武器を携える傭兵や商人に紛れて王都を後にした。彼らの多くは国の西部、帝国と国境を接する城塞都市アリアンロッド方面へ向かうようだった。
途中、髪を売って馬と剣を手に入れた。あまり慣れていなかったから訝しがられたし、おそらく買い叩かれただろうけれど、構っている余裕はない。それにどうせ、そのうち価値を失う。
今はまだ王城から罪人として布告はされていないようだったけれど、未だに探されている気配はあったし、近いうち何か適当な罪状をつけて指名手配されるだろう。
頃合いを見て集団から離脱して、ひたすらノモスへ馬を走らせた。
王都を発つ頃、摂政がダスカーの悲劇に関与していたとの噂が急速に広まった。ディミトリが摂政を手に掛けたのはそのせいだと。事実なのか、彼にそんなことが本当にできるのかは分からない。ただ、噂が広まる速さには人為的なものを感じた。おそらくコルネリアが関わっているのだろう。しかし、その狙いがわからない。
ずっとコルネリアは摂政派だと考えていたけれど、ただ王国内に混乱を撒き散らしたいだけなのだろうか。
殺人、それも摂政殺しの罪は重い。嫌疑があるとされた時点でかなり難しい状況になった。これでは民衆の支持が得られないだろう。彼らが欲しいのは絶対的に正しくて輝かしい王なのだから。
罪が確定でもされた日には王位継承権は剥奪される、なんなら処刑だってされかねない。国の体面を守るために、そのくらい派手な演出が必要だと言い出しかねない貴族はいくらでもいる。
今まさにそういう状況になりつつあるわけだけど、王位継承者が両方死ぬのは流石に不味い。だって帝国が侵攻を強めている。
すでに修道院が陥落して、首謀者はエーデルガルト、修道院にとどまりながらずっと暗躍を続けていたのか?もしかして修道院で起こった不審な事件も彼女の手引き?フレンが攫われて……そう、彼女の血が狙われたらしい……どうやって奪われた?知らない、聞いていない……でも、あのおかしな器具……。
馬の手綱を強く握る。そうしないと手が震えてしまいそうだった。
もしかして、全て繋がっているのだろうか。
もしも、帝国とコルネリアが裏で結託しているのなら、当然ディミトリを殺したいはず。あまりにも彼は邪魔だから。
大司教が行方不明の今、教会は帝国に対抗するため、王国に助力を求めるだろう。
この国には杖がいる。いつだって国を立たせ続けるだけの大義が必要だ。それは紋章だったり、女神の教えだったりするだろう。損なわれれば瓦解する。だから、まだ信仰は切り離せない。
ファーガス神聖王国という形を維持するのなら教会を受け入れるはず。でも、帝国にとってはそれが余計で邪魔だから。教会への助力も、王家の紋章も、両方潰してしまえるのなら、願ってもないことだ。
ひたすら馬を走らせてノモスの街の麓へたどり着いた時、あたりは薄闇に包まれつつあった。山の輪郭を黒く染めながら、橙の夕日が沈んでいく。
それを仰ぎ見た。
黒い山陰の中。
橙よりなお赤く。
ノモスの街が燃えていた。
屋敷の手前、外郭の街では方々から炎と黒煙が上がっている。木々の隙間に身を隠して様子を伺うと、街を囲う塀の上、赤と黒の合間で揺れる軍旗が見えた。その模様はイーハ家、死んだはずの摂政が治める領地の旗だった。
「これは……いったい何が起こっているのですか……」彼女が呟く。
「分からない」
目を伏せて踵を返す。街はもう、駄目だろう。
「こっちへ、直接屋敷に向かう」
途中何人か切り伏せながら、街の輪郭を大回りに迂回し、山を登った。王都より雪が残っていて、岩と土、雪に覆われた地面がまだらに混じり合っている。溶けては凍るを繰り返した雪はすっかり固まっていたけれど、ところどころ脆い部分があって足を取られる。夜の空気は冷え切っているはずなのに息が上がって汗が噴き出た。
