お前はしばらく大人しくしていてくれ」
随分と深刻そうに話すものだから、笑ってしまった。僕だって別に、常に無茶をしているわけではない。最近はたまたま、必要になる機会が多かっただけだ。
「まあ今日はお互い戦力外だから、応援に徹するということで」
池に目線を戻すと、対岸でアッシュが大きく、イングリットが小さく、手を振っている。右手を振り返して応えると、彼らの後方からベレトが歩いてくるのが見えた。アッシュたちもベレトに気づいたようで、後ろを振り返って、何か言葉を交わしている様だった。
「確か、先生って釣りが得意なんだよね?参加してくれるかな」
「そのために来たんじゃないか?毎節、休養日は釣りをしていると聞いたぞ」
「いやいや、釣りにも流儀があるらしいから。ギルベルトさんなんて絶対参加しないもん」
「ああ、あいつは……そうだろうなあ」
ディミトリの嘆息を聞いていると、ベレトがこちらまで歩いてきた。
「やあ。二人はここで何をやっているんだ?」
「こんにちは先生。今は釣り大会に参加する人を応援してますよ」
「なるほど。ディミトリも?」
「俺か?俺はステイシアが無茶をしないか見張っているよ。応援もまあ、やぶさかでないかな」
「え、そんなことしてたの?やめようよ、ろくでもない……」
ギョッとしてディミトリの顔を仰ぎ見る。彼はそ知らぬ顔をしていた。
「俺としては両方重要なんだが、どちらのことを言っているんだ?」
「今の流れで見張じゃないことがあり得るの……?」
僕が眉を寄せるとディミトリがくすくす笑う。ベレトは僕たちを眺めて一つうなずいた。よくわからないけれど、何かに納得したようだった。
正午を知らせる鐘が鳴る頃、シャミアが大会の終了を告げた。優勝者はベレトだ。他の参加者たちが顔を上げて、思い思いの喝采を送る。フレンは手を握り合わせて喜んでいた。
「無事に終わってよかったね」
「本当にな」
ディミトリがベレトに拍手を送っている。僕も拍手をしようとして、左手が使えないことを思い出す。挙げかけの右手をそっと握った。
ベレトの周りにはフレンやイングリット、アッシュがいて、何やら話し込んでいるようだった。
「さあ、今度は魚を食べる番ですよ、先生」
「ええ、イングリットさんのおっしゃる通り、すぐに料理していただきましょう」
イングリットが桶を抱えて意気込むと、フレンが同意を示すように握り拳を作る。ベレトが頷いて、こちらを振り返った。
「二人もどうだ」
「え?」
横から戸惑った声が上がる。様子を伺うとディミトリはどことなく申し訳ないような顔をしていた。まさか断る気なのだろうか?せっかく誘われたのに、まさかそんな……。
「俺は何も釣っていないし」
「すごい量が釣れましたから、人手はいくらあっても足りないくらいですよ。ぜひ殿下も召し上がってください」
アッシュの言葉に、ディミトリは困った顔で僕を見た。
「もうお昼だし」
「ん?ああ、そういえばもうそんな時間か……」
「魚は美味しいし」
「うん?ああ、そう……だな?」
「応援頑張ったし」
「……もしかして腹が空いているのか?」
ディミトリの言葉に頷いて返す。
「ほら、ステイシアもこう言っている」ベレトがディミトリの手を引く。「せっかくきたのだから、鷹獅子戦に向けて英気を養っていくといい」
「しかしだな、先生……」
ディミトリがなおも言い淀む。一歩踏み出した先の二歩目でまごつく。なぜそんなに戸惑うのだろう。以前、みんなで夕食を共にした時はずいぶん楽しそうにしていたから少し意外だった。もしかして、魚はそんなに好きではないのかもしれない。
「行こうよ」ディミトリを見上げて言った。「君、みんなでご飯食べるの好きでしょう?」
僕の言葉に、ディミトリは眉尻を下げて目を細めた。口元だけで微かに笑う。
「……なら、御相伴に預かろうか」
そう言って彼はやっと食堂の方へ歩き出す。少し先でイングリットたちが振り返って待っていた。
「お料理、楽しみですわねえ」
フレンが楽しそうにステップを踏んで、ディミトリがまた笑う。アッシュとイングリットは釣った魚の調理法について議論していた。
その様を眺める。
追いかけようとする足が地面を擦り、引っかかった。
おかしい。
足元を見下ろす。
靴裏を地面に押し付けて、足が動くなと言っている。
だって、おかしいから。
胸に手を当てると、鼓動が早い。
笑っているのに。
なぜだ?
