眠る前のお祈りをしていた。
窓辺に座って手を組んで、女神の星を探すところから始める。よく晴れた夜だった。月が出ていてたけれど、それ以上に青く輝く星が明るかったから見つけるのは簡単だった。
お決まりの祈りの文句を唱えた後、頭の中で願い事をする。明日も晴れますようにだとか、温室の花が咲きますようにだとか、叶っても叶わなくても構わないことをお願いするのが日課だった。叶えばなんとなく幸せになれたし、叶わなくても別に悲しくない。
子供染みたおまじないだったけれど、事実、僕は子供だったし、それで表面上、日々の平穏は保たれた。
けれど、その日はお願いができなかった。
窓が急にビリビリと震える。
大きな羽音。
窓を開けると冷たい風が吹き込んでカーテンが大きくはためく。月明かりを抱えて膨らむ白色の向こう、何か巨大な影が横切っていった。
なんだ?飛竜?
急いで視界を塞ぐそれを払い除け、窓枠から身を乗り出す。槍の穂先みたいな木々の影が見えるだけですでに生き物の姿はない。それでも、玄関の方から吠えるような鳴き声が聞こえてきて、やっぱり竜だと思った。
にわかに屋敷内が騒がしくなる。
物音を立てないように自室の扉まで移動して外に出た。僕の部屋は屋敷の2階で、部屋の前は玄関ホールの階段まで続く長い廊下になっている。特に僕の部屋は階段に一番近いから下階の様子を伺うのは簡単だった。
侍女が開けた木戸から兵士が転がり込んでくる。鎧に刻まれた紋が見えた。ノモスの家のものではない。ブレーダット家、王家の紋章だった。
「国王陛下襲撃!被害甚大につき、直ちに救援を求む!」
兵士の悲鳴じみた叫び声が響き、それは他の者にも伝播して屋敷中に広がった。
陛下は会談のため、隣国のダスカーへ向かっていた。それには僕の兄も同行していた。通訳としてだ。
僕の家はダスカーに近い。行程的には言うほど近くないが、それでも時々ダスカーからの商人が街を訪れていた。ノモスの街は山中にあって、建物は皆んな足元が石、他は木だ。どちらを切り出すにもダスカーで作られる大工道具が重宝された。
兄は領主である父の補佐をしていたから、商人達と随分交流があるようだった。個人的な興味もあったのだろう。工芸品を買い求めることもあったし、彼らの言葉を書き留めたりもしていた。
家を出る前の兄の顔を思い出す。彼は笑っていた。嬉しそうな、もしくは何かを期待するような、そんな笑顔だった。
大丈夫、きっと、全てうまくいく。この国は変わるよ。
そう言って僕の頭を撫でた。
兄がちゃんと笑っている姿を見るのは久しぶりだったから、僕はよかったなあ、と思ったのだ。
それなのに。
階下で大人たちが慌ただしく動き始める中、部屋に戻った。
開けっぱなしだった窓から樋を伝って外に出る。音を立てないように気をつけて地面に降りた。そのまま、屋敷の外壁に沿って南に移動すると、程なくして正面玄関前の広場に出る。
遠目に玄関の方を見ると、開け放たれた扉からオレンジ色の光が漏れていて、扉の手前に伏せた竜の姿をぼんやりと照らしていた。竜は腹這いの姿勢で首を下ろし、微動だにしない。
こんな夜更けに飛んできたのだ。もしかしたら疲れているのかもしれない。
広場を突っ切って見つかるわけにもいかないので、周りを迂回するように、植え込みの間を身をかがめて進む。ここを抜ければ厩舎に着く。
あと少しで広場を抜けるというところで、グルル、と低い音が聞こえた。振り返ると竜が首をもたげてこちらを見ていた。
金色の目。
縦長の瞳孔が開く。
吠えられたらお終いだ。
息を止める。
お願い、行かせてほしい。心の中で何度も唱えた。
ここで待っているだけなんて、絶対に嫌だ!