屋敷の塀の前にたどり着く。
日当たりが良くないようでまだ雪が多く残っていた。当たりをつけて剣を振り下ろす。雪に沈む切先に固い感触ばかりが返ってきて、だんだん手が痺れてきた。
彼女の困惑する声を背中に聞きながら、何度も剣を振り下ろし続けた。やがて、雪の先に剣が深く突き抜ける感触がある。
「ここ」
「え?」
「穴が空いてる。手伝って!」
抜け穴を通って屋敷に入った。
たどり着いた玄関ホールは家財が避けられ、逃げ遅れたらしい住民が手当を受けていた。部屋の端々でか細い泣き声がして、武器を携えた者たちは慌ただしく駆け回っている。
僕らが帰ってきたことに気づいた使用人はひどく驚いた顔をして、すぐ父の元へ案内された。
通された部屋の先、父は寝台に横たえられてぐったりとしていた。
「父さん!」
駆け寄ると、緩められた服の襟元から赤黒く変色した包帯が見える。土色の顔には脂汗が滲んでいた。父はのろのろと瞼を押し上げて僕を見た。
「ステイシア……戻ったのか」
今にも途切れてしまいそうな細い声だった。
治癒魔法をかけようと手をかざす。けれど、父は僕の手を掴んで首を振った。
「彼を……」
「え、何、誰のこと」
父の目線は僕を飛び越えて後方を見た。背後で部屋の戸が開く音がする。振り返ると知っている人が立っていた。
「どうして」息が詰まる。「ドゥドゥー」
少なくともドゥドゥーはディミトリのそばにいるものと思っていた。ドゥドゥーがここにいるのなら、ディミトリは今、あの城で一人でいるのか?
分からないことが多すぎる。父を切ったのは誰だ?母の姿が見えないのは?なぜノモスの街はイーハの兵に攻撃を受けている?どうしてドゥドゥーがここにいるのか?
彼が自分からディミトリのそばを離れるはずがない。ディミトリが何か指示を出した。ドゥドゥーをノモスまで派遣しなければならない事態が王都で起きたのだ。
「僕のせいか」
いつの間にかドゥドゥーは目の前に立ち、僕を見下ろしている。鎧を着込んでいて、替えの包帯を抱えていた。彼自身もあちこち怪我をしているようで、街での戦いに巻き込まれたのは明らかだった。
「いや」
ドゥドゥーが一瞬考え込むように目を伏せる。
空いてる手でドゥドゥーの腕を掴んだ。彼の返答を待っている暇なんてない。
「このままだとディミトリが殺される!」
ドゥドゥーは眼光を鋭くして僕をまた見下ろした。
ドゥドゥーの話によると、ガルグ=マク大修道院から王都フェルディアに帰還した時、市井に布告こそされていないものの、政庁内では僕やノモスの家に摂政暗殺未遂の嫌疑がかかっていたらしい。王城で僕が拘束されたのもそのせいであるという。
言いがかりも甚だしいけれど、僕が牢を脱走したことで疑いはほぼ確定事項として扱われることになった。ディミトリやドゥドゥーのもとに情報が届いた時、僕らはもう牢を出ていて、十分な弁明は叶わなかったらしい。
僕たちが王城から姿を消すと、次はノモス家の処遇をどうするかという話題が持ち上がり、最後には街へ摂政の私兵が派遣される運びとなった。王国の正規軍が動かなかったのはディミトリの尽力によるものだろう。
ノモスには抵抗できる戦力がほとんどいない。王国軍が押し寄せようものならひとたまりもなかっただろう。イーハ家の兵のみであってすら、今の惨状だ。すでに外郭は突破されて、屋敷を囲む内郭との間にある街には多数の敵兵が展開しているという。
本来、ドゥドゥーはこういった衝突を避けるための使者として派遣され、実際しばらくの間、武力衝突は避けられていた。
事態が急変したのはほんの数日前、急遽設けられた交渉の場でだったという。
相手の要求は僕の身柄の引き渡し。もちろん、その時僕はノモスにいなかったのだから、どうしたって無理な話だ。
