修道院に戻って二日が経った。昨日の午後から崩れた天候のせいか、はたまた誰かが逃走の手引きをしているのか、盗賊団の追跡は難航しているらしい。もうすぐ学級対抗戦があるのに……と騎士団の誰かが嘆いていた。
 今節の末に、士官学校の生徒が各学級に分かれて模擬戦闘を行う催しがある。一応、実施する方向で進めると聞いたけれど、もしこのまま追跡がうまくいかなければ、生徒の命を狙った盗賊団が野放しのまま、再び修道院の外で活動をすることになる。正直、とても気がかりだ。その上、今回の学級対抗戦は猊下がご観覧になるそうだ。盗賊団が捕まらなければ、平時より厳重な警備が必要になる。騎士団としても、できれば対抗戦前に盗賊団を捕まえてしまいたいところだろう。
 そんなわけで、本当は偵察任務後の休暇がもう少し残っていたのだけれど、僕にも追走に参加せよとの命が下った。また走らないといけないが、気分はそんなに悪くない。家から離れたほうが落ち着く、という感覚を久しぶりに思い出した。
 つまり、相変わらず、ディミトリに会うのが気まずい。
 情けないことだなと思う。
 一昨日は思ったより普通に話ができた。彼は怒ってはいないようだった。もしかして、いつまでも引きずっているのは僕だけで、ディミトリの中ではもう、とうの昔に過ぎ去った些末な出来事の一つとして処理が終わっているのかもしれない。だって、彼にはこの四年間、もっと色々なことがあったはずだ。
 実家の両親は王国の近況をあまり手紙に書かない。幼なじみたちもここ数年、彼には会えずじまいで様子が分からないと綴っていた。
 ガルグ=マクまで伝え聞こえてくるような噂話ではなんの参考にもならないけれど、どう好意的に解釈しても、あまり愉快な近況ではなかったはずだ。煩わしいこと、ままならないことばかりだっただろう。そういう、どうにもならない物事の一つとして、彼の中ではもうケリが付いているのかもしれない。
 そんなことを考えつつ、遠目に姿が見えれば気まずくなって逃げてしまうのだから仕方ない。多分こういう、水をかぶったパンみたいなのが、僕の性分なんだろう。
 あーあ。
 何もこんな日に、こんな事、考えなくてもいいじゃないか。
 生徒や教団員達の共用の洗い場、洗濯桶の前にしゃがみ込みながら思う。
 じゃぶじゃぶ。
 今日は最後の休暇で、昨日の雨が嘘のように、空だってこんなに青い。明日の朝には任務に発つから、それまでは羽を伸ばせって女神様も言っている。一日中踊り回ってもいいし、好きなものを食べてもいい。
 じゃぶじゃぶ。
 なのにあの夜から、同じことばかり繰り返している。
 これ、本当に、どうしたらいいんだろう。
 ディミトリが貸してくれた外套のシミが落ちない。何度か洗ったり、染み抜きをしたりしてみたけれど、あまり効果がない。
 高い布ってこうなのだろうか。
 もう怒られることを覚悟でツィリルに相談してみようかな。懸命さが足りないと言われるだろうか。それとも、もっと早く言ってよと言われるのだろうか。初めから相談しておけば良かった。
あーあ。
 嘆息を漏らすと背後から足音が聞こえた。
「よう、あんた」足音が声をかけてくる。「えーっとなんだ、ステイシアだったか?」
 顔を上げると、そこには一昨日知り合ったばかりの男が立っていた。
「あれ、団長じゃないですか」
 仰ぎ見た男はなんだか背中が痒そうな顔をした。
 そう、ジェラルト団長。
 修道院に戻るやいなや、急転直下の採用劇だった。ジェラルト傭兵団の壊刃がセイロス騎士団の騎士団長になるらしい。
 正確には騎士団長代理らしいが、現団長は高齢で実務は殆ど他の騎士が担っている状況だったし、ジェラルトが実質的に騎士団のまとめ役になると考えても間違いではないだろう。
 セテスは随分困惑していたけれど、騎士団の面々はとても喜んでいた。20年ほど前までジェラルトはセイロス騎士団に所属していて、その上、騎士団長の立場にあったそうだ。それが昔あった大火の折に行方不明になり、今に至るらしい。アロイスは無事で良かったと喜んでいたけれど、何事もなかった上で今まで音信不通だったということは、何か思う所があって、騎士団を離れたのだろう。今になって舞い戻ってくることはジェラルトにとっては不本意だったのではないか。
「団長も洗濯ですか?桶ならまだ奥に余ってましたよ」
 洗い場に来たのだから当然、洗濯をするだろうと思って促したけれど、彼は一向にその場から動こうとしなかった。
