夜の大聖堂は相変わらず人が少ない。特に最近は日中の来訪者が多いから余計にそう感じられた。
女神の塔に続くテラスに立つと、大聖堂の様子がぼんやり見える。蝋燭の明かりが開け放たれた出入り口から滲み出ていた。祈りに来た信徒なのか修道士なのか、時々、人影が通り過ぎていく。その輪郭は暗く沈んでいて、幽霊みたいに見えた。
来節には女神の再誕を祝う祭事があり、方々から信徒たちがガルグ=マクにやって来ている。祈りの中心になる大聖堂は特に多くの人が集まるが、夜になるとみんなどこかに姿を消してしまう。夜半になっても人が途絶えないのはそれこそ再誕の儀当日くらいのものだろう。どうも、祈るなら明るいうち、というのが主流らしい。どうしてだろう。夜は女神様も寝ているという理屈だろうか。
空を見上げた。今日は曇りだ。月もなければ星もない。しかし晴れていたとしても探している星は見えないだろう。
再誕とは、女神のいる星が空に戻ることを指す。青海の星、もしくは女神の星と言われるそれは後一節ほどで空に現れる。女神の帰還を祝うため、来節は踊りを捧げることになっていて、だから、こうして毎日、ぐるぐる廻るのを繰り返している。踊っていると時々目を瞑ってしまう。小さかった頃、あまりに目が回るから、目を閉じてずっと練習していたせいだろう。ずいぶん前に慣れてしまって、もう目を回すことはないけれど、それでも、何も見えないほうが、なんとなく落ち着く。
「ひぇ」
小さい悲鳴が聞こえて目を開けた。辺りを見渡すと大聖堂の入り口に人影が見える。見覚えのある影だった。
「アッシュ」名前を呼ぶと影の輪郭が揺れる。
「え?ステイシア?」ずいぶん慎重な足取りで近づいてくると、彼は小さい声で呟いた。「本物?」
「急に難しい質問をするね?前に森であった僕が本物なら、そうだと思うよ」
「あ、ご、ごめん、そうだよね……」
どこか縮こまった様子のアッシュは、前に森で矢を構えていた姿とずいぶん違って見えた。どうしたのかと尋ねると、最近、生徒の間で流行っているらしい噂話を教えてくれた。なんでも大聖堂近くに毎夜躍り狂う女の幽霊が出るのだとか。そいつに取り憑かれると一生足を止められなくなる呪いに掛かる、そうだ。なんだか、どこかで聞いたような話だ。
「じゃあ、僕が幽霊かも」
「勘違いしたのは悪いけど、そういう言い方はよくないよ……!」
アッシュはずいぶんと狼狽えた様子だった。
「えっと、ごめんね?」しかし、噂の内容を鑑みるに、おそらく僕が火元だろう。「そう、でも……、ふふ、幽霊に見えたかあ」
僕にとって、大聖堂に佇む人影がそう見えたように、アッシュや誰かにとっては僕がそう。つまるところ、お互い様ということなのだろう。
「ねえ、結局、ステイシアはこんな時間に何をしていたの?」
「来節の練習。再誕の儀があるでしょう?」
「儀式に参加するの?すごいね」
「ただの前座だよ。あれはお祭りみたいなものだから、催し物の一つだね。騎士団でも御前試合とか鼓笛隊の演奏とか……、いろいろあるんだ」
「それでもすごいと思うけど……。僕だったら緊張で動けなさそう」
「まあ、そのための練習みたいなものだから」なんだか、居心地が悪くなってきた。「アッシュは?こんな時間に大聖堂にいるのは珍しいね?」
「僕は、その……、お祈りに……」急に歯切れが悪くなった様子で彼は呟いた。
「お祈り」
夜の大聖堂で今まで彼を見かけたことがない。なんだか、珍しいことを言っていると思った。女神様は寝ているかも知れないのに、それでも祈るなんて、ずいぶん熱心なことだ。祈らなければ眠れないほどの悩みがあるのかも知れない。
そこまで考えて、はたと気づく。そういえば、彼はロナート卿の養子だと、以前カトリーヌが言っていた。
少し前、王国の西部、ガスパール城の城主が教会に向けて挙兵したと聞いた。ガスパールを治めるのがロナート卿、つまりアッシュの養父ということになる。
