窓の外が白く染まっている。まっすぐ伸びる針葉樹の枝葉はたっぷりの雪を抱えていて、時々持ちきれなくなるのか、どこかから雪の落ちる音が聞こえた。
 一度雪が積もってしまうと時間の経過がよくわからなくなる。なぜって、窓から見えるものが全てこんもりとした白色に覆われていて、それがいつまで経っても変わらないから。あたりが明るくなったり暗くなったり、たまに吹雪いたりもするけれど、そろそろ景色が変わったかなと思って外を眺めると、いつぞやと変わらない景色が目の前に現れるものだから、あれ、もしかしてまだいくらも時間が経っていないのかな?と考えてしまう。
 そんな錯覚みたいな日々がしばらく続いて、気がつくと守護の節を迎えていた。
 何回か手紙の返事を書いた。前節に誕生日のお祝いを送ったのが最後で、それ以来手紙は届いていない。正直、僕の書いた手紙もガルグ=マクまで届いているか怪しいと考えていた。赤狼の節に墓参りへ行った後、何日もしないうちに今年最初の雪が降って、以来、雪は深くなるばかりだ。ノモスからガルグ=マクへ向かう行商人たちに手紙を託したけれど、彼らもどこかの街で雪が溶けるのを待っているかもしれない。仮に手紙が届いたとして、返事が来るのはどんなに早くても春になる。雪山を越えて手紙を運ぼうなんて酔狂な人がいるとは流石に思えなかった。
 そこまで考えて少し笑う。いつの間にか返事が届くのを当たり前に感じている自分がおかしかった。いくら彼が律儀な人だからといって、そう何度も他愛ないやりとりを続けられるほど暇ではない。あと二節で孤月の節になる。一年が巡って、士官学校では卒業の式典が行われる。そのあとは皆んな、国許に戻るか、新しい居場所へ旅立つか、各々定めた先に進んでいく。彼もこの国に戻って、あとは王座まで一直線だろう。
 現状国の政治を取り仕切っている摂政――彼の叔父にあたるイーハ大公との関係はいまだに不穏だけど、数年前ならいざ知らず、今に至ってしまえばディミトリが王位を継ぐことはほとんど確定事項だ。フラウダリウス公爵家の後ろ盾に、王家の紋章も継いでいる、その上、先王ランベール陛下が戴冠をうけたのも士官学校の卒業後だったから、時期的にも申し分ない。大公派の諸侯であってもこの状況では否やを唱える理由がないだろう。
 今まで日和見を決め込んできた貴族たちをまとめ上げて、反対派との落とし所を見つけて……、政治についてはほとんど蚊帳の外の僕ですらこのくらいの面倒事は頭に浮かぶのだから、当事者の立場なんて考えただけでゾッとする。そうなれば文通なんてしている場合ではないから、このやりとりもせいぜいあと一巡、よくで二巡もすれば終わりだろうと想像した。
 きっとちょうどいい、いろいろと。
 ため息をついて、指でつまんだ手紙を眺める。
「お嬢様」
 目を向けると、戸口の脇に神妙な面持ちで侍女の彼女が立っている。この部屋に手紙を運んだ時からずっと同じ表情を浮かべたままだ。外があまりに寒いから顔の筋肉が冷え固まってしまったのかもしれない。
「どうなさいますか」
「どうと言われても……行くしかないんじゃないかなあ」
 まさかこんな冬の只中にあって、手紙が送られてくるとは思わなかった。それもわざわざ天馬まで使って。陸路での運搬は現実的ではないから、確かに、届けるとしたら空からだけど、それにしたってこんな紙切れ一枚に対して大袈裟すぎる。
 便箋には封蝋がしてあって、そこに刻印されていたのは王家の印だ。けれど、彼からではない。
 手紙の署名には件の摂政、イーハ大公の名前があった。
 仕事だ。仕事の依頼。いや、依頼の体をした命令か。
 聖セイロスの祝祭に際して王都で祭事が行われる。そこで踊りを奉納してほしい、というのが手紙の趣旨だ。ご丁寧にも、大公直属の天馬騎士隊による護衛と送迎付きとのこと。
 赤狼の節にあった呼び出しは母が力技で断ったけれど、今回はもう断る理由がない。いよいよもって役目が回ってきたわけだ。思っていたより早かったけれど、そう思うのはもしかしたら、まだ遊んでいたいとごねるような感傷なのかもしれない。
「しかし……この時期の召集は前例がありません。怪しすぎます」
「うん、それはそう」
