霜柱で盛り上がった土を踏む。
サクサク
サクサク
焼き菓子を齧る時のみたいな音がして、少し楽しい。
屋敷の中庭を抜けて温室に向かっていた。といっても、あたりは濃い霧が立ち込めていてよく見えない。多分、真っ直ぐ向かっていると思うけれど、どうだろう。
足元からは相変わらず楽しげな音が聞こえていて、突拍子もないことだけれど、片っ端から踏んで回りたいような気もするが、我慢する。お使いをほっぽり出して遊ぶわけにもいかない。
息を吸うと冷たい空気が喉を滑る。濡れたような重さがあって、吸うというより空気を飲んでいる感じに近かった。湯気の立ち込める浴室のようでもあったけれど、温度は真逆だ。こうも違うのに、似た様相になるのが不思議だった。正反対というのは、案外よく似た双子のようなものなのかもしれない。
温室の扉が見えてきた。中に入ると、外と打って変わって、ほんのり温かい空気に包まれる。
「父さん」
温室の片隅、植物たちの前でうずくまる背中に声をかける。肩越しに振り返る彼の元まで歩いて行った。
「見つかったか」
「うん、これで合っている?」
持ってきた麻袋の口を開いて中を見せると、父は中から球根を一つ取り出して眺める。
「ああ、これで間違いない。わざわざ取りに行かせて悪かったな」
「いいよ、別に。暇だもの」
呟くと、父は座り込んだまま僕の顔を眺める。
「腕の調子はどうだ」
「全然悪くないのに、剣すら握らせてもらえないから調子が出ない。このままじゃ、鈍らになりそう」
「そうか」父は頷くと、近くにあった鋤を手に取る。「退屈しているのなら、少し手伝って行ってくれ」
鋤を受け取ると、彼は近くの畑を指さす。雑多に植物が植えられた中にぽっかりと空いた区画があった。
「土は浅めで構わない。拳二つほど間隔を開けて植え付けてくれ」
僕が頷くと彼はまた自身の作業に戻って行った。
家に戻ったからには、僕は自分の仕事を全うしなければならないと思っていた。それがつまり、この場所で暮らすことの家賃みたいなものだと。
それなのに、いざ生活を始めてみたら、誰も、姉の仕事の引き継ぎを終わらせろとも、そのために踊れとも言わない。それどころか、稽古を始めるのはまだ早いとか、安静にしていろだとか、おかしなことばかり言う。もうどこも悪くないのに、どう養生しろと言うのだろう。今、手を出して文句を言われないことは、誰かの代わりに探し物をするだとか、荷物を届けるだとか、こうして鋤を握るとか、そのくらいだ。
土を耕していると、時々コポコポと水の流れる音が聞こえる。この温室には栽培用の区画を取り囲むよう、地中に管が埋設されていて、中に温水を通している。その音だろう。
屋敷の裏手、山をしばらく登った所に蒸気が噴き出る源泉がある。その熱と渓流の水を組み合わせて温室の熱源にしている。温室の中を通した後は街の方まで温水を流して冬季の融雪に利用しているから、ノモスの街の排水設備はちょっとしたものだ。そんな実績もあってか、二十年ほど前、王都フェルディアに上下水道設備を整備したときも、街の大工や技師が駆り出されたと聞く。
ガルグ=マクにも温室があったけれど、あちらは魔道具で温度を管理していた。管理人に一度魔道具を見せてもらったことがあるけれど、かなり規模の大きいものだったから、ノモスの温室に採用するのは無理だろう。広さが足りないと言うことではなくて、魔道具の出力が大き過ぎる。恐らく王家の許可がおりない。軍事転用の可能性があるとみなされるだろう。建国以来、従順な小鳥のフリを続けているのだがいまいち信用を得られない。徒労でしかないというのは虚しいものだと思う。
しばらく土を耕していると名前を呼ばれる。顔を上げると父はこちらに背を向けた姿勢で作業を続けていた。
「なに?」父の背中に声をかける。
