薄暗い石の廊下を彼女に肩を借りながら歩いた。
何日もずっと歩きどおしだったような気もするし、まだほんの数十分しか経っていないような気もする。寝汚く微睡むのを繰り返すように、時々記憶が途切れて、ふと気づくたび水音が近くなっていた。
「……ごめん、寝てた?」
「え?いえ、歩いてらっしゃいましたが……少し休憩なさいますか?」
「ううん、平気……」
首を振ると気遣わしげな声が返ってきた。
「そろそろ地下水道にぶつかるはずです。あとは水の流れに沿って進めば城下に抜けられますから……もう少しの辛抱です」
「詳しいんだね」
僕の言葉に、彼女は一瞬迷うようなそぶりを見せる。何か言葉を探しているようだった。
「……王都に上下水道が整備された際には各地から職人が集められたそうですね」
「うん、ノモスからもずいぶん駆り出されたらしい」
王都の整備は亡き陛下が特に力を入れた事業の一つだ。着手から数年で市街地の様子が激変したと聞いている。
元からある都市の下に水の通り道を作るのだから、野原に水路を掘るのとは訳が違う。建物を移築したり、街区の形ごと作り変えた場所もあるだろう。それには緻密な計画と膨大な人手がいる。とても口頭の指示では実現しない。
だから、そう、きっと――
「……図面があるんだ」
手癖の悪い職人がくすねてきたのか、それとも仕事のために書き写したのか、理由はどうあれ残された。そしてそれは今もノモスの屋敷にあるのだろう。
「ええ……お屋敷を発つ前、覚えられるかぎりを覚えるようにと旦那様が」
「それは」息を吐く。「ずいぶんと準備がいい……」
言い淀むのもわかる。極刑に課されるくらいの秘密だろう。万一にも外に漏れれば戦時に王都を陥される危険がぐんと高まるのだから、中身を目にしなくても図面の存在を知っただけで殺されかねない。
だというのに、その存在を教えて、さらには内容まで覚えさせたというのだから、彼女はずいぶんと父に信頼されているのだろう。
その後、彼女の記憶を頼りになんとか地上へ逃れる。抜け出した先は薄暗い物置のような場所だった。高い位置に明かり取りの窓があって、下ろされた鎧戸の隙間から光が漏れている。その明かりで辺りの様子がぼんやりと浮かび上がっていた。
石造りの小部屋で、天井はなくそのまま屋根の木組が見えた。窓のある場所以外は雑多な荷物が木組すれすれまで積み上げられている。
置かれた木箱の上に乗って、鎧戸に手をかける。閂を抜いて板を押すと、鈍い音と共に白い光が差し込んだ。思わず目を細めると、冷たい風が瞼を撫ぜる。
王都を囲む城壁から太陽がわずかに輪郭を覗かせ、その上には白んだ空の青色が見えた。目覚め始めた街の喧騒が聞こえる。けれど、僕らのいる部屋の近くは静まり返っていて、しばらく音を聞いてみたけれど人の気配はないようだった。
背を伸ばして窓から顔を覗かせる。見覚えのある場所だった。
「教会だ」後ろに控えていた彼女に振り向いて言う。「裏庭に出たみたい」
以前、教会を抜け出した時はこの裏庭を通った。そういえば庭の端に小屋があったと思い出す。庭師の住まいか倉庫だろうと気に留めていなかったけれど、王城の地下に繋がる出入り口の隠し場所としたら、確かに妥当かもしれない。
鎧戸を戻して、木箱を降りる。途中転びそうになったけれど、腕を掴んでもらったおかげで大きな音を立てずに済んだ。
「人が来る前に出よう。ここにいたらそのうち見つかる」
積まれた荷物は埃をかぶっていなかった。誰かが定期的に掃除をしているのだろう。見つかって、衛兵に通報でもされたら都合が悪い。
小屋を出て、市街地の方へ走った。
外に出た時見えた庭は記憶の中とすっかり様子が変わっていた。以前は雪が積もっていたはずだけれど、今は背丈の低い草花が地面を覆い、庭の隅に灰色になった雪がわずかに溶け残っているだけだった。
心臓が痛い。
吸い込む空気は冷え冷えとしていて、けれどその中にほのかに甘い風の匂いがする。冬の終わる匂いだ。ずっと、この匂いが好きだった。ファーガスの冬は寒すぎるから、いつも春が待ち遠しかった。それなのに全然嬉しくない。
今はいつだ?