どのくらいそうしていたか、背中に汗が伝った時、ふいと竜は僕から目を逸らした。首が下げられ、丸まるような姿勢になると尻尾の先が一度だけ地面を叩いた。
息を吐く。
少しだけ後退り、その後は振り返らず厩舎まで走った。
父は医師だった。祖父もそう。祖父は当時、体の弱かった祖母の主治医としてノモスにやってきて、そのまま婿養子になった。僕は会ったことがないけれど、なかなか破天荒な人だったようで、私財を投げ打って温室を建てると、そこを祖母のための薬草園にした。祖父は弟子たちを呼び寄せ、そのうちの一人、つまり父を自分の娘の婿にするように、王家と教会に推したらしい。温室の世話を一番熱心にしていたからというのがその理由だったのだとか。
ノモスにはほとんど兵がいない。けれど、薬がある、医者がいる。教会関係者が多いから、治癒術が扱えるものもそこそこいる。
だから、わざわざ飛竜を飛ばしてまで助けを呼びに来たのだろう。
きっと父は部下を連れてすぐダスカーへ向かうはずだ。
そう考えて、荷馬車の奥、予備の幌布の下に潜っていると、思った通りすぐ周りが騒がしくなり、詰め込まれる荷物で何度か荷台の底が揺れた。人もいくらか乗り込んだようだった。
御者の声がして馬車が動き出す。先ほどよりも激しい揺れと馬の嗎が聞こえた。
心臓が早鐘みたいに鳴っていた。
その音が外に聞こえないよう、丸くなって息を詰める。
目を閉じた。
ダスカーに着いて行ったって何もできない、邪魔になるだけだ。
それはわかっていたけれど、じっとしていたくなかった。
ただ、兄を見つけたかった。
もう家族の誰かがいなくなるのは嫌だったから。
何時間も蹲っているように思えたけれど、外に引き摺り出された時、辺りはまだ夜だった。
これでもかと叱責を受け、「ごめんなさい」と「帰らない」を交互に繰り返す。屋敷からの使いが馬で追いかけてきていたから、僕はそちらに乗せられて無理やりにでも屋敷に連れ戻されると思っていた。しかし、意外なことに父は同行を許可した。
「家に帰ったら、母さんに心配をかけたことをきちんと謝りなさい」来た道を戻っていく馬を見送りながら父は静かに言った。「それから、何を見ることになっても受け止めなさい。泣いても吐いても構わないが己で対処しなければならない。あそこでは血を流している者が最優先だ。分かるな?」
頷き返すと父は北の空を見た。
濃紺のビロードみたいな空の裾、山脈の影を縁取る赤が揺れていた。
朝日はまだ遠いはずなのに。
首の後ろがざわざわした。見ていると落ち着かなくなるような。それなのに、どうしてだかとても美しいと思ったのを覚えている。
襲撃の現場に着いたとき、すでに兄の姿はなかった。
そこかしこから炎まじりの黒煙が立ちのぼり、何かの爆ぜる音が絶え間なく聞こえる。毛皮の焼けたような匂いが漂っていた。
喉を指で突かれたような心地がして苦しかったけれど、息を吸っても吐いても同じ匂いがするから、そのうち何も分からなくなった。
馬車の骨組みだったのだろう、金属でできた箱型の枠が黒くすすけて幾つか転がっていた。所々ひしゃげている。近くには馬の死骸。ほとんど炭化しているが、辛うじて燃え残った骨格でそうだと分かった。
折れた剣や槍、えぐられた地面。あとは大量の灰と黒く燃え残った何かがそこら中に散らばっている。
なぜ人の形がないのだろう、と考えたところで僕は吐いた。
「治療部隊はこちらへ!急げ!」
遠くから誰かの必死な声。
生存者は、
陛下、
誰も、
殿下が!
一人しか、
いいから走れ!
