五年ぶりに、生きている知人と会った。
目の前に立つ彼らの姿は、足元を埋め尽くす亡者の群れの中にあって、ひどく浮いて見える。
彼らが身じろぐたび、亡者の群れも波のように揺れた。それは、焚き火に群がる羽虫が炎の熱に身を翻し、けれどその一瞬後にはまた明かりに惹かれて飛んでいく、そんな虚しい繰り返しにも似ていた。
目の前にある生が妬ましく、かつて己の手の中にもあったはずと渇望し、けれど二度と手が届かない。亡者たちは延々嘆き、蹲り、蠢いている。
「ディミトリ」
顔を上げると彼らも、亡者たちも俺を見ている。ちぐはぐな視界に頭が揺れた。長い耳鳴りがして、その向こうに無数の叫びが混ざる。
ほしい、ほしい、ほしい。
命が欲しい、殺して欲しい。
憎い、憎い、憎い――
「……ああ」
短く息を吐いて、目をそらす。
わかっている。望むだけ、お前たちの上に千切って撒いてやる。そう嘆かずとも、すぐ、もうすぐに、俺がくれてやる。彼らではない、もっと相応しい者をいくらでも。
「なんだか嬉しそうだね」
大聖堂の奥、瓦礫の山の端に腰掛けてステイシアが言った。
「……ああ、ようやく帝国への足がかりが手に入る。ステイシア、もう少しだけ、待っていてくれ。必ず、あの女の首を切り落とし、お前たちに捧げよう」
彼女は頬杖をついたまま俺を見上げている。口元は引結ばれたまま開く気配はない。
不意に足音が聞こえる。
彼女の目線が俺の肩口の先へ動いた。
「おい、猪」
視線を追って振り返ると、数歩ほど離れた位置にフェリクスが立っていた。
「いい加減、その戯言を止めたらどうだ。貴様はあいつの死に様を拝んだわけはないだろう。それを死んだ、死んだと吹聴して……それが侮辱だとなぜわからない」
フェリクスが唸るような低い声で言った。
「……お前に何がわかる」
どうして、生きていると信じることができる?
焼け落ち、残骸が垂れ下がるだけの橋を、遠い対岸から空を埋め尽くす黒煙を、その根元に宿った赤を見た。それでもまだ信じていた。彼女の故郷、全てが燃え尽きた様を見て、まだ、と唱えた。繰り返し、三年が過ぎ、彼女は戻らなかった。
「それは本当に申し訳ない」
相変わらず瓦礫に座ったまま、彼女は苦笑を浮かべている。
「……ステイシアなら、ここにいる。俺が皇帝の首を取るのを待っている」
舌打ちが聞こえた。フェリクスが鋭く俺を睨む。
「お前がそんな体たらくでは奴も報われんだろうさ!」
「ああ、そうだ。だからこそ、そのための復讐だ」
彼は眉間に深い皺を寄せ、しばらく無言のまま俺を見据えた。やがて、目線が外される。
「……今の貴様に言ったところで埒があかない」
静かな声だった。
フェリクスは懐を探ると、大股でこちらに寄ってくる。
「せめて無駄にはするな」
それだけ言うと、俺に何かを押し付けてフェリクスは去っていった。
手の中、押し付けられたものを見下ろす。それは小さな包み紙で、重さはほとんど感じない。
いつの間にか近くに寄ってきたステイシアが不思議そうに手の中をのぞいていた。包みを開くと彼女が小さく声を上げる。
「焼き菓子だ、こんなご時世に珍しい」彼女が目を丸くした。「美味しそう」
「……なら、お前が食べればいい」
どうせ俺が食べても価値がない。
俺の言葉に彼女はフェリクスのように顔を顰め、しばらく唸った。
「やぶさかではないけど……そうすると、つまり君が食べることになるね?」
「……」
「まあ、遠慮せず召し上がって、どうぞ」
それだけ言うと彼女は俺を眺めて立つだけになった。いつも、すぐどこかへ消えてしまうのに、こういう時に限ってしつこく居座る。
仕方なし菓子を掴んで口へ放る。一瞬、甘い匂いがしたような気がしたが、それだけだった。
「美味しい?」
「わからない」
「……そっか、残念だ」
ステイシアは眉を下げて笑っていた。
熱く乾いた風が頬を打ち、空は朝も夜もなく、炎と同じ色を写す。煉獄の谷アリル、その底では尽きることなく炎が吹き上がり続けている。
いったい何を焚べればこれほどまでに燃え上がるのか。一瞬浮かんだ思考はすぐ一点に着地する。
それは罪だ。人の皮を被った畜生どもの罪。
何百という歳月が過ぎ、それでもまだ焼き尽くせないほどに溢れかえっている。
そう、だから殺さなければならない。
手に力を込め、槍を振る。
受け身を取ろうとする敵の、構えた剣ごとその胴体を薙ぎ払った。槍の穂先が敵の甲冑に引っかかり、構わない、そのまま身を引きずって炎の沼に突き落とす。
絶叫は一瞬の間に鳴り止み、赤熱した飛沫が上がった。
忌々しい赤。
罪を焼くというのなら、なぜ、正しく火を灯せない?ダスカーも、彼女の故郷も、いったいどこに焚べられねばならぬ道理があった?
