ロナート卿が死んだ。
マクドレド街道にて、包囲を突破した卿の部隊と衝突した、と帰還したカトリーヌから聞いた。中には民兵も多数含まれていたらしい。彼女はなんでも無いふうに語っていたが、どことなく疲弊しているようにも見えた。
事の顛末を報告するため去っていく彼女の背中を眺め、何か声をかけるべきだろうかと少しだけ考えた。けれどすぐに、言葉にすべきものは何も無いと気付く。彼女は正しいことをした。少なくともカトリーヌ自身にとっては間違いなくそうだっただろう。だから例えば、慰めたり励ましたり称賛したり、そういう言葉自体、意味がないのだ。彼女の正しさは猊下であり、猊下に弓引くものを打ち払うのは当然のことだ。わざわざそれを言葉にして、どうこうと語る必要はない。カトリーヌだってそんなものはいらないというだろう。
法律だとか教義だとか理念だとか、常に正しいと思えるもの、美しいものを人は作ることができる。けれど作った側の人は常に正しくいられるわけではないから、時々、自分の作ったものの輝かしさに打ちのめされて疲弊してしまうのかも知れない。
カトリーヌの背中を見送った日も、その後も変わらず、聖堂の脇で幽霊になる活動を続けている。いよいよ本番が近づいていたから、修道院で働いているより、幽霊になっている時間の方が長くなっていた。
噂を聞きつけてか、時々、人が訪ねてくることがある。黙って眺めて帰っていく人もいれば、取り留めのない話をしていく人もいたし、噂を真に受けているのか、何事か叫んで走り去る人もいる。
ある日の夜、またアッシュに会った。彼は以前のように悲鳴をあげたりはしなかった。彼に気づいた時、僕はちょうどターンを回りきるところで、目を開けたら少し離れたところに彼が立っていたものだから、こちらの方が驚いて声を上げるところだった。
「やあ、アッシュ。こんばんは」
今夜は晴れているので以前より彼の姿がよく見えた。月明かりの下に立つアッシュの顔はずいぶん青白く、彼の方がよほど幽霊のようだと思った。けれど、きっと月明かりのせいだけではないのだろうな。
「こんばんはステイシア」彼の口元は辛うじて笑みの形を浮かべている。「今日も踊っているんだね」
「うん、仕事をもらっているからね。……アッシュはお祈りに?」
「僕は……、なんだろう。考え事、なのかな」
「そっか」
一瞬、躊躇いがあった。黙しているべきではないかと考えた。彼が何を見て、何をしてきたのかなんて、聞かなくても想像がつく。わざわざ本人に語らせようとすることは酷なのではないか。どのくらい深いのかも知れない傷に手を突っ込んで、その奥を覗き見たいかと問われれば、そんな望みは全くない。痛いのは嫌いだ。自分でも他人でも、無傷で済むのなら、そのほうがいい。しかし、アッシュはお祈りでもなくここにきた。意思を持って僕を訪ねてきた。そして僕には、見てこいと彼を焚きつけた責任があるように思えた。
「君が納得できるものは見つけられた?」
「いや」アッシュは一度だけ首を振った。「よく分からなかった……」
「そう……行かないほうが良かった?」
「ううん、そんなことはないと思う」アッシュは言った。「マクドレド街道で少しだけロナート様と話ができた。……レア様のことを許せないとおっしゃていた。ロナート様は義兄さんの無実をずっと信じていたんだ。だから、あんな……」
言葉の続きをしばらく待った。月明かりを浴びて、アッシュの足元には濃い影が揺れていた。彼は俯いたきり、言葉を続けることはなかった。
「……前に言っていたみたいに、卿の行いは間違ってるわけじゃないって思った?だから、分からなくなったの?」
「違うんだ。ロナート様が戦った理由は、僕も……理解できる。でも、そのために街の人たちまで巻き込むのは、やっぱり違う。だから、戦ったんだ。ロナート様にあんなことをさせちゃいけない。止めなきゃって、それしか考えられなかった」
アッシュは拳を強く握り込んでいた。爪が食い込んで痛そうだなと思う。もしかしたら、血が滲んでいるかも知れない。彼の手は、僕には見えない何かを必死につなぎ止めようとしているのだろう。
「僕、いつか、ロナート様や街のみんなを守れるような騎士になりたくて……。だから、士官学校に来られて本当に嬉しかった。訓練は大変だけど、全然苦じゃないんだ。強くなれるのが嬉しかった。そのはずなのに……僕はみんなを殺してしまった」
