同盟領と帝国領の境、アミッド大河に架かるミルディン大橋を制し、帝国へと向かう道がついに開かれた。
 敵を排したばかりの橋では、まだ方々から煙が上がり、石畳は汚れている。自軍の兵が防衛体制を整えるべく、慌ただしく走り回っていた。
 喧騒に包まれる橋の上、彼女は小さな声で呟いた。
「ドゥドゥーが生きててよかったね」
 その視線の先にはドゥドゥーとステイシアの姿がある。嘘みたいな光景だなと思って、俺もその様を眺めた。
 頭の中でドゥドゥーの言葉を反芻する。五年前に助けたダスカーの兵たちに救われたのだと彼は語っていた。
「意味がなくならなくてよかった」
 また横で小さな声。
「……何の話だ」
「約束」前を見据えたまま彼女が言った。「まだ守れるから、よかったね」
 口元が弧を描き、目が細まる。
 不意に、川上から強い風が吹きつけた。戦闘で舞い上がった砂塵が顔を打ち、俺もまた目を細める。視界の端で煙が流れていく。いつの間にか冬の鋭さを失いつつある風にはわずかに血生臭い匂いが混ざっていた。
 風が止んだ後、再び横を見ると、もうそこには誰も立っていなかった。
 やがて、足音が聞こえて顔を上げる。
 ドゥドゥーと、そのあとをついてステイシアがこちらに向かって歩いてくるのが見える。
 その光景に、何が、どこまでが、嘘だったろうかと考えた。


 グロンダーズ平原で皇帝を取り逃し、ロドリグを死なせた。
 平原の南、メリセウス要塞から迫る帝国の後詰を避けて、文字通り引きずられるまま戦場を後にする。
 気づいたらドゥドゥーに半ば担がれるようにして歩いていた。背中が熱く、足がうまく動かせない。誰かの手が傷口を押さえている感覚があった。
 視界が明滅する。
 何を、どうしたらよかったのかわからない。知人や肉親に等しい者たち、その全てを利用して、踏み台にして、それでもあの女に届かない。
 約束、とロドリグが最後に呟いた言葉だけが延々、頭の中を回っていた。


 目を開けると、目の前に濃い闇があった。ああ、ついに地獄に落ちたかと思う。存外に静かな場所なのだな。
 一人息を吐き出すと、すぐそばで自分以外の呼吸音がするのに気がついた。
 目を凝らすと、次第に闇に沈んだものたちの輪郭が浮かび上がる。どうやらここは修道院の一室のようで、寝台のすぐそば、椅子に座ってドゥドゥーが目を閉じていた。
 だんだんと感覚が冴えてくる。
 背中の痛みでまだ生きているらしいことがわかったし、酷く暗いのは雨戸を閉ざしているからだった。外から微かに雨の音が聞こえてくる。室内には消毒と血の匂いが漂っていて、ドゥドゥーも身体中のあちこちに包帯を巻いていた。暗くてよく見えないが、おそらく血が滲んでいるだろう。治療が十分だとはとても思えない。
 彼こそ寝台で眠るべきだったのに。
 最も突出していた俺がいうのも烏滸がましい話だが、グロンダーズで戦線を維持できたのはほとんど奇跡に近かっただろう。それこそ、先生やロドリグ、ギュスタブがいなければ開戦早々、瓦解していたはずだ。
 数多の死傷者を出した。顧みる余裕もなかったが、ドゥドゥーも数え切れぬほど俺を庇っただろう。
 体にかかっていた毛布を剥がして、彼の肩に掛ける。眠りが深いのか起きる気配はない。よかったと思う。
 そのまま、音を立てないように部屋を出た。
 もう何も、踏み潰すべきではない。


