あまり天気の良くない日が続いている。久しく太陽を見ていないが夏は着実に近づきつつあるようで、雨が降っても動くと汗が滲む。
 夏の手前のこの時期は、毎年、妙な気分になる。帰りたいわけでもないのに、実家のことを考えたりする。向こうのほうがまだマシだろうか、などと。
 王国では雨季になると、冷たくて糸みたいに細い雨が降る。せっかく訪れた春が死んでいくみたいな肌寒さと静けさ。葬儀が終わるのを黙して待っているようだ、と誰かが言っていた。人によっては辟易する季節らしいのだが、僕はわりと好きだった。
 それに引き換え、修道院の空気の重いこと。湿気のせいなのか、空気まで粘性をもってまとわりついてくるように感じる。息をするのも一苦労だ。ただでさえ最近の修道院内は居心地が悪いのに、とどめを刺された気分。
 どうにか解決策を見出したいのだけれど、未だ画期的なひらめきは得られていない。溜め池の魚を眺めて羨ましがったり、無為なことを続けている。彼らも彼らで過酷な運命だろうに、見る分には悠々と過ごしているように見えるから不思議だ。
 囲まれた枠の中で快適に泳げる代わり僕らに召し上がられてしまうのと、粘度の高い空気を騙し騙し吸い込んで何とか生き存えるのと、どちらが良いか。そう問われれば僕は後者だと思うけれど、実際に耐え忍ばなければならない状況になると、笑ってしまうくらいしんどいから、怒りすら湧く。どちらかしか選べないなんて理不尽な話だ。それとも僕が人一倍、欲張りなのだろうか。


「あなたがステイシア様ですか!お目にかかれて光栄です!」
「おお、これがファーガスの誇る銀の小鳥!いやはや、噂どうりの美しさだ」
 商人だろうか、比較的身なりの良い男たちが僕を前にあれこれと囃し立てている。買物に出かけようと歩いていたら、玄関ホールの手前で捕まった。
 暑くて、雨除けの外套を被らなかったのがいけない。自分の落ち度だから仕方ないとは思っても、不快感が軽減されるわけではないから、なかなかどうして救いがない。
 教会の祭事は一年通して様々あるが、その中でも最大のものが女神再誕の儀だ。毎年、儀式に合わせてガルグ=マク大修道院には各地から信徒が集まる。そして人が集まるということは富が集中するということで、そこに仕事の機会を見出すのだろう、多くの商人もまた修道院を訪れる。おそらく、彼らもそのうちの一部なのだろう。
 しかし、本人を前にしてこれ呼ばわりとは、ずいぶんと度胸がある。意識して微笑んでみせると、男たちも嬉しそうに笑う。
 何の感情も交錯しない交流の虚しさといったらない。同じ人間と対面しているはずなのにな。それとも、同じだということ自体がただの思い込みで、僕は幽霊か何か、人とは別の存在と話をしているのだろうか。そうだったらいっそ気楽だと思って目を伏せると男たちにはちゃんと2本の足が生えていて、嫌味なくらい磨かれた靴を履いていた。
 あーあ。
 僕の生まれた実家は、あけすけにいってしまえば、歴史ばかり長くて力のない貴族、ということになる。王家から下賜された小さな土地にわずかな民。大きな武力を持つことは禁じられ、他所から守役の騎士が派遣されることすらある始末。正直、貴族と呼んでいいのか怪しいところだ。実態としては国に保護されている技術集団という方が近いのだろう。
 たまたま中央教会に見初められたばかりに、王家が多方面に配慮して爵位がついた。ノモスという、僕の家と借り物の土地についた名前には、その程度の意味しかない。家名がついた時、爵位の正当性を担保するのに他の家の血を入れたりもしたらしいけれど、それだって、もう何百年も昔の話だ。今となっては、その血もすっかり薄まって、平民と大差ない。
 大差ないはずなのだけれど、いまだに地位が守られていて、教会で典礼があれば役を与えられたりもする。
 だから、と言っていいのかわからないけれど。
 僕たちのことを、王家に飼われている、という人もいる。
 高貴な者しか手にすることの許されない宝飾品のように扱う人もいる。
