途中まで朝と夜の数を数えていたけれど、だんだんわからなくなった。
 追手は一向に減る様子がなく、まともに休息を取る暇なんてほとんどない。
 ディミトリは足の先からだんだん削れて行くみたいに摩耗した。彼の様子はずっとおかしくて、誰に向けて話しているのかわからない譫言を繰り返したと思ったら、脂汗が止まらなくなったり、びっくりするくらい体が冷たくなったりする。
 なんとかしてあげたかったけれど、僕にできることといえば、どんな状態でも彼の手を引きずって、ひたすら走ることくらいだった。
 一晩中逃げ回った日もあったし、樹の虚に潜って嵐が通り過ぎるのをじっと待つだけの日もあった。
 あの日はずっと風の唸り声が聞こえていて、朝も夜もどこかに消し飛んでいくようだった。
 虚の外は横殴りの雨が降っていて、それが時々穴の中にも吹き込んでくる。その上、地表すれすれに空いた穴には当然水が流れ込んでくるから、服は下まで濡れていた。
 風に晒されない分、多少外よりはマシ程度の穴の中、ディミトリは元々白い顔をさらに青白くして震えていた。
「ディミトリ、寒い……よね」
 肌に触れるとディミトリの肩が跳ねる。触れた部分が水と同じくらい冷たくて、震えているのに、この体温は流石に不味いと思った。早くどこか、暖の取れるところで休ませなくてはいけない。しかし行く当てもなく嵐の中に繰り出すわけにはいかないし、かといってこの場では火なんて、とてもまともに付かないだろう。
「やめてくれ」
 考え込んでいるとディミトリの声がする。
「今は、薬がない……俺に近づかないでくれ」
 ディミトリは自身を抱くようにして虚の壁に身を寄せる。
 それを聞いて、なるほどと思った。
 そうすればよかったのか。
「いいよ。別に構わない」
「よくないだろう、何も!」
 ディミトリが吠える。腕に伏せられた頭が少しだけ動いて、こちらを伺う目が見えた。その輪郭は歪に細められ、何かを堪えるようだった。それは、もしかしたら怯えだったかもしれない。
 怖いだろうなと思う。
 可哀想だ。あんな端に寄ってしまうから、もう逃げられない。
「どうでもいい。……今は君のほうがずっと大事だ」
 彼の頭を抱えた。
 息を呑む音。
 体重をかけると濡れた服が肌を打って、湿っているくせ気が抜けたような、なんともいえない音がする。
 だんだん、ぬるくなってくる。
 そのまま、一刻なのか、一晩なのか、数日なのか。
 風はずっと唸っていて、だからだんだん、曖昧になる。
 そういうこともあったかなと思う。
 どうだっけ。
 しかし今思うと、あの時が一番、気楽だったかもしれない。


 吹きつける風の鋭さが幾分か鈍ってくる頃、目指していた場所に辿り着いた。
 渓谷に架かる吊り橋のたもと、石造りの物見塔。
 日はすでに沈んでいたけれど、空にはまだぼんやりとした明るさが残っていて、塔の頂点は青く霞んでいる。その上に薄目の月が浮かんでいた。
 塔からは橋を吊る縄が伸び、片方は対岸の暗がりに、もう片方は塔の手前、森の際あたりに立つ重石の石柱と楔によって地面に止め付けられていた。
 柱の影に潜んで塔を伺う。
「僕が先行する。窓から何か飛んできたら教えて」
 ディミトリは難色を示したけれど、首を振って返す。
「君の足より、多分、僕のほうが避けられる」
 影から飛び出して塔まで走った。
 そのまま、塔の根元に辿り着くまで何も起きずに走り切る。
 戸口に耳を押し当てて様子を伺うけれど何も聞こえない。そっと戸を押し開けて耳を澄ませてもそれは変わらなかった。
 どうやら無人であるらしい。
 追跡やら妨害やら、今までのしつこさを思うと何か拍子抜けのような気もするけれど、やっとまともに手当てができるのは嬉しい。
 柱まで戻って、ディミトリに肩を貸した。
 彼の片足が地面を擦る音を聞きながら、今度はゆっくり塔まで進む。空に残っていた明るさは次第に薄れていき、夜が始まりそうな気配があった。