いろいろな声が聞こえた。でも、ほとんど意味はわからなかった。
顔を上げると皆んなの背中が見える。
顔を下げると自分のぶちまけたものが見えた。
地面を蹴って土を被せる。たくさんの灰が混ざった。
爪先にも灰と煤がこびり付いている。
兄さんがいない。
でも、僕の被せたもの、僕が踏みつけたもの、そのどれかが彼だったかもしれない。いや、どれもが。
なにを呪えばいい。
違う、
なになら呪わずにいられるのか。
陛下の一団のうち、結局、五体満足で生存出来たのは一人だけで、それは陛下の息子、つまりはディミトリだけだった。彼がここにいる理由が分からなくて酷く狼狽たことを覚えている。陛下は、たった一人の後継者である彼をなぜ今回の会談に同行させたのだろう。父なら何か知っているだろうかと考えたが、みんなが慌ただしく動き回る中、終ぞ聞くことはできなかった。
到着直後こそ、ディミトリ以外にも息のある者がいたようだが数刻のうちに皆、息絶えた。次の日の夜、遺体はすべて火葬された。あまりに損傷が激しく、そのままにはしておけなかったからだ。
火葬は襲撃のあった場所からほど近くの町、いや、町だった場所で行われた。
一番郊外に建っていた家屋の、木板で葺かれた屋根を落とし、家の中を打ち壊し、窓や戸を土で塞いだ。中に遺体を納めて火を放つ。
誰かが嗚咽を漏らし、誰かが怒りに打ち震え、誰かは唖然としていた。
その全てを置き去りにして、黒煙が高く空に登っていく。
夜が明け、日が登り、風が吹く。
揺れる黒煙の向こう、晴れ渡る空に星が見えた。
白い染みのような。
空が青いとこんな風に見えるのか、とぼんやり考えた。
ダスカーに来て二週間が経とうとしていた。王国から毎日のように部隊が到着する。やってくる兵士は皆んな怒り狂っていた。
始めの頃は、誰かわからないが陛下を襲ったものを許さない、と話していたのが、陛下に反感を抱く誰かが、という話になり、直に、ダスカー人が王国を欺き陛下を殺めたという論調に変わった。
いまだ犯人は見つかっていないのに、気づくとその論が多くの人にとって真実になっていた。きっと皆んな本当は誰が犯人かなんてどうでもいいのだろう。とても恐ろしいことが起きて、悲しくて苦しくて、この理不尽な仕打ちを何かで清算したい。そういう真っ黒な衝動だけが日に日に膨らんでいくようだった。
多分、それが弾けるとああして煙になって立ち昇る。
医務室として使われている部屋の一室、開けた鎧戸の向こうにそれが見えた。
「煙くて敵わない。窓を閉めてくれ」と兵士が言った。
「風向きは逆だから気のせいですよ」差し出された腕に包帯を巻きながら答えた。
ここ数日、怪我をした兵士に包帯を巻き、その人が出ていくとまた別の兵士が来て包帯を巻き、また別の……ということをずっと繰り返している。
「はい、これでおしまいです」
「ありがとう」兵士が逆の手を僕の頭に乗せた。「まだ小さいのに立派なもんだ」
兵士が立ち上がる。
「亡き陛下のためにも、早くあの悪魔どもを打ち払わなければいけないな」
そう言って彼は部屋を出て行った。みんな大体似たようなことを言う。
僕は自分の右手を眺めた。
包帯を巻くのは立派だろうか。これは陛下のためだろうか。よく分からない。ここに来てから、いろいろなことがよく分からない。ただ兄さんを見つけたかっただけなのに。でも、多分もう見つけられない。何もかもが燃え尽きた。それでもまだ火が灯される。焼べられていく。
何が、ということが判別できない。
つまり、すべてが。
怒鳴り声が聞こえて顔を上げた。窓から外の様子を伺うと上階の窓が開いていて、そこから言い争う声が聞こえる。ディミトリとギュスタブ殿の声だった。
何か割れる音。
程なくして父の部下がやってきた。「ステイシア、ちょっと来てくれ」
四肢こそ欠けずにいたもののディミトリの怪我は酷いものだった。一時は術師が交代で治療を行い続けなければならないほどだった。
なんとか一命はとりとめて、彼の持つ紋章の影響もあるのか、容体は順調に回復しつつある。今は会話もできるし、多少は体も動くようだ。けれど、ギュスタブ殿は彼を決して外に出そうとしなかった。
「離せギュスタブ!早く、早く止めないと!殺してはいけない!」
部屋の戸を開けると悲鳴みたいな叫び声が聞こえた。ギュスタブ殿の丸まった背中が見え、その向こうで毛布がうごめいている。寝台の足元には水が広がり、陶器の破片が散らばっていた。水差しが割れたのだろう。開かれた窓の向こうには、やはり黒い煙が見えた。
「なりません殿下、御身体に障ります」
「そんなことはどうでもいい!」
ギュスタブ殿に寝台に押し込まれながらディミトリが叫んだ。
「……いいわけないよ」
