結局、騎士を突き落すような事態にはならず、祭事は何事もなく執り行われた。
そして今、王城の一室に監禁されている。
元々、比較的穏便なものから力ずくの手段まで、逃げる算段はいくつか用意していた。祭事の後、人ごみに紛れて教会を抜け出し、待ち合わせ場所で侍女の彼女を待ったけれど、現れたのは王城の騎士だった。
「あなたの従者殿は体調がすぐれないようで、王城で介抱しております」と騎士の一人が言っていた。要するに人質にしたから抵抗はするな、ということだろう。嘆息を漏らして、今に至る。
部屋の中は寝台と小さな机、椅子が二脚。壁際に暖炉が一つ。他は何もない。物が少ないのもあるだろうがそこそこの広さだ。軽く体を動かすことくらいはできる。窓があったけれど当然のように開かなかった。破ることはできるだろうが、窓の外の景色を見る限り、相当高い位置にある部屋のようだから、うまく逃げないと足場を見つけているうちに捕まってしまうだろう。特に屋根に雪が積もっている間は、あまり決行したくない。
部屋に連れてこられる時は目隠しをしていたから、この部屋までの経路はよくわからない。ただ、だいぶ歩かされたことは確かだ。何度か王城を訪れたことはあったけど、足を踏み入れたことがないくらい奥まった部屋だろう。
部屋を訪れる人は決まっていて、日に二回、昼頃に食事を、夜に着替えやらを持って女がやってくる。痩せた肩をした女で、何を聞いても全く喋らないで俯いている。いつも怯えたような顔をしていて、手持ち無沙汰の時は大体、俯いたまま手を握り合わせて立っていた。随分力をこめているのか手の甲に骨が浮いているのが見えた。
「ねえ、今日って何日だったかな」
寝台に腰掛けたまま声をかけると、女はこちらを一瞥してすぐ目を伏せた。そのまま、食事の乗った盆を机に置き、椅子の一つに腰掛けると、ほんの少しずつ食事を掬って、とてもゆっくりと口に運ぶ。
この部屋に連れてこられたばかりの頃、ずっと食事を拒否していたら、こうして毒味をするようになった。たぶん、誰かに命令されているのだろう。
「天馬の節の十九日だよね」
僕が言うと、女は肩を振るわせて、そのまま匙を取り落とした。
匙が床にぶつかり、高い金属音が鳴る。
するとすぐに部屋の戸が開いて、騎士が押し入って来た。
今日はなんと三人。横目に人数を数えて頬杖をつく。いつも二人以上は部屋の前についているようで、人質まで取っているくせに、随分と厳重なことだと思う。
女は可哀想なくらい怯えていて、震えた声で騎士たちに謝罪を繰り返しながら、布巾で床にこぼれた食事を拭う。最後に匙を布巾で掴み、殆ど逃げ去るように部屋を後にした。跡を追って騎士たちも部屋を出ていく。戸が閉まって、外から鍵のかかる音がした。
悪いことをしてしまった。しかし、誰も教えてくれないから、時々こうして確かめないと何日たったかわからなくなってしまう。
寝台に隠しておいた匙を引っ張り出して、女が口にした食事をつつく。
王都に来てからもう一節以上経っている。何か要求があるのかと思ったけれど、待てど暮らせど沙汰はない。ひたすら飼い殺されている。毒も盛らず、素直に食事の面倒を見ているあたり、今のところ殺す気はないようだ。ここに留めておくことが目的なのだとしたら、おそらく僕自身も誰かに対する人質なのだと思う。
摂政が何かを要求するとすれば、相手はディミトリや幼馴染たちだろう。しかし、彼らは国というものの重さをよく知っているし、それに比較して僕がどれほど軽いかということは自分でもよくわかる。民や国の安寧を前にして、彼らが足を止めるとは思えない。
たぶん要求は跳ね返されて、せいぜい王座へ至る道へ泥を撒いておいた、くらいの嫌がらせにしかならない。
そこまで考えて、ああ、嫌がらせがしたいだけなのかもしれないなと思い至った。そういう使われ方は、いや、どんなやり方だって、利用されるのは気分が良くない。
匙はずっと皿の底を叩いている。食事はまだ半分ほど残っていて、しかし全く食欲は湧かない。
窓の外を眺めると灰色の空から塵みたいな雪がとめどなく降っている。不規則に揺れ落ちるそれは大量の白い羽虫の群れのようにも見えた。
また数日が経ち、いよいよ天馬の節も過ぎ去りそうなその日は、冬の嵐だった。
吹き付ける雪で白く染まった窓がガタガタと揺れる。それに薪の爆ぜる音が時々混じった。届けられる薪が少ないから普段は夜中だけ暖炉に火をつけるようにしていたけれど、流石に今日は耐え難くて、日中から薪を焚べて、その前で毛布にくるまっていた。
どのくらいそうしていたか、窓の音にかき消されそうな控えめな音が聞こえ、戸の方に顔を向けると、女が部屋に入ってくるところだった。その向こうにはやはり数人の騎士の姿が見える。
