あの夜から、毎日ディミトリを説得しに向かっているけれど、いかんせん言葉が不足しているから全く対話にならない。首を振られるばかりだ。
「ステイシアは帝都に行きたいの?」
ある日、アッシュに聞かれた。頷いて返す。
「……そっか、見たいものがあるんだね?」
細くなった彼の目元に皺がよっていて、笑っているような泣きたいような顔に見えた。相変わらず、眼が綺麗だと思う。
「ステイシアさん、私、ディミトリさんが心配なさる気持ちもわかりますの……お友達が辛そうなのはもう見たくありませんわ」
またある日、フレンが言った。
彼女の袖を引くと不思議そうな顔をされる。差し出された手のひらを指でなぞった。
「約束してるから……?でも……。いえ、お友達との約束は破りたくありませんものね……」
優しい声だった。雪原と眩しすぎる朝日を思い出す。両親がそこに立っていて……。全然似ていないのに、彼女の声を聞くと母親のことを思い出すのが不思議だった。
色々な人と話をして、仕方ないという顔をされることが増える。
イングリットには叱られた。抱きしめたら、頬を打たれて泣かれた。あまりに向こう見ずだ、とのこと。流石にそうだねと思う。
みんなに迷惑をかけているだろう。なぜ許してくれるのか、きちんと理解できていないかも知れない。それが申し訳なくて、ありがたかった。
それでも、と言うよりは僕が理解できていないから仕方がないのかも知れないけれど、絶対に首を縦に振らない人がいて、毎度門前払いを食らっている。一緒にいようと言われたのはもしかして夢だったのではないかという気もしてきた。
今日も敗北して、中庭の影にいた。椅子に身を投げてため息をつくと、背後から足音が聞こえてくる。
「お前、ほんと諦め悪いよなあ」
背もたれに寄りかかったまま顔を上げると、こちらを覗き込んでくるシルヴァンの顔が見えた。
横いいか、とシルヴァンは隣の空席を指差す。そのままこちらの返答を見るでもなく席に座った。並んで椅子に背中を預けると、追加された重みでギィと鈍い音が鳴る。
しばらく並んだまま中庭を眺めていると、あのさ、と横で声がした。
「もう知り合いとか……身内が死ぬのは見たくないし、俺もお前にはここに残ってほしいな〜なんて……」
横から聞こえる声は段々と小さくなり、最後、ため息になって消える。
「……聞きやしないか。なんだっけ、あれ。すげえ前にお前がさ、全部同じに扱ったらどうのって話、しただろ?雑すぎるって言ったけど、今となっちゃ、それでよかったのかも知れないな」
どういう話なのだろう、と少しだけ考えた。全部を雑に扱っていると苦言を呈された記憶はある。けれど今に至っても変わらないから、その様を見て仕方ないと言っているのか。それとも、そうではなくなったと彼は言いたいのだろうか。
「あいつのことはさ、死なないように俺らが付いてるから……それじゃあ、駄目なのか?」
シルヴァンが眉を下げてこちらを見た。
ああ、そうかと思う。生きてさえいてくれればよかった、ずっと。けれど、もう駄目なんだな。そんなことは言うなと言われたし、多分、通り過ぎてしまった。
目を逸らして中庭を眺める。
揺れるような陽光を受けて、蒼々とした草木が光っている。その上にはもっと青い空と白い雲。何もかも鮮やかすぎるなと思う。眩暈がするくらい輝いていて、多分あの日差しの下はもっと、うんざりするくらい眩しいだろう。
目を細めると横でまた、ため息の音がした。
「……そうだよな駄目なんだよなあ。お前、行きたいんだもんなあ」
あーあ、と吐き出す声と共に椅子が揺れる。目を向けるとシルヴァンが背もたれに腕をひっかけて空を眺めていた。
眼が冴えるような青空に黒い影が一つ漂っている。鳥かな、多分そうだろう。南――帝都の方は修道院より随分暑いと聞く。避暑のために飛んできたのかも知れない。
「選んじまうんだもんなあ……」
僕がついて行きたいのは、彼が特別に大事だからと言うよりは、全くの逆で、彼だけを特別雑に扱ってしまっているのではないかと思う。あまり言うことも聞かないし、嫌がられることばかりしている。
できるだけ大事にしたい、約束も守りたい。けれど、それだけでは駄目になってしまった。自分に求めるように求めている。彼は僕ではないのに。
これを選んだと、シルヴァンは言っているのだろうか。そうだとしたら、確かに、前のままでもよかったかも知れない。
本当にごめん。ごめんね。もう、戻れないや。
いよいよ明日、修道院を発つ。