戸口の前で呟くと部屋が一瞬静かになる。僕は俯いていた。父の部下が僕の背を押す。のろのろと寝台まで歩いた。濡れた床の前で一度振り返る。開いたままの扉の先に僕を連れてきた人の姿はもうなかった。
「……ステイシア」
ディミトリの声が聞こえて濡れた床を踏んだ。寝台の横に立つと彼は悲しそうな顔をしていた。僕も悲しかった。
ディミトリが暴れると決まって僕か父が呼ばれる。そうすれば彼が大人しくなるとみんな知っているのだ。きっと、兄さんが死んだから。ディミトリのせいではない。けれど、彼にとっては痛いのだ。動けなくなってしまうほど、体ではなく心が。
誰がこんな酷いことを思い付いたのだろう。けれど、それに従っている僕も、きっと同罪だ。
「ステイシア、彼らは何もしていない、違うんだ……」
「うん、わかってる。わかってるからディミトリ、休もう?また傷が開いちゃうよ……」
「でも、俺、止めなきゃ、俺が止めないと……」
包帯まみれの手を握った。言うべき言葉が見つからなかったからだ。
今更、ディミトリがダスカー人の関与を否定したところでもう兵は止まらないだろう。女神と我が王に代わり、大罪人に罰を。それが彼らの口癖になっていた。そんな人が何百もいるのに、ディミトリが一人叫んだところで声は掻き消されるだろう。見つからなくなるだろう。誰も彼の悲鳴を聞き分けられない。
背後で数人の足音が聞こえていた。きっと、術師がきたのだろう。魔法で眠らせるのだ。王家の紋章を持つ者はもうディミトリしかいない。万が一にでも死なれては困るから、大人達はみんな必死だった。
僕に何ができるだろうと考えた。
多分本当は、怒らなければならないのだ。ディミトリが痛い思いをしなくていいように、怒るべき先に正しく怒りを向けなければならない。けれど、それはどこにいるのだろう。ダスカーの人々が無実だとすれば、何に怒ればいい?
大人たちが恐れていたことが起きた。ディミトリが部屋を抜け出した。そして、ダスカー人を庇って背中を切られた。
ギュスタブ殿が顔面蒼白で彼を運び込んできたとき、医務室は一時騒然とした。父は吠えるように延々指示を飛ばし、薬や包帯、大量のお湯が部屋に運び込まれていく。術師がひっきりなしに出入りし、とても足手まといが居座れる隙間はなかった。
初め、廊下に立ち尽くしていたら邪魔だと叱られて、近くの空き部屋に入った。部屋の戸を開けっぱなしにしてその横に座り込む。いろんな人が怒鳴ったり、走り回ったりする音が聞こえる。
目を瞑って、ずっとその音を聞いていた。
どのくらいそうしていただろう。
部屋の前を通り過ぎていく足音が聞こえて目を開けた。
辺りはいつの間にか暗くなっていて、窓の先、四角く切り取られた空は重たい色の雲にほとんど浸食されていた。黒く沈んだ山の影と雲の間、細くできた隙間から赤紫の夕日が滲む。開かれた窓から吹き込む風は煤けた匂いと微かに雨の匂いがした。
足音はだんだん遠ざかっていく。二人分だ。大きい足音と小さい足音。
小さい足音は子供のものだと思った。けれど、この拠点でそんな音が出せるのは僕かディミトリしかいない。いったい誰が、と考えたとき、はたと気が付く。
ディミトリが庇ったダスカー人。
確かギュスタブ殿がディミトリと一緒に連れてきていたはず。僕と同じか、少し背の高いくらいの少年だった。
廊下に顔を出すと人影はなく、ただ薄暗い通路が奥まで伸びているだけだった。突き当たりは影に沈んで真っ暗だ。あの先には地下に続く階段がある。もともとは、この拠点に住んでいた人たちが物資を貯めておくのに使っていた部屋だった。今はもう、中身は全て運び出されていたから、ただ寒いだけのがらんどうのはず。
嫌な感じがして僕は暗がりの方へ歩いた。どうせ他にできることもなかった。
期待することはだいたい叶わないのに、嫌な予感は当たるから女神様は意地悪だと思う。それとも酷い目に合わないように警告を与えてくれたのを、僕が聞かなかっただけだろうか。逃げたらよかっただろうか。でも、逃げても後悔しただろうから、きっと、仕方なかったのだ。
「悪魔を助けるなら、お前も同罪だ!地獄へ落ちろ!」
首を締められて息が出来ない。
首にまわる男の指は僕のものとは比べ物にならないくらい太くて硬く、必死に爪を立ててもびくともしない。石みたいだった。頭の上でずっと何か怒鳴られているけれど、何を言われているのかよくわからない。言葉はわかるはずなのに意味が飲み込めない。耳の奥ではずっと、何かが轟々と渦巻く音がする。破裂しそうだと思った。
苦しい。
苦しい。
僕は死ぬのかな。多分、死ぬのだろうな。
どうして、殺されてしまうのだろう。
ダスカー人を助けたから?ダスカー人が悪魔だから?
