修道院に戻って一週間が過ぎた頃、マヌエラに呼ばれて医務室に行った。
「ステイシア、来てくれて嬉しいわ!待っていたのよ」
医務室のドアを叩くとマヌエラが出迎えてくれた。
開かれたドアの先から微かに、お酒と化粧品の匂いがする。彼女の居城らしいといえばそうなのだろけれど、いつも、慣れるまですこしくらくらする。お酒はあまり得意ではない。
部屋に入ると先客がいた。
「あれ?先生、怪我をしたんですか?」
ベレトは怪我人用の寝台に腰掛けてこちらを見ていた。
パッと見た限り、外傷はなさそうだ。先日の盗賊団との戦いでも見事な身のこなしを見せていたし、彼が怪我を負う姿はあまり想像できない。
何故、彼がここにいるのだろうという疑問を乗せながら声をかけると、ベレトは少しだけ顎を引いてみせた。一瞬思案する様な空白があって、口元が何か話し出しそうな形になる。
けれど、そこから言葉が紡がれるより前に、マヌエラが僕の肩を抱いた。
「今日きてもらったのは、あなたにちょっとしたお願いがあったからなのよ、ね、先生?」
マヌエラがベレトを見て言った。
「えっと、お願い、ですか」
何だろう、嫌な予感がする。いつの間にか医務室の戸は閉ざされていて、マヌエラは相変わらず肩を抱いたまま、僕の背後に立っていた。退路を塞がれている。
「そう!実はね……」
「鱗とは、何だろうか」
マヌエラの言葉の後を継いで、ベレトが言う。
「は?」思わず声が飛び出した。「もしかして寝てます?」
困惑する僕を彼は真っ直ぐ見つめていた。
肩を抱かれていて良かったと思った。でないと、平手か何か飛び出していたかもしれない。
マヌエラに肩を抱かれたまま、部屋の隅まで連れて行かれた。ベレトに背を向ける形で、彼女が僕に囁く。
「まあまあステイシア、落ちついて」
「何でいきなり辱められたんですか、僕は」あんなの、出会い頭に性癖を尋ねるようなものだぞ。
「彼、今までセイロス教とも紋章とも無縁で生きてきたみたいで、まあ、だからってわけでもないかもしれないけれど、そういう知識もあまりないみたいなのよ。だからこれは不可抗力よ。悪気はないの」
「嘘だあ」
「ワタクシだって驚いたけれど、本当に知らないのだから仕方ないわ。」
生徒たちに手当たり次第聞いて回らなかったのが不幸中の幸いだ、とマヌエラが肩を竦める。
「ルーヴェンは貴族出身の子も多いでしょ?ちゃんとした知識が必要だわ。それに彼自体どうなのか調べておかないと」
「検査機扱いされても、僕だってそんな精度は高くないですよ」
「でも、ワタクシ、あなた以外に当てがないわ」パチリと片目を瞑って彼女が言う。「生徒の安全を守るのも騎士団の仕事でしょう?」
言っていることはわかるけれど、僕だって万が一、引っ張られたら困る。
また、頭がおかしくなったらどうしよう。
今度は何を踏みにじってしまうのか……。
怖い。
でも、何もしなければ別の誰かが踏みにじるのだろうか。
泣き声が聞こえる。
ああ、嫌だ、こんな幻聴ばかり……。
息を吐き出す。
「……とりあえず、窓を開けましょう」
そう言って部屋を換気した。少なくとも気分は多少マシになる。
それで時間稼ぎの手段もなくなって、意を決した。ベレトにゆっくりと近づき深呼吸をする。自身の内側を覗き込むように意識する。指先はちゃんと動くのか。呼吸は正常か。僕は真っ直ぐ立っているのか。
「先生は……多分、違うと思いますよ」
一歩下がってベレトを見据える。
「そうなのか?」
「うーん、何か、よく知らないけど昔から飲んでる薬とか、あります?」
「いや……」
「じゃあ、やっぱり、違うと思います」
鱗付き、という。現在はフォドラやその周辺諸国のみで見られる風土病と解釈されるのが一般的だ。
「鱗が生えてくる病ということか?」
「いえ、そういうわけではなく……何だろう、比喩表現なのかな」
体の何処か、本当に鱗が生えるわけではなく、罹患者に見られる症状の一部を動物の生態になぞられてそう呼んだのが始まり、らしい。僕も父から昔聞いただけだから本当かどうかは分からない。
「正直あまり、口にするのは憚られるのですが、先生はちゃんと知っていた方がいいと思うので……。うーん、まあ、その……なんというか」
あまり直接的に言いたくない。けれど、本当に知らないのであれば紆曲に伝えるのは悪手だろう。余計に拗れてしまう。