困らせたように見えた。
そう感じる自分自身にも驚いている。
今、何か変な事を言っただろうか。誘われたから、行こうと言った。別に、少ない糧をどうにか分けようと言う話でもない。参加賞でおいしい魚が食べられるなんて最高だ。嬉しい、やったね。そう言う気分にはならないのだろうか。
もしかして、僕が人一倍魚好きだから舞い上がっているだけで、彼にとっては、それほど喜ばしいことではないのではないか。食の好みは人それぞれだし、あり得る話だ。
「ステイシアはどうするんだ?」
呼び声に顔を上げると、ベレトが振り返ってこちらを見ていた。いつの間にか他のみんなの背中がずいぶんと遠い。
「え?あ、すいません。何がですか?」
「料理」
ベレトは僕の様子に不思議そうな顔をして言う。
「あ、ああ……そう、ですね。煮るのも美味しいけど、やっぱり焼いたほうが……バター焼きとか、いいですよね。うーん、でもやっぱり――」
「フィッシュサンド?」
「そう、それ。一番好きです」
「俺もそれにしよう」
ベレトはどことなく楽しそうに見えた。彼とフィッシュサンドを食べるのは花冠の節以来だ。あの頃に比べると彼はずいぶん読みやすい顔をするようになった。石を投げ込んでも波紋の一つも浮かばないほど静かな、真っ平な水面みたいな人だと思っていたのに、いつの間に変わったのだろう。あの頃の彼の美しい統制も素敵だったけれど、今だって全然嫌いじゃない。
それに比べて、ディミトリのことは今もよく分からない。少し分かったと思うと、そのたび怒らせてしまったり、納得してもらえなかったり……。
食堂へ続く木戸の先に消えていく背中が見える。
今は何を思っているだろう。
真正面から顔を眺めていても、まあまあの頻度で読み間違えるのだから、背中だけ見て答えを当てるなんてとてもできそうにない。
頭を振って、後を追った。
食堂は大会の参加者で混み合っていた。
料理を受け取ってなんとか席に着く。「空いている席が見つかって良かったですわね」と横に座ったフレンが言った。
最後にベレトがお盆を抱えてやってきて、向かいの席に座った。机の上に皿を並べる音が何度も聞こえる。ベレトの持ってきた分だけで僕ら全員の食事だと言われても驚かないと思った。周りのみんなはすっかり見慣れているようで、時折さらに追加の料理を勧めたりしていた。
「先生、これも美味しいですよ」
「先生、これも食べるといい」
アッシュとディミトリが特に顕著で、もはや人に物を食べさせるのが趣味なのではないかと思う。ベレトの両側に座ってずいぶんと世話を焼いている。
「ありがとう、嬉しい」
ベレトは皿を受け取ると、次々に料理を切り分けては口に運ぶ。それは、どこかで見たことのある景色だった。
ざわめき。たくさんの机と椅子。窓際に光が落ちる。目を凝らすと、埃なのか塵なのか、白っぽい光の粉がふわふわと漂っているのが見えた。
そうだ、この席。
僕はここに座って、ナイフを持って、そして机に突っ伏したのだ。もはや何もできないことを嘆いて。
「ステイシア?」ベレトの声がする。「食べないのか?」
「ああいえ、食べますよ。もちろん」
問いかけに首を振って応える。横目でこっそりとディミトリの様子を伺った。彼は僕の視線に気づいて首を傾げる。
「どうした、食べにくいか?……それなら、ほら、貸してくれ。切りわけよう」
思いがけない申し出で少し笑った。
「サンドイッチをこれ以上切ることないよ。でも、ありがとう。ちょっとぼんやりしてただけで、このままでも全然平気」
フィッシュサンドを掴んで齧った。確かに片手では掴みにくいし、食べずらい。けれど、できないわけではない。いずれ、慣れる時が来るだろう。それより先に左手の方が完治してしまいそうだけれど。
僕の言葉に「そうか」と呟くディミトリはどことなく、心残りがあるような様子だった。おかしいの。手間がかからなくて良いだろうに、世話焼きを極めると面倒を見る余地がない事に不満を感じたりするのだろうか。
