遠くで微かに喧騒が聞こえる。石の壁に何重にも反響するそれは低い音の耳鳴りのようだった。
顔を上げると、知らない男の顔が見える。嬉しそうな顔をしていた。反応があることが珍しいのだろう。
なんて卑下た笑み。汚いな。
微笑んで、そっと男の顔に手を伸ばす。無精髭の生えた頬を撫でて、ゆっくりと両の目を右手で隠す。
不思議そうな声。
そのあと、すぐに悲鳴。
男は絶叫しながら両目を押さえて床の上をのたうち回る。その指の隙間から極彩色の光が漏れ、薄暗い部屋を照らした。
なんてイかれた光景。
笑ってしまうと思ったけれど、不思議と声は出ない。仕方ないから、座ったまま、それを眺めていた。
耳障りな声はしばらく続いた。一面だけ鉄格子の壁で、他は床も壁も天井も全て石だから、音が響いて頭が痛い。早く止め、と思いながらじっとしていた。
最後に乾いた破裂音がして、静寂が帰ってきた。
ゆっくり立ち上がる。少しふらついた。鈍い音がして、壁に肩をぶつける。痛かった。ああ、そう、痛いってこんな感じ。久しぶりに頭がはっきりしているかもしれない。少なくとも、思い当たる程度には意識が続いている。それは珍しいことのような気がした。
裸足で立つと足の裏が冷たくて、立つのもそう、こんな感じだったなと思い出す。いつの間にか足枷は外されていて、部屋の戸も開いたまま。見下ろすと、両目から血を吹き出して男が絶命していた。大の字に四肢を伸ばして、口から赤い泡が今も漏れ続けている。
馬鹿なやつ。
大人しくしていればよかったのに、他人なんて欲しがるから、こんな惨めな死に方をする。似たような話はごまんとあって、ちょうど目の前には前例もいたのに、気づきもしない。もしかしたら潰れる前から、目が腐っていたのではないか。たぶん、きっとそうだろう。
生まれてから、延々手を伸ばし続けて、いつまでたっても満足せず……それはもう中毒だとか、精神疾患の類ではないか。実際、死んでも治らない病だったろうから、さっさと死ねたのは僥倖だったかもしれない。
哀れだと思いさえすれば、汚い男も多少はマシな死体に見えるから不思議だ。靴と上着を拝借するのも、そこまで抵抗を感じない。
靴紐を解いて死体の足から引き抜くまでは楽だったけれど、片手では履いた後の紐が縛りにくい。
ため息が漏れる。
あれはえっと、どうしたのだったか。彼のところにあるんだっけ?
頭の中がぐちゃぐちゃで、いろいろなことが夢だったのか現実なのか、あまり判然としない。床に落ちて割れた水差しみたいに、記憶がそこらじゅうに散らかっていて、どこをどう繋げればそれらしい形になるのかわからない。
もたもたしている間にも喧騒は少しずつ近づいてくる。
もう、これでいいや。
余った靴紐を足首に巻いて、先を靴の中に捩じ込んだ。死体の腰から剣を引き抜いて立ち上がる。
馬鹿みたいに重い。
持ち上げていられないから、抜き身のまま引きずって牢を出た。外に出ると、暗い廊下がずっと先まで続いている。
どこだっけ、ここ。多分、フェルディアの地下牢。
今まで、何があったっけ。考えようとして、止めた。
僕は一体何をしているのだろう。頭が痛い。
何とか歩を進めるたび切先が床と擦れて不協和音が響く。時々、石畳の凹凸に引っかかって高くて短い音が鳴る。剣が可哀想だ。持ち主が悪かっただけで、これは何も悪くないのに、僕に掴まれてしまったばかりに、ああ……。
遠い遠い暗がりの先で、喧騒に混じる声が聞こえる。
「ディミトリどこだ!いたら返事をしろ!」
猪って、呼ばないんだな。
ぼんやりとそんな感想が頭に浮かび、しかしそれ以上は考えられない。仕方がないから、声を頼りに、とにかく前へと足を進めた。
ずっと頭が痛い。でも、もしかしたら頭以外が痛いのかもしれない。それもわからない。きっともう、頭がどうしようもないくらい、おかしくなってしまったのだろう。
でも、よかった。
よかったね、ステイシア。
頭がおかしくなってよかったな。
そうでなければこんなふうに、歩いてなんかいられないだろう。
何もかも重苦しくて。
可笑しかった。笑おうとして、咳が出た。
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