みんな同盟領に向かったのに、まだ修道院に留まっている。ついて行こうとしたら、ディミトリにすごい剣幕で嫌がられた。
僕が倒れたことを気にしているらしい。倒れるなんて、そんな珍しいことでもないだろうと思ったけれど、聞いた話では目の前でやらかしてしまったらしいから、それがいけなかったのかも知れない。
ごねてもよかったけれど、医務室に縛り付けられそうな勢いだったから、渋々頷いて今に至る。閉じ込められるのはあまり好きではない。
久しぶりに暇であったから、ほとんど寝て過ごした。どれだけ寝ても眠いのは、本当になんとかならないものかと思う。いつからこうだったのかはもう覚えていない。
数日、そんな具合で過ごしたからか、多少調子が良くなって、その日はまた温室に花を貰いに行った。
この前は結局花を供えられなかったから、覚えているうちに済ませてしまおう。
適当に一輪、分けてもらえればいいと思っていたけれど、温室の管理人が花束を作ってくれた。手間をかけさせてしまったと思って頭を下げたら、どうせ暇だったから気にするなと言われた。
そういうものだろうか?騎士団は修道院の防衛に携わっているもの以外ほとんど出払っていて、温室をよく訪れるらしいベレトやドゥドゥーもいない。それを暇というのかはわからないけれど、本人が言ったのだから、きっとそうなのだろう。
外に出ると空はよく晴れていて、日差しは眩しく、少しくらくらした。
墓地に向かって歩いていると、途中、がさりと音がして後ろを振り返る。地面に花束が落ちていた。
おや、と思って右手を見ると何も握っていなくて、指が震えていた。ため息をつく。
調子がいいと思うとすぐこれだ。
最近は好きなものしか握ってくれなくて、多分、花束はお気に召さなかったようだ。反抗期かと思うけれど、そういえばずっと昔からそうだったような気もする。戦っている時と踊っている時くらいしか大人しくなくて困る。
元々からして無様だといっても、花束を拾うのに手こずっている姿は見られたくないから、人が少なくてよかった。
しばらくの格闘の末、なんとか花束を掴みなおして腕に抱えた。流石にこれで落とすまい。
そのまま近くの木陰に置かれた椅子に座る。墓地に行く前にこんなに疲れるとは想定していなくて、少し休もうと思った。無茶をするなとも言われている。いや、これは別に無茶でも何でもないけれど……。
少し先に階段が見えて、その先には墓地があって、そこにやけくそみたいに文字の彫られた墓石がある。
あれがないと悲しいのかな。未だによくわからない。彼らが居なくなってしまったことは悲しいけれど、別に石は無くてもいいと思う。名前くらいは日記にだって書いてあるし、それすら無くとも、何もかもを忘れてしまうことなんてできないのだから。
だから、そう。わざわざ石なんて用意しなくとも、日記だってお墓のようなものだし、僕自身だってそうだろう。
そして、多分、僕も近いうち、刻まれる側になる。
そう考えたら、ゾッとした。
嫌だな。とても嫌だ。そんなふうに生きて欲しいなんてこれっぽっちも思わない。
ああ、だからメルセデスはお墓を作ってくれたのだろうか。
多分、思いだとか願いだとかを置いておける場所が必要なのだ。そうでないと安心して手放せない。
僕はたいして抱えていられないから気にしたことがなかったけれど、彼にはきっと必要だろう。
修道院に居ろと言われたのもそういうことなのだと思う。
けれど、ここで祈っているだけなのは嫌だ。それこそ墓石のようじゃないか。願われた言葉を反芻して、反芻して、反芻して……それから?突っ立っていればいいのならカカシでも立てておけばいい。
だいぶ目が覚めた心地になって席を立った。
デアドラでの戦いに勝利すると、同盟諸侯は王国に対して臣下の礼を取り、フォドラの勢力図は大きく変わった。
この五年間、帝国は大陸全土に勢力を広め続け、王国残党や同盟領の小さな反抗など歯牙にも掛けないような勢いだったけれど、ここにきて戦力は拮抗しつつある。
時世の勢いだけ見れば王国軍の方が優っているのではないかとすら思えた。少し前まで死にそうだったのに、よくここまで持ち直したものだと感心する。