「ステイシア、あなた、また殿下の手を煩わせて……」
イングリットが渋い顔で僕を見た。パンを咀嚼して飲み込んで、反論する。
「待ってよイングリット、今の聞いてた?丁重に断ったよ」
「当たり前よ。だいたい、無事だったから良かったものを、その怪我も、この間の爆発騒動だって――」
その後、いかに僕が向こう見ずかということを説かれたけれど、あまり納得いかなかった。なんだか別の人の話をされているみたいだ。
他に魚の餌を針につける時のコツだとか、節末の鷹獅子戦に向けた抱負だとか、色々な話をした。今まで折り重なるように不穏な事件ばかり起きていたから、目下の課題が学級対抗戦だけ、というのは随分平和なことだと思う。
笑っている。みんな、楽しそうだ。ディミトリも笑っている。魚が嫌いだったとしても、それでも楽しそうに見える。僕の頭がそう解釈しているだけだと、分かっていても息が漏れた。
よかった、本当に。
夢みたいに優しい絵を描いてくれと頼んだら、きっと今の光景になるだろう。その中に自分がいることが可笑しかった。姉さんがいなくなってしまった時から、その絵はずっと、眺めているだけのものだと思っていたのに……。
今更、こんな過分なものを与えてくれたのは誰だろう。少なくとも僕一人が賭けをして得たものではない。フレンが隣にいることも、みんなが笑っていることも、僕がこの席に座っていられることですら、自前で支払えるものでは全然足りなかったはずだ。
ロナート卿が死んで、マイクランが死んで、誰かが過ぎ去るたび、涙を流した人が、もしくは潰れずに立ち続けた人が何かを賭けたかもしれない。ディミトリやベレト、友人たち、顔も知らない沢山の人たちが手を伸ばして、少しずつ手繰り寄せただろう。
その結果が差し出されている。神様でもなんでもない人々によって。当たり前みたいな、これが普通だとでも言いたげな顔で。
ああ、
そうか、
もう、祈らなくていいのだ。
唐突に、そう思った。
何もかも手放せる。けれどそれは、屑籠に送ることとは違う。不要だとか、過分だとか、割り切れるようになることとは全然違う。
大切なものを抱えていなくていい。必死になってうずくまらなくてもいい。僕が掴んでいなくても、崩れたりしない。
僕はただ立って、ステップを踏んで、踊ってもいいのだ。廻って、廻って、たとえばそう、紐をつけた重りを振り回して、そのうち紐が千切れてしまった時みたいに、うんと遠くに飛んでいったって、見えないくらい遠ざかったって、損なわれたりはしない。
もう、大丈夫なんだ。
昼食が終わって、ジェラルトのことを探しに出かけることにした。大広間のある棟の二階に騎士団長の執務室があるから、急な用事がなければそこにいるだろう。席を立つと、ディミトリが騎士の間に行くから、と言って着いてきた。
「訓練場に直行するのかと思ってた。誰かと待ち合わせ?」
「いや、兵法書を確認する。鷲獅子戦当日は先生が指揮をとってくれるが、作戦を任せっぱなしというわけにはいかないからな」
「やる気満々だ。相手をする側は大変そうだね」
「エーデルガルトとクロードだからな。気を抜いているとすぐ足元を掬われてしまう」
ディミトリの声色は至って真剣なものだったけれど、それは緊張とかではなくて、期待や意気込みから生まれる響きのように感じられた。
「なんだか楽しそう」
「ああ、槍を振るう時を楽しみに思うのは、本当に久しぶりだよ」
「勝てるといいね」
「ああ、もちろん。万全を尽くすさ」
ディミトリが力強い声で頷いた。
「レア様の護衛で騎士団もグロンダーズ平原に出向くのだろう?お前も同行するのか?」
「うーん、どうかな。多分、行かないと思う」
「やはり、怪我が完治しないと難しいか……」
「いや、そういうわけじゃなくて」