「鱗付きの人間は、その、まれに行動不能になるような発作を起こします。発作が起きると、えっと……他種族の発情期のような状態に陥ります」
「発情?」ベレトの表情は、聴き慣れない言葉を耳にしたという顔に見える。「春先に猫が鳴くあれか」
ベレトの言葉に頷きながらも面食らう。本当に、全然、知らなかったのか。でも、教会やそれに伴う文化から距離があったから、とか、放浪の生活だったから、とか、そういう話でもない気がする。各家庭での教育の問題なのでは?生娘じゃあるまいし、団長は用兵術以外の知識をもっと彼に教えるべきだろう。
「自覚のある人は薬で症状を抑えてしまうので、滅多に遭遇することはないと思います。ただ、少し注意しないといけないことがあって」
「特性の出やすさによる違いなのか、定期的に発作を起こす個体と誘発的にしか発作の起こらない個体がいます。前者は当人が症状を自覚しているので予防も比較的容易ですが、後者はそもそも自身の特性を把握していない場合があります。で、無自覚のまま、何らかの要因で突如発作が起こる。これが一番嫌な状況ですね」
「なるほど……。対処はどうしたら?」
「まず症状の程度を確認してください。発作が強く出ていると、脱力感等で動けなくなる場合があるそうです。相手が動けるのであればとにかく症状が落ち着くまで隔離。無理そうなら周囲の確認を行います。周囲に人がいれば可能な限り距離を取らせます。特に他の鱗付きがそばにいる場合、連鎖的に発作が起こる可能性があります。話が通じそうなら、すみやかな退避を命じてください」
「話が通じない時があるのか?」
「うーん、理性が飛ぶことがある、らしいです」
マヌエラを見る。
「ワタクシは患者を殴って気絶させたことがあるわ」
彼女は細腕に力こぶを作る仕草をしてみせた。
「そんなこともありましたね……えっと、なので先生も不味そうだなと感じたら、ひとまず無力化することを検討してください。暴力的な行動のほか、自傷行為に至った事例もあるそうなので。とにかく気絶させて遠ざけるのが手っ取り早いです」
「動けなくなった方は?」
「そちらは物理的な危険はないのですが……えっと、匂いが」
「匂い?」
「鱗付きでなくても、その、酔っぱらうような感覚になる場合があります。匂いとして感知することが多いようです。甘いとか、言葉通りお酒のような匂いに感じる人もいるみたいですね。……なので、遭遇した場合、なるべく早く対処した方が、その、色々と、被害が少ないのですが、ご自身の体調がすぐれないと感じた時は無理に近づかない方がいいでしょうね」
「なるほど、よく分かった」
ベレトが神妙な顔で頷く。
「それで……君は鱗付きか?」
「はい」遠慮とか奥ゆかしさとか、道端に捨て来たのではないか、この人は。
ここまで説明しておいて違うというのも馬鹿らしく、肯いてしまったが、団長には後で文句を言おうと思った。
「鱗付き同士はお互いがわかるものなのか?」
君がさっき確かめていたみたいに、とベレトが言った。
「うーん、普段薬を飲んでいない相手なら分かると思いますが、服用していたらダメですね。少なくとも僕は分からないと思います。だから自分以外で、そうかな?と思う人は数えるほどしか会ったことがありません」
「自分はここに来て初めて聞いたが、珍しいものなのか?鱗付きというのは」
「まあ、断定できる人と遭遇するのはかなり稀でしょう。誰も公表なんてしたがらないので。実際どのくらいの人口がいるのかは分からないですね。ただ何となく、貴族に偏在しているような気はします」
「それはなぜ?」
ベレトが首を傾げると、それに応えるようにマヌエラが一歩前に出た。
「ステイシアの話だと、鱗つきは危険な存在のように聞こえたかもしれないけれど、彼らは総じて高い能力を持っていると言われているわ。だから、紋章を受け継いでいないような貴族の家には重宝がられた歴史があるの。そんな背景もあって貴族の家には一定数、鱗付きがいるのではないかと言われているわ。紋章のように、血縁によって鱗も継承されていっているのかもしれないわね」
「それは……病というより遺伝する形質と呼ぶべきものなのでは?」
「そういう学説もあるわね」とマヌエラが頷く。
紋章は女神様からの祝福であるけれど、人生に与える影響の大きさを思うと、紋章も鱗も大して変わらないのではないかと思う。もちろん、こんなことは口が裂けても言えない。教会において、紋章は神から人に与えられる至上の施しだ。病と同格に扱えばただでは済まないだろう。
