舞い戻った王城の地下は、相変わらず底冷えするような冷たさに包まれていて、そのくせ妙に湿った空気が足に絡む。
走りにくい。
苛々する。
前方を走るドゥドゥーの背中を見た。彼はただ黙々と走り続けている。
石の壁に抑えきれない足音だけが反響している。
やはりどうしたって走りにくい。
けれどそれは湿気のせいではなくて、お前が焦っているからだよ、と頭の隅で囁く声が聞こえた。
暗がり。
敵の声。
足音を数えた。おそらく三人。
でも、音が反響するからあまり自信はない。
目の前で人影が動く。
多分、顔があるだろうあたり目掛けて剣を振り抜いた。
絶叫。
耳が痛い。
「てめえ!」
真横から声が聞こえて、脇腹に衝撃。
僕の足は地面を離れて、よくわからない、どこかに何度かぶつかる。
最後に、背中で派手な金属音が鳴った。
これは多分、牢の鉄格子。
頭が揺れる。
なんとか体を起こすと、足音がごく近くに。
覆い被さるような人影。
「ドゥドゥー!」
叫んで、手をかざし、目を伏せる。
「閉じて!」
できる限り強く、鋭く。
息を詰めた。
閃光。
瞼に覆われた視界が、それでも一瞬白く染まる。
怯むような息遣いが聞こえて、目を開けた。
白い影。
それに向かって剣を突き刺す。
一拍置いて、手に重み。耐えられずに剣を手放すと、どう、と重い物が頽れる音がした。
そのあとは静寂。
「ステイシア、大丈夫か」ドゥドゥーの声。
「なんとか……」
息が苦しい。空気が重たい。膝に手をついて立ち上がると、額から汗が吹き出す。もたつく足を引きずって、地面に転がる何かから手放した剣を引き抜いた。
その時に。
「……ステイシア?」
背後で掠れた声が聞こえた。
暗い牢の戸は閉されてはいなかった。おそらく、その必要がないから、そうだったのだろう。
ざらついた呼吸。
投げ出された手足。
彼はそこにいた。
一人でいた。
その様は……。
「殿下!」
ドゥドゥーが牢の中に駆け込んでいく。
「ステイシア!」暗がりから名前を呼ばれた。「早く手当を!」
そうだよ、早くしろ。頭の中で声がする。
早く助け起こして、早くあの鎖を外して。早く、もっと早く。走れよ、両足。大した距離ではないのに、なぜそう何度もつまずくの。
すぐそばにたどり着いた時、膝が折れた。
「ディミトリ……」
手を伸ばして、けれど、どこから治したらいいのかわからない。
目。
目が。
無くて……。
「どうしよう、治せない……どうしよう……」
どこに魔力を流しているのかも判然としないまま、頭の中でひたすら治癒魔法の聖句を回し続けた。そうでもしていないと、今すぐにでも叫び声ををあげて、そこらじゅう殴りつけてしまいそうだった。
頭が熱い。
息が詰まって、耳鳴りがする。
視界が揺れて、
霞んで、
明滅して、
不意に、冷たい指先が目の下を擦る。
「……泣かないでくれ」
彼の目が僕を見ていた。
「お前に泣かれると、弱る……」
なんで一つしかないんだよ。
「馬鹿、お節介……自分の心配をしてよ……!」
指先は僕の頬を通って首筋を撫で、肩に留まる。
暗がりの中にあって、ディミトリの目は細く、弧を描いているように見えた。そこに安堵が滲んでいるように見えた。
この人は何故、こんな状況で微笑んでいられるのだろう。どこか可笑しいのではないか。それとも、そう見える僕の目が可笑しいのか。
「無事で、よかった……奴が、お前の首を刎ねたと……髪束を持ってきて、俺は……」
ああ、そうか。
吐息のような、ディミトリの声。それを黙って聞いていた。黙っていようと思った。
髪、同じ色の髪、それが欲しくて、だから連れて行ったのか。
「大丈夫。髪を切られた以外、何もされてない」肩に置かれた指先を握り返す。「心配かけてごめんね……ディミトリ、もう大丈夫だから」
途中まで、ドゥドゥーがディミトリを背負って逃げた。事前に示し合わせていた通り、方々で味方が騒ぎを起こしてくれてるのだろう、追っ手はそれほど多くない。
そう時間はかからずに、決めていた地点に到達した。
「ステイシア様!」暗がりから声が上げる。「こちらです、早く!」
僕が家の者たちと最後の打ち合わせをしている間、ドゥドゥーはディミトリを地面に下ろして休ませていた。
「殿下、俺は彼らと共に地上に出て、王都の東からフラウダリウス領へ向かいます。あなたはステイシアと共に北へ一度抜けてください」
「駄目だ!」
ドゥドゥーの声にディミトリの叫びが被る。
「それでは、お前たちが逃げられない!」
王都フェルディアから東、フラウダリウス領との間には広大な田園地帯が広がっている。フラウダリウス家に助けを求めるのは最適解だし、距離だけ見れば東に直進するのが一番近い。しかし、どうしたって目立ちすぎる。よほどの駿馬でもいない限り、逃走経路としては最悪の道だろう。
「殿下が逃げ切れない方が、よほど問題です」
ドゥドゥーが首を振る。彼は淡々と喋るばかりだったけれど、そこには確かな強度があるように感じられた。
「あなたがダスカー人の従者を重用していたのはよく知られた話です。俺が共にいれば、敵も殿下が東へ向かったと思い込むでしょう」
控えていた者の一人が深く頭を下げた。線こそ細いけれど、背丈はディミトリとほとんど変わらない。外套をかぶっていれば、ある程度は誤魔化せるだろう。彼一人では心許ないけれど、ドゥドゥーがそばにいるのなら、少なくともハッタリと捨て置くことはできないはず。
ドゥドゥーはディミトリの前に膝を着き、彼の顔をじっと見つめた。
「……ダスカーの血を誇れる国を作ってやると、俺に仰ってくださったこと、覚えておいででしょうか」
「ああ、忘れるわけがない。だが、それにはお前がいなければ……」
ディミトリの言葉が途切れる。彼もまた座り込んだまま、ドゥドゥーを見つめていた。
「よいのです」ドゥドゥーが言った。「俺は、信じています。いつか必ず、あなたの言葉は本当になる……」
どうしてディミトリが黙したのか、ドゥドゥーは何をよいと言ったのか、僕にはわからない。きっとそれは、二人にしかわからない何かだったろう。
「その日まで、殿下、どうか生き延びてください」
ドゥドゥーがディミトリの肩に手を添えた。多分、そこに、親愛だとか慈しみだとか、目には見えない数多のものが載っている。
「ドゥドゥー、待ってくれ……行くな……」
ディミトリの言葉に、またゆっくりと首を振って、ドゥドゥーは立ち上がった。
「ステイシア」名前を呼ばれる。「殿下を頼む」
「うん、大丈夫。必ず、安全な場所まで連れて行く」
駆け足で去ってくドゥドゥーたちの背中をディミトリはずっと見つめていた。その肩が震えている。
重たいかもしれない、この人は色々抱えすぎるから。立ち上がるには苦しすぎるかもしれない。
「行こう、ディミトリ」
彼の前にしゃがんて、地を握り締める手を取った。
「ドゥドゥーが君を信じているから……だから、行こう」
降り積もるものを止めることはできないから、せめて、今は手を引いて行こう。それで多少は歩けるはずだ。いつか、彼が僕の手を引いてくれたように。
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