ディミトリの前に歩いて行ったら渋い顔をされた。しばらく顔を眺めていると、彼は視線を逸らしてベレトの方を見る。困っているような横顔だった。
視線を追うとベレトが首を振っていた。内心で拳を握る。この日のために先生宛の投書まで書いたのだから首を振ってもらわないと困る。
見返すと、眉間の皺がさらに深くなっていて、苛立ちなのか戸惑いなのか悲しみなのか、難しい顔をしていた。
「なあ、ステイシア、頼むから――」
また、わかってくれとか言うのだろう、知っている。身構えて、次に飛び出す言葉を待つと、それが紡がれるより先にディミトリを呼ぶ声がした。
「もう、いいじゃないですか。こいつの頑固さは並みじゃないですよ」
「置いて行っても、どうせまたついてくる」
「心に従えとおっしゃったのは貴方ですよ」
振り返るとシルヴァンたちが立っていた。
「しかし……」
背後でディミトリの声。
「無理ですよ殿下……」
シルヴァンたちの奥、ギルベルトの影からアネットが顔を出して言った。
「止めたって探しに行っちゃいます。私、なんとなくわかるんです……」
ぐっと息を呑む音が聞こえた。
振り返る。彼以外の全ての言葉に同意できると思って頷いた。
ディミトリの目が細くなる。睨みつけるような鋭さをしていた。そんなに目を凝らさなければ見えないものなんて、ここにはないのに不思議だった。
やがて目が閉じられる。ディミトリは硬く手を握っていて、なめし革の擦れる音が聞こえてきそうだった。
「……必ず生きろ、死んではいけない。約束できるか」
再び目を開けた時、彼が言った。可笑しくて笑う。
その約束はとっくの昔にしている。ディミトリの左胸を叩くと鎧の鉄板が気の抜けた音を立てた。
帝都の戦いは混迷を極めた。帝国兵や唸り声をあげる魔獣の間をぬって、市街を抜け、宮城を抜け、記憶とかけ離れた姿の皇帝が玉座の前に立っていた。
吠え声、絶叫、誰かの手。
剣を振って、走った。
赤、赤、赤。
廻っている。
そして最後、うんと遠くで歓声が聞こえた。
始め、灰色の塵が見えた。激しい戦いであったから、どこかで建物が燃えているのかと上を見上げる。灰色の煙が見えた。出所はどこだろうと思って、煙の根元を探すと、どこにも繋がっていなかった。灰色の、ふわふわした塊だけが浮かんでいる。雲だった。
灰色の空が見えて、灰色の街が見えて、灰色の石畳が見えた。
遠くで人々が抱き合ったり、肩を組んで立っていた。多分、味方の兵だろう。青い鎧を着ていたように思うけれど、それも灰色だった。
みんなが横を通り過ぎていく。僕を見て、嬉しそうな顔で笑って、何か言った。
わからない。聞こえなかった。笑って返す。
彼らの向かう先にディミトリとベレトの背中が見えた。その上に、灰色のシミ。多分、星。青海の星。
風が吹き抜けて、灰色の外套がはためく。
ディミトリの頭が上を向いて、それからこちらを振り返る。水色の目が見たかったけれど、細まったそれはやはり灰色をしていた。それでも、目元に安堵が滲んでいる気がして笑い返す。僕だって安心した。
何か言っていて、わからないけれど、頷く。
あれは僕の国、僕の美しい鱗。本当に信じられないくらい立派で、眩しくて、眩暈がするほど。
一歩進む。
遠い。ひたすら遠い。遠ざかるなと言われたから歩いているけれど、それにしたって遠すぎる。たどり着く時って、こんな感じなのだな。想像していたよりずっと呆気なくて平凡だ。
二歩目。
まあ、いいか。いいよ。光も影も君も、全て灰色で、何もかも遠くて、けれど今まで目にしてきた絵の中で、これが一番美しいから、これでいい。
三歩。
そこで膝が崩れて、石畳が目の前。
星を探した。
女神様は見ているのだろうか。
もし、祈った願いが叶ったら、彼女はあの星まで去って行ってしまうだろう。そこで願いの果てを見ているだろう。全てが潰えてもずっと。
願いって多分、そういうものだから。
投げっぱなしで、叶っても潰えても、そのまま。
僕も、随分とたくさんの人が祈ってくれたし願ってくれた。少しくらいは叶えることができただろうか。それとも、何にも届かず終えるのか。
ああ、でも、約束が。約束は?
微かに、本当に微かに、心臓の音が聞こえた、かも知れない。
これは誰のものだろう。僕?それとも君?
目を閉じる。
またきっと、会いにいくよ。いつか、きっと……。
(改訂:2025.08.26)
(投稿:2025.08.24)
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