居ないものは差し出しようがない。そう返すと兵は母の身柄を拘束し、抵抗した父を切り伏せたという。ドゥドゥーが止めに入らなければおそらくその場で殺されていたのではないか。
「……実際のところ、お前の所在など、どうでも良かったのだろう」
ドゥドゥーの呟きに、手を握りしめる。
時期を考えるに、”王子が摂政を殺害した”という、その布告を待って兵は動いた。きっと、初めから織り込み済みだったのだ。
ディミトリの身柄を拘束しやすいよう、ドゥドゥーを動かさざる得ない状況を作る。
そのためには僕らが王城にとどまっていては邪魔だ。逃げてさえくれれば、責任を転嫁して、もっと大きな人質を作れる。小娘とその侍女の二人だけだった脅しが、王家が保護している一族とそれに付随する街と民に変わるのだから、脅しの質はだいぶ上等になるだろう。
脱獄した後の追跡が手薄だったのも、もしかしたら牢から出られたことすら、仕組まれていたのかもしれない。
今にして思えば、守護の節、いや、もっと前、赤狼の節に呼び出されたことも、王国を終わらせるための布石だったのではないか。
「……状況は、よくわかった」
寝台から父の声。彼は侍女をそばまで呼び寄せて何事か指示をした。
程なくして彼女が巻き取られた羊皮紙を抱え戻ってくる。机を寝台のそばまで引き寄せて、紙を広げた。王都の地下に張り巡らされた水道の配置。家に戻った目的が目の前にあった。
その後の話は早かった。
父が職人から聞いた話、ドゥドゥーがディミトリから聞いた話を擦り合わせて再突入の経路を決めた。王都から脱出した後の逃走経路をいくつか練ったところで父は息をついた。脱力したように寝台に背中を預け、目を閉じている。顔色はずっと悪いままだった。
「……父さんは、どうするの?」
彼はゆっくりと目を開けて僕の顔をじっと眺めた。
「内郭まで兵を引き入れて屋敷に火をつける。ここは山岳地帯だ。一度中に展開すれば、すぐには逃げられない。もう準備してある」
ずっと前から決めていたことを丁度機会があったから話すみたいな、淀みない言葉だったし、おそらくその通りだっただろう。図面のことも、逃走経路のことも、屋敷に仕掛けられているらしい準備も、いつだってそうできるように備えていたのだろう。もしかしたら、その相手や状況は父の想定とは違ったかもしれないけれど。
「混乱に乗じて民を逃す。お前たちもその隙に外へ抜けなさい」父は侍女へ顔を向ける。「民の誘導は君に任せたい」
「……はい、仰せつかりました」
彼女は恭しく頭を下げた。
同じように僕も応えようと思うのに、どうしてだか言葉がつかえる。
困っていると、父はドゥドゥーの方を見た。そしてとても静かな声で、すまないと呟いた。
「この街はダスカーからもたらされたノミやカンナで作られている……私の宝の一つだ。君たちが与えてくれたものを残せず申し訳ない」
ドゥドゥーは父の話を黙って聞いていた。
「四年前のことを今でもよく思い出す……。血を流しながら、それでも君は私を呼びに来てくれた。君を殺そうとした男と同じ国に生まれた私を。君は娘のために走ってくれた。君が走らなければ、あの時、娘は死んでいただろう」
父は寝台から背を離し、ドゥドゥーの顔をまっすぐ見据えた。
「もはや、今の私に残せるのは彼女だけだ。……どうか、私の宝をよろしく頼む」
言い切った後、父の体はゆっくりと傾いて、そのまま寝台へ屑折れそうになる。
父の体を抱き止めながら、もしかしたら彼はドゥドゥーに頭を下げようとしていたのかもしれないと思った。
「ステイシア……」
「うん、なに?」
父の腕が背中に回る。引き寄せられて僕は彼の胸に顔を寄せた。血の匂いがする。そして、布越しでもわかるほど冷たい体。子守唄みたいにのんびりとした速度で、鼓動が父の胸を打っていた。