「まあ、いずれにせよ個人の性に関わる話ですし、こう言った話題自体に嫌悪感を覚える人もいます。あまり口にしたり、誰かに対してそれを言及することは避けるべきでしょうね。特に貴族相手には」
「なぜ?」
「うーん、これはかなり眉唾なのですが、一応、鱗付きの名前の由来と言われる噂話がありまして」
噂話というよりは、もはやおとぎ話の類のようにも思うけれど、呼び名がつくにはそれなりの理由がある。知識として知っておいても損はないだろう。
「曰く、鱗付きの症状に暴露すると対になる相手に合わせて性別まで変わってしまうことがあるのだとか。それが一部の魚や蜥蜴なんかの生態に近しいとして、鱗付きだと」
外聞や体裁を守るのに命をかける貴族にとって、真偽はともかく、人であらず、なんて噂が立つこと自体が大問題だ。波風は立てない方がお互いに平和だろう。
そもそも噂が噂でしかなかったとして、それ以外の事実が危険すぎる。鱗を持つと知られることは、状況によっては完全な無防備になりますので、どうぞ襲ってください、と相手に伝えているようなものだ。
最後の噂話が相当衝撃だったのが、ベレトは少しの間、目を見開いて黙り込んでいた。
「……フォドラの人間はどうなっているんだ?」
「シャミアさんも以前、同じ顔で驚いていましたよ」珍しい表情だったから少し笑ってしまった。
やっと医務室から解放された。他人にこう言った事柄を説明する経験がなかったせいかとても疲れた。かつて父が僕に語ってくれたことを思い出して、今更ながら親の苦労が少し分かった気がする。
本当はすぐに部屋に帰って寝たいところだったけれど、「教えてくれた礼をする」というベレトに誘われて、ふたり食堂に向かっていた。
「それにしても、存外に先生は箱入り息子だったんですね」
「……箱に入っていたことはないが」
「団長にとても大切にされているということです」
「そうなのだろうか?」
「そうなんですって」
「そうか……、俺も、ジェラルトのことは大事だ」
表情から感情が読み取れないけれど、声の調子だとか、言葉の意味合い的に、喜んでいると解釈していいのだろうか。単純に感情の起伏がなだらかなのか、ドゥドゥーとはまた違った意味で読みにくい人だなと思う。
食堂についた。
医務室で話し込んでいる間に昼時を少し過ぎてしまったせいか、食事を取る人影はまばらだ。何か残っているものがあるだろうかと思ったけれど、ベレトが何を頼んでもいいというので厚意に甘えることにする。
「じゃあ、フィッシュサンドを一つ」
「それが好きなのか?」
「ええ、魚は美味しいですよね」
正直、修道院の食事はなんでも美味しいのだが、僕の実家は海から遠かったから、泥臭くなくて可食部の多い魚は滅多にお目にかかれない御馳走だった。
「では、同じものをもう一つ。それから……」
一つ息を吸うと、ベレトは料理長へ次々と料理名を告げていく。あまりに長いので説法でも聞いている気分になってきた。相手も慣れたものなのか注文をとっては料理番たちに指示を出す。
数分後、僕の目の前にはフィッシュサンドがあり、彼の前には山ができていた。
「大丈夫ですか?人を呼びますか?」
「問題ない」
ここは食材さえ持ち込めば、食べられるようにしてくれるからありがたい、と語るベレトの手は迷いなく料理を切り分けていく。粛々と食事が片付けられていく様は、先日彼が指揮していた戦いを思いださせた。空いた食器たちがベレトの脇にまた別の山を作る。
「ちょっと楽しくなってきました。健啖家ですね」
「食べれるときに、食べるようにしている」
一頻り食事を終えると、彼は改まって僕を見た。
「先ほどは、言いにくいことを聞いてしまってすまなかった」はじめに言うべきだったな、とベレトが言った。
「いえ、驚きはしましたけど……よかったと思います。先生もそうですけど、教会も、騎士団も生徒の安全を守る立場にありますから。知らないより、知っている方が安心でしょう」
「ああ、君に教えてもらったおかげで助かった。ありがとう」
「でも、どうして急にその……あんなことが気になったんですか?」
知識がなければ、滅多に触れることもない話題だろう。外郭の酒場などであれば耳にすることもあるかもしれないが、修道院内であけすけに話す者は少ないはずだ。