「それは、あれだろ?青獅子のとこの坊主の外套」後ろ頭をかきながらジェラルトが言う。「あんた、血まみれにしてたもんなあ」
「うーん、不本意ながらおっしゃるとおりですね」
 彼が外套を貸してくれる以前から僕は血まみれだったのだから、わざわざもう一枚、地獄に送ることはなかった。
 意志薄弱。
やっぱり今の僕に必要なのは、頑なな拒否、強い意志、それから洗濯の技術、これに尽きる。四〇〇年すぎる前には習得したいものだ。
「そーいうときはなあ」ジェラルトが突然、歌でも歌うような調子で近づいてきた。僕の前に腰を下ろすと懐をあさる。「これに限るってなぁもんよ」
 彼が取り出したのは、瓶に詰まった何か白い粉だった。洗い場で小麦粉を取り出すということもないだろうから、きっと粉石鹸のたぐいなのだろうと思う。
「ほれ」ジェラルトは悪戯をする子供みたいな顔で、僕の手に小瓶を握らせた。
「あまり色が落ちすぎても困るのですが……」
 他の級長が真新しい外套を羽織っているのに、彼にだけ色あせたそれを纏わせるのはあまりに申し訳がない。いや、替えくらい持っているのだろうけれど……。ディミトリ本人がそういったことに頓着しなさそうなのが問題だった。
「そこはジェラルト団長を信用しなさい。嬢ちゃんとはくぐってきた修羅場の数が違うんだからな」
「それは頼もしい限りで……、えっと、ありがとうございます?」でも、それってなんの修羅場なのだろう。戦場だろうか。洗濯だろうか。
 ジェラルトは満足そうにうなずくと、よっこらせと立ち上がり、踵を返す。
「励めよお、若人」そう言って、後ろ手を振りながら去っていった。
 僕は手の中の小瓶と彼の背中を交互に見る。存外に、面白いおじさんだった。猊下の采配は不思議だけれど、賛成に一票を投じようと思う。

 燦々と輝く春の日差しの中、ディミトリの外套は空の青さに負けないくらい、すっかりきれいになって風にはためいている。
 まだ大樹の節だと言うのに、こすりすぎて若干布地が草臥れてしまったような気がするけれど、色落ちはしていないし、どうせ肩に引っ掛けてぐしゃぐしゃになるのだから、多分わからないだろう。
 幼なじみやツィリルに大雑把と言われるのはここだと一瞬頭をよぎったけれど、考えないようにする。
 草臥れたかもしれないが、僕の気のせいかもしれないし、もうなってしまったんだもの、仕方ない。とにかくシミは消えた。団長に感謝しよう。
 外套を竿から取り外して畳む。
 これを返せば、心置きなく仕事に励めるってものだ。団長のよくわからない歌を思い出した。
 しかし、そんな覚悟が僕に備わっているかしら……。
 雲ひとつない空を見上げて思う。
 団長のいう修羅場というものに、彼はどういう気持ちで挑んだのだろう。血の汚れにうってつけの石鹸があるという話以外にも、もっと話を聞いておけば良かった。


 宛てもなく修道院の中庭を歩いた。腕に引っ掛けた青色がふらふらと揺れている。
 いっそ、宿舎の扉にひっかけておこうかな。一瞬、名案だと思ったけれど、すぐ頭を振る。きっとイングリットに怒られる。余りに礼を欠いているって。そういえば、フェリクスに言われたのにまだイングリットに会いに行っていなかった。礼を欠かなくたって結局、怒られるのかもしれない。
 ぬるい風が吹く。中天から下り始めた日差しが植木に当たって長い影を作っていた。今は二時くらいだろうか。今日は平日だし、この時間、食堂に用事のある者も少ないせいか、中庭は閑散としていた。少し埃っぽいというか、ぼやっとした煙みたいな雰囲気が飽和している。
 絵に描いたような春の午後。少し眠い。なにも考えたくない気分だったから、急に訪れた睡魔はいつも以上に甘美な誘惑に思えた。ちょっとだけ、休憩しようかな。
 手近なベンチを見つけて、腰掛ける。目を閉じるとまぶたの上に陽光が降ってきて暖かい。何も見えないのにぼんやり明るい視界が面白かった。
 しばらくそうやって遊んでいると、遠くから軽やかな音が聞こえてきた。
 トトトン、トトトン、トトトン。
 だんだんこちらへ近づいてくる。誰か走っているのか、とぼやけた頭が呟いた。
 なんだか不思議なリズムだった。両の足で地面を蹴っているにしては随分と音が多い。なんだろう、もっとこう、足が多い……。
 嘶きが一つ聞こえた。
 ギョッとして飛び起きる。声のした方を見た。
 馬。
 馬が走ってくる。
 なんで?