 僕らを従えることが地位の証明になると信じている人がいる。
 馬鹿馬鹿しい。他人がそこにいる、それだけのことで一体なにを示そうというのか。自身の価値が、意味が、自由がそんな所にあるはずがない。
 そんなことを考えていると、男の手が伸びてくる。
 何だろう、握手だろうか。嫌だな。
 僕の右手が一瞬引きつる。欲しいものがあるのだろうな、この男が僕に手を伸ばすように。
 いつか、ベレトの言っていたことを思い出した。多分、この人には手が届く。でも、自分の右手がなにを欲しがっているのかは考えないようにした。あまりに乱暴すぎる。
 半歩引いて避けようとすると、その前に誰かが僕の左手を引いた。
 体が傾いて、思わずたたらを踏む。
「ステイシア」
 後ろを振り向こうとすると、その前に青い外套が視界に差し込まれた。
「待たせてすまない。準備に手間取ってしまった」
 ディミトリだ。彼は僕より一歩分前へ出ると視線だけこちらに寄越して言った。なにを言っているのだろう、思わず声が出そうになる僕を制するようにその背で僕の視界を遮った。
「ステイシア、この方達はお前の知り合いか?」
「え?ううん、知らない人……」
「そうか」彼はひとつうなずくと男たちに顔を向ける。「取り込み中のようでしたが、私の連れが何か、失礼を致しましたか?」
 言葉遣いこそ丁寧だったけれど、敬意が含まれているとはとても思えないような低い声だった。彼の背から顔を覗かせると男たちがたじろぐのが見えた。
 商人というのは客の情報に聡いものだ。ガルグ=マクを訪れる以上、今年の士官学校にどの家の子息令嬢が入学したか調べているだろう。級長の外套を誰が纏っているかも知っているはずだ。彼らとは平和的な関係を築きたかっただろうに、こんな、急な嵐みたいに目の前に現れて威嚇されては堪ったものではない。
 商人たちは顔色を悪くして、首を何度も横に振った。
「そうですか」ディミトリが一つ頷く。「ならば、先約がありますので我々はこれで失礼させていただく」
 しどろもどろに言葉を重ねる商人たちを意に介さず、彼は僕の手を掴んで歩き出す。枷でもつけられたみたいにびくともしないから、着いていく他ない。絞首台に連れて行かれる囚人もこんな気持ちなのかも知れないと思った。


 引きづられるまま、門に向かった。行き交う人々とディミトリの頭の向こう、四角く切り抜かれた曇天の空が見える。外は雨だ。そろそろ止まらないと濡れてしまう。
「ねえ、どこまでいくの?」
 揺れる外套の裾を眺めながら声をかけると、程なくしてディミトリが立ち止まる。振り返った彼は何とも言えない顔で眉を寄せていた。
「なにか……怒っている?」
「いや、怒っていない……」
 ディミトリが首を振る。いつまでも逃げ回っていることを怒っているのではないかと思ったけれど、そういうことではないらしい。しかし、一向に手を離してくれない。掴まれたままの左手の感覚がだんだんなくなってきた。
「えっと……じゃあ、困ってる?」
「困ったのは、その……お前の方だろう?」
 どこか萎びた様子でディミトリが言った。
「無理やりこんなところまで連れてきてしまってすまなかった。どこか行くところがあったのではないか?」
 ディミトリは一瞬何かに気づいたのように眉を寄せて手を解いた。油の足りない窓枠みたいにぎこちない動きだった。
「僕はもともと市場に用があったから問題ないよ」離された腕に雨除けの袖を通しながらいう。「早く切り上げられて助かったくらい。むしろ君はここまで来てよかったの?」
「いや、俺も市場に向かっていたから……。つい引っ張ってきてしまったが、引きづり回すだけにならなくてよかったよ」
「へえ、課題の買い出しか何か?」どこかに出かける時は大体ドゥドゥーがそばについている印象があったから、彼が一人で買い物に出かけるというのは少し意外だった。
 僕の問いかけにディミトリは何か思案しているふうであった。聞かない方がよかっただろうか。
「……なあ、さっきの話の続きなのだが」
「ん?」