「ディミトリ!」先生の声。
咄嗟に身を捻ると死角から飛来した雷撃が鼻先を掠めた。
「違う!」なおも先生が叫ぶ。「後ろだ!」
彼の言葉の意味を理解した時には、背後で雷撃のはぜる音が響き、振り返ると眼前に吹き上がる炎が迫っていた。
まだだ。
左手が外套の裾を探している。
畜生に落ちようと、化け物に成り下がろうと、まだ足りない。何にも手が届いていない。蹲る彼らを誰一人救えていない。
外套を翻し、苦し紛れに炎から身を隠す。内臓を焼かれないよう、目と口を閉ざした。
まだ、燃え尽きるわけにはいかない!
「わかった」
不意に、小さな声がずっと近くから聞こえた。目を開けた時、見えたのは揺れる外套の下をすり抜けていくステイシアの姿だった。
地を蹴る足音。小さな背中。彼女が一直線に向かう先、手を広げ、覆い被さろうとする炎。そのどれもが、何かを惜しむように酷くゆっくりとした速度で流れていく。
「待て!」
お前にいったい何ができる。菓子すら食えずに顔を歪めていたくせに。なぜいつも、無茶苦茶なことばかり……。
彼女の右手に握られた剣が見えた。その切先が白色を帯び、雪なのか塵なのか、細やかな光の粒が一瞬浮かんでは消える。
突き出された切先。
それが炎の輪郭に触れた。
瞬間、
低い爆発音。
音と共に白煙が立ち込め、次いで爆風が吹き抜ける。
「ステイシア!」
何が起きているのかわからないまま、立ち登る白煙の向こうに叫びかける。熱風が顔を打った。
「返事をしろ!」
耳の奥では音が延々鳴り続けている。それは反響する爆発音かもしれないし、俺の鼓動の音かもしれなかった。とにかく煩い。返事が聞こえない。
目を凝らした。
次第に白煙は薄れていき、その向こうにステイシアはまだ立っていた。
こちらへ一瞥を向ける彼女の身を風が打ち、服の袖がはためいている。
「なぜ」
喉が焼けたのか、息が苦しい。
「片方しかないんだ……」
それは俺のなのに……、違ったのか?
吹き付ける風で翻った先、そこにあった不在に、なんとか息を呑み込んで喘いだ。
片腕の足りないステイシアはひどく大人しい。一言も言葉を発せず、笑いもしない。フェリクスに帰れと凄まれても彼女は小さく首を振るばかりだった。
「なぜ屋敷を抜け出した!安静にしていろとあれほど……大体、親父殿も親父殿だ!同行を許可するなど、いったい何を考えている!」
声を荒げるフェリクスを、シルヴァンとイングリットが宥めすかす。その横でステイシアは目を細め、時々、緩慢に頷いてみせたりする。その顔はどこか、眠そうでもあった。
あれは、一体なんなのか。
作りかけのまま放置された人形のようで、しかし残された部分はあまりに精巧で、正気の抜けた白い顔には敵の返り血がこびりついている。咳き込みそうになる程の熱気に満ちた谷の底にあって、彼女の足元に張り付く影からは、寒々しく静止した死の匂いがした。
なぜ、立っているのだろう。
イングリットが彼女を呼び、その頬を拭った。ステイシアはわずかに口を開き、しかし結局何も紡ぐことはなく、まなじりだけをわずかに緩める。
なぜ……。
「彼女にも何か思うところがあるらしく……。無碍にもできまいとお連れした次第です」
振り返るとロドリグがステイシアたちを眺めて立っていた。
「何か」
ただ、彼の言葉を反芻する。何かって、なんだ。何一つ語ってくれないのに、どうしてそんなことがわかるのか。それとも、俺だけが声を聞き取れないのか。
頭の奥が帯電したように痺れている。鈍い痛みを感じた。
目を細めてしばらくロドリグを眺めていると、彼は俺の顔を見て苦く笑った。
「何でしょうな……私にはわかりません」
ロドリグの連れてきた兵を編成し直し、アリルを発った。帝国軍の追撃を警戒しながら馬車は進み、何度か朝と夜を繰り返す。
幾度目かの夜更け、馬車の底は沈黙で満たされていて、座り込むものは皆、口を閉ざしていた。知人たちに挟まれて、ステイシアは剣を右脇に抱えたまま眠っているようだった。不規則に揺れる車内で、時々その首が大きく揺れる。
落ちるのではないかと思った。五回に一度くらい、本当に落ちて、それが馬車の底を打ち、俺の足元に転がる。こちらを向いた顔、目は開いていた。
馬車が石を踏む音。
大きな揺れ。
瞑目。