玄関ホールに出て、大広間のある建物の方へ進んだ。すぐ鉄の大扉が見えてくる。肩で押し開けようとすると、ディミトリが開けてくれた。お礼を言って、外へ出る。日差しは暖かいけれど、吹く風は冷たく乾いていて、冬が近いのだということを思い出した。
「あのさ、僕、家に帰るんだ」
遅れて扉を抜けてくるディミトリを振り返って言った。
「え」砂を踏む音。彼は片足を踏み出した体勢で固まる。「……いつだ?」
「二週間後に団長が任務で王国に行く。その時に」
ディミトリは目を見開いて僕を見た。はくはくと口元が微かに動く。それは何か言葉を探しているようだった。
「せめてもう少し……来節、いや、腕が完治するまで待てないのか?」
「そんなに居座ったら雪で帰れなくなるよ」
「……そうか」
呟く彼は自分の足元を眺めているようだった。つま先がジリジリと動き、僕もそれを眺めていた。しばらくして再び、そうか、と吐息みたいな声が聞こえた。
「お前はずっと、ここにいるものだと思っていた」
「いくらなんでもずっとは無理だよ。家の仕事があるんだから」
「そう、だな。だが、なぜだろう……ずっと、そんな気がしていた」
多分、と言葉をこぼしたきり、続く言葉は聞こえなかった。
「多分?」
聞き返すとディミトリが顔を上げる。眉を寄せたまま笑みを浮かべた。その顔は食事に誘われた時と同じように、やはり困っているように見えた。
「そうだったらいいと、思っていた」
「どうして?」
「どうしてってお前……家に戻れば、その……役目を果たさなくてはならないだろう」
また気にする必要のないことを気にしているのだなと合点がいく。
「大丈夫だよ、なんとかなる」
言葉を返すと、とうとう笑みさえ消えてしまい、ディミトリはしかめ面で僕を見た。
「なんか、心配そう?信用ないなあ」
「心配するだろう、それは……」
「どうにもならなかったら、また修道院送りになるだけだから」
僕が笑うと、ディミトリは息をついて空を仰いだ。しばらくそうしていたから、何か飛んでいるのかと視線を追う。深くて澄んだ青色の空に小さく黒い影が浮かんでいた。翼を広げた姿は鳥のように思えたけれど、もしかしたら群れから逸れた飛竜かもしれない。
「……その頃にはきっと、俺は王都にいるのだろうな」
「そりゃあ、とんぼ返りは流石にないだろうしね」
「……また、会えるだろうか?」
呟く声に視線を戻すと、彼は変わらず眉を寄せたまま僕を見ていた。その顔はどことなく不安そうにも見えた。
会えなくなることはそんなに不安だろうか。いや、もしかしたらこれは寂しい、ということかもしれない。多分そうだろう。
「君が王様になる時には、きっと」
「それは……なんと言ったらいいか、わからないな」
僕が頷いて返すとディミトリは苦いものを噛んだみたいな顔をした。
次に再会するとき、きっとディミトリは僕の飼い主で、僕は彼に首を垂れるだろう。けれど、それだけのことだ。そういう決まりになっているから、やってやろうというだけで、僕の内側で何かが変わるわけではない。
姉さんのために踊ることだって、本当はそうなのだろう。踊るとか踊らないとか、それで変わるものや守れるものなんて、本当は何もない。ただ意地を張っていたのだ、ずっと。
本物の姉さんは星にも、地面の下にもいない。どこかに行ったとか、戻ってこないということではなくて、もう、いないのだ。どこにも残っていない。それが寂しい。
僕はただ、彼女の残骸みたいなものがまだどこかにあって、それを愛し続けているのだと証明したかったのかもしれない。今はそう思う。
少なくともディミトリも僕も、まだここにいる。お別れしたって消えて無くなるわけではない。彼が色々なものを抱えていようとするように、色々なものがきっと彼のことを守る。色々なもののうち、僕が少し遠くの本棚に収められる。そうやって少しずつ、整理されていくのだろう。収められる先は閉架かもしれないし、雑多な本に混じって二度と見つからないかもしれないけれど、それがなんだ。どうということはない。どこにいても、生きてさえいてくれれば、それで良いじゃないか。