 忍び込んだ塔の一階は倉庫になっていて、見張りの兵が駐在することもあるのか、資材と思しき麻袋や木箱が乱雑に積まれていた。
「怪我、診るね」
 荷物の影にディミトリを座らせる。
「えっと、腕は……ごめん、先に足を治すよ」
 指の先に意識を集中させて、目を閉じる。頭の奥が焼けつくように痛み、それでも指先に魔力が篭る感触がした。
 普段だったら、もうこれ以上は魔法なんてかけられない、と根をあげるところだけれど、やろうと思えば、色々と絞り出せるものだなと自分で少し感心する。
 どのくらいそうしていたか、不意に肩を押された。
「もういい……鼻血が出ている、無理をするな」
 言われて、唇の辺りを舐めると、確かに血の味がした。
「平気」
 口元を手で拭おうとして、頭が揺れる。肩を掴まれる力が強くなった。
「もう、本当にいい。痛みは引いた。十分だよ」
「腕……次、腕治すよ……」
 言ってはみたものの、目が回って腕がどこにあるのかよく見えない。
「頼むから、無理をするな……お前も少し休んでくれ」
 上なのか、下なのか。もしくは前か後ろ?とにかくディミトリの声が聞こえる。それも遠いような、近いような……。
「うん、うん……そう、だね。ちょっと、まって……ごめん」
 なんとか言葉を吐き出して、よくわからないままじっとしていた。
 多少音が聞こえるような、色が見えるような気がして顔を上げる。
「……大丈夫か?」
 ディミトリの顔が見えた。最近いつも、同じような顔をしている。
「うん、大丈夫」
 答えた後に、そういえばさっきの感覚は気持ち悪いというのだったかと、思い出した。


 しばらく床に転がっていた。魔力は相変わらず欠片も感じられないけれど、それでも頭痛はだいぶマシになる。
「……少し、上の様子を見てくる」
 床にへばったままの腕に力を込めてつぶやいた。
「俺も行く」
「ううん、君は外の様子を見ていて」塔の上部、二層目の床板が遠くに見える。「ここまで誰も現れないところ、上も無人なんだろうけど……出掛けているだけでそのうち戻ってくるかもしれない」
 そうでなくとも、敵がいつ、この橋までやってくるかわからない。
「だが……」
 ディミトリが眉を寄せる。血の気の引いた顔で、片方の目の下には黒い影が差していた。もう一方は包帯で見えない。
 彼の方こそ、行くとは言っているけれど、苦もなく動き回れるようにはとても思えない。少しでも無理をしたら、そのまま折れてしまいそうだ。
「今、敵に囲まれたら力づくで突破するしかない。僕には無理だ。もう君頼みなんだから休んでいてよ」
 なんとかディミトリを宥めて立ち上がる。
 彼はどこか不服そうであったけれど、僕の言うことも一理あると思ったのか、一応頷いてくれた。
 何かそう、新しい包帯があったらいいなと思う。食べ物でもいい。とにかく少しでも体力を回復させて、消耗を減らして、そうでないと先が保たない。安全圏に到達するまで、まだしばらくかかる。
 本当は、谷の先に抜けて吊り橋を落とせれば一番いい。陸路の追跡はそれで撒けるだろう。
 ため息が漏れる。
 塔に侵入する前に見た吊り縄は、僕の力ではどうしたって切れそうになかった。何重にも結われた縄は鉄のように硬く、握っても引いてもびくともしない。挑んだところで剣が先に駄目になってしまうだろう。