ディミトリはいよいよもって帝国と正面からやり合うつもりらしく、帝都の手前、メリセウス要塞の奪取を次の目標に決めたようだ。帝国随一の堅牢さを誇る砦と聞いている。相当に骨の折れる仕事になるだろう。
意気込んでいると、またついてくるなと首を振られ、結局置いていかれた。どうしろというのだろう。
アリルに行った時、ついていけたのはなんでだったかと考えて、ロドリグ殿が周りを説得してくれたのだったと思い出す。今は味方がいないなあ。
しばらくして修道院にゴーティエ家の騎士たちが現れた。兵や物資を運んできたようで、彼らの話によると王国内もだいぶ落ち着いてきたらしい。
運ばれてきたものの中に、兵らしからぬ人の姿があって眺めていた。捕縛されている様子を見るに、捕虜か騎士たちの道中で運悪く捕まった盗賊か何かだろう。
あちらも視線に気づいたのか、目が合った。
途端にその男は顔色を悪くして眉を寄せる。僕が首を傾げると、徐ろに膝を折り、首を垂れた。
「ああ、主よ……。これがあなたの導きならば、私は罪を告白します……」
何を言っているのだろう。
背後で騎士たちの怒声が聞こえる。男は取り押さえられ、床に頭を打ちつけられる。それでも、ひたすら言葉を吐いていた。
ダスカーで、火を灯したのは、私。
そう言った。
死にたいのだな、殺そうと思った。
気づいたら右手は剣の柄を握っていた。
誰かに肩を掴まれる。うるさい、邪魔だ。怒鳴りつけてやりたいのに声が出ない。
「その者の処遇は殿下が決めることです!」
奥歯を噛んだ。
わかっている、そんなことは。あの場所で血を流していたのは彼なのだから。
兄は燃え滓にされたけれど、僕はそれを踏み潰したし、ただ突っ立っていただけ。わかっている、そのくらい。
抜いた剣を手放すと派手な音がして、しばらく剣先が床の上で震えていた。
わかっているよ……。
後を追うように王国軍が帰還した。ディミトリはそのまま捕虜の尋問に当たるようだ。ベレトとギルベルトも同席しているらしい。
自室の寝台の上、壁にもたれて窓の外を眺めた。空の大半はすでに紺色に染まっている。
全てを人伝てに聞いた。様子を確かめに行くなんてとてもできない。きっと邪魔をしてしまうだろう。あの男の顔を見たら今度こそ殺してしまう。
けれど、それは駄目だろう。全て台無しだ。耐えられないならせめて、遠ざからなければ。
息を吐き出して、目を閉じる。
どうにか微睡の中に帰れないだろうかと思うけれど、頭の中が熱くて、今はとても眠れそうになかった。
どのくらいそうしていたのか、部屋の戸を叩く音がする。何度か控えめな音が響き、最後に声が聞こえた。
「……ステイシア、眠っているのか?」
目を開ける。部屋は影で満ちていた。いつの間にか、日が沈んでいたらしい。慎重に寝台を降りて、扉に向かう。ゆっくりと取っ手を回して隙間を作ると、その先にディミトリが立っていた。
「遅い時間にすまない。だが、お前には話しておかなければと思って……」
眉を下げて、彼は囁いた。抑えられた声と背後に広がる灯りの消えた廊下を見て、思っていたよりも夜が深いらしいと少し驚く。
隙間を広げて、部屋に戻った。燭台に火をつける。後に続く足音が聞こえた。
机から椅子を引きずってきて、寝台の前に置く。手で促すとディミトリは頷いて、そこに座った。それを見てから、向かいの寝台に腰を下ろす。
「あの男の処遇についてだが、しばらく保留することにした。ゴーティエの騎士から話を聞いて……お前には辛い思いをさせることになる。すまないな……」
首を振る。
騎士が言ったように、ディミトリが決めるべきだろうし、決まった以上異存はない。きっと僕には推し量れない葛藤があったはずだ。少し前の彼なら対話をする隙もなくあの男を殺していただろうから、今、彼がそう決めたのは本当に立派だと思う。
見上げると彼は僕の顔をじっと見下ろしていた。まだ、何か言いたいことがあるのだろうか。
「すまない、ステイシア」
そんなに何度も謝ってくれなくていいし、必要もない。また首を振る。けれど、ディミトリは椅子に座ったままで、早く帰ってくれないかなと思った。