「剣の稽古は好きか」彼はやはり背中を向けたまま言葉を続けた。
「え?うん」
「踊るのは」
「好きだよ」
「この間、王城から招集があった」
急に話題が変わって首を傾げる。どういう文脈なのだろう。
「建国記念の式典の話でしょ。母さんが断ったって聞いたよ。まだ怪我が完治してないって言い張ったって」
「行きたかったか?」
「うーん、どうだろう」
ずっとここままというわけにはいかない。呼ばれそうな行事はいくらでもある。その度に腕を折るわけにもいかないのだから、どこかで受け入れる必要があるだろう。
しかし、建国を祝う気持ちがあるかと問われるとそれもまた微妙だ。国が興ったということは飼い主が定まったということ。それを祝えない僕は、犬であったなら駄犬だろうし、鳥であったなら……なんだろう。しかし、元を辿れば鳥に紐をつけて飛んで行かないようにするという発想がそもそも馬鹿馬鹿しいわけで、それをわかっているから国の連中だって僕らが力をつけないよう、必死なのだ。いつか抵抗するかもしれない、裏切るかもしれないという疑念があるのだろう。信用がないから何度も呼び出して結び目を締め直そうとする。そんな関係にしかならないなら、いっそ紐なんて切ってしまったほうがいい。
僕が言葉を濁すと父は手を止めてこちらを振り返る。
「私も彼女の判断に賛成だ。今の王都はどうにもきな臭い」
王領内の治安や摂政の治世については、確かにあまり良い噂を聞かない。外見こそ整えているけれど、四年もの間、王座が空席であることの影響は間違いなくあるだろう。好んで近づきたいとは思わないから、知らないうちに断られたこと自体は別にどうでもいい。
問題はあまりに過保護であるという点だ。
「母さんはきっと、僕が剣を振るったり、外に出るのが嫌なんだろうね」
区画の端まで畝を作り終え、鋤と球根の入った麻袋を持ち替えた。
どうして、鋤の柄は握っていいのに、剣の柄はいけないのか。振り回すだけならさして変わらない。それなのに、剣を握ると使用人達が集まってくる。そして決まって、奥様に叱られますと言う。
急にこうなったわけではなく、思い返せば、以前から優しいだけはない面があった。長らく、家から離れていたから忘れていた。
姉が死んだのが始まりで、兄が死んで拍車がかかった。僕が勝手に家を飛び出してダスカーへ着いて行ったのも要因だっただろう。今考えると、よく僕を修道院に入れるという話にまとまったなと感心する。
両親は僕のことをどうしたいのだろう。この屋敷の中でだけ踊ったり、花を育てたり、そういうことを望んでいるのだろうか。
霧氷に囲まれた白い街で、両親のもとで、ただ安穏としている。そういう人生を想像した。
少なくとも剣はいらなくなるだろう。何も打ち払う必要がないから。気持ちの悪い目も、耳触りの良いだけの賞賛もない。上辺だけの不毛な繋がりは僕の首まで届かないし、いつまでも従順であれなんていう、気の狂った要求に耳を傾けなくてもいい。
人によっては眩暈がするほど幸福なことだと感じるかもしれない。少なくとも気安い生活であることは確か。
けれど……。
そうしたらもう、ディミトリには会えないだろう。
構わない、望むところだと、僕は長らく思っていたはずなのに。今それを選んだらきっと嘘つきだと言われる。そして、それは少し嫌だなと思った。
「父さんはどうして僕を修道院に行かせてくれたの?」
球根を麻袋から取り出して、畝の間に並べていく。時々、折れた左手の指がわずかに引き攣る。
一瞬だけ流れる痺れのような抵抗は、そのうち良くなるかもしれないし、ずっとこのままかもしれないと言われた。
畝を崩して土を被せる。手の甲や、土に沈めた指先には古い切り傷の跡が残っている。修道院で走り回っているうちにいつの間にか増えていた。