 登るたび、木で作られた階段は低い悲鳴みたいな音を上げる。途中で踏み板が抜けないか心配だったけれど、遠くに見えていた床板が近づいてきて、なんとか上まで無事に辿り着けそうだった。
 これだけ音を出しても反応がないあたり、やはり無人なのだろう。
 床板に開いた穴に手をかけた時、そう思った。
 穴からそっと顔を覗かせる。
 暗い室内には一階と同じように荷物が積まれているらしく、黒い影の膨らみが床を隠していた。幸いなことに人影らしきものは見当たらない。
 部屋の壁に見張用の穴がいくつか空いていて、その縁で月明かりが揺れる。雲が出てきたのだろう、穴から差し込む光がなくなると室内は濃い暗闇に包まれた。明かりを灯すような魔力はなかったから、しばらく暗がりでじっとしていた。
 外で風の音がする。
 壁の穴に風が吹き込んで、笛のような音が響く。かすかに甘い匂いがした。
 何だ?
 瞬きを繰り返すと、次第に目が慣れてくる。それでやっと、床に転がる影の中身が見えた。
 初めは麻袋か何かだと思った。
 けれど違う。
 折り重なって、投げ出されて、転がっている、人間。
 人間だったもの。
 何が起こったのか、よくわからない。ただ、何も動くものがいないこの部屋では、すでに全てが終わっているようだった。
 踏まないよう、足先で隙間を探して室内を進む。
 彼らは敵兵、だったのだろうか?こんな辺鄙な地で折り重なって死ぬような知人には心当たりがないから、そうだと思いたい。
 匂いは相変わらず辺りを漂っていて、もしかしてこれは死臭なのだろうかと考えた。
 部屋の最奥が目前に迫った頃、爪先が何かを蹴る。
 立ち止まって顔を上げた。
 壁にもたれて誰かがいる。相変わらず甘い匂いがした。
 目を凝らす。
 その時、また笛の音。
 部屋の側面、壁の穴、月明かりが差して、横顔が見えた。
 赤い口元が見えた。
 彼女。
 屋敷で別れたはずの彼女。
「どうして……」
 名前を呼ぶ。
 声が震えた。
 返事はない。
 ただ静寂が響く。
 なぜ僕は叫ばないのだろうかと、自分でも不思議だった。もしかしたら僕もすでに、転がる彼らと同じになっているのか。
 ゆっくりと彼女のそばに膝をつき、その顔に触る。
 冷たい。
 ずっと冷たい。
 頬を寄せると甘い匂いが強くなる。
 これは毒だ。
 毒を飲んだ。転がる彼らもそれで殺しただろう。
 口元に流れた血の跡。
 口付けたいと思った。
 苦しかった。
 どうして、どうしたら、こんなことができるのか。分かりたくなかった。
 彼女の細い肩。
 触れる。
 項垂れる。
 彼女の首は傾き、背は壁を滑る。
 床に寝かせてやった。
 両手を床について、僕はノロノロと立ち上がる。
 彼女のそばには本物の麻袋が積まれていて、それを剣で裂いた。流れ出たものは黒い粉で、それが床に広がって影に混ざる。
 おそらく炭塵。もしくは何か火薬の混ぜ物。
 屋敷は派手に爆ぜただろう。十分以上に集めた余りがここにあっても、それほど不思議ではない。
 指に力を込めた。
 剣の握り革は鈍い音を上げて、空いていた方の手はただ爪が刺さって痛い。
 父が話した逃走経路はいくつかあった。今いる場所は一番最悪な時に向かう場所だと言われていて、追手を撒くためとはいえ、かなり遠回りな道だと思っていた。おそらくフラウダリウス領に向かう橋のうち、少数で制圧できるのがこの場所だったのだろう。
「――」
 また、彼女の名前を囁こうとして、それを呑み込む。
 別の逃げ道だってあった。だから、ここを訪れないまま目的地に着くことだってあったかもしれない。なんならもっと悪くて、逃げるまでもなく、全て途中で失敗していたかもしれない。
 それなのに、ずっとこんなところで、待っていた。
 ただ僕らに残せるだけを、残すために。
 息を吐いて、剣を仕舞う。
 手のひらを見た。
 何もない。もう魔力は残っていない。
 けれど、こんなにも積まれている。
「安全な場所まで連れて行くって言った。言ったね……そうか……」
 だから、そう。
 僕は火を灯さないと。


