薄目のような月が浮かんでいた。
 あの夜と同じ。
 ステイシアに手を引かれて森を走った。
 どこに向かっているのかもわからなかった。馬の嘶き、飛竜の羽音、俺たちを追う兵の怒声が背後に迫っていた。呼吸は乱れ、心臓が早鐘を打つ。足がもつれ、体制を崩すたび、握った手が解けそうになる。その度にステイシアは、汗なのか血なのかわからない、濡れた手を握り直してくれた。
 もう彼女だけだ。
 他にはない。国も、民も、友も、何もかも置き去りにして逃げた。だというのに、結局俺はその手も離してしまった。
 彼女は笑って言った。
 大丈夫だと、何も嘘にはしないと、そう約束してくれた。
 その言葉だけを抱えて、俺は落ち延びた。


 あの夜から二度の冬を超えた。森を越えて、荒れ果てた田畑を越えて、焼け落ちた街を越えて、また冬になった。空には何度目かわからない薄目の月が浮かんでいる。
 同じ月なのに、あの夜とは何もかも違う。
 息を吸う。
 白く煙る呼気の向こうに、短い悲鳴が聞こえる。
 懇願する声。
 かつては俺もそうだった。
 やめてくれ、もう奪わないでくれと。
 けれど、それで振り上げられた刃が止まったことがあったか。燃え上がる火が消されたことがあったか。
「……貴様らは何度、同じ言葉を耳にしてきた」
 槍を振り下ろすと辺りは静かになった。
 息をつく。
 天を仰ぐと相変わらず薄目の月。
「……ステイシア」
 もうずっと、あの日と同じ夜を探しているのに見つからない。足元には白い地表を赤黒く染めて、帝国兵どもの骸が転がっている。
 こんなに容易く奪えてしまえる。
 鉄の鎧で身を固めようとも。
 どれほど徒党を組もうとも。
 手を伸ばせば命に届く。
 あまりに容易い。
 失った手を再び掴むことの方が、はるかに困難だろう。
 そして、唐突に理解した。

 そうか、彼女は死んだのか。

 考えてみれば、それは酷く当たり前の事のように思えた。俺たちを追っていた兵がどの程度の規模だったかは分からない。けれど、把握し切れないほどにはいた。彼女と離れた後も幾度となく遭遇し、その尽くを殺してきた。
 彼女もそうであって欲しいと願った。
 けれど、
 柔い掌だった。
 細い肩だった。
 それらを抱えて彼女は一人、俺を見送った。
 俺が願った分だけ、彼女の身が強固になって、振り下ろされる刃を防げればいいと思うけれど、そんなことはありはしないのだ。
 どんなに願っても、祈りを重ねても、彼女の肉は柔いままだろう。
 俺がしたよりもたやすくその身は刃を通しただろう。
 ああ、そうだ。彼女は死んだのだ。
 見つかるわけがない。同じ夜など、もうどこにもないのだから。
 もはや彼女は戻らない。
 酷いやつだと思った。
 酷い嘘をついた。
 お前が死ぬ時に俺もまた死ぬのだと、そう言ったじゃないか。
 俺の生きている限りは死なないと、子供の戯言のような言葉を吐いたじゃないか。
 とても信じられないと思った。
 けれど、嘘にして欲しくなかった。
 ずっと、ずっと、待っていたかったのに。
 手を握り締める。
 もはやそこには何もないから、手に爪が食い込み、血が流れた。


「嘘ついてごめんね」
 しゃがみ込んだステイシアは俺の顔を覗き込んで微笑んだ。
「随分と久しぶりに出てきたな……」
「そうだっけ」
 彼女は白々しく首を傾げる。薄情なやつだ。
 身をかがめるステイシアの後ろには数多の人々が立ち尽くしている。父やドゥドゥーの姿もそこにあった。彼らは彼女の背の向こうから俺を見下ろしている。ステイシアの姿も彼らの影の中にあった。
 思わず目を逸らす。
「わかっている……お前達の仇は必ず打ってやるさ」
「だれに殺されたのかもわからないのに?」
 俺が呟くと、ステイシアは頬杖をついて首を傾げた。
「それでも……見つけ出す。全て殺してやる……あの女も……」
「別にいいよ、わざわざ探さなくたって」
「……なぜ」
「同じ悪魔を見なくていい」
 ステイシアは眉を下げて笑う。どこか、困ったような笑みだった。俺が黙っていると不意に彼女は立ち上がる。
「呼ばれてる」ステイシアは彼方を眺め、呟いた。「もう行かないと」
「待て、どこへ行く」
 手を掴むと、彼女はひどく驚いた顔でこちらを振り向く。
「僕じゃない」首を振った。「君だよ」
「俺が……?」
 ずっと彼らに呼ばれているのに、俺はその声にこそ応えてやらねばならないのに。今更になって彼ら以外の誰が俺を呼ぼうと言うのか。
「立てそう?」
 そう言うとステイシアは自身の左手、俺が掴んだままのそれを眺めて、苦笑を浮かべた。
「また引っ張って欲しいの?でも、もう重いからイヤだよ」
「……随分と薄情なんだな」
「酷いこと言うね。でも、君だって僕のこと忘れてるでしょ?」
「忘れたことなどない……」
「どーだかなあ」
 くすくす笑うステイシアの姿は段々と影に溶けるように見えなくなる。手の中はいつの間にか空になっていた。
「でも、忘れてくれてもいいよ」
 暗闇の中で声が聞こえる。
「なぜ、そんなことを言うんだ……」
 問いかけても返答はない。彼女の笑い声が再び聞こえてくるのをしらばく待った。
 やがて、足音が聞こえる。
 顔を上げると、ぼんやりとした光の向こうに、かつての恩師の姿があった。
 ああ、そうか……。
 先生、お前まで、俺の前に現れるのか。


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