◎十雫目


ーーー 一年前。

『苗字名前!オレの彼女になれ!』

呆気にとられて言葉も出ない。
なれってあんた…。
すると返事をしないことに不安になってきたのかオロオロしだす。

『駄目、なのか…?!』

そんな子犬みたいな目で見ないでくださいよ。
それに私の答えは決まってるんですから。

『私は自信満々でナルシストでムカつく先輩が、大好きです!』
『!!オレも大好きだぞ名前!』

そんなこんなで付き合い始めた私達だったが、まぁいろいろありました。主にファンの方達から。
その時水泳部のエースとまではいかなくてもなかなかの位置に一年ながらいた私への妬みはさらに拍車がかかった。
それもやっと落ち着いた夏。
私は大会前にタイムが伸びなくてイライラしていた。それなのに尽八先輩はメキメキと頭角を現しファンをさらに増やしていた。
そしてインハイ前で練習が忙しくなった先輩となかなか会えなくなったとうとう私は我慢ができなくなった。
きっかけはほんの些細なことだったんだと思う。今となっては思い出せない。

『先輩、私達少し距離を起きましょう。』
『なぜだ!?』
『私、大会前なんです。もっと練習しなきゃ。先輩にかまってる暇、ないです。それに先輩には私がいなくても他の女の子がいるじゃないですか!そっちにかまってもらえばいいじゃないですか!』
『お前、何言ってるんだ?』
『そういうことですのでじゃあ。』
『待て名前!話を聞け!』
『うるさい!』

嫉妬だったんだ。
メキメキと頭角を現す先輩とファンの女の子に笑いかける先輩。
頭に血が上っていた私は先輩に掴まれた腕を力いっぱい振りほどいた。

『え?』

濡れたプールサイドはよくすべります。良い子は走らないようにしましょう。
そんな言葉が頭を横切る。

『先輩!』

払われた勢いでバランスを崩した先輩は足を滑らせ頭を打ち、プールへ落ちた。
あまりのことに立ち尽くしているとどこかでこっそり見ていた荒北先輩達の声に我に返り、尽八先輩を救出した。
それで終わればよかったのだ。

『おぉ!よく来てくれたな!わざわざありがとう!』

保健室に連れて行かれた先輩は軽い脳震盪を起こしており病院へ運ばれ、1日だけ入院することになった。

『本当にごめんなさい。』
『ん?なぜ君が謝る。心配しなくてもオレはすぐ復帰するからその時はぜひ応援に来てくれ!』

私達は話がかみ合っていないことに気づく。
その話し方じゃまるで私がファンの一人みたいじゃないですか。

『尽八、お前まだ混乱してんのか?』
『ん?そんなことはないぞ。』
『じゃあ、なんでコイツのこと覚えてないんだよ。』
『………? すまない。君は一つ下だろう。入ってきたばかりのファンはまだ覚え切れていないんだ。』

私は病室を飛び出した。
後ろから止める声が聞こえるがそんなの知らない。
必死に走って外にある人気のないベンチに座る。

先輩は嘘をついていなかった。
だから怒って知らないふりをしてるんじゃない。
じゃあ、なんで?
なんで私のことが分からないの?

後日先輩は一時的な記憶喪失だと聞いた。
忘れているのは私のこと全て、だと。
私は先輩に謝ることすら許されなかった。
先輩達は私のせいじゃないと言ってくれたがそんなの気休めだ。

『ごめんなさい…!』

それ以来私は泳げなくなってしまった。正確には泳ぐ気力がなくなってしまった。部活も辞めた。水に浸かるのだけは好きだったから好意で同情でもしてくれたのだろうか、顧問が部活後のプールを開放してくれた。
それから私は部活が終わるまで時間をつぶし、部員が帰った頃にプールへ飛び込む。
きっと先輩の記憶はこのプールに溶けてしまったんだ。だからこのプールに入っていれば先輩と一緒にいれる気がするの。
そしていつか尽八先輩が思い出して来てくれるんじゃないかと夢見て。



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