でも……、
ディミトリは、違うと言っていた。
兄は彼らを勤勉な職人だと言った。
街の大工は彼らの作った道具を、磨かれたノミやカンナの刃、その輝きを愛していた。
知らない音楽、踊り、鮮やかな織物。僕が美しいと思った沢山のもの。
それが悪魔に魅入られていた、と言うことだろうか。
視界が霞む。
必死に目を開けているのに、世界が端からだんだん暗くなっていくようだった。僕に覆いかぶさる男の顔も影に沈んでいて、けれど、よくわからない言葉を吐き出し続ける口の、歪んだ輪郭が笑みの形をしているのだけはよく見えた。人が人を殺す時の顔を僕は初めて見た。
父や母、ディミトリのことを考えた。
僕が死んで、彼らがこの男を殺したいと思ったら、同じ顔をするのだろうか。僕を殺したらこの男も悪魔になるのだろうか。
それなら、魅入られているのは一体誰だ?
視界が真っ暗になった時、急に体が軽くなり、ついに死んだのだと思った。けれど、次の瞬間には塞がった喉に地下室の湿った風が通り、心臓が太鼓のバチで打ち鳴らされているみたいに跳ねる。気づいたらうつ伏せになっていて、咳が止まらず、目が開けられない。知らず、握り込んでいた手の甲に、涎なのか涙なのかわからない、生暖かいものがぼたぼたと落ちた。起き上がりたいのに、息を吸うのに忙しくて、体がうまく動かせない。
生きている、みたい。
なんとか目をこじ開けたときにそう思った。
薄暗い部屋の奥で褐色の肌の少年が男と揉み合っているのが見えた。
「悪魔が!殺してやる!」
男が拳を振り上げて少年を殴る、殴る、殴る。
少年が頭を守るように身を丸めると男がおもむろに上着のポケットから何かの容器を取り出して、中身を彼に向かって浴びせ掛けた。容器の転がる音、それから、男の笑い声が石の壁に反響する。
「殺してやる!一人残らず!姉上と同じ目に合わせてやる!」
地下のカビ臭い匂いに油の匂いが混じる。何をしようとしているのか気付いて愕然とした。
ああ、まただ。
いつまでこんなことを続けるのだろう。
ディミトリの声が届かないから?でも、彼のせいではない。
何もかも違う。なら、すべて間違っているのだ。
やめて、と叫んだけれど、声が潰れて意味を成していなかったかもしれない。口の中で血の味がした。もたつく両足を叱咤して、掲げられた男の手に飛びつく。不発して燻る魔力の匂いがした。
男が何かをずっと叫んでいる。めちゃめちゃに振り回される度、男の腕を掴みなおして背中を丸めた。指先に力を込める。たてた爪が剥がれてしまいそうで痛かった。
今更になって逃げたいと思った。こんな場所にいたくない。
やっと僕は、今までずっと自分が地獄にいたのだと、その縁に立ってぼんやりしていたのだと自覚した。でもそうだ、僕たちはまだ生きているから、煉獄と呼んだ方が良いのだろうか。
地獄の一歩手前。炎によって魂が浄化される場所。
聖書曰く、かつて女神は人々に怒り、アリルの森を焼いた。大地は裂けて谷が生まれた。煉獄の谷アリル。全てを清算するために、そこは今もずっと燃えている。
そのために、僕らの先祖は泣いて許しを請うた。首を垂れて踊った。
でも、今度は誰が項垂れるのか?誰が涙を流しているの?