「君に釘を刺されたばかりでこんなことを話すのはよくないのかもしれないが……」
一度口を閉じる。彼は少し考えるそぶりを見せた。
「あの子が」
「え?」
「剥がしてしまえればいいのにと」
ザナドでの戦いの後、君を見て呟いていたから気になった。上の空だったから、意味を問うのが躊躇われて……。こちらに聞きに来て正解だった。
と、言うようなことを語っていたような気がするが定かではない。それどころではなかった。ベレトは名前を告げなかった。けれど、誰が言ったのかはすぐに分かった。
「……それで、先生の見解は」
「君たちは共にそうだと」
「違います」
とっさに否定が口をついたが、何を言っても、いっそ何も語らなくても、全て墓穴のような気がした。もう、何が正解かわからない。と言うか、正解なんてないのかも。それでも、とにかく否定するしかない。それくらいしか出来ることがない。
「君が……避けているのは、だから」
「違う、全部違う。先生の見当違いです。おかしいのは僕だけだ」
「ステイシア、落ち着いて」
落ち着けだって?今、目の前に一番の脅威がいるというのに?この男は、ついこの間までただの傭兵だったのだ。王国や彼となんの関わりもないのだから、勘付いたことを秘密にする理由もない。理由もなく、彼を守ってくれる人なのかもわからない。
ちょっと前まで、彼から僕を取り除けば、それでよかった。ひとまずは安心できた。でも、目の前の男はどう切り取ればいいのかわからない。気持ちがざわつく。
気づくと右手がテーブルのナイフに伸びていた。爪が銀色の持ち手を叩いて小さく乾いた音が鳴る。
「やめた方がいい」ベレトが僕を見据えて言う。「それでは俺に届かない」
ずいぶんと静かな声だった。視線も呼吸も発声も、一切が乱れることなく僕を見据えている。
素晴らしい統制。
彼が踊り子であったなら、何時間でも片足で廻り続けられるだろう。そう思えるくらいには美しい姿だった。
それに引き換え、僕の無様さと言ったら……。
息を吸う。
目を閉じて吐き出す。
制御を失えば倒れる。ずっと前から知っているはずなのに、肝心な時に忘れてしまうのはどうしてなのだろう。僕がまだ未熟だからだろうか。後どれほど練習を繰り返したら彼の持つ均整が手に入るだろう。
「ええ……」
意識して右手をナイフから離す。
「あなたのいう通り、本当に……そうですね」
そうだ、こんな小さなナイフで切り取れるわけがない。仮に剣があったとしても届きはしないだろう。彼と僕の技量には途方もない差があるように思う。
「口外したりしない」
「揺すれば金になるかもしれないのに?」
とても信じられないと思った。
「今は雇われ教師だが、元々自分は傭兵だ。雇い主の秘密は守る。雇い主の守っているものも」
「教会に雇われているから、生徒も守るってこと?」
ベレトは静かにうなずいて見せた。彼の言うように傭兵には傭兵の流儀があるのかもしれない。
「……でも怖いんです。どうしよう、先生、不安だ。僕はどうしたらいい?」
気付いたら机に突っ伏していた。額の下では両の手を組んでいたし、祈っているみたいだった。いや、多分、みたいではなく本当にそうだった。こんなに必死に誰かに祈ったのは久しぶりだった。
「信じてほしい」
ベレトの声が聞こえる。
そう、信じる。結局それしかない。つまりは手も足も出ないということ。薬を飲むようなものだ。どうしようもない不安を紛らわせて、なんとか生き存えるしかない。
「君はあの子が大切なんだな」
何と答えればいいのか分からずベレトを見上げると、彼は感情の見えない顔で僕を見下ろしていた。藍色の瞳は澄んでいるようにも、火の消えた谷底のようにも見えた。
これから、この人を信じる……。
途方もない、宗教のようだ。
自分の足の長さを自覚していなければ転んでしまうし、手の大きさを知らなければ抱えた側から取りこぼす。生まれた時から自家用の生を生きているのに、時々忘れてしまうから酷い目に遭うのだろう。
その後、どうやってベレトと別れて帰ってきたのか、正直あまり覚えていない。食事は楽しかった気がするが、今となっては味も曖昧だ。とにかく全部嫌になって、部屋に帰って、すぐ眠ってしまった。
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