「大丈夫だよディミトリ」
君がそう言った。そして、それは本当になるだろう。この先、友人として返せるものがないとしても、信じるだけならできる。
「……手紙を」
ディミトリが呟いた。想定していない単語が聞こえて、首を傾げる。
「手紙を書くよ。だから、どうか返事を……いや、くれなくてもいい。お前に手紙を書く、必ず」
眉間の皺はいつの間にか消えていた。声ははっきり聞こえるのに、彼の言葉は随分と静かな響きをしていて、覚悟じみたものを感じる。なんだか大袈裟なことを言われているように思った。
「えっと、君の中の僕って結構薄情なの?心配しなくても返事くらい書くよ」
「薄情だなんて思っていないさ。どちらかというと……お前は世話焼きだと思うよ」
「え?」
「ん?」
「それ君のことじゃないの?」
「俺か?」
「すごいお節介だと思う」
ディミトリは呆気に取られたような顔で僕を見た後、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「お前、言うに事欠いてそれはひどいな!」
「割と的を得ていると思うけど……うーん、でも普通に悪口か。ごめんね?」
何が彼の琴線に触れたのか分からないけれど、ディミトリは声を抑えるのにも苦労しているようで時々息を吐き出すみたいに笑っては目尻を拭う。つられて僕も笑った。
「あーあ、可笑しいの」
「本当にな」
「なんか、変な感じ」
「変な感じ?」
「うーん、なんだろう……なんだか、踊りたい気分」
僕の言葉にディミトリは笑って首を振った。
「腕が治ってからにしてくれ」
残りの二週間は世話になった人たちにお礼を言ったり、部屋を片付けたり、果たし状の主に会いに行ったりした。
僕と同じくらいか、もう少し年上の女性で、修道院では見かけない人だった。外郭都市に住んでいるのかもしれない。開口一番、泥棒猫と罵られて驚いた。しかし、故意ではなかったけれど、僕も会いに行くのがずいぶん遅くなってしまったから誹りについては甘んじて受けようと思う。
しばらく叱責を受けていたら、彼女も落ち着いたようだったので、気になっていたことを聞いてみた。元々はこの魔法が変装に使えないかと思っていたのだ。
「あの魔法で水以外の色は変えられないんですか?たとえば目の色とか」
「そんなことを企んでらしたの?試さなくて正解ですわ。あなたの目が目玉焼きになりますもの」
彼女の話を聞く限り、あの魔法は沸かしたお湯だとか、ある程度高温の液体でないと安定しないらしい。想像していたより危ないことをしていたようだと気づいて口を噤んだ。爆発で済んだのは運が良かったかもしれない。
「あら、その怪我……あなた、まさかご自身に試されて……」
彼女は僕の左手に気づくと、どこから出したのか扇子で口元を覆い、わずかに眼を細める。不名誉な想像をされているらしいことはなんとなく分かった。
今後顔を合わせるような機会もないだろうし、どう思われても構わないのだけれど、一応弁明はしておいた。身体には試していないし、魔道の暴発のせいでもないと伝えると、安心したのか、なんなのか「お大事になさって!」と言い放ち、高笑いをしながら彼女は去っていった。
左手の包帯を外せるようになったのは、その翌日のことだった。
ぎこちなく動く左手を眺めながら、もう1日くらい待たせておけばよかったかもしれないと考えた。少なくとも弁明する手間は省けただろうから。
怒涛の二週間を過ごして出発の日になった。
厩舎から馬を引き出して荷物を積み終わった時はまだ夜明け前で、青い星が見えた。空はまだ夜の色をしていたけれど、雲はないようで、今日はおそらく晴天になるだろう。飛竜の節も半分を過ぎて、日が出ていないとさすがに寒い。吐き出す息が白くなるのが見えた。これからもっと寒いところに行くのかと思うと少し憂鬱だ。早く日が昇ってほしい。