対して修道院からも応戦のため部隊がすでに出立している。ロナート卿の私兵とセイロス騎士団の戦力差はそれなりにあるらしく、鎮圧は時間の問題、との話だったはずだ。
今回は先遣隊にも、後詰の部隊にも選ばれなかったから、あまり詳しい話は知らないけれど、事後処理には、また課題の一環としてルーベンクラッセが駆り出されるらしい。それにカトリーヌが同行すると聞いている。準備さえ怠らなければ、そう危険なこともないと安堵していたが……。アッシュにとっては、そんな簡単な話ではないのだろう。
「アッシュはロナート卿が心配なんだね」
「……ごめん。でも僕、まだ何かの間違いじゃないかって……。挙兵って戦争をするってことでしょう?ロナート様がまさかそんな……」
「謝らないでよ、家族が心配な気持ちくらい分かる」
「でも君は……、セイロス騎士団じゃないか」
アッシュが僕の様子を伺うように呟いた。
「そうだけど……。別に僕が剣で刺されたわけではないし。指示が出れば従うだろうけど、それだってロナート卿のことが憎いからじゃない。ただ仕事だから、戦うだけで」
「仕事で人を殺すの?」
「そうだよ」僕は頷いた。「でも理想で人を殺すよりはマシじゃない?」
直接危害を加えられたわけでもないのに、殺すべきだと喜び勇んで行くのはゾッとしない。周りに流されるにしたって、流れに乗ると決めたことへの責任くらい持つべきだろう。
「立ち位置は自分じゃ決められないこともあるよね。空いている場所が一つしかない時もある。でも、選べないにしたって、気持ちまでそれに倣いたくない。嫌なものは嫌。それでは駄目なの?」
「でもそれは……苦しいでしょ?納得できないことをするの?」
「苦しいけど……自分が苦しいくらい良くない?他人の首を締めるわけじゃない」
誰にだって譲れないものがある。けれど、常にそれを守れるわけではない。誰かに侵されることもある、自分で汚してしまうこともある。それでも生きていくしかないのだから、目を瞑るほかない。許容していくしかない。飲み下して、いつか消化できる、そう信じるしかない。
ああ、でも、
生きていかなくてはと思うから、目を瞑ることしか選べないのか。死んでしまえば、矛盾を抱えずに済むだろうか。それすら出来ないのなら、いっそ、壊してしまえばいいのだろうか。
けれど、そんなこと……。
どれほどの痛みに耐えればいいのだろう。
多分、薬でもあおらなければやっていけない。途方もない話だ。目眩がする。
そういうことを、けれど、ロナート卿はしようとしているのだろうか。
「アッシュは納得できないから、お祈りをしているの?」
つい尋ねてしまったけれど、馬鹿なことを聞いたなと思った。そうでもなければ養父が剣を向けた先に向かって彼の無事を祈ったりはしないだろう。
「うん……、だって、ロナート様はとても誠実な人で、僕のことも本当の息子みたいに育ててくれた。それなのに戦争だなんて、信じたくない……。このまま、ロナート様は殺されてしまうのかな」
ロナート卿は以前から教会に敵意を示していたと聞いている。理由は想像するしかないけれど、四年前、ダスカーの悲劇に関与した疑いで、卿の実子が教会に処刑された。おそらく、それがきっかけだろう。
突然、家族を奪われる。そのうえ、奪われた理由が納得できるものでなければ、その身に生じる憎悪はどれほどのものだろう。正しさを愛する人ほど、許せないはずだ。罪には報いを、誠実さには愛を、常に等しいものが返されるべきだと思うだろう。愛した分だけ、その人が幸せになってほしい。避けたいけれど、失われるというのなら、その価値に見合う弔いが必要だ。
でもそれは、もはや祈りだ。願望は、自前の要求でしかない。集団の願いでも、国の願いでもない。
集団には集団の、国には国の要求がある。ひどく冷たい、高く厚い壁のような。
「ロナート卿がどうなるのか、僕には分からない。勢力だけ見れば卿が劣勢だろう。剣を持っている同士がぶつかれば、劣る方が打ち払われる。なるべく早く、不利を悟って剣を下ろしてくれることを祈るしかない。犠牲が少なくて済むように」