「一つ、困ったことがあった。どこか、うまい菓子屋を知らないか」
「うまい鍛冶屋?」
「いや、菓子だ。知らないか?」
「え?いや、食べるやつ?あの、甘いやつ……」
「そうだが……、あ、俺じゃないぞ。差し入れなんだ」
「あ、ああ。なるほど?」
 話を聞くに、課題で世話になった級友にお礼をしたいらしい。何でも苦手な作業を代わりに請け負ってくれたのだとか。ディミトリは少し浮き足立つような様子で語った。彼の顔を眺めていたら、その級友と仲良くなりたいのだろうな、という考えがふと浮かんだ。何故、急にそんなことを思いついたのだろうと少し考える。
 何だっけ。
 前にも見たことがあるような。
 ああ、そう。多分。
 もうずいぶん前だ、まだ王国で暮らしていた頃。彼が兄弟子に悪戯を仕掛けると言って秘密の作戦をこっそり教えてくれた。あの時の顔に少し似ている。頬が紅潮して、期待と不安が込められた瞳はキラキラ光って見えた。実を言うと、当時の僕は彼が本当は女の子なんじゃないかと疑っていたから、その疑念も相まって印象的な光景だった。初心な少女の絵を描いて欲しいと画家に頼んだら、多分この光景になるだろうと子供心に思ったくらいには、可愛らしかったから。
 懐かしいな。
 どこかにやってしまった耳飾りの片割れがポケットから出てきた時のような、予期せぬ喜びを感じて口元が緩む。咄嗟に、雨除けのフードをかぶるフリをして下を向いた。急に笑った理由を聞かれても、うまく説明できる気がしないから、こっそりしていよう。
「じゃあ、とっておきに案内するよ」
「いいのか?」
「うん、助けてもらったし。それに僕、君と先約があるんでしょう?」
「そういえば、そんな話だったな」と呟く彼の顔は幾分か明るい色になっていた。


 菓子屋についたディミトリは物珍しそうにあちこち品物を見回している。ほう、だとか、へえ、だとか感嘆詞をいちいち呟くのもなんだか面白い。大きな背中を丸めて細やかな品々を吟味する姿が妙に微笑ましくて、僕まで珍しいものを見ているなと言う気持ちになった。
「贈り物は決まりそう?」
「砂糖菓子を……と思ったのだが、ずいぶんと種類があるんだな」
「作業の後に摘むなら焼き菓子とかいいんじゃないかな、食べやすくて」
「なるほど……この辺りか?」ディミトリが陳列棚を指差す。
「うん、美味しそう」
 ディミトリはきょとんとした顔で僕を見た後、ふふと笑った。
「え、なに、どうしたの」
「いや、なんでもない。なんでもないだ。ただちょっと……、ふふふ、お前も甘いものが好きなんだな」
「そりゃあ、まあ、うん。君にお店を紹介できるくらいには好き。よかったね、僕が甘党で」
「ああ、感謝しているよ。……ほら、ステイシア、こちらも造形が見事だな。花……、バラだろうか」
 ディミトリの指す方を見ると、確かにバラの形をした焼き菓子が並んでいる。表面に白い粉砂糖がまぶされていて、なかなか豪奢な逸品だった。
「ええ、お客様、そちらは白薔薇です」奥にいた店主が出てきて答える。「花冠の節限定、おすすめですよ」
「店主さん、こんにちは。白いお砂糖なんて久しぶりに見ました。すごいですね」
店主はよくぞ聞いてくれたとばかりに頷く。
「ええ、来節は再誕の儀があるでしょう?外からお客様がたくさん来るものだから、何か目玉商品をと思いまして。それはもう張り切りました。その分、値段もちょっと強気……」でも意外と売れ行きがいいんですよ、と店主が笑う。「ステイシアさん、今節のご褒美にいかがですか」
「ご褒美?」横でディミトリが首を傾げる。
「ええ、お仕事のご褒美にと、よく足を運んでいただいております。ご贔屓いただきましてありがたい限りです」
 前節はこちらをお買い上げいただいて、だとか、以前もらった試作品の感想が、だとか、よく覚えているなと感心するような日々の細事を店主はつらつらと語る。
「えっと、その話はちょっと」
 話の中の僕が、なんだかお菓子に目がないヤツのように聞こえて恥ずかしくなってきた。確かに疲れた時に甘いものが食べたいと思うけれど、語られるほど食欲に溺れてはいないはず。