家を出なければ負わなくて済んだ傷が、多分たくさんあるだろう。けれど、それが幸せなのかはわからない。今更、なんの跡もない生白いだけの手を見ることはできないから。目の当たりにしなければ知ることのできない類の幸せなのだ、きっと。
「あれは母さんが言い出したんだよ」
驚いて、土を被せる手が止まる。
「お前を手元に置いたとて、救われないと言っていた。救うというのがどういうことなのか私にはわからなかったが……」
顔を上げると、父はまだ僕を見ていた。
「今は彼女の言ったことが分かる気がするよ」
彼は目を細める。何かを懐かしむように。
今、何が見えているだろう。父の目に映る影を確かめてみたかったけれど、遠くてよくわからない。それでも、もしかしたらそこには四年前の僕が写っていただろうか。
父は温室を整えながら、ずっとそれを見ていたのかもしれない。もはや記憶にしかいないものを。兄や姉の姿だって、彼の目の中には今もあるのではないか。
「どうして、そう思うの?」
「さて、どうしてだろうな」
父は一度微笑むと、自身の手元へ視線を戻した。収穫の終わった植物を抜いて、また新しい苗を植えるのだろう。僕もまた、自身の手元を見た。これでもう、頼まれた分の球根は埋め終わる。
「これはいつ芽が出る?」
「孤月の節頃だろう。雪が溶け出す時期に芽吹く」
「まだしばらく掛かるね」
「すぐ芽吹いてしまっては使い物にならない」
「そうなの?」
「ああ、よく水をやって根を張らせる。十分に養分を蓄えれば新たに球茎が増える。増やさねば、ただ消費して無くなるだけだ。育てる意味がない」
「ふーん」
この温室にある植物は鑑賞のために育てているのではない。薬の材料にするのだ。だから、雑多に生えている草花はいずれも薬草なり毒草なりと呼ばれる品種だ。僕の植えたものもそう。父の話では球根を増やしたいようだから、そこになんらかの効用があるのだろう。下手に齧ったりしたら死ぬかもしれない。
目的があるから育てる。必要だから、温室に囲って、枯れて潰えないように管理している。人が育てているのだから、それはそうだろう。意味もなく、わざわざ労力をかけたりしない。
国が僕らを囲っているのだって同じ。国の正当性を主張するのに宗教が必要で、教えを遵守するから、僕らが保護されている。女神のために踊るのが、言ってしまえば僕らの効用だ。
僕自身はどうだろう。育てられているのなら、目的があって、要求があって、それに応えるべきだろうか。
「お祖母様は亡くなってしまったけれど、父さんはずっとここの世話をしているね」
「あの方以外にも薬の必要な者はいる」
「もしも、もう誰も病気にならなくなったら、この温室も植物たちも、必要なくなる?」
「随分と取り留めのない話だな」
「でも、いつかそうなるかも」
魔道も医学も少しずつ進んでいる。王都を蝕んでいた疫病だって無くなった。あれは国が医学と呼ぶものとはまた少し違ったけれど、人は少しずつ死ににくい方へ進んでいる。それは、やはり死にたくないから、ずっと、いつまでも続いていくことを望んでいるからではないのか。いつまでも生き続けて何をするのか、というのは疑問だけれど、しかしそういった切望が、社会や国の根っこにはあるような気がする。誰かは知らないけれど、大勢の人がそれを求めているのなら、いつか手が届いてしまうのではないか。
「病はなくならないよ」
「どうして?」
「人は死ぬようにできているから」
父は僕のそばに落ちていた鋤を拾い上げる。もう片方の手にはいつの間にか白い花が握られていた。
「さあ、手伝いはもう十分だ。突飛な話をするほど暇なら、墓参りにでも行ったらどうだ。戻ってからまだ一度も行っていないだろう」
「うん」差し出された花を受け取る。