 階段を下って行くとディミトリの声がした。
「よかった……なかなか降りてこないから様子を見に行こうと思っていたところだ」
 彼はいつの間にか階段のそばに寄って、上を伺っていた。歩調を上げて、下階に降りる。
「ステイシア?」僕の顔を眺めてディミトリが首を傾げる。「……何かあったのか?」
 階段から少し離れた位置に腰を下ろす。つられてディミトリも階段に背を向けた。それで少しだけ、気持ちが軽くなる。
「いや、包帯とか探したんだけど……何もなかった、ごめん」
「なぜお前が謝るんだ」
「……痛そうだから」
 僕の言葉にディミトリが小さく首を振る。
「見た目ほど酷くない。気にしなくていい」
 流石に嘘だろうと思う。
「……ディミトリは歩けそう?少しは休めた?」
「なんとか、お前のおかげでな」
「そう……じゃあ、頼みがある」
 息を吸って、ディミトリの顔を見据えた。
「一人で、橋を渡って欲しい。僕はここで、どうにか足止めをするよ」
「駄目だ」
「歩けるなら、できるでしょ」
「お前を置いて行けるか!そんなものは呑めない」ディミトリは硬く目を閉じる。「もう……お前しかいないのだから」
 悲しそうな声だった。
 困った。困ったな……。
「駄々をこねないで」
「嫌だ、なにがあっても連れて行く!こんなところでお前を死なせるものか……!」
「勝手に殺さないで」
「嫌だ、絶対に嫌だ」
 ディミトリが僕の腕を掴む。手が震えていた。
「なぜ急にそんなことを言うんだ……」
 彼は僕の肩に項垂れながらそう呟いた。
「もう怪我を治せないから」
 彼の腕に触れた。まだそこには傷があって、頭の中でまた聖句を回す。けれど僕の手にはもう何も宿らなくて、それを塞ぐ力がない。
「次に足をやられたら僕は君を担いで逃げられない。その時は二人で死ぬしかないわけだけど……でも、まだ生きていたいでしょう?」
「そのためにお前が犠牲になるのは違う!」
 掴まれた腕が痛い。
「あの女の首を取るまで死ねない。お前も、死なせたりしない。俺がなんとかする。俺が全て薙ぎ払って見せる……だから、そんなことを言わないでくれ……」
 ディミトリが僕の首筋に顔を埋める。その様はあまりに頑なで、僕が頷くまで、どうしたって顔を上げてくれそうになかった。
 仕方がないよな、と思う。
 ディミトリだってもうずいぶん、色々な人を亡くしている。もう誰にだって流れていって欲しくないだろう。その気持ちは僕にもわかる。
「ありがとうディミトリ」僕は彼に囁いた。「……でも、そこまでしてくれなくていい」
 自分のことは、自分で何とかできる。
 そういうものに、多分、成れただろう。
 初め、空から落っこちてきた僕を、一人ではとても生きられない脆弱な生き物を、両親は育ててくれた。一人でも立てるよう、僕の手を引いた。
 姉は僕に自由をくれた。兄は何も恨まずともいいように僕の両眼を開かせた。
 神様の代わりに、沢山の人が僕を組み上げてくれただろう。
 なんとか形になったはずだ、だって、ここまで歩いてこられた。
 今のままでいい。ここで終わったっていい。それで満足だから、どうか、許してくれないだろうか。
 彼の背を撫でた。
 根くらべをしていれば、そのうち手を離してもらえるのではないかと期待して、しばらく待った。けれどディミトリは項垂れるばかりで微動だにしない。
 仕方がないのか。
 息を吐いて、僕もまた、ディミトリの肩に額を預けて項垂れた。血と汗の匂いがして、そこらじゅう痛くて、でも、とても温かい。
 気持ちがいい。
 瞼が重たい。
 そうか、僕はずっと寒かったのか。不意に気がつく。
 心臓の音がして、生きていて、温かいディミトリ。
 手を離して欲しいけれど、離せないまま、いつまでも寄り添って項垂れ続けるのも、そんなに悪いことではないのかもしれない。だってこんなに温かくて心地がいいのだから。
 それで、そうしたら、死んでしまうな。
 目を閉じた。
 妙な気分だった。何か惜しい様な、うそ寒い様な。
 いや、もう取り繕うのはやめよう。
 寂しい。
 とても、寂しかった。
 耐えられないと思うけれど、でもきっとそれは気のせいだろう。
 一瞬のためらいで、気の迷い。
 たとえばそれは、小川を流れていく落ち葉が倒木の枝に引っかかり、水面に沈む。水流に巻かれて再び浮上するまでの、ほんの一瞬。
 過ぎてしまえば、それで済むもの。
 寂しさなんて、結局はその程度のもので、もっと最悪で致命的なものを知っているのに。なぜ今、こんなにも耐え難いと感じるのだろう。
 もしかして、それは君も同じだろうか。
 だから震えているのだろうか。
 どうしたら呑み込んでくれるだろう。
 寂しくなければいいだろうか。
 そうしたら――
「……他のお願いなら、許してくれる?」
 声が震えた。
 ディミトリの首筋に額を押し付ける。僕の肩は上がり、背中は丸まる。彼の服を強く握った。
「ステイシア?」
 ああ、全てぶち壊そうとしている、と僕には分かった。
 なぜこんな、果てにまで来て……。
 悲しかった。
 僕は自分を生かせる。無様さを許されていて、全てが残されている。
 それなのになぜ、なおも手を伸ばそうとするのか。
「ディミトリ」
 片方だけ、空色の眼が見える。
「お願い」
 耐えられない君を僕にくれ、耐えられない僕を君にあげる。
「僕の鱗を呑んで」
 彼の頬に両手を添えて、一瞬ためらい、唇を喰む。
 ガサガサにひび割れていた。乾いて硬くなった皮が擦れて痛かった。
 舌で舐めると血の味がする。それはとても甘くて、もう二度とブルゼンは食べられないだろうと思った。
 やがて、
 口を離すと、ディミトリが咳き込んだ。
「大丈夫?」背を撫でる。「呑めた?」
「なにを……」
「僕の鱗」
 僕は笑った。なるべくきれいに、何もかもが本物に見えるように、意識して口角を上げた。口の端が切れて痛かった。
「呑んだからにはもう、君は僕なしでは生きられない。僕も君なしでは、とても生きていられない。だからね、君が生きている限りは、僕も死なないんだ」
「そんな戯言を……」
「嘘つき呼ばわりするの?酷いな……僕がなんなのか、まだ分かってないんだ」
 額を寄せる。鼻先が触れた。
「僕は君の鱗だよ、ディミトリ。そして君は僕の鱗、僕の国……」
 ああ、覗き込んだ空色がこぼれそう。
「僕たち、生きるんだ。二人で生き残ろう。だから、君は行くの。そしたら僕も生きていられる」
「無茶苦茶だ、そんなのは」
「そうだよ」彼の言葉に頷く。「でも、初めからそうだった。今更、嘘になんかしないし、させない。僕を信じて、ディミトリ」
 傷だらけの右手を握った。
「ねえ、ずっと、ずっと、僕を信じていて。お願い」
 もう、駄目だ。本当に、こぼれてしまう……。
 手を引いて、頬を寄せて、彼を抱きしめた。ただ抱きしめたいと思って、そうするのはこれが初めてだった。
「怖がらないで、ディミトリ。不安なら、僕の左手をあげる。僕はもう剣が握れれば十分だから。……大丈夫。見えないだけで、ずっと手を握っている」
 もう一度だけ強く抱きしめた。この先、両の手で彼を抱くことは無い。きっと出来ない。
 多分、これが最後だ。
 それでもいい。
 構わない。
「さあ、橋を渡って」