 厩舎から逃げてしまったのだろうか。
 馬よりもっと奥、建物の影から黒いものが二つ飛び出すのが見えた。あれは士官学校の制服だ。それから、金色と銀色。
 もしかして、と僕が思ったのと相手が僕に気付いたのが多分同時だった。
「ステイシア!」
 金色は女の子の形をしていた。
「その子!捕まえて!」
 嘘でしょう?犬や猫じゃないんだぞ。
 そう思いながらも再び走る馬を見る。
 栗毛の馬。何度か背中を貸してもらったことがある。そんなに気性の荒い子ではなかったはずなのに、どうして逃げてしまったのだろう。何か、怖いことでもあったのか。
 もうそこまで興奮していないのか、走る速度は緩やかだ。足音が軽い。逃げていると言うより、普段こない場所の散歩を楽しんでいる感じ。
 ベンチの背に借りっぱなしの外套をひっかけて息を吸う。そのまま、馬と同じ方向に走り出した。
 緩やかな速度と言っても、相手は走りの専門家だ。追いかけっこには分が悪すぎる。(大体僕は足が二本しかないにの相手は倍だ)すぐに足音が近づいてきて、ブブブと鼻を鳴らす音が耳元をかすめた。
 馬の横顔が見える。
 首の根本に手を伸ばして、
 息を詰め、
 飛ぶ!
 馬の首元を軸に身を捻る。一瞬、空が見えて、馬の背に着地する。驚いて跳ねる馬の胴にふくらはぎがぶつかった。
「ステイシア!姿勢は真っ直ぐ!」
 後方から鋭い声が飛んできて、思わず背筋が伸びた。
 この乗り方は、昔、イングリットに教えてもらったのだ。初めて話を聞いたときは正気じゃないと思ったし、実際、言われるまま挑戦したら落馬して死にかけた。何度も練習して、できるようになったときは嬉しかった。増える生傷に母さんが嘆いていたっけ。なんだか懐かしい。

 彼らが追いつく頃には馬はすっかり落ち着いていた。
「イングリット」
 馬上から名前を呼ぶと、彼女は息を切らしながらも背筋を真っ直ぐ伸ばしてみせた。
「ステイシア、あなたが止めてくれなかったら怪我人が出ていたかもしれない。ありがとう、助かったわ」
「僕が怪我人だったかも」
 僕の言葉に、イングリットが首を振る。
「私にだってできるんだもの。あなたが乗れないはずないわ」
 彼女は寝ぼけたことを言うなという顔で僕を見た。信頼が痛い。
 イングリットの斜め後ろには一緒に走ってきた男が立っていて、静かに僕を見上げていた。
 色の黒い肌に、銀色の髪。馬上だからこそ、まだ僕の方が目線が高いけれど、降りたら相当首を曲げないと彼の目が見えないだろう。もしかしたらディミトリより背が高いのではないか。
 彼はイングリットと同じ士官学校の制服を着ていた。何度か噂で聞いたことがある。今期のルーベンクラッセにはダスカー人がいるって。きっと彼がそうなのだろう。
 馬の首筋をひと撫でして、背中から飛び降りた。
 僕が彼を眺めていることに気づいたのか、イングリットが口を開く。
「ステイシア、彼は……ええと、殿下の従者で」
「……ドゥドゥーだ」
「はじめまして、ドゥドゥー。僕はステイシア。イングリットの友人です。どうぞよろしく」
 手を差し出すと、ドゥドゥーはどこか神妙な顔をした。僕の右頬には何か言いたげなイングリットの視線が突き刺さっていたけれど、こればかりはどうにもできない。気づかないフリをするほかない。
 四年前、ダスカー地方で起こった惨劇で彼女は婚約者を亡くしている。
 当時、まだ隣国であったダスカーへ会談に向かったファーガスの王や、その従者、騎士達が何者かに襲撃を受け、その尽くが殺された。生き残ったのはただ一人。そして犯人もまだつかまっていない。
 しかし、襲撃を企てたのはダスカー人だというのが今の通説であり、特にファーガス国内では彼らを王殺しの大罪人と捉えるものがほとんどだ。
 あの事件以来、イングリットもダスカー人を酷く憎んでいる。
 ダスカーは王国によって征伐され、地図からその名を消した。名前だけではない。あの地で生きていた人、存在していたもの、そのほとんどがすでに失われている。
 けれど、やっぱり憎いのだろう。
 青地に落ちた赤いシミを思い出した。
 少しでも跡が残ってしまったら意味がない。きれいさっぱり消し去るまで終われない。僕のことは団長が助けてくれたけれど、イングリットのことはどうしたらいいの分からない。消してしまうことがはたして正しいのかも。