 ファーガスでは雪によってあらゆる活動が停滞する。隣国スレンとの国境争いすら、冬の到来によって停戦になったことがあるくらいだ。下手をすれば寒さで命を失うのだから、余程のことがない限り、家でじっとしていることが推奨される。少なくとも、呼び出し理由の祝祭は”余程のこと”には含まれないだろう。王都にも教会はあるのだからわざわざ領外から人を呼び出さなくとも、どうとでもなるはずだ。
 そんなわけで、十中八九何か別の思惑があるのだろうが、それが何かは判然としない。次の王座を狙った政治活動だとすれば、あまりに時期が遅すぎる。対抗馬が育ちすぎてしまったし、そもそも、王座を欲しがっているようにも思えない。その席が欲しいのならこの四年間、暗愚とまで称される振る舞いを続けたりはしなかっただろう。
「……今からでも体調がすぐれないということになさるのは……駄目でしょうか?」
「初めからそれで追い返していればね」
 彼女の立つ戸口の向こう、王都フェルディアからの使者はすで屋敷の中まで到達していて、今頃は応接室で父か母が対応に追われているだろう。面倒な要求を有耶無耶にしてかわすのは父の方が上手いように思うけれど、彼は一応婿養子の立場だから、表に立っているのは母の方かもしれない。いずれにしても、今更口裏を合わせてもらうのは難しいだろう。この後に及んで具合が悪いだなんて、仮病ですと言っているようなものだ。
「だいたい君も、この手紙を持って僕を呼んでこい、くらいしか言われていないんでしょう?もう断るっていうのは効かないんだよ」
 僕の言葉に彼女は下唇を噛んで俯いた。その脇を通って戸口に手を伸ばす。
「例えば」彼女が僕の手を掴む。「体調がすぐれないというのは怪我をされたことだって含まれます……」
「骨はくっついてしまったし、この前の切り傷だってもう塞がった。手当てしてくれたのは君だよ、もう安静にしてなきゃならない傷なんかないって知っているでしょう」
「わ、私が……」握る手が震えている。「急に襲いかかったりしたら、きっとお嬢様は驚いて怪我をなさると思います」
 なぜそういう話が出てくるのだろう。冗談にしては質が悪いし、どうも冗談を言っている様にも見えなかった。だからこそ余計に意味がわからない。
「じゃあそれでいこうって僕が頷いたら、君はそうするわけ?」
 俯く横顔は血の気が引いて青白い。
「ねえ、うちには衛兵がほとんどいないんだ、それで今は大公付きの騎士が来てる。思っているよりずっと、酷いことになると思うよ」
「このまま出ていかれたら、お嬢様の方が酷い目に遭いますよ……!」
「すごい不吉なこと言うね」
「だって絶対におかしいです!すぐにでもお嬢様のことを連れていくくらいの勢いでしたもの、こんなの拉致みたいじゃないですか!これで何事もなく帰ってこられたら、もうそれは喜劇ですよ!お芝居の世界です!実は帰ってきたのがお嬢様のそっくりさんだったとしても私は驚きません」
 真っ青な顔のまま、彼女は言い募った。よくそんな震えた声で捲し立てられるものだと感心する。
「……家に帰ってから今まで、君は本当に良くしてくれた。とても感謝している。でも、これはただの仕事だよ。命まで掛ける様なものじゃない。だから、そこまでして守ってくれなくていいんだ」
「仕事、ですか」
「そう。仕事のために捕まったりしたら嫌でしょう?」
「それは……お嬢様だってそうです。お役目のために可笑しな要求を飲んで、それで二度と帰ってこられなかったら……。それならお役目なんて、蹴ってしまえば良いのです」
 僕の手を掴む力が少しだけ強くなる。手首も、受けた指摘も、思いがけず痛いものだから顔を顰めた。
「まあ、うん、そうなんだけど……。じゃあ、行ってみて不味そうなら逃げることにするよ」
 自分もこの家も、政治上の影響力があるかといえば、そんなことは全くない。僕たちはただ王になった人に頭を下げるだけだ。王がいて僕たちがいるのであって、僕たちがいるから王になるのではない。
 そうである以上、手元に置いておく、というのはあまり価値がない様に思う。それなのに、わざわざ王都に呼び出して一体何がしたいのか。
 思い当たる懸念は、どこかから鱗付きのことがばれたのではないか、ということ。