「自分のことが許せない?」
アッシュは力無く微笑んだ。なんだか、一人置き去りにされた子供が心細さに耐えているような、とても見ていられない表情だった。
咄嗟に目を閉じる。思い出したくないことを思い出してしまいそうだと思った。
けれど、予感がした時というのは大体もう手遅れで、そんなこと考えるなと念じることばかり、頭に浮かんだ。
僕だってそうだ、お願いされたことを反故にした。一度は頷いたくせに……。とても傍にはいられないと思ったから逃げたのだ。お願いした本人が忘れて有耶無耶になったけれど、だからと言って何もなかったことには出来ない。僕は好き勝手に生きているのだから、自分が流れ着いた先の結果くらい責任を持たなくてはならない。
「ステイシアは、自分が許せないって思ったことはある?」
「そりゃあ、まあ……あるよ。誰にだって一つや二つくらい、あるんじゃないかな」
「じゃあ……」
「でも、どうしたら許せるようになるのかは分からない。僕はまだ許せたことがないから」
「そう、君も……。そうなんだね」
アッシュはポツリと呟いて、顔を伏せた。
彼は一人で僕の前に立っているように見えるけれど、本当は杖が必要なのかもしれない。そうしなければ倒れてしまうかもしれない。けれど、それを知ることは出来ない。
何も請われていないから。
倒れたときに初めて分かる。存在の損失と比較して、やっと苦しさの度合いを理解できるようになるだろう。
仕方がない。悲しいけれど、どうしようもない。自分を誰かに委ねて、その人を杖にしてしまうよりはずっとマシなはずだ。そういう生き方に慣れてしまったら、麻薬みたいにもう、杖無しでは生きられなくなる。
すべてを他人に委ねれば、少なくとも二択が生まれる。許すか、許さないか。僕ではない、誰かが決めてくれる。なんの気兼ねも心配もない。きっと、春の日差しにさらされている時みたいな長閑やかな心地がするだろう。
委ねるとは、つまり、そういう契約なのだ。
罪が重ければ重いだけ、それに見合う重石を誰かが僕に乗せてくれる。そしてただ、天秤が釣り合うまで支払えばいい。結果、自分の命が尽きたとしても、それでおしまい。
どうにも、生命にはあらゆる罪に釣り合う価値があるようで、少なくとも、死んで償うという手段が与えられる。
与えてくれたのは誰だろう。
きっと神様ではない。だって、こんなにも人にだけ都合のいい保証を神様は請負ってはくれないだろうから。
あまりにも優しい。
祝福のようにも見えるものが差し出されている。常に正しくはいられないという怖気のために、美しく整えられた庭は開かれている。顔のない人々によって。
安寧は花の形をしているだろう。
「アッシュは許されたい?」
「え?」
「誰かに許して欲しい?そしたら楽になれる?」
わざとらしく首を傾げる僕を見て、アッシュは黙っている。
僕は待った。答えを知りたかった。けれど、本当は言われる前からわかっていたのかもしれない。だから、じっと待つことができたのだろう。
「ううん」しばらくして、彼は首を振った。「これは僕が飲み込まなきゃならないものだから」
月を背にして立つ彼の表情は影に沈んでいる。けれど、開かれた両目は若草色に光っていた。月の光を反射しているのだと思った。でも、もしかしたらそれは美しいものが自ら発する輝きだったかもしれない。
「そっか」
空を見上げた。そこに月が満ちている。白くてまろい光が周りの空を柔らかい青色に染めていた。
月までは、どのくらいの距離があるのだろう。きっと飛竜に乗っても辿り着けない。そして、星はさらに遠い。だって、星の光は月よりもずっと小さいのだから、うんと遠くにあるはずだ。
死んだら人は天上の星に迎えられるという。冷たくなった体から飛び出して、ずっと遠くまで飛んでいける。アッシュの大事な人たちも、もう星まで辿り着けただろうか。彼の姿が見えているだろうか。
悲しくて、痛くて、とても美しい。
きっと星は泣いているだろう、震えているだろう。瞬きはもしかしたら、その振動なのかもしれない。
どれほどアッシュが彼らを愛していても、彼らがアッシュをいくら大切に思っても、もう二度と触れることはないし、言葉を交わすこともできない。今はもう、光しか届かない。
もし僕が死んだとして、体から飛び出して見下ろした先で、大切な人が悲しんでいたら、それは見たくない。できることなら、悲しんですら欲しくない。