 彼女にはたくさんのものが染み付いている。
 ダスカー人への憎しみ。
 それから、婚約者――グレンへの愛情。
 どちらかを消すことができれば、彼女は今より穏やかでいられるかもしれない。誰かを憎んだりしなくとも良くなるかもしれない。けれど、それが幸せなのかどうかもよく分からない。
「……よろしく頼む」
 しばしの逡巡の末、ドゥドゥーの手が差し出される。握られた手の大きさに少し驚いたけれど、顔に出すと失礼かもしれないから我慢した。僕の倍くらいあるのではないか。
 見上げると、無表情な顔と目が合う。何を考えているのか分からなかったけれど、何も考えていなければ、手を差し出されて戸惑うこともないだろう。
 きっと彼だって、なにか、我慢しているのだろうな。
 人の内側は覗けない。肉の鱗に覆われているから。推し測ることしかできない。
 イングリットにグレンがいたように、彼にだって大切な人がいただろう。
 彼の大切なものを消したのは、僕の生まれた国の誰かだ。それでも彼は僕の手を取ってくれた。
 どうしてだろうか。彼も測っているのだろうか。
 僕にもまた、大切な人がいた。兄はダスカーで死んだ。でも、別にこの男が殺したわけじゃない。
 あの場所で、焼け死んだ兄の体を、僕はついに見つけることができなった。
 見たのは火をつける白い手。
 それから、燃えていく、たくさんの手。黒くすすけてしまったそれらが元々どんな色をしていたか。
 僕の手とドゥドゥーの手の色は違う。
 でも、そんなことに、本当に意味があるのだろうか。
 分からない。多分、本当に知りたいことほど分からないままだろう。
 誰も教えてくれない。
 測ることしかできない。 
 手触りを確かめて、輪郭をなぞって、納得できる名前をつけるしかない。

 遠く、大聖堂の方から鐘の音が聞こえてくる。いつの間にか時間が経っていたらしい。
 盗賊団襲撃の際、教師が一人逃げてしまったせいで、士官学校はどの学級もまだ担当者が未定だった。そんなわけで、本格的な授業は行われていないはずだけれど、イングリット達の様子を見るに、各学級ごと奉仕活動を言い渡されているのかもしれない。
「えっと、授業はまだ始まっていないんだよね?イングリット達はこの後どうするの?」
 彼女に問いかけると、概ね、想像通りの答えが返ってきた。
「この子達の世話を言いつけられていたのだけれど……」
 イングリットは少し困ったような顔で馬の方を見ていた。彼女は馬の世話が得意だったから、まさか脱走されるとは思っていなかったのだろう。
「それで、各々やることが済んだら訓練場に集合しようという話になっていて……」
「そうなんだ。それじゃあ、そろそろ向かったほうがいいかもね。他の人を待たせても悪いし。馬は僕が戻しておこうか?」
「いえ、大丈夫よ。元々は私たちが任された仕事なのだから」
 あなただって、どこか行くところがあったのでしょう?そう言う、イングリットの視線の先には置いてきぼりのベンチがあった。
「そう……仕事なら、うん、邪魔しちゃいけないね」
「ドゥドゥー、あなたは先に向かってください。私もすぐ追いかけますから」
「……わかった、すまない」
 イングリットは静かに首を振って、目を伏せる。彼女の目線はドゥドゥーの爪先あたりを見ていた。
 それから自身の爪先。
 そこに何か、シミはあったろうか。
 彼女の手は手綱を引いて、足は元来た道の方へ。
 ああ、行ってしまう。そう思った時、僕は手を伸ばしていた。
「イングリット」
 呼びかけて、彼女の手をつかむ。振り向いたイングリットは目を瞠っていた。
「僕、明日からまた任務なんだ。しばらく留守になる。でも、帰ってきたら、また話をしよう。手紙に書けなかったことがたくさんある。それから、街に出かけたりとか、したいこともたくさん」
 イングリットは何度か目を瞬かせると小さく笑った。「ええ、楽しみにしてるわ」
 それきり彼女は元来た道を歩いていってしまった。
「……馬を逃してしまったのは俺だ」後ろでぽつりとドゥドゥーが言った。「馬に、いや、昔から動物には嫌われる。悪いことをした」