 僕がそうだと知っているのは両親やディミトリを除けば、ギルベルト、カトリーヌ、マヌエラ、あとがベレトだ。ディミトリのこともベレトは知っている。四年前、ダスカーでのことを父がどう説明しているかわからないけれど、きっとギルベルトも知っているだろう。カトリーヌも僕が怪我をした時に、何か勘づいたかもしれない。
 誰も無闇に言いふらす人ではない様に思う。けれど、懸念があれば確かめなくてはならない。少なくとも、自分が痛いだけで済む話なのかどうかは確認しないといけないだろう。
 もしも、懸念が当たっていたら今度こそ、どこまでも飛び出してやろうと思った。家も、国も、修道院も、それでも足りなければ別の国か大陸、とにかく誰の手も届かないところまで。この病のせいで誰かに利用されるのだけは絶対に御免だった。
「お嬢様が王都に行かれるのなら、私もついていきます」
「誰かさん曰く、行ったら絶対酷い目に合うらしいけど」
「私は、お嬢様の侍女です。だから、ついていきます」
 顔色は悪いまま、それでも彼女はまなじりを吊り上げて僕を見据えている。何が彼女をこんなにも奮い立たせるのだろう。
「……なら、さっと済ませて、なるべく軽傷で帰ってこよう」
「ええ、死なば諸共ですよ」
 僕が渋々頷くと、彼女は下手くそな笑顔を浮かべてそう言った。全然嬉しくないなと思った。


 次の日の朝、早速王都へ発つことになった。鼻の奥がつんとするほど冷えた空気に出迎えられて外に出ると、白い魚の骨みたいな木々の先端に朝日の橙色が灯っている。ずっと遠く、山の裾野は厚い層雲に覆われているけれど、雲より高いこの場所には澄んだ水色の空が広がっていた。幸いと言っていいのか、わからないけれど風もない。天馬が飛ぶには適した天気だ。
 なんとなくそうじゃないかと思っていたけれど、やはり従者は一人までしか連れて行けないとのことだった。昨晩の問答を思い出して、ため息が漏れる。
 何を言っても最終的に「大公殿下に対して謀反の意があると判断するがよろしいか」の一言が発せられるものだから、もう一周回って面白いまであった。件の手紙だって、建前上は仕事の依頼が綴られていたのに、どうにも彼の部下たちは取り繕う気がないらしい。そうかと思えば、天馬で運べる人員や物資には限りがある、ともっともらしいことを宣ったりもするものだから、もしかして、母国語が違うのじゃないかと勘繰ったりした。それくらい滅茶苦茶だった。
 吐き出した呼吸が白く烟って視界の端に流れていく。その向こうに厩舎から引き出されてきた天馬たちがいた。
 出発前の準備運動なのだろう、彼らが羽根を羽ばたかせるたび、積もったばかりの雪が舞い上がって朝日と同じ色をした粒子があたりに広がる。こんな状況でなければもっと素直に美しいと思えただろうに残念だ。
「お嬢様、お待たせしました」
 声に振り返ると侍女の彼女が雪を蹴って近づいてくる。その後に父と母の姿もあった。
 父はあたりを見回した後、僕に耳打ちをした。
「いざとなれば騎士を突き落として天馬で逃げなさい」
「え、うーん……いざとならないように頑張るね」
 母の方を見ると、彼女は俯いたまま沈黙を続けている。なんと声をかければいいのか少しだけ考えた。
 彼女は僕が剣を振るったり、一人で出かけたり、王都へ向かうことを嫌がった。そのくせ、修道院に行かせたのは彼女だという。
 小さい頃は優しい母のことが好きだった。今だって、別に嫌いなわけじゃない。けれど、掛けるべき言葉はいっこうに浮かんでこない。多分、なんと応えたらいいのかわからないから、言葉にできないのだろう。母が望んでいるものをきっと僕は返すことができない。
「えっと、じゃあそろそろ……行ってきます」
 僕がそう呟くと、頷きかえす父の隣、母はゆっくり歩き出して僕の二の腕を掴んだ。
「母さん?」
 呼びかけに彼女は答えない。どうしようかと逡巡しているうち、腕を掴む力はだんだんと強くなっていくようだった。弱ってしまって、母の肘にそっと触れた。彼女はわずかに震えているようだった。
「……あの、さ。そんなに心配しなくても大丈夫だよ、なんとかなると思う」
 確かに小さい頃は攫われかけたこともあったけれど、今はあの頃よりはるかにマシな自衛ができるだろう。危ないとわかっていれば、ある程度備えようもある。
「……あの子たちもそう」小さな声で母はつぶやいた。
「え?」
「二人とも、そう言って、けれど帰ってこなかった……!」