いつものように女は僕を一瞥すると、机に食事を置き、ほんの少しだけ匙でそれを掬って口に運んだ。その顔はいつもに増して青白い。これだけ寒いのだから、当然と言えばそうなのかもしれないが。
「……ねえ、それ、全部食べていいよ」
僕は薪の火を見ながら言った。女は何も答えない。
「どうせ、毒なんて入ってないんだから」
カチン、と一度だけ食器のぶつかる音がする。それは以前、彼女が匙を落とした時より遥かに小さい音だったし、そうでなくても窓のがたつく音の方がうんと大きかったから、部屋の外までは聞こえなかっただろう。
顔を向けると女が僕の方を見ていた。
「ですが」
自分に向けられる女の声を初めて聞いた。吐息のような小さな声だった。
「朝からここに座ってるだけなんだ。一歩も動いてないし、お腹も空かない」
女の視線がよたよたと揺れる。それは僕を見たり、窓を見たり、床を見たりした。やがてまた、女が匙を動かす。時々食器の擦れる音がして、皿の上の食べ物がなくなるまで続いた。
「あの」声がして、顔を向ける。「パンを、持って行ってもいいでしょうか?弟が、いて……」
女は俯いた姿勢で椅子に座っている。盆の上には確かに手付かずのパンがあった。
「いいよ」
僕が答えると女は肩を振るわせる。なぜ、自分で聞いておいて怯えるのだろう。やがて女はまたよたよたと手を伸ばし、パンを服の中に隠した。
そんなところにうまく隠せるものだろうかと眺めていると、思いのほか違和感なく懐にしまって見せた。おそらく服が大きいのか、彼女が痩せ過ぎているのだろう。
「ありがとう、ございます……」
女はふらつきながら席を立ち、胸の前で手を硬く握った。俯く顔にかかる影が、薪の爆ぜる度、揺れる。
そして、
「あ」
小さな声をあげて、女が倒れた。
頭から床に落ちて、派手な音が鳴る。
僕はそれを毛布に包まりながら見ていた。動けなかった。
しばらくの静寂。
ぎい、と軋む音をあげて戸がゆっくりと開く。
男たちが入ってくる。全部で五人。その姿に腰を浮かせた。床に毛布が落ちる。
「なんだ」誰かの声。「こっちか」
誰かが女の背中を踏んだ。潰れるような、空気を吐き出す声が一度鳴る。
「やめろ!」
叫んだ時、
また別の誰かが腕を振り上げて、
こめかみに衝撃。
気づくと床が目の前にあった。
目を動かすと、剣の柄だろうか、何か棒状のものを握った影が見え、次いで辺りが暗くなる。
薪の爆ぜる音、何人もの人が床を踏む音。
誰かが僕の腕を掴んだ。
ずりずりと、何か重たいものを引き摺る音がする。鳴り止むことなく、ずっと音が響いて、やがて、ああ、自分が引きずられている音か、と気が付いた。
どこかよくわからない、カビ臭くて薄暗い部屋だった。空気が妙に湿っていて、もしかしたら地下かもしれないと思う。
体はほとんど動かない。首から下の感覚がほぼなかった。頭の中も痺れるように重くて、思考がまとまらない。何とか薄目を開けて様子を伺うと、台の上に仰向けになっていて、視線の先に自分のつま先が見えた。特に拘束はされていないようだけれど、体は一向に動かせない。きっと気を失っている間に、薬か何か盛られたのだろう。
頭の上の方で人の話し声がする。
しばらくして足音が近づいてきた。踵を地面に打ち付けるような歩き方で、辺りの空気を震わすようによく響く。それで、壁も床も、もしかしたら天井も硬い材質なのかもしれないと思った。レンガか石積みだろうか。
やがて、見える範囲に女が一人現れた。直接話したことはないけれど、知っている女だった。
王国に仕える魔導士で、確か、名前はコルネリア。五年ほど前、父と共に謁見のため王城を訪れた時、空席の王座の手前、摂政と並び立って、この女は僕を見ていた。
あの時といくらも変わらないように見える容姿で、コルネリアはこちらを見下ろしている。薄暗い室内に浮かぶ白い顔は整っているけれど、口元の微かな歪みは何か不穏さを滲ませているように感じられた。
「いささか貧相な体ですが、まあ、次第点でしょう」
僕が起きていると気づいていないのか、それとも、そんなことどうでもいいのか、コルネリアが独りごちる。何となく、機嫌の良さそうな声だった。
彼女は投げ出された僕の腕を掴んで、もう片方の手に何かを握る。
手のひらくらいの長さの器具で、ガラスだろうか透明な筒の先端に、針のような銀色の突起がついている。初めて見る道具だった。
銀色の先端が一度光って、それは掴まれた僕の腕に沈んでいく。
一瞬熱いような……しかし、痛覚は鈍い。
十分な深さに沈んだのか、コルネリアの手が動き、何かが筒の中を迫り上がっていく。それは赤く濁っていて、筒の中でドロリと揺れた。
多分、血、僕の血。
相変わらず感覚は鈍いが、喉から乾いた息が漏れる。苦しいのだろうか?