「ここの温室で、ずいぶん長く薬を作ってきた。何人かはそれで苦痛を逃れたかもしれない。しかし、薬でもなんでも、それだけで人を救うことはできないよ。ほんの少し生きていくのを助けるだけ。……私も、おそらくそうなんだ」
あまりくっついていたらきっと傷が痛むだろう。そう思うのに、僕の後頭部や背中を包む父の手の力は強くなるばかりだった。
「ずいぶん大きくなったと思ったのに、まだ腕に余る……」
父の鼓動に揺られながら、その呟きを聞いた。
「ステイシア、お前は縛られているだけの小鳥ではない。私たちの美しい翼……。ただお前が望むまま舞い、どこまでだって飛び続けなさい。その力がお前にはあると、私も妻も信じているよ。ずっと……信じている」
もっとずっと、強く。隙間なんて欠片もないくらい、強く。そして、僕も父の背中に手を回した。
どのくらいそうしていただろう。
父は深く息をついて、それからゆっくりと腕が解けていく。
見上げると彼はわずかに眉を下げて微笑んでいた。
「さあ、もう行きなさい」
一度だけ、僕の頭を撫でて父はそう言った。
元々ドゥドゥーが連れていた兵や父から預かり受けた手勢と共に屋敷を抜ける。ずっとそばにいてくれた彼女とはそこで別れた。
彼女は僕についていけないことをずいぶん気にしているようで、何度も頭を下げるものだから思わず笑ってしまった。
「だから、ついてこない方がいいんだって」どうせ酷い目に遭うのだから。
「ですが」
「僕の侍女だからっていうんでしょ?」
「はい……私は、あなたの侍女です。ですから、どうか、どうか……ご無事で……」
彼女は両手で僕の手を強く握った。
「そっか……うん、そうだね。君は僕の侍女だから……僕も、君が生きていてくれた方がずっと嬉しい」
手を握り返す。
「父さんのお願いを聞いてくれてありがとう。どうか、みんなを安全な場所まで連れて行ってあげて」
「……ええ、必ず。果たしてみせます」
彼女は泣きながら笑っていた。ずっと下手くそな笑顔だと思っていたのに、その時はなんだかとても美しいものを見たような気分になって、遠くに去っていく彼女の背中をしばらくの間、眺めていた。
彼女と別れた後、ひたすら山を駆け降りた。背後で時折、太鼓を打つような低い音が響く。
馬上から振り返ると、空は滑らかなビロードのようで、濃紺の一角が赤々と輝き、星と同じ色の塵が何片も何片も宙を昇っては消えていく。
「きれいだ」
「……大丈夫か?」
背後からドゥドゥーの声。彼は僕の後ろにまたがっていて、腰に回された腕の力が一瞬強まる。
流石に真後ろを振り返って顔色を窺うわけにはいかないけれど、声だけで気遣われているのだろうことはわかった。
「うん、大丈夫」
全ては燃え尽き、流れ去っていく。けれど、何も損なわれたりはしない。
それはきっと、塵が積もっていくように。もしくは、毒が蓄積していくように。あるいは、何かを賭け続けるように。
僕の中に何かが収まり、延々積もり続けるだろう。
何かってきっと、祈りとか、願いとか、形も質量もなくて、どうしようもないもの。夢とか幽霊みたいに掴みようのないもの。
重みもなく、抱えることもできないから、僕は僕であり続けよう。それだけできっと、全てが残る。
手綱を握り直して、前を向いた。
森の影が視界の端へ流れていく。やがて森が拓け、平野へ躍り出た。
荒涼とした夜を切って駆ける。まだ朝は遠いはずなのに、時々、視界の端に光が走るような気がした。
もしかしたらそれは、月なのか星なのか、わずかな光が目の中で反射しているのかもしれない。
僕の目の中にもきっと、塵は積もっているだろう。だから、それにぶつかった光がチラチラと散乱して、美しく見えるのだ。
(改訂:2025.08.08)
(投稿:2025.08.02)
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