◎九雫目


「苗字。」

そう大きくないはずなのにプールに響き渡る自信を持ったはっきりした声。
横のベンチを積んだ隙間から覗き見る。

「苗字、いるんだろう。出てこい。」

金色のたてがみのような髪の毛。
久しぶりに見る福富先輩の姿は相変わらず威厳があり堂々としていた。

「出てこないならこのプールの水を抜く。」

普通なら脅しだろうと思うのだが先輩の場合は本当にやりかねない。
しかし出て行くわけにはいかないのだ。

「さっさと出てこい。」
「!!!」

先輩はいつの間にかベンチの向こう側から覗いていた。
なぜバレた。

「苗字は何かあるとここに逃げ込むと荒北に聞いた。」

よけいなことを…。
荒北先輩には何度かお世話になったからそれがあだとなった。
こうなったら大人しく出て行くしかない。
先輩はベンチを一つ降ろすと座りポンポンと隣を叩いた。
仕方ないからお邪魔する。

「東堂に告白されたらしいな。」
「自転車競技部仲良すぎますよね。情報回るの早すぎです。昨日のことですよ。」

しかもそれについて福富先輩が来るとは思ってませんでした。てっきり荒北先輩辺りがくるかなと予想していたんですけど。

「あぁ、それに関しては成り行きだ。」
「はぁ。」

成り行きですか。どんな成り行きがあったのか気になりますが今は置いておきましょう。

「それが何か?」
「なぜ断った。」
「私が好きなのは尽八先輩だからです。」

はっきりと言う。
私が好きなのは東堂尽八先輩であって今の東堂尽八先輩ではない。

「先輩方には分からないと思います。」

全く違うんです。気づいてましたか?
だって尽八先輩は私のことを苗字名前とフルネームで呼んでいたしあんなに優しくなかった。
どちらかと言うと言い合いを楽しんでいたし、自分の話ばかりをペラペラとしゃべっていた。
告白だってオレの彼女になれ!だったし付き合ってからも態度は変わらなかった。
最初はムカついたけど自信満々に話す尽八先輩はかっこよかったし憧れていたし、好きだった。

「何も変わらなかった先輩方には分からないです。」

先輩は黙って聞いているだけだった。
ただ黙って私の頭を撫でていた。

「なぜ、なぜ私だけなのですか?」
「オレにはお前のことを理解することはできない。
こうして話を聞いてやることしかできないしその質問にも答えることはできない。」
「じゃあなんで来たんですか。」
「荒北や新開だとお前を甘やかしてしまうからな。」

先輩は甘やかしてくれないんですか。そういうと頷かれた。
先輩は何しに来たんですか。私を叱咤しに来たんですか。

「言っただろ。ただ話を聞きに来ただけだ。」

牧師様ですか。私の懺悔を聞きに来たということですか。
では聞いていただこうではないか。

「正直嬉しかったです。東堂先輩に告白されて。
でも私は尽八先輩と付き合っているから。たとえ同じ人でも別人のようになってしまったらそれは浮気になるのではないですか?それは許されないことです。私は尽八先輩が好きなんです。まだ好きなんです。」

久しぶりにこんなにしゃべったんじゃないだろうか。少し息が上がる。
そうだよ。前の私はもっとおしゃべりでこんな丁寧じゃなくてただ泳ぐことが好きな、尽八先輩の彼女だったんだよ。

「結局お前は何が言いたいんだ。」

いつもつり上げている眉を少し緩め、優しい顔をする。そんなの、ずるいです。

「尽八先輩に、会いたい…!」

それから私は子供のようにわんわん泣いた。先輩は何も言わずずっと隣にいてくれた。



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