どのくらい時間が経った?
考えると眩暈がする。
春は不味い。
だって、彼が戻ってきてしまう。コルネリアのいる、あの城に。
逃げ込んだ市井は物々しい雰囲気に包まれていて、初めは衛兵が僕らを探しているからだと思った。けれど、すぐにそれだけではないとわかる。
人々が声を潜めて話すのは戦争の話。
隣国のアドラステア帝国が中央教会に向け宣戦布告し、蜂起した帝国軍によってガルグ=マク大修道院が陥落したという。外郭の街に暮らす民や士官学校の生徒たちは避難が間に合ったそうだけれど、教会や騎士団の中には戦闘によって多数の死傷者が出たらしい。誰が、というのはさまざまな噂が錯綜していて判然としないが、その中には猊下の名前もあった。
新たに皇帝に即位したエーデルガルトは教会に対して強い敵意を示しており、彼女に殺されたのではないか、とのこと。大司教の死、という話題自体は不謹慎との誹りを受けていたけれど、くだらないと笑い飛ばすものは誰もいなかった。
王国と教会の関係は深い。教会の助力を受けて建国を果たして以来、セイロス教はファーガスの国教であり続けた。過度な干渉は避けつつも、僕の家の存在をはじめ、国は教会に対してかなり気を使っている。それは側から見れば、親密な関係に見えただろう。
人々が囁いている。
次に帝国に攻め込まれるのは王国に違いない。
王国は帝国に対して膝を折るのか、剣を取るのか。
それを決めるのはいったい誰なのか。
王都の民は近づく戦争の気配にひたすら怯えていたし、兵士らしき姿の者が防衛の準備なのか、探し人がいるのか朝から晩までそこらじゅうを駆け回っている。武器商人や傭兵団の出入りが激しくなっているようで王都中が騒然とした空気に包まれている。
王都を抜けて外へ逃げるなら、今の混乱に紛れる以外にないだろう。
そう考えていた頃、また新しい話題が市井を巡った。
王城にて摂政が何者かに殺害された。その犯人は国に戻ったばかりの王子だという。
冷たい小雨の降る中、教会の前には人だかりができていた。
日課の礼拝に訪れたのだろう民たちが遠巻きに教会を眺めていて、その視線の先には衛兵たちの姿がある。
何人か恐る恐る兵に事情を聞こうとしていたけれど、衛兵は立ち去れと声を上げるばかりで理由を話そうとはしなかった。かなり苛立っているのか、兵が手にした槍の柄を地面に打ち付ける。重苦しい音が辺りに響き、一瞬の静寂の後にはもう、皆んな萎縮したように後ずさるばかりで声を上げる者はいなかった。
だんだんと人だかりは教会を囲む輪のように広がっていく。その中に紛れて教会を眺めた。どうしてやろうか、と考えているうち、足が一歩前へ出る。
誰かが僕の外套を引いた。振り返ると彼女が小さく首を振る。頭の上で憶測ばかりが飛び交っている。そのざわめきに隠れて舌打ちをした。
目を伏せて、外套を深く被り直す。幾人かの民たちが諦めて輪を離れていくのに混じって、二人で教会を後にした。
「……逃げましょう、お嬢様」
雨音の響く路地裏、その湿った影の中で彼女は僕に囁いた。被った外套が彼女の顔にさらに深い影を落としていて、けれどこちらを伺う眼差しは爛々と光っている。選択肢の一つを提示しているわけではない、ということなのだろう。
そうだね、と内心思った。きっと、そうした方がいい。
「……家に戻れば、別の、侵入できる場所がわかるかも知れない」
けれど、結局口をついたのはそんな言葉だった。
「どうしてですか?」
彼女は眉間に皺を寄せて目を細める。
「確かに殿下を失えば国は荒れましょうが、もう……今更です。仮に殿下をお助けできたとして、あの方がお嬢様に何をしてくださるのですか?今までだって、お嬢様方の扱いは散々のまま変わることはありませんでした。表面上は丁重に扱われたってその実……」
彼女は顔を伏せて首を振った。
「旦那様があの図面をずっと隠されたままお持ちだったのも、そう言うことではないのですか?いざとなれば……と、そうお考えだったとしか私には思えません」
「うん、それは……そうかも知れない」
「このまま王城に向かわれても殺されてしまうだけですよ!」
「そうだね、たぶん、君の言う通りになるだろう」
大体、いつも彼女の言うことは正しい。屋敷で諭された時だってそうだ。
「それなら……!」
「でも、行きたいんだ」
僕の言葉に彼女はしばし閉口した。何か言うべき言葉を探しているようだった。
「お嬢様はディミトリ殿下を……お慕いしているのですか?」
訝しがるような彼女の声。
それは随分と不思議な響きに聞こえた。誕生日でもないのに、急に目の前に贈り物でも差し出されたような……。どうして今そんなことを聞かれるのだろう、なぜそんなことが気になるのだろう。慕っているというのは、恋慕ということだろうか?僕が、彼を?