「でも、それは……」
アッシュが言い淀む。彼が言おうとしていることはなんとなく分かる。もう、諦めるとか、無謀だとか、そういう段階ではないのだろう。
「うん、だから、祈るしかない」
犠牲を避けようとするなら、そもそも、こんな反乱は起こさない。たくさんの人が死ぬだろう。卿を支える者、信じる者、そういう人の血が流れる。けれど、その事実を、ロナート卿は切り分けて、もう飲み込んでしまったのだ。
「……僕にできることは、何もないのかな」
「アッシュは何かしたいの?」
「だって、それは……!」アッシュは勢いよく顔を上げた。その目は僕に矢を向けたときの色に似ていた。「ロナート様は僕や弟たちを助けてくださったのに、このまま、なにもしないなんて出来ないよ!あの方に死んで欲しくない。ロナート様が間違った道を進まれているなら、止めないと。でも、もし、もしも……」
咲いた花が急速に萎んて行くみたいだった。アッシュは背を丸めて蹲ってしまった。僕は少し怖かった。ロナート卿が死んだら、そのままアッシュもどうにかなってしまうのではないかと思った。他人の人生が他の誰かの生死にまで影響するのだとしたら、とても恐ろしい。こんなに不安定になっては、とても一人で立っていられないだろう。
「それでも、ロナート様が間違ってるわけじゃないって思ったら、戦うのも仕方ないって思ったら、僕は……、どうすればいいんだろう」
「正しくなくても?」
「うん」項垂れた頭が揺れる。「正しくなくても、間違ってもないって思ってしまったら……」
「それは今悩んでも仕方がないよ。決められっこない。何がより間違ってるかなんて人によって変わってしまうもの」
アッシュの横に座り込んだ。石畳の床は冷たくて硬い。真っ暗なテラスで蹲っていると、四方八方、黒くて硬くて冷たいものに取り囲まれているような心地がした。棺に入れられることになったらこんな感じだろうか。
「……どうしようっていうのはさ、君が見て、間違っているかどうか、決めてからでもいいんじゃない?正直、誰にとっても大正解なものってそんなに無い気がする。見つけた中で少しでも納得できるものを選ぶしかない」
「見つけられなかったら?」
「何も見つけられなくても、自分で見て、それでもわからなかったって事実は案外、君の助けになるかも知れない」
「そうかな」
「そうだよ、僕もそうだった」
アッシュが僕を見る。目を逸らしてはいけない気がした。蹲ったまま、肩を寄せる。顔を覗き込んだ。暗い目をしていた。それが夜のせいなのか、僕がそう感じるだけなのか分からない。底が見えない代わりに、薄ぼんやり誰かの顔が写っていた。口元が微かに動くのが見える。僕は、自分が今まで秘密にしてきたことを喋ろうとしているのだと自覚した。
「ダスカーの悲劇があった時、僕は兄さんを探しに行ったんだ。兄さんは陛下のお供で隣の国に向かってた。それで、とても恐ろしいことが起きたって聞いて……信じたくなかった。なんでまたって思った。とにかく、兄さんを見つけなきゃ、連れて帰らなきゃって、ダスカーに向かう父の馬車に忍び込んだの。すぐにバレて、ものすごい怒られたし、色々とひどい目にもあった」
不思議だ。今まで、何度も考えてた。思い出して嫌にもなった。それでも、誰かに話そうと思ったことはなかったのに。どうして今更、彼にこんなお節介を焼くのだろう。
多分、お花をもらったから……。
法外なものを受け取ってしまったから、なんとか均衡を取ろうとして、こんな可笑しいことをしているのだろう。
「そう、だったんだ……」アッシュが目を伏せる。「それでお兄さんは見つけられたの?」
「ううん、全部燃えちゃってさ、どれが兄さんかなんて……。僕は兄さんのために怒らなきゃいけないって思っていたけれど、でもどこまでを怒ればいいのかも分からなかった。灰も炭もどこにでもあったよ。踏まなければ歩けないほどだった。どこまでがファーガスの人で、どこまであの国の人たちだったんだろう……。そういうことを知りたかったけれど、誰も教えてくれなかった。多分、誰にも分からなくて、だから、ただ見てただけ。今も時々考える。何がいけなかったのかって。何に怒ればよかったんだろうって。それは、全てを呪うより、多少はマシかも知れない。僕の感想だけど……」