 ディミトリがおぼつかない足取りで橋を渡って行く。その背中が対岸の暗闇に消えるまで、ずっと眺めていた。
 酷いことをしたという自覚があった。それも、最悪の部類の。やれるだけのことはやってきたはずなのに、こんなものしか残せなくて不甲斐ない。きっと、うんと苦しむ羽目になるだろう。それでも、僕にはディミトリを救えるような力がないから、彼に自分で生き存えてもらうしかない。痛みに耐えて、歯を食いしばって……。僕の無力さはどれほどの糧になれるだろう。何の重みも形もないそれを、彼はいつまで信じてくれるだろう。
 なるべく長く信じていて、ずっと目を瞑っていて、毒を飲んだんだって気づかないままでいてと、ただ祈るしかない。
 それが酷く惨めだった。


 塔に戻って、積まれた荷物を改めた。ここまで来て誤爆なんて笑えないから、なるべく早く、けれどできるだけ丁寧に、ばら撒けるだけを撒く。
 元々暗かった室内は舞い上がる黒色でさらに暗くなった。
 最後に入り口を出て、腕を差し入れられる隙間を残して戸を閉ざす。戸板に体を寄せて、左手に剣を持ち変えた。
 息を吸い込む。
 腕を差し込む。
 心臓が早鐘を打つ。
 死ぬのかな、死ぬかもしれない。
 目を閉じて、左腕を振り上げた。
 キンと澄んだ音がして、
 閃光、轟音、爆風。
 体は吹き飛ばされ、しかし、すぐに何もわからなくなった。


 気づくと地面に転がっていた。
 目を動かすと、ずっと先で塔は崩れ、支柱を失った橋は燃え落ちる。炎は木々に飛び火して空を焼き、立ち上がる煙が月を隠した。
 暗い、とても暗い夜になる。
 よかった。
 これで空からだって、彼を見つけることはできないだろう。
 息を吐いて、もはや何も見えないまま、僕はそこに転がり続けた。
 やがて誰かの足音が聞こえ、胸ぐらを掴まれる。何事か叫びかけられたように思うけれど定かではない。頬を張られたような気もするがどうだったか。全てが曖昧だった。僕の輪郭はどこか崩壊し始めているのだろう。彼の鱗を飲んだからドロドロに溶けたのだ。
 僕の体はどこかに投げ捨てられ、色々な人の怒鳴る声や嘲る声が聞こえた。そのうちに、また体が持ち上げられる。担がれてどこかに運ばれているのか、手足が宙で揺れた。腹が苦しい。なんとか目をこじ開けると左手が欠けているのが見えた。
 爆発の時に飛んでいったのだろうか。僕の目は左手のありかを探そうとしていた。
 ああ、でもそうだ……
 彼に、あげたのだった。
 だったらもう、いいや。探す必要もない。そう思って、また目を閉じた。


(改訂:2025.08.08)
(投稿:2025.08.02)


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