再び目を開けると、ステイシアはまだ馬車に背を預けて船を漕いでいる。目は閉じたままで、頭は彼女の肩の上で小さく揺れていた。
俺も眠っていたかもしれない。どこまでが夢だったろうかと考えた。いや、もしかしたら全てがそうなのではないか。置物のように揺れるこの女こそが幻で、俺はまだ修道院の壁にもたれて眠っているのかもしれない。
また馬車が揺れ、幻も揺れる。抱えた剣がガチャリと鳴った。傾いた頭がゆっくりと動き、髪が顔を滑る。切り揃えられたその隙間から震える瞼が見えた。
細く開いた目、その視線が床を這い、緩慢な速度で俺の体を登っていく。
目が合った、ような気もする。
曖昧な口元から空気が漏れた。しばらくそれが繰り返され、彼女は小さく首を傾げる。寝ぼけているような、不思議がっているような顔だった。
「おい、いいから寝ていろ。修道院に着いたら起こしてやる」
彼女の横でフェリクスが言った。その声が聞こえているのかいないのか、彼女は何度か瞼を上下させるのを繰り返し、最後、観念したのか剣に額を寄せて動かなくなった。
「まだ」小さな声でフェリクスが言った。「死んでいると嘯くつもりか?」
どうなのだろう、と思う。
生とは、陽炎を生み出す日差しのような、鮮烈な輝きではなかったか。だからこそ、亡者たちが揺らぐ。
かつて、彼女は生きていた。彼女の瞼が震えるたび、だから俺は、それだけは手放してくれるなと思ったのに。
目をそらす。
どこを見ても、今は夜の暗さしかない。
やがて暗がりの向こうから舌打ちが聞こえ、全てが沈黙の底に帰っていった。
修道院に到着しても、フェリクスは結局ステイシアを起こすことはなく、悪態をつきながらも彼女を担いでどこかに消えた。他の者たちもぽつぽつと寝床に帰っていくようだった。
静かな夜ほど騒々しい。そこら中の影から亡者の声が聞こえる。もう慣れてしまったが、とても眠れはしないだろうと思った。頭が痛い。
「ああ、ああ……そうだな……そうだろうさ……」
適当に相槌を打って、石畳の道を進む。どこをどう歩いたのか覚えていないが、やがて大聖堂に着いた。人影はなく、天井に開いた大穴からは絵の具を何重にも塗り重ねたような、深い青色の空が見えた。
五年前も、この場所にだけは僅かばかりの静寂があった。祈ってさえいれば亡者たちも比較的大人しい。
しばらくそうして立っていた。
背後から足音が聞こえる。
「ディミトリ」
彼女の声がした。
振り返る。
薄闇の中に白い顔がぼんやりと浮かんでいた。ステイシアは眠そうな顔で俺を見上げている。これは、どちらだろうかと考えた。
「もう朝だよ」彼女の声、口元は動かない。
頭上を見上げると、空の青は水を足すように徐々に薄まっていき、浮かんでいた小さな星が一つ、また一つと消える。
「夜を明かしたの?あまり感心しないな」
横を通り抜けていく足音がする。音を追うとステイシアは乱雑に置かれた長椅子の一つに腰かけた。胸の前で右手を握り、目を閉じる。
「少しくらい寝たほうがいいと思うよ」
座るステイシアの前に立って、彼女はこちらを見据える。眉間に皺が寄っていた。
他人の世話ばかりだな、と思う。己の身だけ案じていればいいものを……。
「……お前は、どうして黙していられる?」
彼女たちの前に立つ。
「お前をひき千切っていった者たちに同じ苦しみを与えてやろうとは思わないのか?……それとも、もはや何も感じないのか」
日が昇りつつあるのか、足元から伸びる影が濃くなっていく。一人は俺の影に立ち、もう一人は座ったまま目を細めた。
「まあ、そうだね。苦しくはあるかな、多分」影に立つ女が横に顔を向ける。「ねえ?」
座った女はゆっくりと首を振る。それを見て影の方は肩をすくめた。
「そうでもないみたい」
苛々する。
苦しいという声はきっと本当だろう。
けれどステイシアは首を振る。嘘つきだと思う。
彼女の声、彼女の左手。
確かに聞こえるのに、見えているのに、悪夢の中でしか触れることができない。嘘つきだと思う。
ちゃんと答えろ、と唸りそうになる声を飲み込んだ。
彼女は困った顔で笑うかもしれない、もしくは変わらず眠そうな眼を向けるかもしれない。そのどちらもを今は見たくないと思った。
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