「すまない……だから、泣かないでくれ」
本当にお節介だな。
手が伸びてきて、それを押し除けた。
ドロドロした熱さが心臓の裏側で渦巻いていて、何か、それを収めた器の底が溶けていくようだった。穴が空いて流れ落ちて、その先でまた溶けて、いつまでも冷えないまま、もっとずっと深い穴。いつまでも続いていくような……。
もう九年も前のことで、自分でも割り切ったと思っていた。けれど本当は、何も考えずに怒りをぶつけられる先をずっと探していたのかも知れない。そして、今更になって見つかった。
あの男を殺しても、兄が帰ってくるわけではないし、僕が彼を踏み潰した事実は変わらない。仇を討ってすっきりしたと思える時期はおそらく過ぎ去っていて、何の感慨も湧かないのだろうけれど、何の意味もなく死んで欲しい。
儘ならないな。
怒りなのか憎悪なのか、この感情はどう形容することが正しいのだろう。ディミトリはずっとこれに付き合ってきたのだろうか。何をどうしたら呑み込めるのか見当もつかない。それでも、呑まないわけにはいかないのだろう。
この人が目の前まで来てしまったから。
かつて僕はそれを望んで、彼は応えてくれた。だから、今度は僕がそうしないとあまりに不公平だ。
ああでも、少しだけ時間が欲しい。
右手で部屋の戸を指差した。休みたい。眠れるかわからないけれど、寝ようと思った。あまりにも重苦しくて、しばらく蹲っていたかった。今までも、それで何とかなったから、とにかく一人にして欲しい。どこか遠くに行って欲しい。さもなければ、僕が遠くに行きたい。
俯いて、目を閉じた。
頼むから……。
「ステイシア」ディミトリの声がする。「頼むから、もう一人でいようとするのはやめろ」
手を握られた感触がした。
「約束してくれただろう、二人で生き残ろうと。あの時お前の言ったのは、俺を行かせるための苦し紛れだったかも知れないが……それでも、どこかで生きてさえいればいいなんて、言わないでくれ。一緒にいよう。共に生きていて欲しい……」
頭の上から、掠れた声が降ってくる。
嘘だろうと思った。
今になって、蒸し返してくるなんて酷いのではないか。僕の呑ませたものはすっかり効果をなくしてどこかに消えたはずだろう。ディミトリも信じていられなかったと言った。
それでも、ここで投げ掛ければ僕が頷くのではないかと期待しているのだ、きっと。彼だって王様になるのだから、そのくらいの腹芸はするだろう。
息を詰める。
うんと遠くに行って、死んだかどうかわからなくすることはできるけれど、そばにいて、そのままずっと生きているなんて、そんなことが本当に可能だろうか。できるだけ嘘にはしたくないけれど、そもそも、僕にはついてくるなと言うのに、一緒にいようなんて、都合が良すぎる。
だんだん腹が立ってきて、睨みつけてやろうと顔を上げる。
ディミトリはひどく不安そうな顔をしていた。
手を振り払えよ、でもそれも違うじゃないか、と頭の中で交互に声が聞こえる。
困った、どうしよう。また視界がぼやけだす。その片隅で、彼の手が伸びて、恐る恐るの指先が頭をなぞり、そのままそっと引き寄せられた。
あまりにも最悪で、何も打つ手がなくて笑う。
忘れてくれたらよかった。本当はそれを確かめに来たのだ。牢を出たのも、アリルに向かったのもそう。僕が呑み込ませたものが溶けきって跡形もなくなって、全てどうでも良くなっていないかなと期待した。だって、そのまま何も気にせず歩いて行けるのならそれが一番いい。
けれどどんなに頼んでもきっと忘れてはくれなくて、あげたものはどこへ行ったのかも知れないけれどもう帰ってこない。
肩口に顔を押し付けて目を閉じた。何かがじわじわ滲んでいく。曖昧にしてはいけないと思うのに、うまくいかない。行き先が見えない。けれど、どこかに、本当にもう直ぐ、行き着いてしまいそうな予感はあった。
いったい、どこに辿り着くのだろう。せめて行き先くらいは眺めていようと思って、手を握り返した。
そこで、最後まで立っていてくれたらいい、それだけ。
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