ああ、ディミトリが泣いている。
父の言葉を思い出した。血を流している者が最優先だと。きっと、僕にわからなかっただけで彼の涙は赤かっただろう。なら、僕は踊らなければならない。清算が足りないなら僕が焼けたって良い。だって僕はずっとぼんやりしていて、ただ眺めていただけだったのだから。
兄も燃えた、陛下も燃えた、ダスカー人も、街も、森も、皆んな燃えた。もう十分だ。
この少年を灰にしてはいけない。僕の友達はそのために命を賭けた。
一際大きい怒鳴り声が聞こえて髪を掴まれた。ぶつぶつと嫌な音がする。
逃げて、と言いたいのに、ダスカーの言葉を知らない。なんて言えば良いんだ。走れ?どこかへいって?兄さんはよく僕に彼らの言葉を教えてくれたけれど、それはどれも美しい言葉だった。
こんなとき、どうすれば伝わるのだろう。必死に記憶を探る。頭が痛かった。
確か、ダスカーには風の神様がいる。それを讃える歌がある。
”偉大なる風よ、巻き起これ。荒れ野を統べる王は疾く――”
「”駈ける”」
僕が言葉を吐いて、
しがみ付いていた腕は外れ、
浮遊感。
その一拍後には地面に叩きつけられていた。胸と顎に刺すような痛み。次いで、腹が熱くなり、息が詰まった。
何が起きたのかよくわからない。
気づくと、男からずいぶん離れた場所に転がっていた。蹴り飛ばされたのだろう。どこが痛いのかわからないくらい、そこらじゅう痛い。
少年と目が合う。
額が割れたのか、顔が血で真っ赤に染まっていた。左頬がひどく腫れている。
「”何人も……彼の風には触れられぬ、偉大なる風”、……お願い、早く……行って」
困惑した顔。
こちらに歩いてくる男の爪先。
走っていく少年の背中。
後はもう目を開けていられなかった。耳鳴りがひどい。
多分、ここまでだろう。もう踊れない。でも仕方ない。やれることをやったのだ。十分じゃないか。再び暗くなった世界の中で僕は自分に言い聞かせた。
最初に思い出したのは、息苦しい、と言う感覚。それから次に熱さを思い出した。この感覚には覚えがあって、実家の蒸し風呂で感じたそれによく似ていたから、僕は焦って目を開けようとした。だって、どうしてそんな場所に放り込まれているのか、まるきり覚えがなかったから。
けれど、まぶたを押し上げるのが思いの外億劫で、なんだか意識を失う前にも同じようなことがあった気がした。
なんだっけ……。
地下室、
誰かの怒声、
浅黒い肌の少年、
顔の見えない男。
それから、
誰かの泣き声、
甘い匂い……。
なんとかまぶたを持ち上げると、まず天井が見えた。ぐにゃぐにゃの木目、節の抜けた穴、その奥は濃い陰。どこかの薄暗い部屋にいて、僕は寝台の上に寝かされているようだった。天井に近い壁に明かり取りの窓がついていたけれど、鎧戸がぴったりと閉じられていて、昼なのか夜なのかわからない。
ざあざあと激しい雨の音がした。風も吹いているのか、鎧戸が不規則に揺れる。なんだか、寒くて歯を鳴らしてるみたいだった。いいなあ、と思う。
とにかく、体が熱かった。
胸の内側で溶岩が渦巻いているのではないかと思うくらい。息を吐いても吐いても、内側の熱が外に出ていってくれない。耳の裏で、轟々と地鳴りみたいな音がする。
そうだ、音。
頭が痛くなるくらいの音がずっと聞こえる。
雨の音、窓がガタつく音、暴れる心臓の音、部屋の外、遠く聞こえる誰かの話し声や足音、そして何より耐えがたい、泣き声。
僕の名前を呼ぶ声が、耳元でずっと聞こえる。本当に誰かが側で僕を呼び続けているのか、それとも耳の洞の中、声が延々反響しているだけなのか、とにかく、頭がおかしくなりそうだった。
誰?