激しい耳鳴り。
頭が揺れるような頭痛がして、視界が赤と黒に明滅する。不意に何も見えなくなって、もしかして、知らないうちに目を閉じてしまったのだろうか、考えようとして、思考はすぐに霧散する。
遠くで、くすくすと漏れ出すような笑い声がした。
何が可笑しいのだろう。
気分が悪い、すごく。
これを可笑しいと思える精神は、多分、一生理解できないだろう。
轟々と唸りのような水音が遠くに聞こえる。頬や体の下に冷たい石の感触がして、ゆっくりと目を開けた。石畳の上に投げ出された腕と、その向こうに鉄格子が見える。目線の低さから、今度は床に転がされているのだと分かった。
腕に力を込めるとぎこちなく指が揺れる。随分久しぶりに動かしたような感触だった。何度か握ったり解いたりを繰り返すと幾分かマシになってくる。しばらく、そうして慣らしてからゆっくりと上体を起こした。
ここ、どこなんだろう……。
王都に来てからというもの、何度思ったかわからない疑問だ。
見渡すと、薄暗い室内は壁も天井も石造りになっていて、見るからに牢屋だった。可能性がありそうな場所をいくつか思い浮かべ、多分、フェルディアの地下牢だろうと当たりをつけた。
王城の地下に広がる巨大な牢獄は、その広大さゆえに王都に上下水道を敷設する際、一部で干渉を起こしたと聞いている。日々、王都に暮らす民たちの生活雑排を流しているとすれば、流量はかなり多いはずで、その水音が聞こえてくるのだろう。
鉄格子の脇に一つ、出入り用の潜り戸があるのが目について、そちらを調べようと立ち上がった。
途端、ぐにゃりと視界が歪む。気づくと石の床に膝をついていた。
頭が痛いと思った。そういえば、身体中の節々も軋むように痛む。
立てないのは困る。
けれど、痛覚があることは嬉しかった。
前のように、何も感じない代わり、まるで動かせない体に押し込まれている方がよほど恐ろしい。思い出したら今更になって体が震えた。
浮きそうになる奥歯を噛み締めて、腕を抱く。しばらくそのままじっとしていたら、腕の内側にあざのようなものがあることに気づいた。薄暗い中で目を凝らすと、どうやら内出血のようだった。それで血を抜かれたことを思い出す。
あれは何だったのだろう。驚かすためにやったのではない、きっと何かに使うのだろうが、それがどういう効果をもたらすのかはわからない。
コルネリアが扱っていた器具も異様だった。瀉血といえば、どこかの血管を切るものと思っていた。血を抜くという用途を考えるに医療器具の類だろうが、父のもとでも、ガルグ=マクの医務室でも、お目にかかったことがない。流通品ではなく特注品。多分、あの針の中が空洞になっていて、そこから血を吸い出す。その仕組みを実現させるにはかなりの精度が求められるように思えた。コルネリアはあれをどこで手に入れたのだろう。
とてつもなく嫌な感じがする。できるだけ早く逃げ出した方がいい。しかし、どうすればいいだろう。
鉄格子まで摺って行って、その先を覗き込んだ。かなり遠くに燭台の明かりが見える。周囲を照らすというよりは通路の目印なのだろう、光の届くわずかな範囲以外は重苦しい闇に沈んでいる。聞こえる音も水音くらいで、人がいそうな気配はない。どの牢も無人なのか、誰かいたとしてすでに死んでいるか、どちらかだろう。
僕に着いてきてくれた侍女のことを考えた。どこか、近くに捕まっていたりしないかと思うのは、きっと逃避なのだろう。この状況になればもう人質は必要ない。
初めに気絶した時から、どのくらい時間が経っただろう。
もうすでに死んだだろうか。
僕の代わりに毒を口にした女も死んだだろうか。
彼女の弟も、死んだだろうか。
あまり考えない方がいい、と頭の中の自分が言っている。
しかし、考える以外にすることがない。
石の壁に背中を預けた。息をついて、今度は吸い込む。胸の中に、湿って冷たい空気が満ちていく。
危ないと分かっていたのだから、やはり、誰も連れてこなければよかった。
食事だって、妙な気を起こさずに黙って食べればよかった。
このまま、もしかしたら死ぬのかもしれないけれど、それは一人で十分だ。誰かを巻き込むべきではなかった。