「もうすぐ雪が積もる。墓標の場所がわからなくなる前に行ってやれ。春まで待たせては二人とも寂しがるだろう」
「寂しいなんて……」
そんなことを感じるはずがない。そう思ったけれど、口を噤んだ。わざわざ意地の悪いことを言うものではないと今はわかる。
父は手を拭うと僕の頭にぽんと乗せた。それでもかすかに土の匂いがする。
「街の外に出るなら供を連れて行け。母さんが心配する」
「うん……」
手の影から表情を盗み見ると、眉をわずかに下げて僕を見下ろす顔は困っているようにも微笑んでいるようにも見えた。
温室を出ると、あたりの霧はすでに晴れていた。山頂の方だけ、まだしつこく白色が残っている。玄関のある棟には向かわず、中庭を抜けて、城郭の方へ向かった。
父の忠告が一瞬頭に浮かんだけれど首を振る。家族の墓参りに行くだけなのに、どうして他人に付き添ってもらう必要があるだろう。あまりにも居心地が悪いし、ぞっとしない。
しばらく進むと、目的の場所に着く。延々続く塀の一角、枯れ蔦や落ち葉に覆われて見つけにくいけれど、壁の足元に穴が空いていた。
かつて使われていた水路の遺構らしい。新しい水路を敷設した際に塞いだものがいつの頃か崩れたのだろう、というのが第一発見者だった兄の見解だ。
この穴はまだ兄姉が生きていた頃、森や川へ遊びにいくのによく使っていたものだ。あれからすでに何年も経っているし、流石に塞がれているかもしれないと考えていたけれど、未だ崩れたまま放置されていた。不用心だけど、今に限って言えば通路として使いたいわけだから、誰にも見つかっていないのは都合が良かった。
落ち葉を足で払って、邪魔な蔦を手で避ける。中を覗き込むとなだらかな傾斜が上の方へ続いていた。出口は暗くて見えない。通る者がいないから出口もこちら側とおなじように蔦や落ち葉で塞がってしまっているのだろう。
ひとまず出口を開けた方が良さそうだと思って、父から持たされた花を塀のそばに置いて穴へ潜った。記憶の中にある穴より随分狭いような気がするけれど、何とか通れそうだった。
塀を抜けた後、しばらく山を登った。だんだん立ち並ぶ木が少なくなっていき、大小様々な灰色の岩が転がる草原が姿を表す。風が強く、温室を出た時に見えた雲の塊はすでにどこかに吹き飛んでいた。
深い青色の空の下、雲のかわりに綿を箒状に蓄えた植物が草原の表層を白く染めている。時折、全てを薙ぎ倒そうとするみたいな強風が吹くけれど、がさがさ、ざあざあと音を上げるだけで、白く光る綿の層はしつこく地表にしがみついていた。
地表の綿雲が揺れるたび、ちらちらと暗い灰色が顔を出す。そこらに転がる岩と元は同じものだけれど、他が思い思いの形をしているのに比べてあれらは割り切った直線を晒している。
目的地に歩を進めながら少し背を折って身を縮めた。抱えた花が風で飛ばされそうなのも心配たっだし、そうでなくても、刃物のように研ぎ澄まされた冷たさが外套の間を縫って肌を突き刺すものだから、長くは留まっていられないと思うくらい寒い。
やがて、草原が拓けて立ち並ぶ石柱が現れる。墓石の群れだ。色と形が似通っているせいでどれも同じように見えた。辺りを見回していっとう新しそうな石の元へ向かう。二つ並んだ石柱の前、刻まれた文字を確認して息をついた。
ちゃんと見つけられて良かったような、腹立たしいような。
ここにある石の数だけ、僕と同じようにノモスの家に暮らしていた人たちがいる。彼らが過ぎ去って、入れ替わるみたいに僕がいて、この石たちも、いなくなった全ての人の代わりに、ここに置かれ続けている。
お墓を立てるのは、例えば栓をなくした容器に代わりの栓を挿すようなものだろうか?そうやって中身が、大事なものが溢れないように塞いでいるのだろうか?