なんで、そう何度も僕を呼ぶの。
起きている、もう起きているから。だから、泣かないで。頭が痛い。割れてしまいそうなんだ。
なんとか目だけ動かして、声の方を見る。それだけで息が切れそうだった。一箇所、痛いということを思い出したら、なんだから身体中痛いような気がしてきた。
人影が見える。その人は僕の左手を額に押し当てて、うずくまっていた。その背の奥には薄く開いた扉があって、廊下の明かりが微かに差し込み、彼の姿を淡く照らしていた。
ディミトリ。
差し込む仄明かりはゆらゆらと揺れて、彼の柔らかい金糸に虚ろな影を落とす。すすり泣く彼の姿はあまりにも弱々しく、本当にディミトリがここにいるのか心配になった。
彼は背中を切られて動けないはずでは?それとも、もう治ったのか?
ギュスタブ殿が医務室に駆け込んできた時のことを思い出した。ディミトリは彼の腕の中でぐったりしていて、ひどい熱だった。汗も涙もどんどん流れていくから、このまま干からびてしまうのじゃないかと心配になった。父さんが薬やら術師やらをあれこれ手配している間、ディミトリはずっと譫言を繰り返していた。
彼らではない、殺さないで、と。
せっかく前の怪我が治りかけていたのに、もっと酷い状態になったのだ。そんなすぐ起き上がれるはずがない。だから、これは現実ではなくて、多分、僕が見ている夢。そう考えたほうがよほど納得がいく。
「ステイシア、だめだ、死んではだめだ、ここにいて、俺のそばにいて……、お願い」
吹いたら飛んでいってしまいそうな弱々しさでディミトリは僕の名前を呼び続けている。
ああ、やっぱりそう。
中途半端に痛めつけられたから、僕の頭は多分、おかしくなってしまったのだ。だからこんなに頭が熱い。
ディミトリが泣いてるところは何度か見たことがある。だいたいはフェリクスと喧嘩したか、誤って何かを壊してしまったか、だったと思う。けれど、こんな、萎れてしまった花みたいに泣いているところは見たことがない。なにか一歩間違えたらそのまま死んでしまいそうな……。まだ寝台に伏して魘されていたときのほうが生きている人の顔をしていた。
最悪の気分だった。
こんな幻影を見るくらいなら、もっとひどく痛めつけられたほうが良かった。こんなおかしな絵を描かないくらい、完膚なきまでに僕の頭を壊してほしかった。
「――」
喉が焼けるように痛い。ざらざらの唸り声。
体はどこもかしこも動かすのが億劫で、糸で操る人形のことを思い出した。僕の左手につながる糸も切れかけているのか、伸びきっているのか、十の力を込めて一動く、そんな具合なのだ。
汗が止まらない。
なにか、不思議な匂いがずっとしている。意識が散り散りになりそうだった。
「……ステイシア?」
僕の妄想のディミトリが顔を上げる。大きな空色の両目からパタパタと僕の手の甲にしずくが落ちる。熱い。火傷しそうだと思った。これも夢だろうか?
その時、煙みたいに漂っていた匂いが急に強くなった。
甘い匂い。
むせ返るような。
息が苦しい。
ずっと感じていた息苦しさは、そう、これだ。
そこまでは思い至れたけれど、あとはもうだめだった。頭の中で何かが爆発したみたいに思考が白くなって、何も考えられなくなる。
糸が全て切れたと思った。
痛いのも熱いのも飽和して、よく分からなくなった。さっきまでぜんぜん言うことを聞かなかったのに、僕の体は手綱の切れた馬みたいに勝手に動く。気づいたらディミトリの方に転げ落ちていた。
床を打つ音。
顔を上げると、ディミトリのぼんやりした目が見えた。もしかして彼も夢を見ているのだろうか。そうだったらいいな。僕ら二人共おかしな夢を見ているだけで、ああ、でも夢ってどうやって覚めればいいのだろう。
手のひらに駆け足のような鼓動が伝わる。
僕の右手がディミトリの左手首を握っていた。指が食い込んでいるのが視線の端に見える。どこからこんな力が湧いてくるのかわからない。離してあげないと痛いだろうに、もう、ぴくりとも動かせなかった。
ああ、そう。悪夢って、いつもこういう感じだ。
したくないことばかり、してしまう。
起こってほしくないって願うことばかり、起こる。
それで、何もかも嫌になったあとに、やっと泣きながら目が覚めるのだ。
喉が痛い。
頭が痛い。
目が回る。
ディミトリの空色の目も、ぐにゃぐにゃに歪む。その端から雫が伝う。その軌跡もやはりぐにゃぐにゃに歪んで見えた。
どこに落ちてくのかもよくわからない。
もったいない。
喉が乾く。とても。
ディミトリの目尻が下がる。でも、そう見えているだけだろうか。
わからない。
ねえ、なんで笑っているの?
