02: 雨はいつか止むのでしょうか




初めて人が死ぬ光景を見たのは20の時だった。
死体を見た経験はあったが、殺される瞬間。死ぬ瞬間を見たのはその時が初めてだった。


あいつは、人を殺した。
俺とって大事な妹、弟にとっては姉である存在を殺した。

あの日も雨だった。大雨の中、あいつは笑っていた。穏やかに青白い頬をあいつの血で染めて、微笑んでいた。両腕に抱き止めた血塗れで空ろな瞳の妹の表情は、分からなかった。見えなかった、妹の表情もあいつがどんな目をしていたかも。





「 久しぶり、因幡洋 」


赤い唇が動く
雨の雑音があいつの声を掻き消す

本当にあいつがそう言ったのかは分からない。訳も分からず、俺はあいつに掴みかかりたかった。色んなことを聞きたかった。どうして俺の前からいなくなったとか。今までどこにいたとか。どうして連絡の一本も寄越さなかったのかとか、相談もしれくれなかったとか。なんで、”あんなことをしたのか”優先順位の違いも分からず、混乱し続ける。

どうしてって疑問詞は絶えず、ふつふつと沸き上がる。それはまるで自問自答の繰り返しであるかのようだ。けれども言葉になることはない。吐き出されることはない。形にならないそれはあまりにも無力なのに、黒い靄のように胸に重く乗し掛かる。例えるなら、甘ったるい砂糖菓子を口に詰め込んだ後、数回に分けて飲み込んで、やっとのことで口のなかを空っぽにしたのに、まだそこにあるかのような感覚。ねっとりとしていて、胸焼けがするくらい苦しくて、重たくて、気持ちが悪いのにどうすることもできない。吐き気がする後味の悪い。


けど、一番聞きたいことは




「……………………」

なんでこうなったのかな。

見慣れた天井が近い気がした。ぼんやりと浮き沈みする意識とやけに気だるい身体。呼吸するたびに胸が重く、息苦しい。あいつがなんであそこに。てか、ここ俺の…部屋…いつの間に、戻ってきた……。…ぐにゅ。


「ん?」

腕に当たる柔らかい感覚。顔を横に向ければ、だるそうで緩そうでなんとも言えない顔が真横にあった。身体、というか。布団の中も暖かいが、何かから圧迫されるような感覚がある。例えるなら、クッションのようなものを傍において寝たときのように、柔らかい圧迫だ。布団を持ち上げて、中を確認する。



……………………………。
……………………。
…………。




「……ひっ」


絶叫。悲鳴を上げるのに時間は掛からなかった。














「ふふ、」

車内に広がる笑い声に運転席にいた男は表情を変えずに聞く。「当主様、どうされました?」バックミラー越しに視線を向ければ、目が合った。信号は黄色から赤色に変わり、車は速度を落としながら停止線の前で止まる。当主様、それ呼ばれた人物はとても楽しげで、右耳に押し込んだイヤホンをゆっくり抜いた。


「いえ、少し思い出し笑いをね」

すくすく。細くしなやかで、綺麗な手が形の良い唇を隠す。細い肩を震わせ、その喉を鳴らし、笑い続けた。ただそれだけ、それだけの仕草なのに目を奪われる。先程から一切表情を変えない男『雨季花京樹』は視線を逸らすことが出来ず、後ろにいた車のクラクションの音で意識を前へと戻す。信号は青に変わっており、アクセルを踏む。ゆっくりと進み出す車、窓ガラスを叩く大粒の雨は弱まることがない。ワイパーが常に雨を払いながらも、視界は相変わらず不明瞭であった。

周囲は暗く、視界は悪い、遠くで救急車のサイレンの音がしていた。前方の車のバックライトの赤が妙に赤々しくて不気味だ。今日のような日は事故が多い。きっと警察も病院は大忙しだろうなと、他人事のように思いながら後部座席にいる当主様に声をかける。「このまま向こうに戻ればいいですか?」やっと笑いが収まったのか、彼は微笑みながらぼんやりと外を見ていた。

仕事終わりで疲れているのだろうか。近くで飲み物でも買っていこういか、と声を掛けようとした。



「ラブホでも寄っていこうかな」
……………。
思わず無言になる。何をしても品があり、誰もが目を奪われ、息を呑むような綺麗な人。下世話なことなんて無縁そうな彼の口から出た言葉とは思えず「当主様、」「嘘ですよ、」諌めるように声を掛ければ、にこりと笑った。楽しげに、とても楽しげに笑う。思わず吐きそうになった溜め息を、喉の奥へと押し込める。


「雨季花、寄り道をしましょう」
「…………、……行き先は?」

嫌な予感がした。この人はとても、気まぐれだ。もしかしたら、先程のようなことをまた言うかもしれない。
すると彼はまた、笑った。




「警視庁まで行こうかな、一つ用事が出来ました」






雨はいつか止むのでしょうか
この美しい人の目にこの世界はどんな風に映っているのだろうか

- 3 -
←前 次→
ALICE+