 すぐに姉と兄のことを言っているのだとわかった。姉さんも仕事の依頼を受けて家を出たきり帰ってこなかったし、兄さんも大丈夫と笑っていたけれど、それきりだった。
「そう、だったね……。うん、そうだ。でも――」
 僕の言葉を遮るように、腕を掴む力はもっとずっと強くなった。
「やはり行っては駄目よステイシア、いけません……!外は危ないの、どうかお屋敷にいて頂戴。お願い、たまには母さんの言うことを聞いて……」
 母の懇願を聞きながら、内心僕は焦っていたように思う。大公付きの騎士に聞き咎められては面倒だったし、外が危ないだなんて、今更になってなぜ、そんなことを言うのだろう。
「でも……それならどうして僕を修道院に行かせてくれたの?」
 初めに僕を外に行かせてくれたのは彼女なのに。
「本当は、どこにだって行かせたくなかった!ですが、ですが……ああ……」
 母の指は何度も僕の外套に引っかかり、それでも体を支えるには足りないようで、彼女はずるずるとその場にしゃがみ込む。見下ろした背中は存外に小さく見えた。
「あの時、あなたを送り出さなければと思ったのです……」
「どうして?」
 僕の問いかけに母はゆっくりと顔を上げた。鼻と目元が真っ赤になって、瞬きのたび、両の目から涙が雪崩落ちる。それは真っ直ぐ落下して、しゃがみ込む彼女の膝を濡らした。こんなに寒いのに、氷になってしまわないのが不思議だった。
「そうでもしないと……手元に置いていたら、私は二度とあなたを外に出してやれなくなってしまう」
 また涙が流れていく。
 僕は彼女の前に膝をついた。聞かなければならないことがあった。
「……じゃあ、本当は僕にずっと、この屋敷の中でだけ踊ったり、花を育てたり、そういうことを望んでた?」
「ええ、そうよ……ずっとそう。ですが、それは良くないとわかっていました……」
 彼女は両手で顔を覆ってしまう。
「だって、何度止めても……それでもあなたは馬に乗る子だった!」
 縛っておくことなんてできない。搾り出すような、くぐもった声だった。それきり、背中を丸めたまま、彼女は延々、肩を揺らした。
 そうか、と声に出さず僕はつぶやいた。
 そんなに、泣き崩れてしまうほどに、恐ろしくて仕方がなかったのか。
 かつて母は僕に、仕方のない子と言ったけれど、それは許されていたのだ。仕方のないまま居続けることを。
 僕はこんななのに。こんなに恐ろしい思いをさせてしまうのに、他人に命をかけさせてしまうのに、姉も兄も守れなくて、守られてばかりで、誰かの手を離してあげることすら何年も時間をかけてしまうのに。
 意味がわからない。なぜみんな、こうも優しいのか。
 僕だけがおかしいのだろうか?出来損なっているのだろうか?
 それなのに、でも……、ああ、許されているのか。
 とんでもないことだな。
 詰まりそうになる息をなんとか吐き出す。
 震える背中をそっと撫でた。手のひらが温い。よく知った体温。そういえば同じように、かつて彼女は僕の背中を撫でただろう。たぶん、そう、こんなふうに抱きしめてくれた。
「母さん、ねえ……。ああ、仕方のない人」
 ずっと幼いままの僕が忘れられなくて、ずっと覚えていてくれて、だからこんな必死に守ろうとしてしまうのだろう。僕が忘れてしまったことをきっとこの人はたくさん覚えているだろう。母の胸に飛びついたり、父の足にしがみついた僕のことを。
「大丈夫だよ、母さん。もう大丈夫」
 ゆっくりと身を起こす母が僕を見た。彼女の手が僕の頬を包む。その手を握った。思ったより小さな手で、でも、かつて握りしめたものと何も変わっていないと思い出した。


 天馬に乗って地上を眺めると、父に肩を抱かれながら立つ母が見えた。二人とも空を見上げていて、たぶん僕を見ていたのだと思う。天馬が羽をはためかせるたび、その姿は小さくなって、あっという間に雪原に立つ黒い点になる。
 日の登りきった空は目に痛いような鮮やかさで、陽を反射する雪も酷く眩しい。
 それでも二人はずっと空を見ていただろう。
 僕も、なるべくずっと見ていようと思った。
 今日のことをずっと、ずっと、忘れないでいられるように。


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