誰かが部屋の戸を叩いている。その音で目が覚めた。
頭を持ち上げると部屋の中も窓の外も暗く沈んでいる。目が暗さに慣れるまでしばらく寝台の上に座わり込んでいた。また、控えめな音が響く。
「……ステイシア、眠っているのか?」
声が聞こえて嫌な気分になった。
今日はもう顔を合わせたくない。別れてからどのくらい時間が経っただろう。すっかり日が沈んでいたから数時間は経ったはずだ。正確な時刻はわからないけれど、おそらく夕食を食べ損ねただろう。
自分の体を見下ろす。
随分とくたびれた格好をしていた。けれど、部屋に戻ってきた時よりは体が動く。空腹は感じなかった。
どうしようかと考えた。このまま居留守を使ってしまおうか。でも、戻ってきた時、部屋の鍵を締めたかどうかが気になった。全く覚えていないし、戸締りをした自信もない。万が一にも戸を開けられたら嫌だ。
結局、僕は寝台を降りた。きしりと床が鳴く。ベットボードで項垂れていたシャツを頭から被って戸の前に立った。
取手をつかんでゆっくりと回る。それは引っかかることなく回りきった。
ほら、やっぱり鍵を閉めてない。
蝶番の擦れ合う音が、細くて長い息を吐くみたいにしつこく続いた。ゆっくりと隙間が広がっていく。まず輪郭が見えて、金の髪が見えて、右目が見える。
水色のそれは大きく見開かれていた。
なんだ?
僕が首を傾げたのと、彼が部屋に入ってきたのがほとんど同時だったと思う。驚いて一歩下がると床に落ちていた外套を踏んだ。足裏に湿った感触がして、滑る。重心が後ろに傾いていくのがわかった。
「わ」
「あ」
視界が回る。もう立て直せないと思って、目と口を閉じた。舌は噛みたくない。誰かが踏み込んでくる音が聞こえた。その奥で、戸が閉まる音。いや、他人は一人しかいないからおそらくディミトリだ。彼が僕の左腕を掴んだ。
背中に衝撃。
でも頭は痛くない。後頭部に人の手の感触があった。
恐る恐る目を開けると、天井が見えて、その手前にディミトリの顔があった。鼻先が触れそうな程近い。なぜこんな恐ろしい状況になってしまうのか。
蛇に睨まれたカエルみたな気持ちになって目を細める。直視するのも憚られたが目を閉じてしまうのも怖かった。
どのくらいそうしていただろう。
ディミトリの喉が鳴る。
「なぜ」かすれた声だった。「どうして、泣いているんだ?」
「え?」
自分の顔に触れる。確かに目の下あたりが湿っていた。
「ほんとだ……、なんでだろう」
夢を見たからだと思ったけれど、言わないでおいた。どうせ彼は覚えていないのだから知らなくて良いことだ。大体のことは知らない方がいい。世界は単純な方が生きやすいし、きっと綺麗だろう。
「わからないのか?」
「うん」
「本当に?」
僕を見下ろす両の目が光って見えた。漠然と、何かを探しているのだと感じた。なんだろう。僕の嘘だろうか、それとも忘れてしまった夜だろうか。いずれにせよ、居心地が悪い。
「随分しつこく聞くんだね」僕は少し怒った顔をして見せた。「なんで放っておいてくれないの?」
ディミトリが瞬きをする。僕の方こそなぜそんなことを聞くのかと問われているみたいだった。その様子を眺めていると、やがて口元が引き結ばれ、まぶたが落ちる。閉じた目の向こうで彼は一体何を見ているのだろう。
「それはあの日、お前が来てくれたからだ」
「あの日?」僕は尋ねる。「思い出したの?」
「思い出してはいない」彼が首を振る。「大樹の節に、走ってきてくれただろう?」
ディミトリが僕の体を引き起こしながら話す。
「俺はな、お前に嫌われたのだと思っていたよ。ダスカーでずっと面倒を見てくれていただろう?それが急に居なくなって……俺はお前に、何かその……とても恐ろしいことをしてしまったのだと思った。覚えていないことも怖かった。だから、お前の父に何度も言ったんだ。お前に会わせて欲しい、せめて謝らせて欲しいと。俺はフェルディアを出ることができなかったから、とにかく頼み込むしかなかった。だが、あいつは決して首を縦には振らなかった」
ディミトリは苦笑して言った。
「仕舞いにはもう、お前は王国にはいないと言うから……参ったよ」
「そうなんだ……知らなかった」
僕はダスカーから戻ってすぐ、修道院に入れられた。時期を同じくしてカトリーヌが修道院に身を寄せていたから、父が伝手を頼って依頼したらしい。カトリーヌは僕の身元を引き受けてくれた。それ以来、彼女とつるんでいたせいもあってか王国の状況はあまり入ってこなかった。カトリーヌ自身もダスカーの悲劇を発端とする王国のゴタゴタに巻き込まれて危うい立場にあった。名前を変えて、王国から距離をとっていた彼女に向けて国の詳しい内情を書くわけにもいかない。それは彼女への荷物に混ぜられる僕宛の手紙も同様だった。
どんな弱小貴族だって、唯一残った嫡子を家から遠ざけるにはそれなりの理由がいる。