「おや、これは失礼。お連れ様といらっしゃるのが珍しくて、つい色々とおしゃべりをしてしまいました」
 ゆっくり選んでくださいねと言い残して、店主は店の奥に戻っていった。
「すっかり常連のようだな?」ディミトリが僕を横目で見ながら言った。声が少し笑っている。からかわれているようだ。
「君、僕のことお菓子狂いだと思ってる?毎週のようにきてるわけじゃないよ?時々だよ?」
「ここがとっておきになる程度の頻度ということだろう?分かっているさ」
「うーん、その理解は望ましくないかも」
 ディミトリがくつくつと肩を揺らす。思えば先ほどから彼はずっと笑っている気がする。
 通い慣れた店内がなんだか急に居心地悪く思えてきて、出入り口の方へじりじりと数歩下がる。
「僕が常連かはさておき、ここのはなんでも美味しいから、あとは君の好みで選んだらいいよ」
 僕の様子に、彼は眉尻を下げた。一緒に目も細まり、しかし口角は上がったまま。
 この顔も前に見たことがある。まだ僕らが半分くらいの背丈だった頃、友人に駄々をこねられるとディミトリは決まって同じ顔で笑っていた。
 別にわがままを言っているわけでも何でもないのに、幼子をあやすみたいな顔を向けられるのは正直心外だ。なんだか僕が彼を困らせているみたいで余計に居た堪れない。
「すまない、そう拗ねないでくれ」
「拗ねてない」
「なあ」
「拗ねてないってば」
 ディミトリがまた、ふふと笑う。
「ああ、分かったよ。じゃあ、会計をしてくるから少し待っていてくれ」そう言って彼は店主に声をかけに行った。
「……なんだっていうんだ、もう」
 調子が狂う。落ちつこうと息を吸うとバターや砂糖の匂いがした。普段なら心躍る香りだけれど、どうにも気分がふわついてよくない。
 もっと重たい空気を吸って落ち着いたほうがいい。そう思って外へ向かう。
 今日は雨だからきっと丁度良いだろう。


 店の軒下で待っていると、バタバタと足音が聞こえてきて、店の戸が大きく開く。驚いてそちらを見るとディミトリが外に飛び出して来るのが見えた。
「びっくりした……。どうしたの?」
 声をかけると彼は目を丸くして僕の方を見る。
「いや、お前が居ないものだから……」
「ごめんだけど、流石に置いて帰ったりしないよ」
 ずいぶん信用がないらしい。それもそうか、大体僕には前科がある。それに修道院でも散々逃げ回っているのだから、またかと思われても仕方がない。
「贈り物、買えてよかったね」気まずさをごまかすように笑いかける。「さて、これで目標達成だけど、君はどうする?そろそろ帰る?」
「なぜだ?」首を傾げてディミトリが言った。
「だってそれ、差し入れなんでしょ?友達が待ってるんじゃない?」
「それはそうだが……、お前も何か用事があるのだろう。何を買う予定だったんだ?」
「僕はお茶。飲んでいるのがそろそろなくなるから」
「茶葉か……、それにも行きつけが?」
「いや、そんなにこだわりはないから、飲めれば何でもだし、店もどこでも」
 答えると、ディミトリは何か思案するように顎に手を当てた。
「なら、ここに来る道すがら店があっただろう?良ければ一緒に行こう」
「でも雨、止みそうにないし」軒先から空を覗くと修道院を出た時より濃い灰色が見えた。「先に帰ったほうがいいんじゃない?」
 土砂降りの中、彼を連れ回すようなことになればドゥドゥーに怒られるだろう。
「いや、ここまで付き合せておいて一人帰らせるわけにはいかない」
「別に知らない街でもないし、気にしなくていいよ」
「俺は気にする」ディミトリが首を振る。「それに目的だけ果たして現地解散では、その、味気ないだろう?」
「そういうものなの?」
「ああ、そういうものらしい」
 自信なさげにディミトリが頷く。誰かに妙な入れ知恵をされたのだろうということは、なんとなく察せられた。


 結局、最後まで付き合わせてしまった。