なんだか焦ったいような、落ち着かない気分だった。もしかしたら、周りの雰囲気がそうさせるのかもしれないと思って周囲を見渡す。表情を輝かせて、いかにも出発が待ちきれないという様子の騎士が何人もいた。話を聞くに、団長の任務に同行できるなんて光栄、とのことだ。ジェラルトの人望はずいぶんと厚いらしい。団長としての彼に指示を仰ぐような機会には、ついぞ恵まれなかったけれど、もし一緒に仕事をすることがあれば、僕も他の騎士たちのような顔をしたのかもしれない。それを確かめる機会もしばらくは訪れないだろうと思うと、少し残念だ。
でも、それだけ。
夜明け前の静けさに似つかわしくない騒めきに包まれて、自分の姿を見下ろす。使い慣れた剣に、履き慣れた靴。何か忘れ物はないだろうかと考えるけれど、何も思い浮かばない。仕事のこと、友人のこと、わずかな引っ掛かりは感じるけれど、しかしそれは僕が持っていくものではないのだろう。
屈んで靴紐を結び直す。
「おーい、そろそろ出発するぞ!」
両手で靴紐を強く引き、聞こえる声に顔を上げる。騎士たちの動きがより賑やかになる中、僕も馬の背に乗って、その首筋を一度撫でた。
「さあ、僕たちも行こう」
首を振って馬が進む。東の空がじわじわと濃紺から薄い青色に変わっていく。小さな星が一つ一つ見えなくなっていく中、青い星は変わらず光っていた。
ガルグ=マクの城郭が小さく見える頃、やっと日が昇り切った。朝日に照らされて黄金の針みたいになった尖塔たちに目を細める。
「名残惜しいか?」
ジェラルトが馬をこちらに寄せて来て言った。
「そりゃあ、四年も暮らしていれば愛着も湧きますよ」
「そうかそうか」
僕が応えるとジェラルトはカトリーヌみたいに大きな声で笑って、こちらへ腕を伸ばす。そのまま頭をかき混ぜられた。
「ちょっと、やめてください。落ちる……」
「まあ、これも成長だ。新たな門出を祝してやろう」
ジェラルトは楽しそうだけれど、馬同士は近いし体は揺れるし、気が気ではなかった。出発早々再びの落馬なんて話が広がったら、今度こそ誰に何を言われるかわかったものではない。
「あんた、酒は飲めるのか?」
「飲めません!」
「なんだ、祝い甲斐のないガキだなあ」
なおも笑いながらジェラルトが言う。
「団長!あの、修道院の方から狼煙が上がっています」
後方から騎士の声が聞こえて、ジェラルトが振り返った。
「なんだ、緊急の知らせか?今節は平和に終わるんじゃねえのかよ……」
「いえ、それが、緊急というわけではないようで……」
僕も修道院の方を振り返ると、尖塔の間を縫って細くて白い煙の柱が何本か立ち上がっている。その本数を数えて笑った。
外での仕事も多かったから、セイロス騎士団での狼煙の意味は覚えている。そうだ、あの操練書は確か、騎士の間にあっただろう。
「戦線好調につき、作戦継続……ありゃ、あんた宛じゃねえか?」ジェラルトが唸る。「この場合なんだろうな……健闘、いや幸運を祈るとかか?」
ああ、本当にお節介な奴!
「あれは、なんとかなるって意味ですよ、多分」
僕の言葉にジェラルトは意味が分からないという顔をした。
分からないだろう。
いや、みんなには当たり前過ぎて、僕だけがこんな延々悩んでいたのかもしれない。四年も掛かってしまった。
信じるだけで良かったのだ。それがどれほど不安だったかは言うまでもないけれど、呑み込んでしまえばそれできっと、なんとかなった。
手なんて引いてもらわなくてもいい。何も抱える必要はないし、背負ってもらう必要もない。
僕はただ一心に立って、倒れそうなら、自分で廻ればよかった。僕の体は外に飛び出そうとして、けれど、何かが内側へと引き寄せるだろう。力は釣り合う。足して、引いて、それを無力と呼ぶのだとしても、僕は僕を離さないでいられるのだから、それで良かったのだ。
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