気持ちが悪い。なんだか寒いような気もして、何だろう、まだ薬が残っているのだろうか。
視界が回るから目を閉じた。また耳鳴りが聞こえる。
「お嬢様」
彼女の声がした。そうだ特に、こういうお人好しの声をした人は、巻き込んだりしてはいけない。随分前に思い知ったのではなかったか、僕は。
「お嬢様」
ゆっくり目を開けると鉄格子の向こうに、膝をついている彼女が見えた。
「また、都合のいい夢ばかり……。嫌になるよ、ほんとに……」
泣き言を吐き出すと、彼女は困ったような顔をして、切れた口元を歪に押し上げる。それはどうも笑おうとしているようで、いつかのような、随分へたくそな笑みだった。
「夢ではないです。しっかりしてください」
鉄格子の向こうから彼女が手を伸ばす。それは地面に投げ出していた僕の手を掴んだ。触れた手が驚くほど熱くて、いや、もしかしたら僕の手の方が石みたいに冷えていたのかもしれない。
どっちでもよかった。
「なんで?……もしかして、おばけ?」
「おばけは手を掴めませんよ……」
「そんなの、わからないよ。会ったことないし」空いている手で格子を掴んで顔を寄せる。「ほんとに、なんで?」
「どなたか存じません。私の牢の前で鍵を落とされた方がおりました。それでなんとか抜け出して……今、ここに」
「そんな馬鹿な……抜けているなんてものじゃないよ、それ」
「いえ、意図したもののように思います」彼女はゆっくりと首を振る。「下働きの方でしょうか?給仕着の裾から鍵を落として、そのまま逃げるように走っていかれました」
彼女の言葉をしばらく吟味した。
そういうこともあるのだろうか?だとしたらそれは……いや、あまり都合よく解釈するものではない。相変わらず頭は痛くて、まだ目の前のものがおかしな幻覚である可能性も否定できないのだから。
僕が黙っていると、彼女は鍵のかかった扉の前に移動する。
「詳しい話はまた後に。とにかくここから脱出しましょう」
彼女が懐から鍵を取り出して錠穴に差し込む。無理やり金属を擦り合わせたような鈍い音がして、鍵は途中で止まった。
「ん、ある程度共通の鍵で開くと思いましたが……合いませんね」
区画か階ごとに変えているのでしょうか、呟く彼女は細い棒のようなものを懐から取り出して、再び鍵穴に差し込んだ。
「開きそう?」
「ええ……あまり優秀ではありませんが、実はこちらの方が本業でして」
彼女の眉間に深い皺がよる。暗くて見えにくいのかと思って、近くまで寄って、鉄格子の隙間から腕を差し出した。手の中に灯を灯す。明るさが安定せずに、時々息をつくように光が揺れるけれど、それでも何もないよりはマシだろう。
「それは修道院で習ったの?」
「はい。あの時の学級は貴族の方が多くて、あまりいい顔はされませんでしたが……。でもそんなこと言われたって、正面切って戦うような度胸はありませんし」
揺れる光に照らされて、彼女の顎先から汗が伝って落ちる。よく見ると頬や指先、そこらじゅうに細かい裂傷ができているのが見えた。
「そんなこと、ないと思うよ」度胸のない人はこんなところまで他人を探しには来ないだろう。
「そうでしょうか?……いえ、でも今はちゃんと修めていてよかったと思います」
彼女が小さくこぼす声を聞きながら、鉄格子に額を預けた。目の奥が絞られるみたいに痛む。
「何も無駄にならなくてよかった」
乾いた金属音が一度だけ鳴り、ついで潜り戸が開かれる振動が鉄格子越しに伝わる。
顔を上げるとすぐ目の前、本当に近くに彼女がいた。
「お嬢様!」押し殺した声で彼女が叫び、その腕が僕を抱く。「ご無事でよかった……!本当に……!」
「うん、君も……生きていてよかった」
彼女の体温はやはりとても熱くて、このまま溶けてしまいそうと感じたけれど、嫌ではなかった。唐突に、寝たいと思った。
「君がいてくれて、本当に良かった」
流石に今、眠ってしまうわけにはいかないから、代わりに彼女の背中に手を回す。埃と汗と血の匂い。手のひらを打つ鼓動は早い。
あと十回。
数えたら立ち上がろう。
それ以上寄りかかっていたら、本当に溶けてしまいそうだから。
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