 空模様の通り、雨脚が徐々に強まってきていた。修道院に続く上り坂を進んでいると、時々人とすれ違うが、誰もこちらに見向きもしない。濡れた街路には水たまりが点々と散らばっていて、彼らはそれを避けるように俯いたまま通り過ぎていく。
「本格的に降ってきたな」
 ディミトリがいう。僕は頷いて返した。
 雨が地面や草木、屋根を打つ音が絶え間なく響いていて僕たちを取り囲んでいる。ずいぶん賑やかなはずなのに、静かだと感じることが不思議だった。
 もしかして、と思う。
 ここ最近の懸念を彼に尋ねるなら、それは今なのではないか。僕は生唾を飲み込んだ。
「その……ディミトリはさ、最近身の回りで変なこととか、体調悪くなったりとか、してない?」
「何も悪くなってはいないが……、それはどういう?」
 横を歩いていた彼は立ち止まって僕を見る。
「この前先生に聞かれて……。ごめん、うまく誤魔化せなかった」
「え?あ、ああ、なるほど……」彼は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐ、合点がいった様に頷いた。「食堂のあれはそういうことだったのか」
「見ていたの?」
「いや、えっと……すまない」気まずそうな顔で目を逸らされる。
「別に構わないけど……」
 彼の視線の行き先に目を向けると、遠く、雨に霞む修道院が見えた。
「先生は黙っていてくれるって言ったけど、でも……ごめん。学校、始まったばかりなのに……」
「気を使わせてしまったな……。だが、心配しなくていい。何も起きていないよ。いつもどおりに過ごせている」
「うん……でも、気をつけて。窮屈だろうけど、あまり迂闊なことはしないでほしい」
 例えば、今とか。
 最後の言葉を飲み込んで、代わりに「もう行こう」とディミトリを促した。
 どちらかがおかしくなった時、恐らく僕は彼を助けられないだろう。それどころか危害を加えることさえあるかもしてない。だから、あまり近づかないほうがいい。風景みたいに、眺めていずれ通り過ぎていくものでありたい。
 だって、きっと窮屈な王都。ままならない日々。僕を囲んだ商人みたいに、幽霊の方がマシだと思う様な人間たち。そういうものを抜けて、やっとここまできたのだ。幼馴染みたちがいて、新しい友人ができて、僕が懐かしいと思った顔は、もしかしたら懐かしくなくなるかもしれない。見慣れるかもしれない。普通の男の子みたいなディミトリ。
 その時間は一年しかないのに、わざわざ壊してやりたいだなんて思わない。
 そう、だから、今はとてもおかしい。
 どうして僕は彼を誘ったのだろう。店の場所を伝えるだけでもよかったはずだ。それに、なぜディミトリは僕を遠ざけようとしないのか。
 抜身の剣があれば鞘に収めるだろうし、地面に穴が開いていれば避けるなり、埋めるなりするだろう。危険なものは遠ざける。それが普通だ。誰だってひどい目には会いたくない。
 後ろから濡れた地面を踏み締める音がする。僕よりもゆっくりした歩調だ。
 ディミトリは僕を遠ざけない。抜き去りもしない。ただ同じ速度で歩いていく。
 彼の一歩が僕よりずっと大きいことを知っている。だから、わざわざ歩調を合わせているのだ。きっととても歩きにくい思いをしているだろう。
 味気ないからと彼は言ったが、それの何がいけないのか。あえて危ない側に近づくほどの益があるとは、僕にはとても思えない。
「……ステイシア」
「なに?」
 一つ水たまりを飛び越えたところで、後ろの足音が消えていることに気づいた。振り返ると、ディミトリは僕の飛び越えた水たまりの辺りを眺め立っている。俯いた顔にフードの影がさして表情は見えない。
「どうしたの?」
 声をかけるが彼は押し黙っている。来た道を戻るとバシャンと足元で一つ大きな音が鳴る。
 足元を見る。
 水面が揺れている。
 水に突っ込んだ足が作った波で自分の影がぐにゃぐにゃに歪む。
 広がる波紋と飛沫が水際に立つディミトリの爪先に届いた。
 ああ、濡れちゃった。
 しかし、もうずっと前から濡れている。
 でも、それでいいのか?