「わからない」
首を振る。
時間を貰っても、おそらく答えの出せない問いだろうと思った。
「わからなければ、行ってはいけないの?」
恋情に溺れてでもいなければ、おかしな事だろうか、そうかも知れない。破滅するとわかっていて向かうのは、確かに頭がおかしいだろう。自殺するようなものだ。
「いけませんよ、そんなのは……!」
彼女は首を振って僕の手を掴んだ。
「どうか、お願いします。行かないでください……」
小さな声は、けれど叫びのようだった。俯く彼女の背中を雨が叩いている。
それはもしかしたら、いつかの雨の日、ディミトリの前で俯いた僕の姿だったかも知れない。
彼女はきっと、僕のことが重すぎて潰れてしまいそうなのだ。
そんなふうに抱えてくれなくていい。ずっとそれだけを願っている。死なば諸共なんて彼女は言ったけれど、一緒に死んでほしいなんてこれっぽっちも思わない。
どうして捨て置いていられないのだろう。彼女も、たぶん、僕自身も。それは、彼が僕の手を握ってくれたことと同じなのだろうか。
僕を掴む彼女の手に、もう片方の手をそっと重ねた。
「僕は大丈夫。だから、掴んでいてくれなくてもいい」
手を離されても倒れたりしない。そのために、今までの四年間があった。
僕は彼女に微笑んでみる。不安そうな顔がこちらを見ていた。それが覆されることはなくて、きっと、へたくそな笑顔だったのだろう。
目を閉じる。
僕たちはきっと大丈夫だと、ディミトリは言った。僕も、大丈夫にしようと言った。もう口にしてしまったから、今更無かったことになんてできない。したくない。
四年前、僕は手を離して、谷に落ちて、そのままでもよかった。テラスからだって、落ちてしまってもよかった。けれど、ディミトリは僕の手を掴んだから。
また僕から手を離すのは、絶対に違う。
「行かないと、そうじゃないと今までの何もかもに意味がなくなってしまう」
それをしてしまったらきっと、何か別の生き物になってしまうだろう。僕は僕を離したくない。頭がおかしいのだとしても、出来損なっているのだとしても、このままの僕であり続けたい。
「ごめんね、ごめん……きっと、何を言っているかわからないと思う。でもどうか、許してほしい」
彼女は目を細めて、その縁は歪んで、やがて涙が流れた。一度だけ頷いて返す彼女の頬からそれは溢れ落ちて、雨と一緒に地面にぶつかる。そして、彼女は何かを呑み込んだ。
この先、その正体を知ることはもう無いのだろうと思った。彼女の内側にすっかり収まってしまって、輪郭に触れるような機会は二度と訪れない。
惜しんでいるわけでもないのに一瞬躊躇いを感じた。
それがもしかしたら、寂しいということなのかもしれない。
通り過ぎた後にふと、後ろを振り返るような気の迷いで、過去を眺めている。
ほんの一瞬だけ見るべきものを見失ったふりをして。選べなかったものを持たずとも、進めてしまったことを忘れて。戯れのように悲しんでみる。
おかしな話だ。手を離せと言ったのは僕の方なのに。
(改訂:2025.08.08)
(投稿:2025.08.02)
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