父は、僕がディミトリにとっての毒みたいなものだと思ったから、彼や王国から遠ざけたかったのだろう。特にダスカーからフェルディアに戻った後の彼の身辺は混沌としていたようだから。けれど、そう言った事情を正直に話すわけにもいかない。結果として僕の場合は、両親の逆鱗に触れて修道院に突っ込まれ、彼らの怒りが収まるまで戻ることは許されない、と言うお話が用意された。
「ガルグ=マクに来てからもお前の姿は一向に見つからないし、もう顔も見たくないほど軽蔑されているのだと思った。まあ、それも仕方ないよな……四年間、謝りもせず放っておいたのだから」
「……ごめん、それ、僕だ」
「あ、いや、違う、責めたいわけではなくて……ただ、俺は嬉しかったんだ。ルミール村に走ってきてくれたことも、一緒に買い物をしてくれたことも、全部、嬉しかった」
ディミトリの言葉になんと返したらいいのかわからなかった。閉口する僕を尻目に、彼は何かを思い出したように懐を探った。
「これを」
何かが目の前に差し出される。よく見るとそれは小さい紙の包みだった。
ディミトリが僕の手を取って、それを掌に載せる。
「開けてみてくれ」
促されるまま包みを開くと、昼間見た砂糖菓子が一つ入っていた。
「本当はもう少しあったんだが……、部屋に帰って確認したらほとんど割ってしまっていてな」ディミトリはバツが悪そうに言った。「まともに残ったのはそれだけだった」
確かに、ディミトリが見事な造形と称したそれは、角が欠けて曖昧な輪郭を晒している。でも、まだちゃんと花だとわかった。
「ダスカーでお前がずっとそばにいてくれたことも、俺は嬉しかったよ」ディミトリの指が僕の目の下を撫でる。「嬉しかったことしか覚えていない」
ほとんど触れていないような力加減だったけれど、時々指のささくれが引っかかってひりひりした。だから、目を細めたのはそのせいだ。するとディミトリの親指が少し強めに僕の目尻を拭っていった。
「……ステイシア、俺たちはきっと大丈夫だ」
四年前も似たようなことを言っていたなと思う。
けれど、状況が全然違う。僕たちはあの時よりずっと大きくなった。昔より分別もつく。自分たちの周りの事情も分かっている。何を求められているかも。僕の存在は彼の将来に暗い影を落とすだろう。実際には何も起こらなくても、危険はずっと付き纏う。近くにいれば、僕は彼をおかしくするかもしれない。僕もまたおかしくなるかもしれない。この病は根治の方法が見つかっていない。薬をあおり続け、一生、普通の人間のフリを続けなければならない。
それの、何が大丈夫だと言うのだろう。
「滅茶苦茶だよ、そんなのは」
「だが、俺はこんなものに振り回されて友を失いたくない」
ディミトリは何か決意したような顔で僕の肩を掴んだ。
「薬は飲んでいる。それでも、甘い匂いとやらがするのかどうか、試してみて欲しい」
「本気で言っているの?」
「こんなこと、冗談で言わない」
だとしたら恐ろしい蛮勇だと思った。
「どうなっても知らないよ」
「構わない、責任は持つ」
以前、外套を押し付けてきた時と同じ顔をしていた。承諾以外認めない心算らしい。もうどうにでもなれと言う気持ちになって、ゆっくりとディミトリの胸に額を押し当てた。呼吸で上下する胸、心臓の音。とても早い。緊張しているのだろう。それはそうだ、何が起こるかわかったものじゃない。よくこんな体で近づいてみろ、なんて発破をかけたものだと感心した。
息を吸う。
干した洗濯物の匂いとかすかに汗の匂いがした。でも、それだけだった。
何も感じない。なにも欲しいと思わない。渇望もない。
僕はゆっくりと体を離した。
「……どうだ?」
恐る恐る尋ねるディミトリに、僕はもらった包みを掲げた。
「こっちの方がよっぽど甘い匂いがする」
僕の言葉に彼が息をつく。
「そうか……なあ、言った通りだっただろう?」
ディミトリは笑っていたけれど、少し泣きそうにも見えた。
彼の言う通り、僕たちは大丈夫なのだろうか?他人を欲しがらずとも生きていけるだろうか?そうだったら嬉しい。この先もずっとそんな自分でいられるなら、全て耐えられると思った。この意味のわからない病のために死ぬまで薬をあおって、家に帰れず、商人や好き者どもの視線にうんざりすることになったって、それで構わない。だって、僕が僕のまま、彼が彼のまま、もう誰の輪郭も歪ませず守っていられるのなら、それで充分じゃないか。
「うん……そう、きっと、そうだね」
誰の自由も、誰の心も奪いたくない。僕自身を奪われたくない。
今のまま、このまま、誰かに毒を飲ませたりせず生きていけるのなら……夢みたいだ、本当に。二度と覚めないで欲しいくらい、素敵だと思った。
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