 近づきすぎない方がいい、とさっき決めたばかりの言葉が頭に浮かんだ。
 忘れないように、と影の口が動いた気がした。
 息を吸う。
「ごめん」
 水たまりを踏んだ足を一歩引き戻した。
 それをきっと彼も見ていただろう。
「なあ」頭の上から声がする。
 言ったところで信じてもらえないかもしれないが、と彼は前置きをした。
「……俺はもう、大丈夫だ。体調は崩さないように備えているし、その……うまくやれていると思う。お前を危険に晒すようなことはしないと誓える」
 不思議なことを言っているなと思って僕は首を振った。
「そんなこと誓ってくれなくていいよ」
「だがお前は……俺を恐れているだろう?」
「君を怖いと思ったことは一度もない」
「それならなぜ……」
 ディミトリは何か迷うように言い淀む。
「お前は俺を避けている。……あの日、俺がお前を傷つけたのだろう?だからお前は――」
「待って」
 彼の言葉は予想外で、僕は咄嗟に遮った。
 傷つけた?彼が僕を?
 そんなはずはない。そんな事実はない。だって、あの悪夢みたいな夜のことを僕は覚えている。
 ならばなぜ、ディミトリはこんな可笑しなことを言うのか。
 嫌な感じがした。喉がひりひりする。
「……もしかして覚えていないの?」
 見上げると被ったフードの奥、見開かれた瞳と目が合う。
 薄く開いた口。
 短く息を吸う音。
 言葉を待った。
 否定して、
 頼むから、
 どんなに口汚い言葉で罵られてもいい。
 フードの際、雨粒達が寄り集まって膨らんでいくのが見えた。雫が大きくなるたび、落ちる瀬戸際でまごつくように震える。それはフードにぶつかる雨粒の振動だったかもしれないし、彼自身のものだったかもしれない。
 いつの間にかディミトリは口を閉ざしていた。それどころか眉間には深いシワが刻まれ、目は何かをこらえるように細められる。
 頼むから……。
 ついに両の目が固く閉じられた。喉が一度動く。何か、ずいぶんと重たいものを飲み込んだように見えた。
「……すまない」
 雨音の向こうで彼の声が小さく聞こえた。

 ああ、そうかあ。

 僕は呟いたと思う。気づいたら口元がそのように動いていたから。彼に声が届いたのかは分からない。僕たちを打つ雨音がずっと耳元で鳴っている。
「……君は、僕を避けようとしなかった。だから、なんでだろうって、ずっと不思議だった」
 喉がひどく痛くて言葉に詰まる。もっと何か言わなければと思ったとき、最初に出てきたのは小さな笑い声だった。
 楽しかったわけではない。何かずっと張り詰めていたものが急速に萎んでいくような心地だった。
 悲しい。
 多分、悲しかった。
 悲しいことを忘れたかった。だってこれは僕のしでかした事で、それを悲しいだなんてあまりにも無責任だから。
 彼が何も覚えていないのなら、僕はただ置いていっただけ。
「あの日、君は何もしなかったよ」
 傷だらけの小さな男の子だった。手を握って、一人にしないでと泣いていた。孤独を恐れていた。寂しがっていた。それなのに、四年間、僕は逃げ続けた。
「ただ、大丈夫だと言って僕の手を握ってくれた」
 それから、手を離さないでと言ったのだ。その意味を、本当はわかっていた。
 何があってもそばにいてと、どれほど酷いことが起ころうと、たとえそれが僕自身の手によるものだとしても、逃げないで、受け入れろと、君はそう言ったのだ。わかっていたのに……。
「君を踏みにじったのは僕だ」
 だって君は受け入れてくれた。僕はそうではない。自分のしたことが恐ろしくて、気持ち悪くて、逃げた。
「ごめん」
 潰れそうだと思った。打ち付ける雨の勢いで肩も頭も重い。
 本当は走って逃げ去ってしまいたかった。けれど、それでどうする?また置き去りにするのか、そう思うと、どうしても足が動かせない。
 見下ろす足元、水面は雨の勢いでさざめき立つ。僕の滑稽さを笑っている、もしくは咎められている。そんな気がした。
 馬鹿だなあ。
 この重さは雨のせいではない。