でもそんなの、全然意味がない。
こんな石ころが二人の代わりになるだなんて思えない。どれだけ装飾を施しても祈りの言葉を刻んでも、石の内側に詰まっているのは表面と同じ冷たい灰色で、そこに姉さんの美しさや兄さんの優しさが宿っているわけではない。
人の内側にある本当に尊いと思えるものは、生きているうちは取り出せないし、死んでしまったらその瞬間に跡形もなく消滅する。留めておくことはできない。だって触れることができないから。空いた穴から溢れたとしても手で受け止めたりはできないのだ。
だからお墓は死んでいく人のためにあるのではない。生きている奴のために彼ら自身が用意する。何のためにこんなことをするのだろう。感傷?それとも、何か形で残しておかないと、溢れて消えたことすらいつか忘れてしまいそうで恐ろしいのだろうか。
忘れたらいいんだ、忘れられるものなら。
墓石の前に花を置く。風が強い、飛ばされないように横たえた花の根元に小石を乗せた。
この花も二人に届くわけではない。それならこれは何だろう?誰のために供えているのだろう。生きている奴……それって僕のことだろうか。
でも別に、こんなものいらない。
欲しかったのはもっと別のもの。
目を瞑る。
姉よりも上手く踊れる自分でありたかった。
兄に守られなくてもいい自分でありたかった。
そうであったなら、まだ二人ともどこかにいてくれただろうか。
どうだろう。
色々と悪あがきをしたけれど、結局全てうまくいかなかったから、違う結果はあまり想像できない。
きっかけは、姉がマイクランを好きだと知ったことだったように思う。
なぜ?と思ったし、それ以上に、とても叶わないだろうと思った。銀の小鳥でいる限り、彼女は好き勝手に飛んでは行けない。マイクランもゴーディエの家から出られない。彼はシルヴァンに何かあった時の保険であったから。二人揃って不自由ではどうにもならない。それで、じゃあ僕が家の仕事を継げばいいと思った。踊ることは好きだったし、好きな人と一緒にいられるのはいっとう幸福なことだろうと思ったから。
以来、僕は姉を追い落とそうと躍起になった。けれど、どれだけ踊っても、姉には届かない。彼女の踊りはいつだって僕よりもずっと美しかった。手を抜いてくれたって良かったのに、美しいまま、逝ってしまった。
姉が死んで、兄は飾り物でしかない僕らの地位をどうにか押し上げようとした。彼はランベール陛下の治政に望みを掛けたようだった。武力をもてなくても、政に関われなくても、値札を貼って切り売りされることのないように、ダスカーとの融和、その役割を望んだ。そしてそのまま灰になった。
息を吐き出す。
思い出すたび、いつも心臓の裏あたりがキュッとなる。
やれるだけ足掻いたつもり。ただ、掴みたいものに届かなかった。
惨めだ、とても。
けれど、それだけならまだマシ。うんとマシ。
もしかしたら……。
荷物がなくなって自由になった両手を握った。
僕はこの手で二人の背中を押したのではないか。うんと暗いところに突き落としたのではないか。
二人が生きていた頃の僕は今よりはるかに未熟だった。何もかもが足りないまま、立ち塞がる壁の向こうを見ようとしていた、つま先で立って。けれどその程度の努力で見えるものなんて高が知れているし、足元は酷く覚束ない。均整の取り方も知らないまま、何度も致命的なものを踏み抜こうとしただろう。その度にきっと二人が僕の手を引いてくれた。
そのせいで二人が落ちてしまったら何も意味がないのに。
とても、大好きだったから。
生きていて欲しかった。
二人が落ちてしまわないように、手を引ける自分でいたかった。たとえ彼らを引き上げるだけの力がなかったとしても、ほんの少しでもいい、時間稼ぎをさせて欲しかった。だって、そうしたらきっと、二人はどこか別のところを掴んで留まってくれただろう。
根拠はない。
けれど、確信がある。
こんなに願っているのだから、叶えてくれないわけがない。
「……ねえ、二人もそうだったの?」
カスカスの声。
駄目だ。
やはり墓参りになんて来るんじゃなかった。
これは僕のためにある。栓の抜けた穴に落ちないように、倒れないように立っている。
顔を上げるのが辛い。
惨めなままでいたい。
潰れたい。握り潰してしまいたい、全て。
でも……。
握った手を解いた。
血の気の引いた白色。それは小刻みに震えている。
まだ、何か掴みたい?