 誰への謝罪かよくわからなかった。イングリットだろうか、馬だろうか、それとも僕へだろうか。
「僕は怪我してないし、馬はもう怖がってなかったし、イングリットは馬を逃されたくらいで怒る人ではないよ」
 けれど、きっと彼が言わんとしているのは違うことなのだろうな。
「……お前は嫌だと思わないのか」
「僕が?なんで?」
「俺はダスカーの民だ」
「そう、僕はノモスってところで生まれたよ」
 山間の小さな街だから、聞いたことないかもしれないけれど、と付け足すと、ドゥドゥーは知っていると言った。意外に思って彼を見上げると、また無表情な顔と目が合う。
「殿下にお仕えすると決めた時、ファーガスの地名は一通り覚えた」
「そっか、じゃあ地理もなんとなく分かるかな。ノモスとダスカーは地図だと本当に近いんだよ。指の先をほんの少しずらすだけで、すぐ君の国だ」
「……実際は、山を越えねば行き来はできん。そう気軽に語れる距離ではない」
「そうだね。ノモスの街から麓まで降りて、一度街道に出た後、山を迂回しないといけない。でも、落ちてくる時は関係ないよ」
「落ちてくる?」
「生まれる時に、落ちてくるでしょう?僕はノモスで生まれたけど、別に、あそこでなければいけないわけじゃなかった。たまたま空いている体がノモスにあって、僕はそこに落っこちて来ただけ。飛び降りる時、ちょっと足を滑らせていたら僕はダスカーにいたかもしれない。いや、足を滑らせて今なのかな……ねえドゥドゥー、どこで地面に落っこちたかがそんなに重要かな」
 もし生まれる前から、誰かが、例えば女神様が全部決めていて、僕がノモスに生まれたのも、家族が死んでいったのも、みんな運命だって言うんなら、それはとても悲しいことだろう。
「重要でなければ俺たちはこうなっていない」
「それは……そうだね。そういう考えもあるのかも」
「お前の考えのほうが少数派なのではないか」
「どうだろう、セイロス教の信徒の中では少ないかもしれない。僕たちの運命は全部、女神様の定めたもの、という事になっている。でも、みんなが本当にそれを信じているのかは知らない。聞いて回ったことがないから」
 いい加減、ほったらかしの借り物を回収しようとベンチまで戻るとドゥドゥーは律儀に着いてきた。
「ねえ、君のこと、イングリットが殿下の従者って言ってたね」
「ああ」
「これから彼のところに行くなら渡して欲しいものがあるのだけど」
 彼は僕の腕に戻った青色を見るとあからさまに眉を潜めた。なんとも言えない威圧感に、馬が彼を怖がった訳が少しわかった気がする。なんでも覆い隠してしまう人なのかと思ったけれど、そうでないこともあるらしい。
「殿下はそれを、友人に貸したとおっしゃった。ならば、お前自ら返すべきだ」
「そうだけど……」
「落ちた場所が重要でないのなら、お前の為すことが重要なのではないのか」
「君、立派な人だってよく言われない?」
「言われないな」逆のことの方が多い、とドゥドゥーは言った。
「そうかなあ……」
「どうして、殿下を避けようとする?」
「どうしてって、僕は谷に落ちたんだよ。でも、君はまだ落ちてないように見える」
「また落ちる話か……」うんざりした顔をされた。「フォドラのことわざか何かか?」
「ことわざってわけじゃないけど……。悪魔みたいに悪いことをしたってこと」
 どういう意味だという視線を感じたけれど、これ以上、答えたくないから黙っていた。腕の中の青色を眺めているとなんとも言えない気分になる。
 そうか、僕たちってまだ友達なんだ。彼が立っている所まで僕は登っていくことができないのに、随分と気遣われていると思う。申し訳ない。返せるものがないから、どんどん踏みにじってしまう。
 しばらくの沈黙の後、頭上からため息が降ってくる。僕の目の前には大きな手が差し出されていた。
「……今回だけだ」
「いいの?」
「これで貸しが返せるならな」
「君には何も貸していないよ?」
「……覚えていないのなら、それでいい」
 ドゥドゥーの顔を見上げると、また、今までの無表情に戻っていた。他人の考えていることはいつもわからない。ただありがたいなと思う。


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