 厩舎の軒下に人影が立っていた。それは俺を認めると、雨の中、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
 先生だった。
「帝都に向かうのか」雨音に混じって彼の声が聞こえる。「それが死者の望み?」
 わからない。
「黙れ」しかし、気づくと声が漏れていた。「貴様に彼らの何がわかる……」
 わからなくとも、成さねばならない。
「死んでしまったら、もう、復讐を望むことさえできないのだから」
 生き残ったものが背負わなければならない。
 髪から流れ落ちる雨に目を細める。先生の姿が一瞬滲み、立ち竦む影たちが揺れた。
 まだ、生きていたかっただろう。誰も奪われたくなどなかっただろう。死にたくなどなかったはず。死んでほしくなかった。
 彼らがいた場所には、もはや無念と憎悪、止まない嘆きしか残っていない。もしかしたらそれは残骸ですらないのかもしれないが、そうだったとしてもやはり、ずっと共にいて欲しかったから。
 足元に打ち捨てておくことなどできない。
 吐き出す言葉は支離滅裂だっただろう。それでも先生は黙って俺の話を聞いていた。俺がそう望んだからかもしれない。
 応えてくれる者がいることがどれほど奇跡的であるか知っている。
 彼らの不在に声を投げかけて、何度その姿を探したか見当もつかない。そのうちに嘆きが反響して、影が見えて……。それでどれだけ救われたことか。
「ディミトリ」先生はゆっくりと首を振る。「それでも、そうだったとしても、別のやり方があるはずだ」
 そうだろうか、そうかもしれない。けれど、俺にはわからないことだ。
 俺はただ、彼らが応えてくれたから、応え返してやりたいだけ。もしかしたら、それは虚構だったのかもしれないが。
「……なあ、教えてくれ、先生。どうしたら……俺は、彼らを救ってやれる?」
 折り重なる屍に守られて生き残ってしまったから、せめて、復讐を果たし彼らの無念を晴らす。そのくらいの救いはあってもいいはずだ、もう何も残っていないのだから。
 そのためなら、まだ生きていられると思った。呼吸を続ける理由など、そのくらいしか浮かばない。
「自分を許してやればいい」
 静かな声だった。けれど、頭を殴られたようなそんな心地がした。
 かつて、それを問われて無理だと応えた。いつか、マシになればいいと言われた。
「なら……俺は、誰のために……何のために、生きていけばいい……」
 なんのために、共にいたのだろう。
「自分の信念のために」
 きっと大丈夫だと、適当なことを言った。
 そのせいで彼女は悲鳴をあげたり、泣いて顔を歪めたりした。最後、口の端を切ったまま笑った。嘘にしないと応えた。そんなことのために……。
「だが……そんな生き方が……」
 信じ難いと思った。
「許されるのか?人殺しの化け物に成り下がった俺に……。あの日、生き残ってしまった俺にも……自分のために生きる権利が、あるのか……?」
「許されたいのなら、俺が許すけど」
 先生の手が目の前に差し出されていた。
「でも、そんなものなくたって、君は選べるし、選んでいいんだ」
 手を握る。
 お互い濡れ鼠のようだったけれど、掴んだ手は温かかった。
 懐かしいような気もした。
 もしかしたら、俺が蹲るばかりで気づかなかっただけで、彼以外にも、ずっと前から色々な手が差し出されていたのかもしれない。
 たとえば、そう。


 大聖堂へと繋がる橋の中程に彼女は立っていた。未だ雨は降り続いており、その額から雫がとめどなく流れ落ちる。
「こんなところで油を売ってないで、はやく体を拭いて寝た方がいいよ」
 聞こえた言葉に首を振り、彼女の前まで歩み出た。
「ほんとに君、人の言うこと聞かないね……」
 彼女はため息をついて俺を見上げる。
 結局、この人は何なのだろうかと思う。俺の頭が作った幻なのか、それとも五年前に俺の手を引いて走った彼女なのか。
「まだ、苦しいか?」
「苦しいよ」
 俺が問うと声が聞こえる。
「……お前は復讐を望んでいる?」
「君が望むなら、まあ、応えるのもやぶさかではない」
「お前自身は?」
「答えたくない」
「なぜ?」
「君は知っているはず」
 俺を見据える目の奥が光って見えた。嘘や幻でも、こんなふうに光ったりするものだろうか。命があるように見える。意思があるように見える。そう見せているものは一体なんなのか。
「それでも、頼む……答えてほしい」
 手を掴もうとした。彼女は驚いた顔をして一歩後ろへ下がる。俺と己の手を交互に眺め、最後に苦笑を浮かべた。
「仕方ない人だな、相変わらず」
 ため息。
 何度も言ったつもりだったのに、と彼女は呟いた。
「君の大切だと思うもの、きれいだと思うもの……それだけをずっと見ていたっていいんだ」
 また一歩後ろへ下がる。
「いろんな奴がそれにベタベタ手垢をつけて、きれいだったのに目も当てられなくなって……それが僕のせいなら、僕のことは見なくていい。忘れたらいい」
「……忘れられるわけがない」
「うん……ずっとそうだったね」
 己の両手を眺めて彼女が言った。
「ごめん。君の目を塞いでおきたかったけど、僕では足りなかったみたい。先が見えなくて、余計に苦しめてしまった」
 彼女は背を向けて、跳ねるように橋の中央に踊り出る。両手を広げて一度だけ回ってみせた。
「もう、役不足だね……手は離してくれてもいい」
「……お前はどうなる?」
「帰る」
「どこへ」
「さあ?わからないけど、大丈夫だよ。なんとかなる」
 まなじりを緩めて笑う。そのまま橋の脇に寄って、左手で先を示した。
「さて、そろそろ雨も止みそうだし……。やることやってさっさと寝なよね」
 雨の一滴が落ちて、東の空、山の稜線に金色の筋が走る。光が彼女の顔を照らした。眩しげに目を細める。
 もっと、ずっと、細くなる。
 それはいつか見た月のように。
「おやすみ、ディミトリ」
 橋の欄干。
 そこには誰もいなかった。