そう聞きたいのに声が出ない。
なんでだっけ?
ああ、
欲しい。
でも、何が欲しいんだっけ?
僕は何をしているんだ?
「ステイシア、」
自分の鼓動が耳の中で反響している。その奥でディミトリの声がとても近く聞こえて、途切れた。
乾いたブルゼンみたいだった。柔らかいけど、カサカサしている。
それで、もう、その後は最悪。
糸の切れた獣。
ディミトリの手が僕の服の裾を引いて、やっと体を離すことができた。
それでも、まだ頭の中で、欲しい、欲しいと言葉が踊る。
そんなに喉が渇くなら、舌を噛み切って自分の血でも飲めばいい。
苦しい。
ずっと息が苦しい。
どちらの呼吸かもわからない音が暗い部屋に響く。
まだ甘い匂い。
気持ちが悪い。
目を閉じて、奥歯を噛み締めて唸る。そうしないとまた糸が切れてばらばらになりそうだった。
ディミトリの手を離してあげたい。強く握りすぎて、だんだん冷たくなってきた。きっと、痣になるだろう。
そう思うのに、全然、離してあげられない。唸ることしかできない。
こんなことなら、あのとき窒息して死んでおけばよかった。そうしたら、少なくともこんな惨めにはならなかった。
真っ暗な目の奥が痛い。
泣くな!
こんなのは蹂躙だ。
拳を振り上げたあの男と、何も変わらない。
許さない。
もう、息なんかするな。
苦しくたって構うな。
燃え落ちろ、右手。
離せ、
離せ、
離せ、
いいから、離せよ!
ぺたり、と。
何もかも嫌になりかけた僕の顔に熱が張り付く。汗ばんた手。頬に指が少し食い込む。
目を開けるとディミトリが見えた。赤くなった目尻。呼吸を整えようと上下する胸。ひゅうひゅうと喉が鳴る。額に汗が滲んで苦しそうだった。
「大丈夫、ステイシア、俺は、大丈夫だから……」
息も絶え絶えに彼は言った。
「手を、離さないで」
それから、ディミトリの右手がゆっくり動いて、僕の首筋を撫でた。何かを探すみたいに。多分、きっと、そこにも、なにか糸があった。
ぶつん、と。
それで、ディミトリも、暗い部屋も、世界も、全部霞んだ。もう、痛みと、熱さしかわからない。
目が、喉が、全部が、熱くて痛い。
苦しい。
止めたいのに、声も涙もぼろぼろこぼれてどうにもできない。
頭の片隅が妙に冷静で、こんなことしてないで早くディミトリを部屋に戻して寝かせないと、とか、今何時だろう、うるさいだろうな、とか、そんなことを考えた。
首の後がじわじわと温かい。少しだけ、背を押すように圧力がかかって、もう成すがままだ、彼の首筋に顔を埋める。背中を撫でる手がぎこちなくて優しい。
やめて欲しい。
本当に。
ひどく惨めだった。
ただの獣、牙を抜かれた負け犬。それが僕だ。
なんで泣いているの。
なんで息をするの。
消えたい。一生許さないで欲しい。
でもきっと、叶わない。どんなに泣いても、悪夢みたいに覚めはしない。この先、ずっと続いていくのだ。
ああ、
ああ、
あーあ。
部屋の外、遠くから足音が聞こえてくる。父さんか、ギュスタブ殿か、他の誰かか。誰でもいいから、早く僕を引き剥がして、どこか遠く、谷に突き落として。せめて。
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