だって、もはや何も返すことはできないのだから、あまりに不毛だ。
忘れたらいい。もっと楽しいことを考えたらいい。きっとそう言うだろう。届かなくても、ずっと言い続けるだろう。
ロナート卿もそうだったろうか……。
もしかしたら卿は、アッシュに花が降る庭にいてほしかったのかも知れない。きっと、そうだろう。ディミトリが言うように、だから彼を士官学校に入れてまで遠ざけた。大切な人には温かい場所にいて欲しい。何にも脅かされることなく、ずっと……。
「ねえアッシュ、踊ろうか」
僕が声をかけるとアッシュは戸惑った顔をした。
「でも、僕、踊り方なんてわからないよ」
「大丈夫。体の傾く方に足を出せばいいだけだよ」手を差し出す。「ね、ほら」
アッシュの手がおずおずと差し出される。指が触れた。握り返すと想像より骨張って硬い。ひんやりしていた。血が滲んでいなくてよかったと思う。これから先、彼の手が何も取りこぼさずにいられたらいい。
手を引いた。
「うわ!?」小さく悲鳴。アッシュの足がもつれて影が揺れる。
「足を止めたら転んでしまうよ」
「そんなこと言っても!君にぶつかっちゃう」
「ぶつからないよ、一緒に動くもの」彼の背に手を添えて軽く押す。「ほら、重心を意識して。足を出したいなと思う方に進むの」
「う、うん……」
一歩、二歩、三歩。一度廻って、もう一回。一歩、二歩、三歩……。
「お、踊れてる?」
「うん、踊ってる」
僕たちは何度もめちゃくちゃなステップを踏んで廻った。僕の影も彼の影も足元でないまぜになって、息が上がる。
気づいたら声を上げて笑っていた。
「え、なに?どうしたの?」
「何だか懐かしい感じがする」
「懐かしい?」
「うん、小さい頃、初めて踊りを教えてもらった時を思い出した。手を引いてもらって、ぐるぐる廻るの。それだけですごい楽しかった」
ここ数年はずっと、神様のためにばかり踊っていたから忘れていた。仕事に着く前は、そう、ただ廻っているだけで楽しかった。誰かと踊ることも好きだった。相手の呼吸に合わせて、次のステップを想像する。息が揃うとうれしかった。体が軽くなって、何かを飛び越せる感じがした。
「うん、僕も楽しいよ。こんなふうに踊れるなんて思わなかった」
アッシュが目の端にシワを寄せて笑う。いや、涙が溢れる一瞬前の表情だったかもしれない。どちらにも見えた。けれど、どちらとも違うかもしれない。
握った手はいつの間にか同じ温度になっていた。
彼はきっと優しい人だ。だから、本当は悲しいのに、僕のために楽しいと言ってくれたのかもしれない。それでも、ほんの一瞬でも、彼の言葉のとおりであったらいいなと思う。
「だったら僕も嬉しいよ」
こんなものは気休めだ。
言葉も表情も、ただの表現でしかない。
喜びや悲しみのための振り付けがあるように、表層に現れるのは意識された出力でしかない。だから、同じように笑ったって同じにはなれない。一緒に泣いてみたって、彼の涙が僕のものになったりはしない。
分かっている。それなのに、頭は勝手に安心しようとしていた。
ああ、よかった、彼も僕も、まだ倒れずに廻っていられるって……。
馬鹿みたいだ。ここ最近、僕の頭は少しおかしい。
ずっと、何かを紛らわせようとしている。酒でも煽ったみたいに、ぼんやりして、何もかも鈍くなって、夢を見ているような……。
一度、目を強く瞑る。
「ステイシア?」
声がして、目を開ける。アッシュが見えた。夜がくるくる回っている。
「なんでもないよ」
もう随分前に目は回さなくなったはずなのに、酔っているのか?
気休めを繰り返したら鈍っていくばかりだ。
もっと、ずっと、練習しないといけない。いつだって、真っ直ぐ立っていられるように。いつも想像している。思った通りに体が動けばいいと。頭の中にその姿がある。
多分、アッシュがあまりに綺麗だから、いつもより余計に思い出してしまうのだ。踊っては目を回していた頃のことを。あの時に戻った気にさえなる。
僕はまだ半分くらいの背丈で、手を引くあの人は美しかった。何よりも、一等、美しく踊る人だった。
僕はもう、あの人の背を超した。そろそろたどり着いてもいい頃ではないか。まだ時間がかかるだろうか。どうだろう……。
あの人は星ではない。だから距離が想像しにくい。
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