アッシュは何も喋らなかった。触れた肩が温かった。彼にとって僕が幽霊だったなら、こうして触れることもなかっただろう。
僕は顔を逸らして、彼の背後を見た。弱々しい橙色の光が、ずっと向こうの石畳の隙間に染みている。でも、ここまで、滲んでくることはない。僕らの足元は暗い。つま先もよく見えない。きっと大聖堂から眺めたら、僕たちのいる場所は全て同じ黒に見えるだろう。
大聖堂の人影たち、谷の底、瞳の奥。目を凝らしてもよく見えないからみんな通り過ぎていく。けれど、それでいいと思う。人の内側には入れない。ずっとそんなところには居られない。だから僕も母の腹から出てきたのだろう。一人になったから生まれてこられた。
落ちてきた時から周りには国や決まり事があって、体にまとわりつくしがらみは取り払えない。だから、時々どうしてもぶつかってしまう。それでも、僕も誰も、気持ちくらいは自由だと思うから、それなりのものを飲み込んで目の前に立っていると思うから、剣を向けたりできるのだ。見えないから、自分のために解釈できるし、わからないから、わかったふりをして飲み込める。
「……ステイシアはそれでいいの?」ややあって、彼は言った。「怒らなきゃいけないことも、何が正しいのかも、分からなくても平気なの?」
「平気ではないよ」一度だけ首を振った。「祈っているよりはマシというだけ」
「そっか」アッシュが小さい声で呟く。
「……殿下がね、無理して行くことはないって言うんだ」彼は自身の爪先を眺めながら言った。「ロナート様が何もおっしゃってくださらなかったのは、きっと、僕を巻き込みたくないからだろうって」
「言いそう」
小さく肩が揺れる。彼は笑っているらしかった。僕も自分の爪先を眺めていた。しばらく揺れが続いていたけれど、やがて大人しくなった。また一度、身じろぎ。アッシュは息をついた。細くて長い息だった。
「でも、行くよ。何も分からないまま、ここに残ってることなんてできない」
よいしょ、と声を上げてアッシュが立ち上がる。手が差し出された。
「そう」握り返すと引っ張り上げられる。「じゃあ何か、見つけられるといいね」
「うん」
アッシュが頷く。それから彼は空を見た。つられて見上げると、相変わらず曇っている。星は見えないし、女神様は寝ているかも知れないし、壁は高い。祈っていただけでは、どこにも届かず墜落してしまう。だから、少しでも後悔する可能性の少ない道を彼が選んだのは立派だと思う。
だけど、きっと痛い思いをするだろうな……。
四年前、できることだけやり続けたら、酷い目にあった。そういう結果を無視して、彼に発破を掛けた。しかし、自分の外側に出してしまった言葉は取り消せないし、アッシュは決意してしまったし、もうどうしようもない。
「ありがとう、ステイシア」空を見たまま彼がいう。
「お礼を言われるような話じゃなかったよ」どちらかというと、追い詰めるような言葉を随分吐いた気がする。
「そんなことない、励ましてくれたよ」
「そうかな……」
「そうだよ、僕はそう思った」
本当は、誰も彼も幽霊だったら幸せだろうと思う。ぶつかって場所を奪い合うこともない。触れたってお互いにすり抜けていくだけならロナート卿も実子を失う事はなかったし、アッシュも悲しい決意をしなくて済んだだろう。何にも触れず、何も見えず、ただぼんやり浮かんでいるだけだったらよかったのに。
どうして女神様はこんな形に人間をお作りになったのか……。もしかして、僕たちは失敗作なのではないか?
それとも、損なわれることに何か意味があるのだろうか。
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