 生きているから。
 まとわりついて引き剥がせないから。
 ずっと重い。これから先、もっとずっと重くなっていくのだろう。
「ステイシア……」
 戸惑うような、小さな声で名前を呼ばれる。もしかしたら震えてすらいたかもしれない。けれど、見上げることなんてできない。あわせる顔が無い。
「すまない。お前にだけ、ずっと背負わせてしまっていたんだな……。なんと言ったらいいのか、その……どうか、もう気に病まないでほしい。俺は覚えていないのだから」
 僕は首を振った。
 謝ってなんか欲しくない。覚えていないからといって、僕のしたことが、その事実がなくなるわけではない。だから、軽蔑するとでも言って、立ち去ってくれればいい。
 それで十分なのに。
「雨がひどい。もう帰ろう」
 視界にディミトリの右手が差し出される。また、のろのろと首を振る。
 どうして捨て置いてくれないのだろう。
「……帰ろうステイシア」
 柔い声が聞こえて、ディミトリが僕の手首に触れる。今度は簡単に振り払えてしまえるくらい弱々しい力で手を引かれた。
 つっぱねる気概もなければ、自分から手を取る覚悟もないのだから救いようがない。これでは本当に駄々をこねるだけの子供だ。
 手を引かれるまま歩いていく。彼はまた、幼子をあやすようなあの顔で笑っているのだろうか。
 もう何も考えたくなくて、目を閉じた。雨と、水たまりを踏む足音だけがずっと聞こえていた。


 修道院の門を抜けたところでディミトリと別れた。何事か、言葉を交わした気がするけれど、とても覚えていられなかった。身体中が水を吸ったみたいに重かった。
 何とか宿舎の自室まで戻ってきて、雨除けを床に投げ捨てる。湿って重たい音がした。干したほうがいい、せめてどこかに引っ掛けるべきだと考えたけれど、足が一直線にベットへ向かっていくから、実行に移すことはできなかった。
 ベットの前に膝をつく。そのまま顔を毛布に埋めた。肩から鞄の紐がずれ下がり、僕の横に落下する。中からがさりと音がした。その音で、そういえば茶葉を買ったのだ、ということを思い出した。もうずいぶんと前の出来事のように思えた。
 顔を埋めたまま、足元に手を伸ばしてブーツの靴紐を片足ずつ解いていく。当たり前だけれど、様子が見えないから作業に手間取る。じっとりと濡れた紐が何度も手の甲を撫でて気持ちが悪かった。
 とにかく全てが億劫で、最後は無理やり足をブーツから引っ張り出してベットに這い上がった。シャツに手をかけて一つ二つボタンを外す。あとは頭から引き抜き、ベットに端に適当に放った。
 毛布を体に巻き付け、横になる。
 思ったよりシーツが冷たくて体が震えた。ずっと雨空の下にいたから冷えたかもしれない。風呂に行くなり、何か温かいものを飲むなりしたほうがいい。きっとそのほうが明日元気でいられるだろう。そう思ったけれど、僕はそのまま毛布を握って丸まった。
 僕の頭の中に前向きな奴がいて、そいつが僕を建設的な方へ連れて行こうとする。何かをしたほうがいいとか、今の状態から浮上するにはどうしたらいいとか。
 つまり僕が生きていて、明日も生きているだろうから、この先もずっと続いていくだろうから、せめて少しでもマシな方へ、生きやすい方へ行こうという、生存本能じみた働きなんだろうけれど、こんな機能をつけた奴が憎らしかった。
 明日のことなんて考えたくない。
 このままシーツと同じくらい冷たくなって目が覚めなくたって良い。
風が出てきたようで窓がガタガタと震えている。それからざあざあと流れるような雨音。時々、雨樋かどこかにぶつかって変な高音が響く。
 あの夜もこんなだった。
 思い出さないほうがいいよ、と建設的な僕が言っている。
 それはそうだろう。
 けれど何もかもうまくいかない日というのがあるわけで、おそらく今日がそうなのだ。
硬く目を閉じて息を吐いた。
 どうせ落ちるならとことん落ちたほうがいい。中途半端に生き存えるから、長く苦しむ羽目になる。


目次next→