 大聖堂へ続く鉄扉は薄く開いていた。隙間を抜けて中へ入るとフェリクスが柱の一つに背を預けて、奥を眺めている。彼の視線の先にステイシアがいた。
 開いた天井から降り注いだであろう雨で床は濡れ、どこまでも続く浅瀬のようだった。その水面を踏んで、彼女が踊る。
 葬儀の折によく捧げられるものだった。何度か目にしたことがあったが、そういえば彼女がそれを踊っているのを見るのは初めてかもしれない。おそらく、ロドリグの弔いなのだろう。
「お前、こんなところで何をしている……怪我はどうした」
 俺の存在に気がついたフェリクスが低い声で言った。
「フェリクス、彼女と話したい」
 俺が言うとフェリクスは眉を跳ね上げしばらく黙った。俺の顔をまじまじと眺め、次第に眉間に皺が寄る。彼をきつく目を閉じた。手が懐を探っている。
「手短に済ませろ」
 手拭いを俺に投げつけながら、フェリクスが言った。
「終わったらさっさと部屋へ戻れ」
「……ありがとう」
 彼の舌打ちを背に床を踏む。
 平坦な水面に、瓦礫や柱の生み出す影、天井から覗く淡い空や、やんわりと光を灯すステンドグラスの輝きが写り込んでいる。彼女が跳ねるたび波紋が生まれ、それらは混ざるように揺らいだ。立ち上がる水滴が光って消える。
 また跳ぶ。
 着水。
 回って、つま先が水面に弧を描く。
 右手がまっすぐに伸び、指先に一瞬、光が灯る。
 左袖が揺れていた。
「ステイシア」
 一度だけ水を踏む音が響く。
 静寂。
 彼女は静止した体をゆっくりと起こし、俺の方を眺めた。やはり、眠たげな目。
「……少しだけ、話をしないか。聞いていてくれるだけでいい」
 彼女は重そうな瞼をさらに下げ、思案げに俯いた。しばらくすると水面を踏み、俺の横を通り過ぎていく。そのまま一番手近な長椅子の前で立ち止まり、こちらを振り返った。
「……そこに座るのか?」
 問いかけると一人分の空白を開けて彼女は椅子に腰掛ける。後を追って残った空白に座った。息を吸う。何から伝えればいいだろうかと考えた。
「五年前、言ってくれただろう?俺が生きている限りはお前も死なないと……。あの時は信じようと思ったんだ。そうでもしないと……とても橋を渡れなかったから」
 沈黙。
「だが結局、長くは信じていられなかった……それからずっと、お前は死んだものと思っていたよ。多分、最近までずっとそうだった」
 沈黙。
「お前はずっと、約束を守ってくれていたのに」
 やはり沈黙。
 彼女を見ると目が合った。感情の読めない透明な目、その中央に瞳孔が開いている。その穴を通して、彼女の底が見えればいいのにと思う。
 どれほどの苦痛があっただろう。痛みに耐えて、歯を食いしばって……。
 どれほど頼み込んだとしても、この人は決してそれを俺には教えてくれないから、やはり手を離さなければよかった。ずっと共にいればよかった。
 それで、そうしたら、死んでいたか。
「お前の献身を徒労に変えてしまった……今更と、思うかもしれないが……それでも、どうしたら報いることができるのか……」
 席が揺れる。
 彼女は俺の前に立ち、こちらを見下ろした。
 その目は透明ではなかった。
 眉間に皺がより、視線が鋭さを帯びる。口元は真横に引き結ばれ、奥歯を噛み締める音が聞こえてきそうですらあった。
 彼女は何かに、途方もなく怒っていた。
 その体がゆらりと傾き、右手が視界の端を通り過ぎていく。そのまま俺の後頭部に触れて、引き寄せられ、すぐ目の前に彼女の首筋が見えた。
「……ステイシア?」
 呼びかけても彼女は俺の頭を抱えたまま、動かない。
 やがて、鼓動の音が聞こえてくる。
 触れた部分が温かかった。震えてしまうほどに。これをどうして人形のようだなんて、思ってしまったのだろう。
 息が漏れる。
 よかった。本当によかった。
 ステイシアが生きている。ずっと生きていた。
 そして、多分それは俺も、そうだったろう。
 ああ、だから、そうか……。
「まだ、約束を交わしたままだと……そう言っているのか?」
 嘘でも徒労でもなく、死んでいるのとさして変わらないと思っていた日々すら、それでも、俺はお前に応えることができていたのだろうか。
 沈黙。
 けれど、回された腕の力が少しだけ強くなる。その背に手を伸ばした。


(改訂:2025.08.26)
(投稿:2025.08.24)


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