それとも、もう何もいらないか?
自分自身に問いかけてみても、指先が震えるばかりで答えは出てこない。思考はずっと空転を続けている。
埒が明かない。ため息をついて、立とうとした。その時に足が痺れていることに気づく。構わずに体を持ち上げるとじんわりとした震えが膝からつま先に向かって降りていき、不意に力が抜けた。
慌てて地面に手をつく。
手の下に硬い感触があった。次いでひりつくような熱さ。
目を向けると、灰色をした石の破片があった。握り拳くらいの大きさをしている。手入れもされず崩れた墓石をいくつか見かけたから、この石もそんな残骸の一部なのだろう。
石の断面は赤く濡れていた。ぬらりとした光をまとう血がゆっくりと石の表面を滑っていく。その様に眼を細めた。
多分、生きているってこういうこと。
刻み込まれた祈りの言葉を雨風で削って、気が遠くなるくらい長い時間ここに立ち続けて、やっとただの石ころに戻れたのに。せっかく、誰のためにもならない、綺麗な静寂ができたのに。
こうして僕に潰されて、そのうえ血でドロドロに汚される。
可哀想だ。
台無しになんてしたくないのに、立ち上がって足元を見ると、いつの間にか全て滅茶苦茶になっている。こんなことなら何度も立ち上がって呼吸を続けたって、何も甲斐がないと思うのに、どういうわけか僕はそれを望まれている。あまつさえ、今更になって僕の手を掴む人までいる。
可笑しかった。
だって、それが幸せなことかわからないじゃないか。もしかしたら、傷口からぬらつく血を垂れ流して、滑る手では何も掴めなくて、その方がずっと幸せかもしれないのに。
風に流されるみたいに、当てもなく視界が揺れる。意識の外側で僕の目は何かを探しているようだった。
そして白い花が見える。
ああ、そういえば。
まだ手紙の返事を書いていない。
なぜ、いまこんなことを思い出すのだろう。まとまらない思考のまま、気づいたら、切れていない方の手を膝について、再び体を持ち上げていた。少しふらつく。
もう片方の手の中には濡れた石がある。
痛みのような、痺れのような、じくじくとした疼きごと石を握った。
息を吸って、振りかぶり、宙へ放る。
放たれた石は放物線を描きながら飛び、眼下に広がる白い茂みの中へ落ちていく。
その間、いろいろな音が聞こえた。
枯れ草が擦れ合う音、風に煽られて髪が肌を叩く音、外套の裾がはためく音。判別のつかないような微かな音達も混ざり合って、ざあざあと喚く音が長く響く。騒々しさに包まれている。
生きている間はずっと煩い。音だけではない。いつか投げかけられた視線だとか気配だとか、温度、仕草、もらった言葉も、墓石に刻まれたお祈りみたいに居座り続けて、ずっと何事かさざめいている。
何もかも流れていってしまうのに、なぜ、この煩わしさだけが、こうも長く残り続けるのか、ずっと不思議だった。
けれど、それはきっと、僕が忘れられないから、そのせいでいつまでも残り続けてしまうのだろう。
そのあと、坂を下って屋敷へ戻った。途中、一度後ろを振り返ったけれど、石柱の群れはもう見えなくなっていて、ふわふわと茂みが揺れるばかりだった。
もうすぐ雪が降る。
綿毛の代わりに雪があたりを白く染める。そして、雪が溶ける頃には枯れ草の丘も置いてきた花も、どこにも見当たらなくなるだろう。放り投げた石も血の赤色も。
それでもきっと、何かが残る。
悲しいと思った。
残ってしまうことも、忘れてあげられないことも。
けれど、忘れてしまったら、僕が僕を続けていくことの意味がなくなってしまうから、きっとそれだけはいつまでたってもできないだろう。誰も彼も、僕だって、忘れてあげた方が、うんとずっと綿毛みたいに身軽かもしれないのに。
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